始まりの日 10話(1章・完)

 机に残された茶器たちを片付け、洗うために厨房へ向かう。そこに行くまでのあいだ、桜綾ヨウリンが口にしていた噂について、蘭玲ランレイたずねる。


タン淑妃しゅくひたちの噂は、本当なのですか?」

「どうでしょう。ですが、火のないところに煙は立たぬ、ともいいますし、美しい人たちですからね……」

「陛下は後宮に入れることで、彼女たちを守っているのかもしれませんね」


 桜綾が口にしたこと――それは一時期、小鈴シャオリン雹華ヒョウカも、姿を消していたこと、だった。


 十代前半にいきなり姿を消し、数日後、無事に見つかったとのこと。


 彼女たちはその数日のことをまったく覚えていなかったようで、きょとりとしていたらしい。


「神隠しにでもあったみたいですねぇ」

「ええ。まぁ、だから、いろいろな憶測が、ね」


 蘭玲が両肩を上げて、声量を落とした。


 厨房につき、中に入ると数時間前に会話をしていた人たちがいて、朱亞は彼女たちに声をかける。


「すみません、洗い物を持ってきました」

「ああ、そこに置いといてくれ。朱亞シュアちゃん、作っていたヤツ、持っていくかい?」

「はい! あ、硝子ガラス瓶に入れてくださったんですね。ありがとうございます!」


 いろいろとあった間に、土鍋に入れていた清熱止咳膏セイネツシガイコウが冷めて、硝子瓶に保存できるようになったようだ。


「それで、なんだけど……味見しても良いかな? どんな味なのか、興味があって」

「あ、構いませんよ。匙で掬って、口の中で溶かすように飲んでください」


 清熱止咳膏が入った硝子瓶の蓋を開け、差しだす。代表してひとりが味見をすることになっているようで、「それじゃあ」と匙を入れて口の中に入れ、ゆっくりと味わう。


「……これが本当に咳に効くなら、素晴らしいね」


 こくりと飲み込んだあとにぽつりとこぼされた言葉が耳に届き、朱亞は硝子瓶の蓋を閉めて顔を上げた。


「効くか効かないかは体質によりますから、あまり鵜呑うのみにしないでくださいね」


 祖父から口を酸っぱくしていわれたことを思い出して伝えると、女性たちは目を丸くしてすっと朱亞の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でる。


「朱亞ちゃんは、いろんなことを教わったんだねぇ」


 わしゃわしゃと撫でられた朱亞は「わぁっ」と声を上げて、硝子瓶をぎゅっと抱きしめながら女性を見上げた。


「もしも風邪をひいたときは、朱亞ちゃんにどんなものが効くか聞きに行ってもいいかい?」

「私でお役に立てるのなら、いつでも!」


「ありがとう。あ、そうだ。これ持っていておくれ。貴妃きひ、だっけ。その人にも食べてもらいたくてね」


 皇太后陛下に会う前に食べた、美味しい胡麻団子。それを詰め合わせた袋を渡され、朱亞はぱぁっと瞳を輝かせる。


「私も食べて良いですか?」

「もちろん! 美味しく食べてもらえるのが、一番嬉しいよ」

「ありがとうございます! おやつに食べますね」


 お礼を伝えて厨房をあとにすると、蘭玲が声をかけた。


「なにかもらったの?」

「胡麻団子をいただきました! 美味しい胡麻団子だったので、おふたりにも食べてみてほしいです」


 にこにこと満面の笑みを浮かべて胡麻団子を見せる朱亞に、蘭玲の手は彼女の頭に吸い寄せられ、気付けば頭に手を乗せてくしゃりと撫でる。


 その後、朱亞たちはそれぞれ気ままな時間を過ごした。


 桜綾に胡麻団子を渡すと、「みんなで食べましょう」と数個もらえた。朱亞は自室で荷物の整理を始め、気付けばもう日が暮れて、夕日が赤く染まっている。


「朱亞さん、いますか?」


 燗流カンルーの声にすかさず「います!」と返事をしてから、ぱたぱたと足音を立てて扉を開く。金糸雀カナリアの髪も夕日に染まり、赤く見えた。


「夕食の時間ですよ。それと、こちらを」

「これは……あっ!」


 燗流が見せたのは、宦官の服だった。彼を中に招いて、夕食と服を受け取る。


「夕食を食べたあとで良いので、一度着替えてみてくれませんか? 直すところがあるかもしれませんから」

「わかりました。では、先にご飯をいただきますね」


 せっかく用意してくれたのだから、と夕食を食べ始める朱亞に、燗流は辺りを見渡して、軽く頬を掻く。


「あまりにもなにもなくて、不便でしょう? すぐに用意するように手配しますから……」

「大丈夫ですよ! 慣れていますから」


 ご飯を飲み込んでから、朱亞は両手をぶんぶんと振る。


「こんなに広い部屋で、逆に申し訳ないくらいです」


 村で暮らしていたときのことを思い出しながら、言葉を続ける朱亞に燗流は目をぱちくりと瞬かせてもう一度辺りを見渡す。


「私が住んでいた家が、確実に二軒は入りますよ」

「えっ」


 燗流は外の世界を知らない。そのために、朱亞の言葉に思わず変な声をだしてしまった。


 朱亞は眉を下げて夕食を食べ進める。すべて食べ終えてから燗流に村でのことを話す。


 外の世界のことを興味津々に聞く燗流。その瞳は輝いているように見えて、自分の話をこんなに楽しそうに聞いてくれるのかと、感心した。


「では、さっそく着替えますね」

「はい。あ、廊下に出ますね。女性の着替えを見るわけにはいけませんから」

「……はい」


 女性扱いされて、朱亞はかぁっと頬を赤らめる。


 村で暮らしていたときは、女性扱いよりも子ども扱いされていた。


(まぁ、私の年齢くらいの子も少なかったから、仕方ないんだけど)


 村にいた子どもは、朱亞を合わせても片手で足りるほど。


 燗流が部屋から出ていったのを確認してから、彼が持ってきた服に視線を落とす。いそいそと袖を通し、最後に宦官帽をかぶる。


「燗流さん、これで合っていますか?」


 扉をほんの少しだけ開け、ひょっこりと顔を見せると、廊下で待っていた燗流が振り向いて朱亞を見た。


「ええ、合っていますよ。……でも、少し大きかったようですね」

「そうですね、少し緩いです」


 軽く頬を掻いて眉を下げる朱亞に、燗流はじっと彼女を見て「少々、失礼します」と口にして簡単に直す。


 あまりの素早さに朱亞は思わず、ぽかんと口を開いた。


「す、すごい……!」

「ふふ、ありがとうございます。どうですか?」

「動きやすくなりました!」

「それは良かった。では、少しついてきてもらっても良いですか?」


 この格好で? と目を丸くする朱亞に、燗流はにこりと微笑みを浮かべて歩きだす。


 遠ざかっていく背中を、朱亞は慌てて追いかけた。


 燗流の後ろ姿を眺めながら歩き、気付けば知らない場所にきていた。辺りを見渡すと、いろいろな甘い香りがして、様々な花が咲き誇っているのが見える。


「ここは……?」

「あそこの扉を、開けてみてください」


 立派な扉があった。黒塗りだからか、重そうに見える。ごくりと唾を飲み込んで、扉に触れて開けてみた。


 ――あまりにもあっさりと開いて、びっくりして体を硬直させる朱亞に、声がかかる。


「――朱亞さん?」

「あ、梓豪ズーハオさん!」

「ここは秘密基地、ですよ」


 燗流の言葉に、弾かれたように梓豪が彼を見る。そしてゆっくりと息を吐いた。


「この場所を知っているのは、ごく一部です。朱亞さんは、ここで梓豪と情報を交換してください」

「……ここで、ですか?」

「はい。ここはなぜか、周りに気付かれにくい場所なのです」


 燗流が淡々とした口調で声を発する。朱亞は辺りを見渡して、小さくうなずく。


 確かにこの場所なら、誰にも気付かれないだろうと空を見上げた。


「朱亞さん、どうかしました?」

「――この場所、結界が張られていますね」


 朱亞の言葉に、燗流と梓豪が言葉をむ。そして、くるりと身体を反転させて、燗流を見つめる。


「聖域になっているようです、この場所は」

「そんなことが、わかるのですか?」

「えっと、わかりませんか……?」


 背後から梓豪に問いかけられ、朱亞は彼に顔を向けて逆に尋ねる。その言葉を聞き、梓豪を燗流は視線を交わして首を縦に動かした。


「朱亞さん、あなたにはお願いしたいことがあります」

「私にできることですか?」

「恐らく――この後宮で、あなたにしかできないことでしょう」


 燗流の声は硬かった。心なしか、梓豪の表情も硬い。


 いったいどんなことを頼まれるのか、朱亞はまったく見当がつかずに眉を下げた。


「あなたには、後宮で起きる不可思議なことを、調査してもらいたいのです」

「不可思議なこと、ですか?」

「ええ、例えば――」


 すっと空を指す燗流の指先を追うように、朱亞は視線を動かす。


 燗流が指した先には――青白い炎が、浮かんでいた。


 後宮で暮らす始まりの日。


 朱亞はこれからのことを思い、じっと青火を見つめていた。

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絶世の美女の侍女になりました。 秋月一花 @akiduki1001

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