第4話
6月の夜は短い。午前4時を前に空は白み、通りを歩く人影も区別できた。その頃にはすでに、
――ドンドンドン――
門をたたく音がして寺の小僧が走った。
「このように早く、どなたさまで?」
「明智光秀の家臣、
「織田の殿様は、まだお休みでございます」
寺の小僧でも信長は怖い。万が一、使者を通して機嫌を損ねては、何があるかわからない。
「戦の勝敗は一刻を争う。時をかけて何かがあれば、お主が責めを追うのか?」
戦を持ち出されると小僧には抵抗する理屈がなかった。
「取り次ぎます。しばしお待ちを……」
小僧が言いかけたところ、使いの男たちは無理やり押し入り、
「それ!」
秀満が声をあげると、
恐ろしさのあまりに小僧はその場で腰を抜かし、声もあげられなかった。
§
南門から本堂付近まで広がった騒ぎは、客殿まで届いた。
誰かが喧嘩でもしているのか?……表の騒がしさに蘭丸は目を覚まして身体を起こした。
「蘭丸……」
隣の部屋から信長の声がした。彼も異変に気が付いたのに違いない。
「様子を見てまいります」
蘭丸は真っ白な小袖一枚をはおり、静かに廊下に出て騒ぎのする方に向かった。
「兄者、あれを」
書院の外側にいた坊丸が指した先には、桔梗紋の旗指物が揺れている。
「明智殿が……」
明智光秀が間近にいることはわかったが、何のためにやって来たのか、
とはいえ、旗指物の周囲で小競り合いが起きているのは間違いなかった。刀の切り結ぶ音がする。……おそらく謀反なのだ。しかし、なぜ?
答えを得られないまま、蘭丸は坊丸を連れて信長の寝所に戻った。
信長は既に派手な単衣を身にまとっていて、「顔を洗う」と廊下に出た。
蘭丸は長押に掛けられた十文字槍を取った。多数の者と戦うことになるのなら、刀より槍の方が頼りになる。槍を小脇に挟み、主人の刀を手に取ると後を追った。
信長は便所にいた。出入口には目を怒らせた坊丸が控えている。もちろん、怒りの矛先は明智光秀。蘭丸は坊丸に主の刀を預けた。
便所の中から豪快な放尿の音がする。
騒ぎを前に、なんと豪胆な主よ。……頼もしさを覚えた。
「これは謀反か?……ならば、何者」
便所から出てきた信長が問う。
「明智殿でございます」
片膝着いて蘭丸が応えると、「是非に及ばず」と信長は言った。それが明智の気持ちを知っているという意味なのか、相手が明智では自分の運命は決まったということなのか、蘭丸には分からなかった。
信長は手水鉢から水をすくうと、ざぶざぶと豪快に顔を洗った。
蘭丸は懐から手ぬぐいを出して信長に差し出した。
「攻めろ、蘭丸」
信長の命令に「ハッ」と僅かばかり頭を下げって立ちあがる。
顔を洗った信長が、坊丸から刀を受け取った。
そこに信長の槍を持った力丸が駆けてくる。
「明智殿、謀反!」
力丸の声はひっくり返り、信長より高い声になっていた。
「分かっておる。落ち着け」
信長が呵呵と笑った。彼は己の運命より三兄弟の行く末を案じた。
「蘭丸、坊丸、力丸。血路を開け。そして岐阜まで駆けろ」
信長は全力を尽くして故郷に帰れと命じたのだが、三兄弟は信長の逃げ道を作れと解釈した。
「ハッ!」
三兄弟は、それまで菩薩のようだった美しい顔を鬼に変えた。
「東門に出る。坊丸、並んで道を拓け。力丸は殿の背後を守れ」
蘭丸は弟に命じると信長を囲んで移動し始めた。
本能寺は堀と塀に囲まれている。外から中に入り難いように、中から表に出るのも難しい。堀に飛び込んだら上がる時に討たれるだろう。逃げるには、門から出て橋を渡るしかなかった。
四人は客殿内を通り抜け、東の廊下に出た。そこにはすでに明智方の兵がいて、信長の僅かな護衛兵が渡り合っている。槍や刀の切り結ぶ音がそこあそこで鳴っていた。
鎧兜をまとっているのが明智方の武将たちで、平服でいるのが信長の護衛の者たちと、薄明りでも見分けはつけやすい。蘭丸と坊丸は、現れた明智方の雑兵を三人ばかり突き殺した。突かれた兵が叫び、血しぶきが吹くと注目を浴びる。
「そこに見えるは
一人の武将が
「寄るな、下郎」
蘭丸は負ける気がしなかった。その十文字槍は、集まる武将や雑兵と数号交えるだけで次々と突き殺した。彼の中ではいつも、「攻めろ、蘭丸」と信長の声が轟いていた。
しかし、殺せば殺すほど、敵の数は増える。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます