百八十二 私は祝福しよう。

 初夏と呼んでいいほど、しっかり温かくなった季節。

 海沿いで涼しい風の吹くここ、角州(かくしゅう)でも日中は刺すような暑さを感じるまでだ。


「この花は芍薬(しゃくやく)でしょうか?」


 司午(しご)屋敷のお庭で草花を手入れしていた私と巌力(がんりき)さん。

 日向ぼっこに来た玉楊(ぎょくよう)さんがそう訊いた。

 香りだけでわかるのはさすがだなあ。


「は。前の共同市場で得(とく)どのが大量に株を買ったので、ここにも分けてくれたのでございます」


 巌力さんが言って、ぷちりとそのうちの一輪を摘み取る。

 芍薬は北方に咲く花。

 斗羅畏(とらい)さんたちの暮らす蒼心部(そうしんぶ)の人が市場に持ち寄ったのを、買い入れた品物だ。

 受け取った玉楊さんは、八方に縁起良く広がって咲く花冠を、くいっと自分の髪の毛に挿して飾りとした。


「ふふ、どうかしら」

「美しすぎて眩しいです」


 直視していたら浄化されて灰になりそうだ。

 ほんわ~と幸せな空気に包まれて優雅な昼下がりを堪能していたら、正門前に来客があった。


「あのー、ここに翔霏(しょうひ)姐さんがいるって聞いたんスけど……」

「お、おい、こんな立派なお屋敷、やっぱりなにかの間違いじゃねーの?」

「山みたいにでっけーオッサンいる!」


 訪れたのは、私より若いくらいの少年が三人。

 どこかで見たような顔と、聞いたことのあるような声。


「あれ? きみたち、軽螢(けいけい)と一緒に義兵団にいた子だよね? その節はいろいろありがとうね」


 神台邑(じんだいむら)の出身であるかどうかを問わず、様々な事情があって故郷の邑に戻りにくい少年たちを、軽螢が一緒に面倒を見ていた時期がある。

 彼らをまとめて、角翼(かくよく)少年義兵団と云う。

 軽螢があっちこっち行っている間も、中書堂の再建工事を頑張ってくれていたはずだ。


「あ、確か麗央那さんでしたよね、ちっす」

「中書堂の工事が一区切りついたんで、いったん戻って来たんだ。俺たち、翼州(よくしゅう)じゃなくて角州のもんだから」

「……ほら、その、もうすぐ一年だからさ。俺らも神台邑のお参りに行って良いかなーって、翔霏姐さんに話しに来たんだよ」


 なんて良い子たちなの~~~!

 ぴえんと泣いてしまいそうになりながらも、私はお姉さんらしく澄ました顔で伝える。


「わかった、翔霏を呼んで来るからちょとお庭で待っててくれる?」

「え、入っていいんすか」

「俺たちみたいなのが入って、汚しちゃわないかな」

「なんか天女みたいなべっぴんもいるんだけど……夢でも見てるんかな俺」


 少年たちは屋敷の立派さや巌力さんの大きさ、玉楊さんの美しさに目を白黒させつつも、おずおずと前庭に入って隅の方で小さくなる。


「皇城から来たのね。少しお話を聞かせて貰ってもいいかしら?」

「馬蝋奴(ばろうやっこ)は、変わらず息災であられますかな」


 玉楊さんと巌力さんが、遠慮せず近付いて少年たちを質問攻めにした。


「えっえっあのその」

「馬蝋のおっちゃんは相変わらず太って汗ばっかりかいてるよ」

「ところでそっちのお姉さんはここに住んでるの? また来たら会える?」


 どうやら問題なくコミュニケーションが取れているようで安心。

 なんか色気づいてるガキがいるような気もするけど。

 そして、新生中書堂も大方は完成したんだねえ。

 さて確か翔霏は通用口がある裏庭の方で、想雲(そううん)くんに稽古をつけている時間帯だな。

 果たして二人は予定通りに裏庭で、葦(あし)の乾いた茎で剣術の練習をしている最中だった。


「ちょっとごめーん。翔霏、少年義兵団の子が挨拶に来てるよ」

「角州の子たちか?」


 汗一つ浮かべていない翔霏と対照に、想雲くんはしゃがみこんでひいふう言っていた。


「そうみたい。神台邑の一年忌を一緒したいって言ってくれてる」

「わかった、話してみよう。想雲、さっき言ったことを、私が戻って来るまでずっと続けていろ。大事なのは想像する力だ」


 スパルタ過ぎる美人女トレーナーに命じられ、ぐぎぎと体を起こす想雲くん。


「は、はひぃ、わかりましたぁ」


 先に翔霏に行ってもらい、私は想雲くんに声をかける。


「今日はどんな特訓?」

「よ、避けるのと、反撃するのを、同時に行う練習です……さっきからずっと、ひたすら左右に飛びながら剣を横薙ぎする動きを続けていて……目の前にこっちを殺しにかかってくる相手が、本当にいるんだという気持ちでやれと、翔霏さんが……」


 私がやったら五分でぶっ倒れるような全身運動だな。

 最初に会ったときよりも想雲くんは随分と贅肉が落ち、キリリと引き締まった男性の顔になりつつある。

 彼の成長に合わせて、翔霏も練習の強度を高めているのだろう。


「無理しないで頑張ってね」

「はいっ、これも立派な武人になるための一歩です」


 力強く言って汗を払い、想雲くんは修練に戻る。

 みんな一歩ずつ、少しずつでも前に進んでいるんだ。

 頼もしさを感じながら翔霏と少年たちのところへ行こうと、正門前庭へ足を向けたそのとき。


「神台邑のお参りのことでお客が来てるって?」


 のっそりと部屋から出て来た翠(すい)さまが聞いてきた。

 お腹が重くなり、動きがスローになっている。


「はい。でも今回は翔霏たちにお任せしようかなと。私は翠さまのお世話もありますし」


 当初から私は不参加のつもりでいて、そのことを翔霏にも話してある。

 離れていても悼む気持ちは変わらないし、私は翠さまたちと一緒にこの司午屋敷で、神台邑のために静かに祈るとしよう。

 しかし、そんな私のけなげな思いはあっけなく破却され。


「なに言ってんのよ。あたしたちも行くに決まってんじゃないの」


 かなり大きくなったお腹をゆっさと抱えながら、我があるじはそんなことを言うのであった。


「いやいやいやいやなにかあったら大変じゃないですか。大人しく私とお屋敷にいましょうよ、ね? 毎日面白い話を用意しますから」


 安定期と言えど、仮にも妊婦ですよあなた。

 いくら馬車が慎重に、振動を減らして進んでくれても、外出先でお身体が変調したらどうするねん、と私は思うのだ。


「うるさいわね。行くったら行くのよ。元気もあり余ってるんだしなによりずっと家にいてあんたの変な話を聞いててもつまらないじゃない」

「ひどい。毎晩あんなに面白そうに反応してくれてるのに」

「とにかくあたしと毛蘭(もうらん)も行くんだからその通りに準備してちょうだい。あと神台邑には塀(へい)貴妃と翼州公(よくしゅうこう)にも来てもらうからね。失礼のないような恰好を心がけなさいよ」


 なんか勝手に話が決まってしかも想定外におおごとになってるぅ~~~!!

 でも、塀貴妃に会えるのは嬉しいな。

 彼女も翼州の関係者として、神台邑のことには大いに心を痛めてくれていた。

 一緒に慰霊を行えるのなら、とても良いことだと思う。


「わかりました。みんなにもそう話しておきます」


 言っても聞きやしない主人のワガママに私は観念して、翔霏たちにその旨を知らせた。

 

「軽螢と椿珠はどうするだろうな」


 斎事の規模が大きくなっても翔霏は特に混乱せず、自分たちの身の丈だけを気にしている。

 

「来るとしたら白髪部(はくはつぶ)の大都からそのまま向かって、現地集合になるだろうね。司午家(こっち)に寄ってると遠回りになるから」

「なら早めに連絡を入れておくか。私が報せに走っても良いんだが」


 フムと考える翔霏に私は言う。


「お手数でごめんだけど、行ってもらっていいかな? それが一番、間違いがなくて速いし」

「わかった。なら相棒は……」


 翔霏は往復の交通にかかるお金の計算ができないので、最低でも誰か一人、同行者がいなければ長旅はできない。

 私は過酷な反復運動を続けている、いたいけな少年の顔を思い出して提案した。


「想雲くんを連れて行ったら? 彼も北方を少しは見ておきたいだろうし」

「それがいいな。なら私たちは軽螢に知らせたらそのまま神台邑へ向かうとしよう」


 大まかな段取りと全参加予定者が決まり、私たちはめいめい、神台邑の一年忌に向けて動き出した。


「俺も北方に行ってみたいっス」

「なんか偉い人のばかでかい墓を作ってるらしいぜ。行けばまた仕事にありつけるんじゃね?」

「軽螢に会ったら頼んでみるかあ」


 少年たちは明るく前向きなことを言って、斜羅(しゃら)の街へと消えた。

 翔霏と想雲くんが北方に走って、昂国不在中の軽螢と椿珠さんへ事の次第を知らせる。

 少年義兵団の面々は、都合が合いそうな子たちが自由に現地集合。

 私たち司午家に残って控える面子、すなわち翠さま、毛蘭(もうらん)さん、巌力さん、玉楊さんも日程に余裕を持って出発することになる。

 玄霧さんは相変わらず忙しいので、来られるかどうか不明。


「ところで翠さま」

「なによ」


 準備を進めて日々を過ごし、さあ出発も間近という中。

 私は気になっている話題を向けた。


「気のせいでしょうか、見る見るうちにお腹が大きくなってる気がするんですけど」

「あたしが元気なんだから中の赤ん坊も元気に育つに決まってるじゃない。あんたそんなことも知らないの?」


 いや、そうだけど、そうじゃねーんだ、言いたいことは。


「翠さまは呪いで百日くらい眠っていたわけですから、出産も百日は遅れるのかなーって私は思ってたんです。でもなんだか、遅れた分を取り戻す勢いでお子さまが成長しているような気がして」

「ひょっとしたらそう言うこともあるのかしらね。あたしはは呪われて眠るのも赤ん坊を産むのもはじめてのことだからからよくわからないわ」

「そういうものですか」


 気にしてないのが豪胆と言うか、なんと言うか。

 もちろん、胎児が大きくなって行くのは、妊婦の体に過負荷さえなければ、良いことである。

 悪いことでないのなら、現状のままで問題ないという判断だろう。

 ちょっと意地悪っぽく笑って、翠さまは言った。


「あんたに早く会いたいから急いで飛び出ようとしてるんじゃないの? 好奇心の強い子なのかしらね。おかしなものに興味津々なんでしょ」

「私に会ったところで、つまらない話しかできないですけどねー」

「なにそれイヤミのつもり。あんた最近生意気なのよ。身重だからってあたしのこと舐めてるわね」


 むくれ顔の翠さまに、げしっとお尻をサイドキックされた。

 私だって早く赤ちゃんに会いたい!

 でも、待ち遠しく過ごす時間というのも、また別の喜びがあるのだよ。


「あ、これか?」


 唐突に。

 電流が走ったように気付いた。

 私は今。

 心の底から、本当に望んでいた瞬間を生きている。

 こんな日が来ればいいと、夢にまで願い続けたときを過ごせている。

 なりたかった自分自身になれたとしても、日々をどう過ごすか、今が幸せなのかということは、自分だけでどうにかなるものではない。

 それはきっと、私に関わるすべての人々、私に繋がるすべてのものごとが、複雑精妙に少しづつ影響し合って。

 その果てにやっとこさ、どうにかこうにか、私は私の望みと願いを、ほんのわずかでもこの手に掬い上げることができるのだ。

 多くの想いと、多くの命と。

 世界に満ちるすべてのものたちと。

 私が私であることは、どうしようもなく結ばれていて、分かつことはできないのだ。


「一人ぼっちだと思ったときもあったんだけどな……」


 あの日の自分を思い出し。

 泣き続けて叫び続けた女は、すでにたくさんの素敵な人や出来事に、癒やされ救われたのだと。

 私はこの日、はじめて心の底から理解できた気がした。





 年忌、その当日。

 あのときと同じく、よく晴れた暑い日であった。


「美しき台地、翼州を見守る役を負った家に生まれた小さき女が、伏して願い奉ります。数多の魂が安らかならんことを。同胞(はらから)の御霊(みたま)が、常に我らとともにあらんことを。大いなる神々が我らの祈りと願いを聞き届け給うことを……」


 翼州の中でも蒸し暑さの厳しい盆地に位置する神台邑に、柔らかな風が吹いて通る。

 山ほどの花が副えられた石の慰霊碑を前に、塀(へい)紅猫(こうみょう)貴妃殿下が、神さまへ祈りを捧げる。

 焼き滅ぼされたこの邑の一年を悼むために。

 信じられないくらい、大勢の人が訪れていた。

 塀貴妃が祈り続けている間も、次から次へと参列者は増え、それぞれが石碑や墓地に花を手向けて黙祷していた。

 その中には皇帝陛下からの、ひときわ大きな献花もある。


「じいちゃん、こんなにたくさんの人が来てくれたぜ。楽しいだろ?」


 雷来おじいちゃんの跡を継ぎ、次代の長老として来訪者の前に堂々と立つ軽螢。

 その瞳に、もう涙はない。

 彼が邑のために、失われた仲間たちのために、十分に涙を流し尽くしたことは、私たちみんなが知っている。

 これからは笑って進み続けるのだという軽螢の決意を感じ、横で見ている私たちがぽろぽろと代わりに泣いていた。


「あいつも、決めるときは決めるものだな」


 目元をずっと手の甲で拭きっぱなしの翔霏が、鼻声で強がってお姉さん風を吹かせる。

 けれど、きっと。

 翔霏もいつか、みんなの頼もしいお姉さんである役から、降りる日が来るのだろう。

 誰だって、新しい自分をまた見つけて、その道を進んで行かなればならないのだ。


「あいつはどんな長老になるもんだかなあ」


 いつもより優しい視線で軽螢を見つめ、椿珠さんが言う。


「三弟(さんてい)の力添え次第でありましょうな」


 横に並ぶ巌力さんが、励ますように言った。

 たくさんの人が、この邑からいなくなってしまったけれど。

 さらにたくさんの人が、新しく結ばれ、繋がれ、関わって行く。

 ぐすぐすと泣いてしまっていたら、邑のたった一つの入り口の方で、人のざわめきと馬たちの足音が聞こえた。


「父上……」


 想雲くんの呟きから、来訪者が誰であるのかを知る。

 軍隊の礼式正装に身を包んだ玄霧さんが、馬から降りて入口の門柱に一礼する。

 翼州左軍時代からのお仲間をずらりと引き連れて、邑の内外を分ける水濠の際に並ぶ。

 腰の剣を抜いた玄霧さんは、それで以て天を衝くように掲げて叫んだ。


「捧げ剣!」

「捧げ剣!!」


 号令に従って。

 一年前の同じ頃、私と一緒に邑人の遺体を埋めた兵士さんたちが同様に叫び、一斉に剣を抜き、上方に突き上げる。

 何人かの手はぷるぷると震えていて。

 何人かの顔は俯いて地に雫を落としている。

 神台邑という、地図で見れば点にもならないほどの小さなこの場所を通して。

 ここにいる私たち全員が、繋がっている。

 誰だって、一人ぼっちじゃない。

 仲間なんだ。

 もう前が見えないくらいに泣き崩れていた私。

 その肩に手を置いて、声をかける人がいる。


「麗央那。翠蝶が……」


 玉楊さんが心配そうな声で、私に知らせた。


「え、翠さばが、どぼじばしだ?」


 ボロ泣きしながら鼻水まで垂らして答える私。

 翠さまになにかあったのだろうか。

 ちらりと最貴賓の方々が並んでいる一画を見ると、翠さまはごく静かに普通に、悼むように弔うように、俯いて立っている。

 なにかあるようには見えないけれど。


「息が荒いわ。かなり苦しいのかもしれない」

「え」


 驚いて再確認した、ちょうどそのとき。


「うううう」


 翠さまがお腹を押さえて、その場にうずくまった。

 少し遅れて玉楊さんが叫ぶ。


「破水してます! 早く翠蝶を安静にできる場所へ移して!!」

「な、なんだと!?」


 怒鳴るような玄霧さんの驚きの声が聞こえた。

 詳しい様子を確認するために、私は玉楊さんの手を引いて翠さまの下へと走る。


「ん~~~~! ただの食べ過ぎだと思ってたのに~~~!」


 痛むお腹を苦しそうに手で押さえて、翠さまが緊張感のないことを唸っている。

 翠さまのお腹に玉楊さんは耳を当て、半ばほっとしたように周囲の人へ報告する。


「赤子は元気です。けれど元気が過ぎてすごい勢いで動こうとしているわ。まるで『早くここから出して』って言ってるみたいに!」


 静かな追悼の場であったはずの神台邑が。

 人々のどよめきで、あっと言う間に騒然となる。

 参列者の中にいた翔霏のお母さんが、娘に負けないくらいに気合いの入った大声で叫んだ。


「今すぐたっぷりお湯を沸かしなさい! 綺麗な布を持ってる人がいたら一か所に、邑のお堂に集めてちょうだい! 貴妃さまを運ぶからでっかいお兄さんは手を貸して!!」

「か、かしこまってござる!」


 直接の指名を受けた巌力さんを中心に、何人かが翠さまの体を支え、そーっと、そーとお堂の中へと運ぶ。

 覇聖鳳の襲撃を受けたときにも幸い焼かれずに残った、邑で一番大きなその建物。


「なぜか知らないけど、姜(きょう)さんが気を回してくれたおかげで、ここは常に綺麗に掃除が行き届いてたんだよな」


 私はこの状況で思い出したくもない若白髪のモヤシ野郎の顔を、頭を振って脳内から払い落し。


「翠さま頑張って! ここが司午翠蝶の、最大の見せ場ですよ!!」


 混乱しながらよくわからないエールを叫び、一緒にお堂の中に入る。


「紅猫、念のために堂の出入り口に札を書きなさい。司午貴妃のお産に万が一のことでもあってはいけない」

「はい、お父さま」


 想像していたよりは厳しい顔の持ち主である翼州公爵閣下が、娘である塀貴妃に退魔破邪の呪符を作成するように命じる。


「翠さま、みなさまがついていますからね。お気をしっかり!」


 翠さまの手を握りながら、毛蘭さんが励ます。


「喉が渇いたわ~! でもお腹も痛いわ~!!」


 泣き言を口にしながらも、目には従来の気丈さを保っている翠さま。


「湯冷ましくらいなら飲んでも大丈夫! ほらここに座って!」


 翔霏のお母さんは分娩出産に立ち会った経験値が高いのか、きびきびと翠さまの声にも対応し、周りの人にも指示を飛ばす。

 これだけ多くの人が集まっていれば、お産に詳しい人だっているよね。

 当然のように男子禁制の領域となった、お堂の中。

 私はなんとなく翠さまの近くをうろうろしながら、頑張れ頑張れと応援するくらいしかできないけれど。

 ここに集まって翠さまを見守り、助けてくれている人たちの何人かは。

 きっと私が頑張って進んで来たからこそ、今ここにいてくれているのだ!

 私の旅は、戦いは決して無駄ではなく。

 きっと、この日このときのために!!


「ンギィ~~! ひぃひぃふぅ~!!」


 神台邑のお堂に、翠さまの唸り声が響き渡る。

 

「頑張って、頑張って翠さまぁ……!!」


 私は爪が食い込むほどに強く翠さまに手を握られ、それでも痛みなんて感じることなく声をかけ続ける。

 どれくらいの時間、翠さまもみんなも格闘しただのだろう。

 意識も曖昧になりかけて、憔悴の果てになにもかもわからなくなっていた、夜中に。


「ぶぎゃあ! びいいぃ~~! ああうあああ~~~!!」


 生まれた赤子は。

 まさに自分は司午翠蝶の子であるぞと、全身全霊で主張するように。

 母に似た大きな声で、高らかに吠えたのだった。

 赤々と生命力を誇る肌をみんなに見せつける、まさに玉のように可愛らしい男の子が。

 一度は滅び、そして生まれ変わりつつある神台邑の真ん中で、手足をジタバタさせながら産声を上げた。

 

「あ、ああ、ああああ……」


 私はもう、目の前で起きていることに、なに一つとして言葉を成すことができず。


「あああ~~、あ~~~~ん、うわああああ~~~~~ん」


 生来の泣き虫に逆らわず、絶叫するしかできないのだった。

 きっと、今まで生きて来て。

 今が一番、幸せな涙を流している。


「おめでとうございます、翠さま。元気な男の子ですよ」


 毛蘭さんが赤子を抱き寄せて、翠さまの眼前に見せる。


「元気すぎるんじゃないのかしら……あたしの気力が全部持って行かれた気がするわ……」


 はーはーと息を荒げながらも、一仕事やり終えた充実感に誇る気持ちがあるのか。

 汗でびっしょりの顔のまま、翠さまは翠さまらしく、気丈にフフっと笑った。


「央那、ほら、あなたが産湯をつかうのよ」

「え」


 毛蘭さんに赤ちゃんをやんわりと押し付けられ、呆然とするしかない私。


「だ、だめですよう、そんな、そんな。ここは力を尽くしてくれた翔霏のお母さんとか、一番お勤めが長い毛蘭さんとか、ずっと赤ちゃんを心配してくれた玉楊さんじゃないと」


 緊張なのか幸福すぎるのかわからない混乱にさいなまれ、私は怖気づく。

 翠さまの、ましてや皇帝陛下の御子のお体を。

 私のような頭のおかしいしょぼくれた毒女が、真っ先に洗って良いわけはないのだ。

 けれどそう思っている私に。

 翠さまはいつもの怒り顔ではなく、たまに見せる動転した泣き顔でもなく。

 今までに浮かべたことのないくらい、穏やかで慈愛に満ちた顔で。

 母になった微笑みで、こうおっしゃられた。


「この世で一番、素敵なものを見て知ったあんただからこそ、真っ先にこの子を祝福して欲しいのよ。あんたが生まれ変わったこの邑で、この子は生まれたんだから……」

 

 私は去年の夏、ここで泣き叫んで生まれ変わり。

 翠さまの赤ちゃんが今、同じ場所で同じように、泣き叫んで生まれた。


「だからあんたたちは家族よ、姉と弟なのよ。そんなあんただからこの子を抱いてほしいのよ。お願い」

 

 ぶるぶると震える私の腕に、翠さまの赤ちゃんが抱かれる。


「そうそう、ゆっくり。首がかくんとするから気を付けて。こうして耳を押さえるのよ」


 翔霏のお母さんの教導の下、私はほど良い温かさのお湯で、赤ちゃんの体を恐る恐る、撫でるように拭いて行く。


「おぎゃあ! みぃい~~~!!」


 あまり上手くできなかったからか、赤ちゃんに叱られているかのようだった。

 ごめんね、これからもっともっと、上手くなるから。

 これから何度も、あなたの体も、お尻も拭いてあげるから。


「だから今は、これで許してよ~~」

「ぶええええ~~~~!!」


 私の声が届いているのかどうか。

 ううん、きっと、絶対に。

 私の心は、この子に届いているのだと信じて、私は涙を流し続けた。



「お疲れさまだったな、麗央那。今までで一番大変な戦いだったろう」


 翠さまも赤ちゃんも、ひとまずお眠りになられた。

 小用のために少しばかりお堂を抜け出した私に、翔霏が笑って声をかける。

 今まで寝ないで起きて、お産が終わるのを待っていてくれていたのだ。


「本当にね。でもその分、勝利の余韻は格別だよ」


 私は笑って答えた。

 汗びっしょりの体と衣服に、夜の風が気持ち良い。

 月を見て涼んでいたら、軽螢とヤギが来た。


「ヒメさんの息子って、正妃サマの子どもよりずいぶん早く生まれちまったんじゃねーの?」

「メエ、メエ」


 全然、気にしてなかったけれど。

 そうだよ、正妃である素乾家(そかんけ)の柳由(りゅうゆう)さまも、今まさにご懐妊なさっているんだった。

 え、でも要するに、順番的になにごともなければ。


「あの子、皇太子になっちゃうの!?」


 つい叫んでしまい、あわてて口をつぐむ私。

 首をひねりながら、翔霏が言った。


「どうだろうな。今の陛下も先帝の息子というわけではないし、いろいろこれからもややこしいことがあるんじゃないのか」

「そ、そっか。まあまだ気が早い話だよね」


 私たちが気にしても、仕方のない世界の話である。

 他にも気になることがあるようで、軽螢は水濠の向こう側、邑の境界より外の林を見て、言った。


「なんか、林の中から鹿がめっちゃ並んでこっち見てるんだよな。鹿もヒメさんの赤ちゃんをお祝いしてるんかね」


 軽螢が指差す方向を見ると、確かに木々の間に覗くのは、光を反射する獣の瞳孔。

 ずらりと、十や二十で済まないほどに並んで、こっちを見ている。

 なんか怖いな、天変地異の前触れではないかと私は思ってしまったのだけれど。 


「縁起がいいじゃないか」


 翔霏が笑って、私の肩を叩く。

 一瞬、なんのことかわからなかった。

 軽螢が、はいはい、と思い出したように頷いて、言った。


「美味そうな鹿たちが、群れを成して並んでるって書けば『麗』って字だもんな」

「あ、私の名前?」 


 言われて私も思い当たる。

 鹿が兩(なら)ぶと書いて、麗(うるわ)しいのだ。

 私がはじめてこの邑に来たとき、三人で話したっけね。

 文字通りに麗しい思い出に目を細めて。

 私たち三人は、黙って鹿の群れを見つめた。

 不意に、軽螢が鼻をこすり、言った。


「二人とも、他にやりたいことがあんなら、邑のことは俺に任せとけばいいんだからな。好きなことを、好きなようにやれよ」


 少しだけ大人になった彼の、そんな水臭い台詞を。


「お前に任せっぱなしにしたら、神台邑がバカの集まりになってしまう」

「私にはこの邑を、翼州一の豆腐の聖地にする夢があるんだよ」


 翔霏と私が即座に却下した。

 やれやれ、と軽螢が肩を竦め。

 私たち三人は、肩を抱き寄せ合って笑った。











(翠の蝶と毒の蚕、万里の風に乗る 

 ~泣き虫れおなの絶叫昂国日誌~ 第四部~  完)

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翠の蝶と毒の蚕、万里の風に乗る ~泣き虫れおなの絶叫昂国日誌・第四部~ 西川 旭 @beerman0726

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