とある夏の手洗い場

 蛇口を捻る。勢いよく流れた水が手洗い場の底に当たり、周りに跳ねた。体育館の外にあるコンクリート製の手洗い場。スポンジを濡らそうと触れた水は今日も温い。夏にしか味わえない感覚に、1人満足しながらスポンジを濡らす。


 蝉の大合唱に負けじとドタドタと体育館を走る音がした。多分モップ掛けをしているのだろう。

 ここは体育館の裏手。日陰にひっそりとある手洗い場にいても、汗を拭っているみんなの姿が容易に想像できる。



 私も頑張らないと……まずは洗い物をして、日誌を書いて顧問に提出して。あ、タイミングがあれば、体育館の鍵も一緒に持って行こう。多分戻ってくる頃にはモップ掛けも終わってると思うし。



 考え事中も手は止まらない。スポーツドリンクが入っていたジャグと、部員が使用したコップ。それらを1つずつ洗っていく。

 温かった水も次第に冷たくなっていった。今はこの冷たさが気持ちいい。


 友達に誘われて始めたマネージャー。いつの間にか私たちも2年生になった。夏の練習を経験するのも、これで2度目。先輩マネジャーに教えられながら、2人で必死に仕事を覚えていたのが遠い過去のことのように思える。


 キュッキュッと鳴るスポンジの音。周囲に溢れる洗剤の匂いに洗い流すたびに排水口付近で渦巻く泡。表立った仕事じゃない。それでも濯ぎ終えたコップが並ぶ光景が私に達成感を与えてくれる。


 私は何かに長けている人じゃない。熱中できる何かがある人でもない。だから私はそういう人たちをサポートする。


 悩んだり、努力したりしながら、必死に前を向き続ける姿。努力の末に、ガッツポーズをしたり、抱きしめあったり、目を潤ませたり。そんな喜びを最前線で眺めるのが好きなんだ。


 だから私はこれでいい。



 「おつかれ」


 日陰にある手洗い場に聞き慣れた声がした。横を見ると、練習着のままの君が。ずっと動いていた手がぴたりと止まる。

 多分君は気付いていないんだろう。そんな様子に気付くはずもなく、君は私の左側に来た。


 置いてあったスポンジを手に取り、蛇口を捻る。水の流れが変わり、排水溝付近で溜まっていた泡が流れ始めた。

 ボディーシートでも使ったのだろうか。動くたびにシトラスの匂いがした。


 「おつかれー。ありがとう。今日も手伝ってくれるの?」

 「うん。あの子まだ先輩と楽しそうに話ししてたし。今日も多分来ないと思って」

 「あ、そうなんだ。でも仕方ないよ。付き合ったばっかりだし。あの2人には幸せになってほしいし」



 一緒にやろうと私をマネージャーに誘ってくれた友達。その子が先輩と付き合うことになった。


 小柄で、可愛くて、明るい性格の彼女。近付くためにマネージャーになったのを知っていたから、すぐに付き合うと思っていた。でも、現実は甘くない。

 『男目的でマネージャーなんて……』そう言う人もいるかもしれない。でも、それはあの子の努力を見てから言うべきだ。


 「あの子、凄いんだよ! 太ってもいないのにダイエットをしたり、先輩の好み聞き出して合わせにいったり。それを1年くらい? マネージャーになってから今まで続けてきたんだから! ほんと努力の結晶でしょ⁈」

 「ふふっ」

 

 コップを洗う君が不意に笑う。

 別に嫌な笑い方じゃない。優しくて安心する横顔。それでも、何か恥ずかしい事を言ってしまったのかと不安になる。


 「どうかした?」

 「いや、楽しそうに話すなーって」

 「そりゃ楽しいよ! 友達の恋が成就したんだし! それに相手が君だからね。どんな話でも聞いてくれるし。それにほら、1年生の時からいろいろ助けてくれてたじゃん? 今日だって、こうして手伝ってくれてるわけだしさ。部員の中じゃ1番信頼してる」

 「え? それって告白?」

 「違うから!」


 わざとらしい演技で揶揄う君。そんな君を泡がつかないように肘で、脇腹をつく。痛くもないのに大袈裟にリアクションをとる姿を見て、自然と笑いが溢れた。


 君に告白するつもりはない。君に釣り合うだけの何かを私は持っていないから。

 裏方で誰かを応援する方が好きな私。長所もないし、誰かに好かれる自身もない。でもこんな私を認めてくれたなら。

 

 淡い感情を心の奥に押し込む。シトラスの匂いを乗せた風が私の頬を撫でた。

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