最悪

 おびただしい血と死体。大広間は兎斗の手によって惨状と化した。


 追っ手が来る気配はない。対象者は皆泥酔していて、騒ぎになるほど時間が掛からずに済んだからだ。


 改めて部屋を見回す。冷静になると、こんなに上手く行くのは何か裏があるんじゃないかと思えてきた。


 部屋を出る。どうぞ逃げてくださいと言わんばかりの静かな廊下……罠に掛かるのをじっと待っているような。


 予定では、この廊下を進み、途中の渡り廊下で庭に逸れ、山に逃げ込み、あの厩舎へ帰ることになっている。


 計画したのは飛燕だ。


 誰も来る気配のない長い廊下を見ているうちに、飛燕への疑惑が湧いてきた。


 飛燕は「お前に会わない」と言い切った。それは「会いに来ない」のではなく、「兎斗でいるうちに返り討ちにし、お前ごと殺すから」という意味なのではないか。


 考えてみれば、暗殺命令は「会いに来ない」だけで解決する問題ではない。


 なら、この経路は……


 僕を殺すために考え抜かれた、袋小路なのではないか。安全な経路と言って誘い込み、手下に捕らえさせる。それなら飛燕に危険が及ぶこともない。……会うこともない。


 さあっと血の気が引いた。僕は馬鹿だ。まんまとその罠に掛かるところだった。


 兎斗は後退りながら部屋へと引き返し、窓から外へ出た。飛燕の考えた道順は避けた方がいい。


 けれど出た先は複数の部屋に囲まれた中庭で、人の気配が多過ぎた。池の先に見える部屋など、宴会をしているような賑やかさだ。


 中庭には池や東屋があり、それらは石灯籠で照らされているから、どこにも暗闇がない。


 早くここから逃げなければと、兎斗は視線を彷徨わせ、逃げ込める空き部屋を探すが、どこも明かりがついている。


 やっぱりおかしい。兎斗の胸に不安が広がる。


 戦争の気配が全くしないのだ。


 本来ならタンチョウ族が攻め込んで来る頃合いだ。戦火の匂いが少しくらいするはずなのに、一切ない。


 その時、ガラッと引き戸が開いた。武官のような大柄な男が庭に面した廊下に出て、草履に足を引っ掛ける。東屋へ向かうようだ。硬直した兎斗に気づかず、歩んでいく……


 長剣に手を掛けたのは、無意識だった。スウッと鞘を抜けるその音を、男は聞き逃さなかった。顔をこちらに向け、目を見開く。


「何者だっ!」


 男も剣を引き抜いた。ガラッ、とまた別の部屋が開く。


「黒髪の曲者っ!」


「きゃああっ! あの血はなにっ!?」


 終わったなと他人事のように思った。自分はここで死ぬのだ。


 簡単に殺されてたまるかと、兎斗は長剣を振るった。男の長剣とガツンとぶつかり合う。


 拮抗していた力が有利に動き、握った剣をグッと押す。男が後退り、兎斗はここぞとばかりに激しく剣を振るった。男が体勢を崩して地面に腰をつく。トドメを刺そうと一際大きく剣を振り上げた時、視界の隅に白髪の男が見えた。


「っ……」


 腰をついた男を庇うようにして、飛燕が目の前に現れる。顔につくほどの至近距離で刃がぶつかった。


「兎斗っ……なぜ……っ」


「っ……それはこっちのセリフだっ! なんでっ……こんな時に武官が宴会なんかしてるんだっ……」


 タンチョウ族と戦争しているはずなのに、武官は呑気に娼妓を呼んで宴会……


「僕をっ……騙したなっ……」


 こいつは座貫に寝返ったのだ。戦争なんかしていない。けれど王族は始末したいから、引き続き自分を騙し、利用した……


 命を狙われ、返り討ちにするというのは別に悪いことじゃない。死ぬか生きるかなのだから当然だ。でもこいつにとって、自分は殺害命令が出ていようがいまいが、王族暗殺を遂行した後は切り捨ててしまいたい邪魔者なのだ。


「兎斗っ……説明、するっ……だからっ……剣を引けっ」


「そんな嘘に騙されるかっ!」


 声がみっともなく掠れた。前触れもなく涙がボロボロと溢れた。


「ふざけるなっ! 裕翔だったらっ……この体が裕翔のものになると分かればっ……僕を殺そうなんて思わないんだろうっ! そのうち裕翔がいなくなるから……僕だけになるからっ……だからっ……始末しても良いと思ったんだろうっ!」


 このごに及んで、まだ裕翔が中にいるように振る舞う。そんな自分が惨めったらしくて嫌になる。


「違うっ! お前を殺そうなんてっ、思ってないっ! 誤解だっ!」


「僕が命令に背けないって言ったのはっ、あんただろっ! 自分の命を狙う人間を生かすお人好しがどこにいるっ!」


 グイグイと力を込めるが、相手は手強い。絶妙な頃合いで強く弾かれ、兎斗は後方に後退った。


 けれどすぐさま飛燕に襲いかかる。怒りの力は絶大だ。容赦無く刀を振り下ろす。受け止められなければ、確実に死ぬような激しい攻撃だ。躊躇いはない。


 ガツン、とぶつかる。今度は飛燕が劣勢だ。


「兎斗っ……俺はタンチョウ族を裏切った! 恩を仇で返すようなことをしたっ! だからっ……命で償うつもりでいるっ!」


 真剣で悲痛な眼差し。裕翔に「愛している」と言った時の顔と似ている。


「……嘘だっ!」


「嘘じゃないっ……兎斗っ……信じてくれっ! 必ずお前を逃すっ……だからどうかっ……今はおとなしく捕まってくれっ……」


「信じられるかっ! どうせ殺されるならっ、あんたも道連れだっ! あんたを殺さなきゃっ……僕は死んでも死にきれないっ!」


「兎斗っ! 頼むっ! お前の中にはまだ裕翔がいるのだろうっ!」


「だったらなんだっ!」


「裕翔にっ……見られたくないっ……俺を殺させたくない……っ!」


 兎斗に、お前と佐了の情事を見せないでやってくれ……


 嘘だ。こいつは嘘つきだ。騙されるな。流されるなっ! こいつはタンチョウ族を裏切った。それを隠して、僕を地下牢に閉じ込め、呂帝や王族暗殺に利用した。


 命で償う? 笑わせるな。自分が鍛え上げた一万の精鋭部隊と、恵まれた現在の地位を失いたくないから、タンチョウ族を裏切ったんだろう。保身に走るような人間が、命を手放せられるはずがない。


 ワッと力が漲り、飛燕の長剣を弾き返した。


 殺意を込めて、鋭い角度で振りかぶる。ほこさきが衽に触れた瞬間、仕留めたと思った。


 同時に、気付いてしまった。


「っ……」


 飛燕の着物は左衽……死装束だった。


 まさか本当に死ぬつもりでいたのかと、兎斗は激しく狼狽えた。


 止まれ。殺したくない。好きなのに。自分だって好きなのに。嫌だと今更心で拒んでも、鋒は衽を貫き、飛燕の膚へと埋め込まれていった。

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