第2話

 敦盛を踊り終えた信長は、満足するでもなく喜ぶでもなく、もちろん哀しむ様子もなく灯篭の明かりにぼんやりと照らされた庭に目を向けた。


「月がございません。庭も寂しくござります」


 蘭丸が声をかけると、信長が少し甲高い声を発する。


「月など、こよみの役にしかたたぬ。……しかし、その暦がなければ百姓は困る」


 言いながら、上段に上がり胡坐あぐらをかいた。


「いかにも左様でございまする」


 蘭丸は信長の後に続き、膳を置いた。


「しかし、暦よりなくては困るものがある」


 信長が手にした盃に酒を注ぐ。


「太陽でございますか?」


 その日、日食があった。京都の空は曇っていて雨も降った。それで明瞭ではなかったが、確かに薄雲の向こう側の太陽は力を失っていて、地上が薄暗くなった。信長が信用している三嶋歴みしまれきという暦は日食を予測していたが、朝廷が使う宣明歴せんみょうれきは日食を予測していなかった。かねてより信長は、朝廷に対して三嶋歴の採用を要望していたのだが、どうにも朝廷は動こうとしない。


「うむ」


 信長はさかずきを空けた。


「もはや朝廷よりも、殿の判断のほうが天地神明の理にかなっております」


「日本には蒙昧もうまいな者が多い」


「殿はそういった輩を導く太陽になられました」


 世辞ではない。蘭丸にとって、信長こそが太陽だった。日照りになれば恐ろしいが、欠ければ悲しく辛いだろう。


「まだだ。日の下の国は、まだ信長の下に半分程しかない。今のままでは朝廷も動かぬ」


「間もなく、地方の武将たちも太陽の存在に気づきましょう。さすれば、朝廷も殿の正しさに眼を見開く。間もなくでございます」


 信長が空けた盃に酒を注ぐ。


「それにしましても、何故、日食などというものが起こるのでございますか?」


 蘭丸が訊くと、信長がギロリとにらんだ。


「月が満ち欠けするように、太陽にも都合がある。人間は事実を受け入れるのみ。その理を知りたければ、武士を辞めて学者になるしかあるまい」


「学者ですか?……てっきり、神官が神の言を聞いて暦を作っているのだと思いました」


「蘭丸……」


 信長が目を細めた。


「ハッ」


「お前は阿呆あほうよのう」


「し、しかし。あのようにお天道様が暗く陰るのです。神仏の大きな力が働いているのではありませんか?」


 信長が、蘭丸の言葉を笑った。それで満足したわけでもなさそうだが、それからは静かに酒を飲んだ。


「女に踊りなどさせましょうか?」


 あまりにも沈黙が長いので、蘭丸は訊いてみた。信長が茶道具や鷹、真っすぐなおとこといった虚飾のないものを好んでいるのは知っている。女性を、子供を産む道具としか見ないのも、そうしたところに理由があるのに違いないとも。答えは〝否〟だとわかっていながら、訊かずにいられなかった。


 信長の目線が蘭丸を射た。


「ワシが女を側に置かない理由は知っておろう」


「はい。女は嫉妬深く、口も軽い。それに……」


「欲が深い」


「はい……」


「子を産んだら尚のこと。己の子に全ての愛情を注ぎ、地位と名誉、財宝を求める。子のためなら、夫を裏切り、家をつぶすこともいとわぬ。男は家のため、国のためと戦に挑むが、実は、そうさせるのは女よ」


「それもまた母親ならではの、子にむける想いゆえかと……」


 言ってしまってから、母親の愛情を口にしたのは失敗だと気づいた。信長は母親にうとまれて育ったのを知っていたではないか、と自分を叱る。さて、どうしたものか……。蘭丸は思案した。


「蘭丸は父の愛は知らぬが、母の愛は知っておるのだな。ワシは違う」


「それゆえ蘭丸は、信長様を父親と思い、お慕い申し上げております」


「であるか……。参れ」


 信長が立ち上がった。


 助かった。……ホッと胸をなでおろし、後に続いた。おそらく、いつもよりひどくもてあそばれるだろうと案じたが、それでも遠ざけられたり、首をねられたりするよりはましだと思う。


 寝所は上段の間の北側にあって、一組の絹の寝具が延べられていた。


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