母を見返すために
春風秋雄
ひとりの女性が面接にきた
佳純さんがこの会社の面接を受けに来た時のことを、俺は鮮明に覚えている。佳純さんはその日、着慣れないリクルートスーツを着て中途採用の面接を受けに来た。
「どうしてこの会社を志望されたのですか?」
「母を見返すためです」
「お母さんを?それはどういうことですか?」
「母は、ずっと弟ばかりを可愛がり、私のことは何も出来ない、役立たずだと言い続けてきました。私が大学進学するときも、本当は服飾デザインの学校へ進みたかったのですが、母はあなたには無理だからと言って、短大の健康栄養学科を受けるように言われました。理由は簡単です。結婚してから旦那さんや子供の食生活に活かせるからだということです。就職活動も、せっかく栄養士の資格をとったので、それを活かせる仕事を探していたら、母が知り合いの伝手で事務の仕事を決めてきました。毎日コピーを取ったり、伝票の数字をパソコンに入力するだけの、パートさんや学生アルバイトでも出来る仕事です。4年くらい仕事を続けた頃に、母がお見合いの話をもってきました。一流大学を出て、一部上場企業に勤める30歳の人でした。写真を見ましたが、全然ときめきませんでした。勝手にお見合いの日取りを決められて、否応なしにお見合いをしましたが、話していて私とは住む世界が違う人だと思いました。私は母にあの人とは無理だから、断るように頼みましたが、母は聞いてくれませんでした。母が言うには、私は何も出来ない、役立たずなのだから、あんな立派な人にもらってもらうだけでも幸せだと思いなさいということでした。もうこれ以上母の言いなりになるのは嫌だと思いました。だから、私は会社に退職願を出して、家を出てきたのです」
いまどき、そんな母親がいるのだ。俺は驚いた。
「つまり、お母さんから離れて、独り立ちしたいということで東京へ出てきたのですね?」
「そうです」
履歴書の現住所は福島県のままになっている。現在は無職なので、アパートも借りられず、まだ住居は決まっていないらしい。
「でも、どうしてうちの営業職を志望されたのですか?栄養士の資格をもっているのであれば、そういう仕事を探そうとは思わなかったのですか?」
「栄養士は、自分で選んだ道ではないです。だから、そういう仕事を選んでも、楽しく仕事が出来るとは思えません。私は、人と接する仕事がしたかったのです。前の会社でも、営業の人の仕事を見ていると、大変だけど、やりがいのある仕事だと思えました。だから社長に営業の仕事をさせて下さいと頼んだことがあるのです。でも、君のお母さんから事務の仕事でと頼まれているからと言って、とりあってくれませんでした。だから、再就職の際は、営業職と決めてきたんです。それに御社は単なる出来上がった物を売る営業ではなく、お客様のニーズを引き出して、そのニーズに合った商品を構築して提供する、企画営業ですので、とてもやりがいを感じる仕事だと思いました」
田中佳純さん、24歳。俺はこの娘を採用することにした。
「採用にあたって、前の職場に連絡を入れることはないですか?」
「前職での仕事ぶりや、素行について問い合わせる会社もあるようですが、私はそのようなことはしません。ただ、年末には年末調整に必要なので、源泉徴収票を取り寄せてもらわなければなりません」
「それは大丈夫です。落ち着くまで家には知られたくないだけですので、年末までには家族にもちゃんと話すつもりですので」
そうやって佳純さんはうちの会社で働くことが決まり、アパートの契約が出来次第出社してもらうことになった。
俺の名前は水島圭祐。32歳の独身だ。WEB広告制作の会社を経営している。佳純さんがこの会社に入って、もう4年になる。24歳で入社した佳純さんも今年28歳だ。佳純さんが入社した時の社員数は7名だったが、今では20名ほどになった。これも佳純さんのおかげだ。佳純さんは右も左もわからないWEB広告について、本当によく勉強して頑張った。1年も経つと、ベテラン営業マンと遜色ない営業が出来るようになっていた。そして、次第に契約件数は伸び、いつのまにか不動のトップセールスになっていた。
佳純さんは入社した年末に、前に勤めていた会社から源泉徴収票を取り寄せた。郵送のために住所を教えたところ、お父さんがいきなりアパートを訪ねてきたそうだ。佳純さんはお父さんに、自分の気持ちをすべて吐き出し、家には帰らないと告げたらしい。お父さんは、元気でやっていればそれでいい。お母さんには俺から言っておくと言って帰って行ったそうだ。それ以来、佳純さんは両親と会っていないということだ。
取引先の紹介で、仙台の会社を営業することになった。東北地方ではかなり有名な会社のようで、大きな案件になりそうだったので、佳純さんを担当者にして、俺も同行することにした。先方は佳純さんのプレゼンテーションを気に入ってくれ、早速広告制作の依頼を受けることになった。具体的な要望を聞き、次回訪問時に試作をいくつか提示することになった。
東京へ帰るために仙台駅に着いた段階で、時刻は4時半だった。俺はふと思い立ち、佳純さんに言ってみた。
「時間的にはまだ早いので、途中下車して、実家に寄ってみてはどうかな?」
佳純さんは驚いたように俺の顔を見た。
「もう何年も家には帰ってないのだろ?ご両親は心配しているんじゃない?」
仙台から、佳純さんの実家がある最寄り駅までは、40分程度で着く。こういう機会でもなければ、佳純さんは実家に帰るきっかけがないのではないかと思った。
「明日は有給休暇扱いにするから、今日は実家に泊ればいいよ」
俺はそう言って、半ば強引に佳純さんを実家に帰らせることにした。
翌日、会社に出社すると、佳純さんはすでに会社に来ていた。
「あれ?昨日は実家に泊ったのではないの?」
「今日の夜、食事に連れて行ってください。その時にお話しします」
佳純さんは疲れた顔でそう言った。
その日の夜、いつも社員を連れて行く居酒屋で、佳純さんは昨日の出来事を話してくれた。
昨日佳純さんが、連絡もせずに実家に帰ると、玄関に出てきたお母さんの第一声は「何しに帰って来たの?」だった。
お父さんが気付いて、すぐに家に上げてくれたが、食事時にもかかわらず、お母さんは「あんたの分は用意してないからね」と言って、何も出してくれなかったそうだ。お父さんと弟さんが気を使って、自分たちのおかずを分けてくれたが、手を付ける気にもなれなかった。
お父さんが仕事はどうかと聞いてきたので、今自分がやっている仕事を説明し、今日も仙台の会社の担当を任されて、出張で行って来た帰りに寄ったのだと言うと、お母さんは
「どうせ、あんたのことだから、雑用ばっかりさせられているんだろ?仕事が嫌になったからといって、ここに帰ってこようと思ったのなら、お門違いだからね。もうここには、あんたの居場所はありはせんから。28歳にもなって、嫁のもらい手がない娘なんか家においといたら、近所の笑いもんだからね」
佳純さんは、それを聞いて何も言わずに家を出てきたそうだ。
「そうか、それは辛かったね」
「いいんです。どうせ母は、そういう人ですから。父と、弟の顔が見られただけでも、帰って良かったと思います。社長には感謝します」
佳純さんはそう言ったが、本音は悔しくて仕方なかっただろう。会社での活躍を、自慢したかっただろうに、その説明さえもさせてもらえなかった。その日の佳純さんは、いつもより飲むペースが速かった。
仙台の会社とのやり取りは、2回目からは佳純さんに任せ、俺は出張に同行しなかった。報告を受ける限り、順調に進んでいるようで、SNSなどのWEB上で広告を公開する準備は整ったようだった。
今日から仙台の会社の広告が公開されるという日に、今後の打ち合わせで仙台に出向く佳純さんに同行して、俺は仙台まで行くことにした。先方は、すっかり佳純さんの仕事を気に入ってくれたようで、年間契約を結んでくれた。
先方の会社を辞去して、仙台駅に着いた時に、俺は佳純さんに言った。
「佳純さんの実家に連れて行ってもらえませんか?」
「社長をですか?」
「そう。これだけ会社に貢献してくれているので、ご両親にご挨拶だけでもと思ってね」
「やめて下さい。私だけならまだしも、母は社長にも何を言うかわかりません。社長が気を悪くするだけです」
「それでもいいから、連れて行ってくれないか」
俺は佳純さんが戸惑っているのを無視して、佳純さんの実家がある駅までの切符を2枚買った。
最寄り駅に着くと、さすがに佳純さんは実家に電話を入れ、俺が来ることを伝えたようだ。
玄関で出迎えたお母さんは、さすがに俺に対して「何しに来た」とは言わなかった。すぐにお父さんが出迎え、家に上げてくれた。
「初めまして。私、佳純さんが働いている会社の社長をしております、水島圭祐と申します」
俺はそう言って、お父さんとお母さんに名刺を渡した。
「今日は、仙台の取引先に行ってきた帰りなのですが、東京までの通り道ですので、うちの会社に貢献して頂いている田中佳純さんのご両親にご挨拶だけでもと思いまして、寄らせて頂きました」
「これはご丁寧に」
お父さんがそう言った横で、お母さんはムスッとした顔で座っている。
「弊社は今年で10年になりますが、佳純さんのおかげで、急成長でき、佳純さんが入社した頃は、社員が7名ほどでしたが、現在は20名の会社になっております」
「どうせ佳純は、皆さんの足を引っ張ているんじゃないですか?」
お母さんが嫌味っぽく言った。
「とんでもありません。佳純さんは優秀な営業社員です。これをご覧ください」
俺はそう言って、カバンからノートパソコンを取り出した。そして、今日から公開された仙台の会社の広告動画を見せた。
「この会社はご存じですか?」
「そりゃあ、こっちの方では有名な会社ですから。この会社の広告も水島さんの会社が手掛けているのですか?」
「この契約を取り付けたのは佳純さんです。そして、この広告動画の企画をして、制作をプロデュースしたのも佳純さんです」
「本当ですか?」
「これは今日からWEBで公開されています」
お母さんは、黙って広告を見ていたが、見終わると言った。
「たまたま、うまくいっただけでしょ?」
「とんでもない。佳純さんは、弊社のトップセールスです。佳純さんが給料をいくらもらっているか、知っていますか?」
俺はそう言って、佳純さんの給与明細を見せた。額面は70万円となっている。そして、ついでに源泉徴収票も見せた。こちらには賞与の分ものっているので、年収は1000万円を超えていた。
「佳純は、こんなにもらっているのですか!」
お父さんが驚いて佳純さんの顔を見た。お母さんは、明細を見たが、黙ったままだった。
「佳純さんの実績なら、当然の報酬です。現在うちの会社は、田中佳純さんなしでは回って行かない状況にあります。ですから、今後とも、どうかよろしくお願い致します」
俺はそう言って、ご両親に深々と頭を下げた。
実家を出てから、佳純さんは何もしゃべらなかった。新幹線の座席に座るなり、疲れが出たのか、佳純さんは眠ってしまった。眠っている佳純さんの頭が傾き、俺の肩に乗っかって来た。シャンプーの香りなのか、心地よい香りが俺の鼻をくすぐるように漂ってくる。俺は東京駅まで肩を貸してあげることにした。俺も寝てしまおうと思ったが、何故か胸がドキドキして、眠れなかった。
東京駅に着き、乗り換えて佳純さんのマンションの最寄り駅まで行く。そこでタクシーに乗り、途中で佳純さんを降ろして、俺はそのまま自分の家までタクシーで帰るつもりだった。ところが、佳純さんのマンションの前でタクシーを止めると、佳純さんが俺に言った。
「あがって、お茶でも飲んで行きませんか?」
俺は一瞬迷ったが、何か話したいことがあるのだろうと思い、タクシーを降りることにした。
「今日はありがとうございました」
佳純さんが淹れてくれたコーヒーを飲んでいると、唐突に佳純さんが頭を下げた。
「お礼を言われるようなことは何もやっていませんよ。私は事実をご両親に伝えただけです」
「それでも、わざわざ給与明細や源泉徴収票まで用意してくださっていたなんて」
「佳純さんの貢献度を示すには、どれくらい報酬をもらっているかを伝えた方が手っ取り早いと思ってね」
それから、佳純さんのとりとめもない話を聞いた。子供の頃に犬を飼っていた話、家族で旅行に行ったときの話、そんな楽しかった頃の思い出をいくつも聞いた。それらの話のすべてに必ずお母さんのエピソード話が入っていた。佳純さんは、心の奥底ではお母さんのことが好きなんだろうなと思った。
ふと時計を見て、そろそろ帰ろうと立ち上がり、玄関ドアに向かおうとすると、後から佳純さんが抱きついてきた。
「社長、今日は一緒にいてくれませんか?」
「このまま一緒にいたら、変な気を起こしてしまいそうですから、私は帰ります」
「変な気を起こしてもらっていいです。今日一日だけのことにしてもらってもいいです」
「私は、佳純さんに対して、今日一日だけのことなんかには出来ません。私は、ずっと前から佳純さんのことが好きでした」
俺は振り向き、佳純さんを抱きしめた。佳純さんが泣きそうな顔で俺を見つめる。俺はそっと唇を寄せた。佳純さんは、おそらく男性経験がないのだろう。その細い肩が震えていた。
佳純さんとの関係が社内に知れ渡るのに、それほど時間はかからなかった。事務の女の子からは「やっとですね。もっと早く佳純さんの気持ちに応えてあげればよかったのに」と言われた。俺が気づかなかっただけで、佳純さんは、ずっと俺のことを思っていてくれたようだった。社内の皆は、それを知っていて、最近の佳純さんの態度を見て、すぐに気が付いたそうだ。
佳純さんと付き合いだして半年ほど経ったとき、俺は佳純さんに「結婚しよう」と言った。佳純さんは目に涙を浮かべて頷いてくれた。
まずは佳純さんのご両親に挨拶に行かなければと思っていた矢先、佳純さんの携帯に佳純さんのお父さんから電話が入った。お母さんが入院したらしい。
「お母さんの容態はどうなの?」
二人で佳純さんの実家に向かう新幹線の中で俺は聞いた。
「すい臓がんだって。ステージ4で、もう緩和ケアしか出来ないみたい」
すい臓がんは、気が付いた時は手遅れだと聞いたことがある。
病院に着くと、佳純さんのお母さんは4人部屋にいた。お父さんは個室を希望したらしいが、空き部屋がなかったということだ。
「お母さん、佳純です」
眠っていたお母さんが目を開けた。
「佳純かぁ?何しに来たの?」
「入院したと聞いたから、お見舞に来たんじゃない」
「別に大したことないんだから、わざわざ来なくてもいいのに」
「社長さんも一緒に来てくれたんだよ」
お母さんが俺の方に目をくれる。
「佳純は会社に迷惑かけてないですか?」
「とんでもない。佳純さんは相変わらず会社に貢献してくれています」
「そうですか」
お母さんは弱々しく言った。
「お母さん、私、社長さんと結婚することになった」
お母さんは、少し驚いたように佳純さんの顔と俺の顔を交互に見た。
「そうかい」
お母さんは、それだけ言ったきり、黙り込んだ。
「佳純さんを必ず幸せにしますので、どうか、末永くよろしくお願いします」
お母さんは、何も返事をしなかった。
長居をしては体に障ると思ったので、俺たちは辞去することにした。佳純さんが「じゃあ、帰るね」と言って、出口に向かおうとすると、お母さんが呼び止めた。
「佳純」
「何?」
「あなたの好きな“いかにんじん”を作って、冷凍庫に入れてあるから、食べなさい」
“いかにんじん”とは、スルメイカと人参を細切りにして、甘辛いタレに漬け込んだ漬物で、正月のおせちにも入れる郷土料理だと佳純さんから聞いたことがあった。
「ありがとう」
「仕事、頑張るんだよ。あなたは、何もできない、役立たずだけど、一つのことを根気よく出来るのが、あなたの良いところなんだから」
「お母さん・・・」
「それから、良い人をみつけたね。結婚、おめでとう」
佳純さんは、お母さんの布団に抱きつき、号泣した。
火葬場の煙突から煙が立ち上るのを眺めながら、佳純さんが話してくれた。
「お母さんは、いつも“いかにんじん”を欠かさないように作っていたそうなの」
「そうなのか?」
「お父さんが、そんなにいつも食べるわけではないのだから、作るのはたまにでいいじゃないかと言ったら、お母さんは、いつ佳純が帰ってくるかわからないからって言って、一生懸命作ってたらしい」
遠くを眺める佳純さんの目に、うっすらと涙がにじんでいるのが見えた。
母を見返すために 春風秋雄 @hk76617661
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