第Ⅱ章 源九郎義経と森蘭丸

第6話

 パチパチと火がぜる音がする。物の焼ける臭いが鼻をくすぐった。


 生きている。……蘭丸は目を開けた。


 瞳に映るのは本能寺の残り火ではなかった。小さな焚火たきびだ。炎ははかなく揺らめき、白い煙が青黒い空に向かってゆらゆらと上っていた。


 目が慣れると、焚火を囲んでいるのは自分だけでないと分かった。ひとりふたり、ざっと七人ほど、様々な武具で武装した男たちが火を囲んでいた。己の気配を消しているところをみると、誰も優れた戦士に違いなかった。


 自分は?……手元にあの十文字槍はなかった。あるのは反りのきつい日本刀。見たことのない得物だ。


(お前、誰だ?)


 頭の中で声がした。


(森成利)


(知らぬな)


 心の声は興味なさそうに応じた。


(人の名を聞いたからには、お主も名乗るのが筋だろう)


(勝手に入り込んで、勝手をぬかすな)


 入りこんだ?……意味が分からなかった。本能寺の炎を思い出す。そこで転移すべく念じたが……。


 視界の隅で大きな影が動いた。彼はまきを焚火に放り込んだ。パチパチと火の粉が上がり世界が明滅する。大きな影が光を浴びた。僧形の大男だ。


九郎くろう殿、どうかしたのか?」


「ああ、頭の中で声がするのだ」


 九郎と呼ばれた自分が答える。蘭丸は戸惑った。……どうやら肉体は、自分のものではないらしい。


「頭に虫でも湧いたか」


弁慶べんけい、冗談はよせ。虫なら人の言葉は使うまい」


「ほう、人の言葉を、なぁ」


 彼の声は大きく、焚火の周囲で息をひそめていた者たちが動き出す。


森何某もりなにがしと言ったが、弁慶、知っているか?」


「森……?」


 弁慶は首を傾げるとすぐに「知らんなぁ」と答えた。


 九郎、弁慶!……蘭丸には思い当たることがあった。


(もしや、あなた様は源九郎義経みなもとのくろうよしつね殿か?)


「む……」


「どうした?」


「頭の中の虫が、ワシの名を知っておった」


(武士ならば知っていて当然。されど、義経殿と弁慶は、亡くなったのではなかったか?)


「虫も武士ということか」


 弁慶がにやりと笑った。


「そのようだ。武士ならば知っていて当然、とぬかしている」


「面白い!」


 彼がまた笑った。


(ムッ……)笑われ、蘭丸は面白くない。


「面白いものか、迷惑だ」


 九郎がチェッと舌を鳴らした。


(ワシらは影武者を残して戦場を脱出したのだ。が、気づけばここに転移していた)


「なにを言う。この修羅道しゅらどうを生きるのに、もう一人の自分が頭にあるのは都合がいいぞ。九郎殿が眠る間、その森何某に見張りをさせればいい。ぐっすり眠れるというものだ」


(修羅道?……ここは現世ではないのか?)


 天道、人間道、修羅道、畜生道ちくしょうどう餓鬼道がきどう地獄道じごくどう、……仏教には、その行いによって次に転生する世界が決まるという輪廻思想があることくらい、蘭丸も知っていた。


(そうさ。ここは人間道で殺し過ぎた魂が落ちる修羅道よ。お前、何人殺した? 百か、二百か?)


(それほど多くは……)


 蘭丸がその手で奪った命は両手で足りるほどだ。しかし、織田軍として考えれば違う。僧侶や女子供も殺しているから、その罪は百を超えるのかもしれない。


「ふむ、……弁慶の言う通りだな」(小者だが、火の番ぐらいはできるだろう。ワシのしもべとして働け)


(私は織田信長様の家臣……)そこで話すのを止めた。平安時代末期の義経が、戦国時代の信長を知るはずがない。


(否、と言ったら?)


(ならば、ワシの頭から出て行け)


(出て行けるものなら、とっくに出て行くわい)


 ――ワハハ――


 九郎が笑った。


「何が可笑しい?」


 弁慶が顔をしかめた。


「弁慶を笑ったのではない。虫がなぁ。……僕として働けと言ったら、否、と言う」


一寸いっすんの虫にも五分ごぶの魂。九郎殿に住み着いたのだ。それなりの魂だろう。僕と言われて武士の誇りが傷つくのも無理はない。一つの身体を使うのだ。対等な関係しかあるまいなぁ」


「己の意志では出て行けないというのだから忌々いまいましい。……仕方がないか。それにしても身体を忘れて転移するとは、おっちょこちょいな奴だ」


 言われ放題だ。……蘭丸は面白くなかった。そんな中ふと気づいたのは、本能寺に遺体の無かった信長のことだ。


 殿は転移したのだ!……確信した。


「まあ、仲良くするのだな」


「修羅道で、仲が良いもあるまい」


「この弁慶、修羅道にあっても九郎殿の命は狙いませんぞ。まして九郎殿と同体の森何某、九郎殿にとって悪いことは致しますまい」


「弁慶には、いつまでもそうあって欲しいな」


(ここに織田信長という偉丈夫はおりませんか? 転移したはずなのです)


(お前の主人だという男か、知らんな。ひ弱な男なら生まれたその日に殺されているわい)


(ひ弱など、とんでもない。子供のころから野を駆け、川を泳ぎ、大人になっては近畿を平定したのです)


(ならば、戦ってみたいものだ)


 九郎が立ち上がる。弁慶と比べれば、はるかに華奢きゃしゃな体格だった。


「血が騒ぐぞ!」


「オウ!」「殿、夜襲ですな」


 焚火を囲むつわものの輪が縮む。九郎より大きな者ばかりだ。


「まずは腹ごしらえだ」


 弁慶が声をあげると、どこからともなく老人と老婆が現れて、焚火に鍋をかけて食事を作り出した。

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