(番外)乳を吸う男の正体


 斜奪によってあの日の事件は有耶無耶に処理され、新しい皇帝には飛燕が担ぎ上げられた。


 タンチョウ族討伐の切り札とされていた大将軍が、実は王族の血を引いていた……皇帝の座に就くのに、これほど相応しい者はいない。


 この日は即位式だった。


 ひときわ立派な殿の前には、宮廷で働く上級軍人や官吏がずらりと並び、新しい皇帝が現れるのを待っている。


 佐了は比較的前にいた。こんなふざけた式典、さっさと終われと思いながら。


 周囲がざわめき、飛燕が現れたことを知る。佐了は顔を殿へ向けた。暗闇に人影が見えた。いつもの武装と違い、その影は大きい。幾重にも絹を纏っていることがわかる。シャラン、と軽やかな音色は、冠帽からだ。本当に、飛燕が現れるのだろうか。いつもと違いすぎる雅な気配に、佐了はつい勘繰った。


 はっ、と、その姿を見た者は一斉に息をのんだ。


 目が釘付けになる。


 そこに現れたのは、真っ黒に髪を染めた飛燕だった。


 一体どういうことか。これも斜奪の指示かと、佐了は斜め後ろを振り返る。


 斜奪は口をあんぐりと開け、両目を見開いていた。


 ではこれは……佐了は前に向き直る。


「朕は……」


 飛燕が口を開く。言いかけ、恥じらうように苦笑した。


「俺は十年間、この国の軍人として生きた。今更王族と言われても実感がない。皆もそうだろう。いきなり皇帝として、このように着飾って俺が現れて、一体何を見せられているんだと、冷めた心地の者もいるかもしれん」


 それは俺に対する嫌味かと、佐了は思ったが、ちょうど隣の者が言い当てられたように俯いた。自分のように白けた気持ちの者は、案外多いのかもしれない。


「その上、この髪だ。驚かせてすまなかった。黒髪の戦士を間近で見たら、幼い頃を思い出してな。……俺は昔、このように髪を黒く染めていたのだ。知っての通り、俺の髪は白髪だ。墨汁で綺麗に染まる。俺はタンチョウ族として牢に入れられ、行く先々で座貫の民に石を投げつけられた」


 ざわめきが起こったが、飛燕が話し始めると、またすぐに静かになった。


「俺は黒髪への根深い恨みを知っている。この髪が皆にどれほどの不快感を与えるか、受け入れ難いか、この国の誰よりも知っている。皆には申し訳なく思うが、それ以上に俺は、王族の血を引くものとして、黒髪の彼等が受けた仕打ちを申し訳なく思う」


 何が仕打ちだ。俺が受けた仕打ちはそんなものじゃないっ!


 あんたは石を投げつけられただけ。たかがその程度で、苦労人のように振る舞うなっ!


「それは仕方のないことではっ!」


 佐了は声を張り上げた。芭丁義が「無礼だぞっ!」と壇上からつばきを飛ばしたが、構わず続けた。


「三百年の歳月は彼等を化け物に変えましたっ! 喰うものに困れば村を襲い、肥沃な土地を荒地に変えるっ! そんな野蛮な民族はっ、虐げられて当然なのではっ!」


 同調する声はない。みな皇帝に反論するのが怖いのだ。腰抜けが。


 忌々しい。佐了は目尻を吊り上げた。


「それに、連中は近親者でまぐわうと言います。何人もの男で女を共有するため、誰が誰の子かわからないのです。……まるで獣ではないですか。燕帝、そんな獣の民族と同じ姿になって、一体何がしたいのです? まさか、架け橋……などと陳腐なことを考えて、安易に髪を染めた……なんて言いませんよね?」


 背後から、「佐了、もうやめろ」とひそめた声が聞こえた。見なくても斜奪とわかる。


「さすが道化だ。笑わせてくれる」


 佐了がニヤリと笑うと、芭丁義が「佐了を摘み出せっ!」と叫んだ。


「構わん」


 飛燕が言う。澄ました表情が憎らしい。


「佐了、お前の言った通りだ。架け橋は大袈裟だが、俺がこうすることで、座貫の民の意識を、わずかにでも変えられたらと願っている。確かにタンチョウ族は独特の文化を持っている。野蛮というのも否定しない。だが化け物ではなく人間だ。そして彼等が住まう砂漠は座貫の国土。彼等の声に耳を傾けることも、俺の役目だと思っている」


 そこまで言うと、飛燕はすいと視線を正面に向け、声を張り上げて言った。


「それが嫌だというならここを去れっ! ここにいるものに受け入れられなければっ、座貫の民にも受け入れられはしないだろうっ! 俺がこの国の王として相応しいかっ、皆が判断してほしいっ!」


 シン、と水を打ったように静まり返った。


 続いて聞こえたのは、波の音だった。「一緒に逃げよう」と幼い兎斗に誘われて、砂漠の終わりに辿り着いたことを思い出す。あの時見た引き波の光景が、跪き、頭を垂れる周囲の人々と重なった。


 飛燕の言葉に、皆が服従の意思を示したのだ。今、立っているのは佐了だけ。周りをキョロキョロと見回した後、佐了は飛燕を睨みつけた。飛燕はこちらを見ようとしない。


「っ……」


 佐了は踵を返した。飛燕の本性も知らないで、服従を示した愚か者たちの愚かな行為をこれ以上見たくなかった。受け入れられる飛燕を認めたくなかった。


「……こんなのっ……おかしいっ!」


 俺の頭に糞尿をぶちまけ、髪色を変えたのはあいつなのに。黒髪を決して見せるなと言ったのはあいつなのに。


 いっそ剃り落とそうか、忌々しいあの髪を。坊主頭の飛燕を想像して、佐了は裕翔と会わなくなって以来、初めて笑った。


 



 風通しのいい大きな窓からは、涼しげな清流の音が聞こえてくる。広々とした部屋には香が焚かれ、赤色の壁には金細工で模様が描かれている。よく磨かれた床にはチリひとつない。


 身を隠せるような場所は、天蓋付きの寝台の下しかなかった。


 佐了は寝台の下で、じっと息を殺し、飛燕が来るのを今か今かと待っている。皇帝となった飛燕に危害を加えれば、普通に考えて死刑だろう。


 でも、兎斗は五日間の投獄だけで許された。その間、佐了が兎斗に会いに行くことはなかった。飛燕が襲われる日まで、佐了は地下牢へ足繁く通い、心が折れるほど「僕だよ」を聞いた。裕翔はもういないのだと、認めざるをえなかった。


 兎斗が処刑されずに済んだのは、タンチョウ族との友好関係を築くためだろう。だから自分が飛燕に危害を加えても、大した罪にはならない。どうせ即位式の時みたいに、好感度を上げるために利用されるのだ。


 あいつは要領が良い。運もいい。悲惨な生い立ちは人々の感動を誘うだろう。本人もそれをわかっていてあの話をし、髪を黒く染めたのだ。露骨で品がない。けれど大衆にはそれくらいがちょうどいい。


 ガラッ、と戸の開く音と足音に、佐了は身を固くした。


 ……足音は二人分。話し声が聞こえてくる。


 会話の内容まではわからないが、親密な関係であることが空気で伝わってくる。


 二人の足音が近づいてきて、まさかおっ始めるつもりかと、佐了は息をのんだ。想定外だ。相手は一体誰だろう。


「いつまで……この髪でいるつもり?」


 ドキッとした。兎斗の声だ。


「気に入らないか?」


 飛燕の声は優しく甘い。はあ? 嘘だろと佐了は顔をしかめる。二人の関係は最悪のはずだ。


「だって……だって、ひどいじゃないか。タンチョウ族に仕立て上げられて、晒し者にされてたんだろ? この髪でいるの……本当は辛いんじゃないのか」


 胸騒ぎがした。兎斗が、こんなこと言うはずがない。


「過去のことだ。……それに、俺はその痛みを佐了や兎斗で解消した」


 自分の名前が出てヒヤリとした。少し遅れて「解消」を理解し、頬が引き攣った。


「俺は、自分が受けた以上の苦しみを、二人に与えた」


「いいんだよ、それはもう……それよりこの髪でいることで、飛燕が辛い思いをしないか俺は心配なんだよ」


「……兎斗」


「兎斗じゃない。今は裕翔だ」


「んっ……ふ、ん」


 寝台が軋み、佐了は激しく狼狽えた。


(裕翔……どうしてっ……)


 衣擦れの音は、すぐさまくちゅくちゅと卑猥な水音に変わった。


 あいつは伊千佳のことも抱いたんだよ。夢中になって腰振ってた。


 兎斗の言葉が過ぎる。不思議とそれを聞いた時よりも、実際に現場に直面している今の方が現実味がない。信じられない。


「ん、ひっ……ぁあっ……あ、あっ」


 これがあいつの嬌声? 顔を出して確認したい衝動に駆られる。それくらい、佐了の知る飛燕と一致しない。


「大丈夫? 痛くない?」


「う……痛くは、ないがっ……ひっ……ん、あっ……」


「気持ちいい?」


「あっ……い、い……気持ち……いいっ……」


 そういうことかと納得し、激情が込み上げた。飛燕は裕翔の技術の虜となり、兎斗の罪を許したのだ。


 タンチョウ族と友好関係を築くためでも、好感度を上げるためでもなく、己の快楽のために……


 ふざけるな。淫乱男が。下衆がっ!


 繋がったとわかる、ひときわ大きな喘ぎ声。佐了の胸に殺意が湧く。


「ああっ……あっ、ん……んあっ」


 佐了は首を傾げ、寝台の厚みを目視した。短剣を下から突き刺したら、奴に届くだろうか。行為の最中に奴の息の根を止めるのだ。


「飛燕……飛燕の中……すごく気持ちいい」 


 佐了の目にジワリと涙が滲む。


(裕翔……かわいそうに。いやいや飛燕の相手をさせられて)


 質のいい木板に手を触れると、振動が伝わってきた。手を滑らせ、飛燕の位置を探る。


「あっ……やっ……はあっ、あっ……」


 行為に夢中の今なら、少しくらい動いても気付かれはしない。佐了は仰向けになり、着物の中に手を入れた。ゆっくりと、短剣を引き抜く。


「ん……は、……と、とっ……」


「兎斗じゃない……飛燕、俺だよ」


「とと……兎斗……もう、いい……」


「俺だってば……もしかして……痛かった?」


 揺れが収まる。


「兎斗」


「ごめん、久々だったから、加減ができなかった」


 裕翔の声は震えていた。


「兎斗……もういい。もう、裕翔のフリをするのは、やめろ……」


「違う……俺だよ。裕翔だ……どうしたんだよ……そんなに痛かった?」


「何も痛くない。兎斗……俺のみっともない声を聞いていただろう」


 笑いを含んだ切な気な声。佐了の鼓動が速まる。心臓が今にも胸を突き破りそうだった。


 ありえない。兎斗が裕翔のフリをするなど、飛燕の喘ぎ声よりもありえない。


「でも……い、痛かったからっ……兎斗だって思ったんだろっ! 嫌なこと思い出したんだろっ!」


「兎斗、裕翔はもういないのだろう」


「っ……いるっ! 今が、そうだっ……今は裕翔っ……裕翔なんだよっ!」


「兎斗」


「……どうしてっ……な、何が違う? ぼ……俺、なんかまずいことした?」


「そうだな……兎斗、お前は慎重が過ぎるな。裕翔のように振る舞うことに囚われて、余裕がない」


「……今日は、調子が悪いんだよ」


「兎斗」


「違うっ……」


「と、あっ……くっ、ぅっ……ん」


 ぴちゃ、ちゅうっと淫らな音が聞こえる。乳を吸われているのだ。音を聞いているだけで、佐了の胸の先が疼く。


「んっ……ぁ、あっ……兎斗っ」


 兎斗のはずがない。母乳の出ない胸にタンチョウ族の男は興味がない。なんなら犯そうとも思わない。あの砂漠で育ち、タンチョウ族の価値観に染まった兎斗が、飛燕を抱くなんて考えられない。


 けれど飛燕は兎斗と呼ぶ。……それに返事はない。ひたすら淫らな音を立て、乳を吸う。飛燕の艶っぽい声は次第に切羽詰まったものとなり、もう「兎斗」と呼ぶことすらままならない。


(兎斗……なのか?)


 佐了の脳裏に、砂漠で陵辱され、ぐったりと動けずにいる自分に寄り添って、幼い手で懸命に介抱してくれた兎斗の姿が、鮮やかに蘇った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナンバーワンセラピスト、異世界で冷酷将軍の乳を吸う 兵馬俑 @batora

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画