六道、英雄転移伝 ――修羅と餓鬼と……――

明日乃たまご

第Ⅰ章 織田信長と森蘭丸

第1話

 ――1582年6月20日、夕刻――


 森蘭丸もりらんまる坊丸ぼうまる力丸りきまるの3兄弟は、本能寺の浴堂よくどう織田信長おだのぶながの引き締まった身体を洗った。ちなみにこの時、蘭丸18歳、坊丸17歳、力丸16歳で、三人が三人とも、鼻筋の通った細面の美しい顔をしていた。髪は信長を真似て茶筅髷ちゃせんまげを結っている。


 信長が正面にいた力丸の股間をふんどしの上からムンズと握った。


「どうだ、力丸。綿の褌は気持ちがいいだろう」


 当時の庶民は褌をしていなかったが、武士階級は麻布の褌を締めていた。しかし、麻はごわごわしていて着け心地がよくない。綿は東海、関西地方で栽培が普及しだしたばかりで高級品だった。織田軍の武将たちが綿の褌を締められたのは、信長が楽市楽座を推し進め、産業の育成に努めたからかもしれない。


「はい。股ずれがなくなりました」


 力丸が恥ずかしそうに頬を染めた。


「であるか。だが、居心地の良さに甘えてのように柔らかくてはならんぞ」


 信長が握ったモノをそう表現した。


「殿に握られては恐れ多く、さお陰茎ふぐり陰嚢の中に隠れまする」


 蘭丸は助け舟のつもりで言った。


「そのようなことはあるまい。蘭丸、前に……」


 蘭丸が信長の正面に立つと、ふぐりを握られ優しく揉まれた。


 蘭丸は頬を染めることも、いきなりさおを立てることもなく、涼やかな目で信長がすることを受け入れた。


「蘭丸、さおを立てろ」


「はい」


 蘭丸は弟たちの視線も乱世のことも忘れて一心に信長の夜の営みを思い描く。すると、蘭丸のものが雄々しく天を突いた。


「坊丸、力丸。……兄の気力を見たか。武士たるもの、こうでなければのう。色欲に狂って眼の色を変えても困るが、臆病に負けて怒張できないようでもいかん。敵は勿論、たとえあるじや神仏の前であってもひるんではならんぞ。男らしく、雄々しく立てるのだ」


 信長は呵呵かかと笑い、「蘭丸、今宵は付き合え」と命じた。


「ありがとうございまする」


 信長に握られていて下半身を動かせない。首から上をぺこりと傾けた。


 兄弟の父親である森可成もりよしなり浅井朝倉あざいあさくらの連合軍三万が信長の背後を突くことを阻止するために一千人の少数で立ち向かい、宇佐山城の戦いで戦死している。その時、3男の蘭丸は5歳、5男の力丸に至っては3歳。そうした経緯もあり、信長の森兄弟に対する愛は深かく、信頼は厚かった。


 蘭丸は1577年、12歳で信長に使えた。役割は小姓といって、主人の身の回りの世話をすれば、伝令などの秘書のような仕事もする。主人の精の処理を行うことも珍しくはない。


 風呂を出た蘭丸が酒とさかなを乗せた膳を運んで客殿の奥、上段の間に向かうと信長が“敦盛あつもり”を謡う声がした。


「……思へばこの世は常の住み家にあらず。草葉に置く白露はくろ、水に宿る月よりなほあやし……。金谷きんこくに花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼なんろうの月をもてあそやからも月に先立つて有為ういの雲にかくれりぃ……」


 平家の敦盛あつもりが落ち延びる場面を詠った能の一節だ。


 殿は、またも敦盛か。……蘭丸は音を立てないように隣の間に入って上段の間を覗いた。そこには派手な一重ひとえ姿で扇子片手に敦盛を舞う信長の姿があった。


「……人間五十年、化天けてんのうちを比ぶれば、夢幻の如くなり……一度生をうけ、滅せぬもののあるべきかぁ……」


 蘭丸は信長の心境を想像する。天上界の神仙に比べれば、人間の人生などはかないものだ。ゆえに、己の生に執着せず、成すべきことを成そう、と決意を謡っているのだろう。いや、むしろ決意そのものも捨て去り、無になろうとしているのかもしれない。そうしなければ、殿のように古くから綿々と続いた世の中の風習をぶち壊し、新しい世界を作ることなど出来ないに違いない。


 蘭丸は無心に踊る信長の凛とした姿に見とれた。その姿は庭の灯篭とうろうの明かりに照らされた松木しょうぼくの影のように、世界に溶け込んで見えた。


 信長の足がドンドンと床を突き、右手の扇子が蘭丸に向くと天下布武てんかふぶの文字が光った。

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