第5話
――
蘭丸は念じながら戦い、一人、また一人と敵を殺した。1時間もせずに蘭丸の白小袖は赤く染まり、槍は敵の血で滑った。アドレナリンの満ちた肉体も疲労を覚えた。
本堂や浴堂からは火が出て、空を赤く染めている。立ち上る炎と朝日で闇が薄くなると、逃げるのはますます難しく感じられた。
蘭丸が振り返ると、坊丸や信長の顔にも疲労が見えた。
外で戦っては少数の自分たちは不利。しかし、客殿もいつ延焼するかわからない。それでも蘭丸は決断した。
「中へ」
蘭丸は坊丸ばかりか信長にさえ命じて、一旦、客殿内に下がった。身体を休め、息も整えたかった。心のどこかで援軍が来ることを期待していた。
あちらこちらで上がった火の手のために、建物内に飛び込もうと考える敵は少ない。実際、その時は既に客殿にも延焼していた。
「息を整えたら飛び出し、一気に門まで走るぞ」
蘭丸は弟たちに向かって言った。
「であるか……」
信長が応じた時、背後のふすまが蹴破られ、一人の武将が姿を現した。
「我は
名乗った安田は、いきなり坊丸めがけて槍を突く。槍は、坊丸の右腹を貫き背中に抜けた。傷ついた肝臓は大量の血をふきだし、安田の顔を染めた。
「坊丸……」
「兄上!」
蘭丸の声は力丸の叫びに飲みこまれる。
坊丸の身体が泥人形のようにズルズルと崩れて床に横たわった。
「ひゃひゃひゃ、
勝利に酔った安田が全身に力をみなぎらせていた。
「次はどいつや」
そこではじめて彼は、目の前にいるのが信長だと気づいた。
「織田殿か?」
「いかにも」
信長の返答は落ち着いていて、怒りや恐怖の色がなかった。立ち姿もアヤメの花でも眺めているようで、とても敵に対峙する姿勢ではなかった。
一方、安田は、信長の放つ威圧感に緊張し、顔色を青くした。
「エイッ!」
安田が威圧を振り払うように槍を突いた。それに対し、信長は動かなかった。
ギーンとぶつかった金属同士が鳴り、火花が飛んだ。安田が繰り出した槍は、蘭丸の十文字槍と激突してあらぬ方に飛んでいた。
「兄の
叫ぶ力丸の槍を、安田はひょいとかわしたが、刹那、ドンと衝撃を受けて弾け飛んだ。無言の蘭丸の槍が腰骨を突いたのだ。
蘭丸は転んだ安田に向かって進む。
可愛い弟の仇だ。何度、槍を突き立てても怒りと恨みが治まることはないと思った。――人間五十年……夢幻の如く……一度生をうけ、滅せぬもののあるべきか――頭の中を信長の声が過る。
槍を右肩の上に振りかざし、穂先を安田の顔に向けた。
「助けてくれー!」
安田の絶叫を聞いた。
「命乞いだと?……ふざけるな!」
何と人間の勝手なことよ。……蘭丸の槍を握る手の力が抜けた。集中力も途切れた。
その時だ。どかどかと足音を鳴らして人が集まってくる気配がした。
「蘭丸、潮時じゃ。ワシは奥で旅に出る。お前は岐阜へ帰れ」
そう言うと、信長が隣の部屋に姿を消した。腹を切るというのだろう。蘭丸は察した。
「安田殿、いかがした?」「叫ばれたのは、お主か? 尋常ならぬ声であったが……」
仲間に声をかけられた安田が慌てていた。
「違う。お、織田だ、信長だ」
彼が、信長が隠れた襖を指さした。
「ここは通さぬ」
蘭丸は両手を広げて阻んだ。集中力が戻っていた。隣で、同じように力丸が槍を構えた。
「小僧、
鎧武者が三人、雑兵が六人……。その内の一人、安田は手負いで戦力外だ。
「我こそは森可成が遺児、
蘭丸は名乗りを上げると一気に武将一人と雑兵二人を突き殺した。力丸も雑兵一人をやった。
――攻めろ、攻めろ、攻めろ……、頭の中で信長が命じていた。
槍と槍、刀とがぶつかり合う音と建物が焼けて火が
「デイ!」
蘭丸が武将の太ももに槍を突き立てて動きを止め、その首に力丸の槍が届いた時だった。
――ズン――
その衝撃は一瞬だった。動けないと思っていた安田の槍が背中を突いていた。蘭丸の意識が飛び、身体がゴロンと床に転げた。
「兄上!」
力丸の声も蘭丸には届かない。その力丸に雑兵二人が左右から襲いかかった。
「無念……」
力丸も血まみれになり、人形のように床に崩れ落ちた。その上に、燃えた天井板がばらばらと落ちてくる。
「安田様、火の手が回っております。はよう、外に……」
雑兵が安田の肩を支えて外に出て行く。
……暑い。……蘭丸は灼熱地獄で信長に責め立てられているような感覚を覚えていた。そうして瞼を持ち上げて現実に戻った。世界が燃えている。熱気で視界はゆがみ力丸の姿は見えない。敵の姿もなかった。
「殿……」
呼んだところで返事はない。
当然だ。すでに腹を切っているだろう。逡巡するような殿ではない。
蘭丸は床をズルズルと這い、信長が隠れた隣の間に向かった。すでに襖は燃え落ちていて、行く手を
その部屋の中央に血だまりがあった。そこで信長が腹を切ったのだろう。その証拠に、血だまりは座っていた場所を取り巻くように輪を描いており、尻のあった場所は汚れていない。まるで金環日食のようだ。
不思議なことに、部屋のどこにも遺体が見えない。
「殿は転移されたのですなぁ。さすが、魔王でござる。この蘭丸も……」
何としても転移を、……蘭丸は念じた。欠けた太陽がほどなく元に戻る様子が脳裏に浮かんだ。嬉しかった。そうして笑いながら火の海にのまれた。
6月21日、当時の暦では天正10年6月2日早朝、本能寺は焼け落ちた。
明智光秀は信長の遺体を探させたが、いくら探しても骨のかけら一つ見つからなかった。
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