最終話


「これがその時、燕帝えんていの命を守ったとされる金餅きんぺいです。燕帝が生まれたのは、紀元前138年。当時、座貫の宮廷は混乱期にあり、正室の子供以外は、まともに育てることが難しい状況でした。後継者争いが、赤子にまで広がっていたのです。そこで燕帝の母、寧恩ねいおんは、燕帝を産んですぐ、信頼できる人夫に燕帝を預けました。いつか宮廷の混乱が終わったら、燕帝が宮廷に戻れるよう、王族の証である金餅を鎖骨の下に埋め込んで。……ですが人夫はその後すぐ、流行病で亡くなってしまいます。燕帝の消息は途絶え、寧恩もこの時まで、まさか自分の子供が生きていて、それが飛将軍と呼ばれる大将軍であったとは、夢にも思わなかったことでしょう。……あっ、お客様っ! お手を触れるのはおやめくださいっ!」


 ガイドに言われても、裕翔はぼんやりと心ここに在らずで、丸い金貨に触れた手を引っ込めることができなかった。周囲の客が、訝しげに裕翔を見つめる。


「おい、裕翔っ!」


 先輩キャストの賢治が裕翔の腕を掴む。「そこの美術館で古代中国展やってるらしいぜ。暇だし行くか」と裕翔を病室から連れ出したのは、彼だった。


 正確な名称は、『嘘か実か? 漢に存在した幻の帝国と、タンチョウ族と呼ばれた夷狄いてき


 欲張り無制限フルコースを四人接客したあの日、裕翔は交通事故に遭った。軽い打撲と脳震盪で済んだのに、なぜか二ヶ月半も眠っていた。


「お前、もしかしてまだ具合悪いのか? だったら無理に付き合うなよ」


 説明を終えたガイドは、別の展示物へ向かう。順に紹介しているわけではなく、客のいる場所へ行き、説明文に補足していくスタイルだ。


 空調の聞いた館内は全体的に暗く、人はまばらだ。


 賢治は「帰るか」と言って、黒い布で仕切られた出入り口へと向かう。裕翔が来ないことに気づいて、彼は「裕翔?」と不安気な顔になった。


「お前、本当に大丈夫……」


 裕翔はガイドのいる展示物へ向かった。展示されているのは文字が書かれた巻紙だ。


「これは、兎斗が獄中で書いたとされる手紙です。燕帝を襲った後、タンチョウ族の兎斗は五日間投獄されましたが、燕帝が即位すると釈放されました。その後は燕帝の側近として、タンチョウ族との外交に努めました」


「手紙には、なんと書かれているのですか」


 白髪の男性客が聞く。ガイドはウフフと笑って言った。


「燕帝への愛の告白です。燕帝は男色と噂されていましたから、なんとか取り入ろうとしたのでしょう」


 男性客はさほど惹かれなかったのか、「ふむ」と頷いて去っていく。


 裕翔は文字が読めるまで近づく。筆で書かれた、漢字だらけの手紙。裕翔にはそれが、自分が書いた文章だとわかった。自分が飛燕に向けた愛の言葉だ。


 でも紙が違う。自分はあの地下牢で、薄い紙を何枚も使って書いた。展示品は一枚の長い巻紙だ。


 横に移動しながら、自分が書いたとしか思えない愛の言葉を読んでいく。最後まで読み終えてしまうと、隣の紙に目が入った。こちらは状態が悪い。自分が使った紙は、こんなような気がする。筆跡も同じだ。


「兎斗は燕帝の側近でいるうちに、燕帝を心から愛するようになりました。そちらは、燕帝が兎斗に向けた言葉を、兎斗が忘れないよう、書き起こしたものです。兎斗は生涯、それを肌身離さず持っていたそうです」


 身に覚えのない言葉……これは自分が書いたわけじゃない。


 裕翔は食い入るように文字を目で追った。


「裕翔……面白いか、それ? っていうかお前、ここ来てからずっとヘンだぞ。そんなの何書いてあるか分からないだろ」


「胸吸われて、救われたって。一生俺を忘れないって、そう書いてある」


 裕翔が真剣に言うから、賢治は笑うに笑えない。


「お前……やっぱヘンだって。帰ろう」


「帰らない」


 掴まれた腕を振り払う。


「やっぱり……飛燕は母乳の出ない体を……後ろめたく思ってた。俺に吸われて救われたって……解放されたって……」


「ちょっ! ……すみません、こいつ事故に遭って、まだ完全に治ってないみたいで……」


 賢治がヘラヘラとフォローする。ガイドは苦笑して去っていった。近くにいた客も離れていく。


「裕翔……かわいそうに。お前、相当疲れてたんだな。職業病だ。これからは客選んで、欲張り無制限フルコースは一日一回にしとけ。四回もやるからおかしくなっちまうんだ」


 賢治に背中をさすられながら、裕翔は文字を目で追った。何巡も。


『愛している』


 二千年も前の皇帝が言ったとされる言葉を、裕翔は自分に向けられた言葉として、受け止めた。

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