第16話 一角氷馬

 それは、『属性遊地ぞくせいゆうち』の広々とした氷の草原に生息する魔物だった。


 白く美しい毛並みを持つ、体調は3mはあろうかという馬に似た生物だ。ある一点を覗けば、人の領域に生息する白馬と違いはほとんどない。


 しかし、その一点が白馬を魔物たらしめる象徴となっている。


 それは、額から伸びる一本の角。

 長さは約30cmにも及ぶ氷でできた角が白馬をより幻想的な生物であることを際立たせている。


 だからこそ、その魔物の名は一角氷馬となった。


 白い毛にしもを降ろし、あごの付近には髭のように氷柱が下がる。

 そんな美しさすら覚える馬に似た生物。


 だけど、どれだけ美しかろうと、一角氷馬いっかくひょうまは魔物だ。

 『未踏領域みとうりょういき』にとって異物である俺たち踏破者ウォーカーには容赦なく襲いかかる危険な存在。


 俺は、水泡樹すいほうじゅの森から姿を現した氷の白馬を認めたと同時に、後ろを振り返り全力で走り出した。もうなりふりなど構っていられない。すでにこちらは一角氷馬いっかくひょうまからの攻撃を受けているのだから。突如として発生した氷の柱がその証拠だ。奴の目にはこちらのことが仕留めるべき獲物としか映っていないのだ。


『────』


 白馬の魔物が短く息を吐く。すると俺の周りに冷たい空気が迸る。

 冷気を感じ取り、俺は咄嗟に速度を上げて纏わりつく空気を振り払えば、俺の後方に巨大な氷柱が立つ。続けて連続で。


 逃げる俺に対し、追い縋るように次々と立つ氷の柱を、速度の緩急と蛇行の軌道で何とか躱していく。そしてそのまま、俺は師匠とルアさんがいる場所まで駆けていった。


「ごめんなさい!」


「わ──」「きゃ⁉︎」


 俺は走る勢いそのままに、師匠を右手で脇に抱え、左手でルアさんの片腕を引いた。


 後方を見れば、乱立する氷の柱と、その隙間をうように走り出した氷の白馬の姿を確認できた。


「……なるほど、一角氷馬いっかくひょうまか」


 師匠はチラリと後ろを振り返っただけで、魔物の正体を看破する。


「ええ、そうです! 『属性遊地ぞくせいゆうち』で出会う魔物の中でも最悪に近い部類です!」


「だね」


「フレアイービルたちはあの白馬に追われていたんだ! だから水泡樹すいほうじゅの森から現れた!でもわかりません、本来ならフレアイービルたちの縄張りに近づかないはずですよね!」


「ああ、通常ならね。でも、今は違う」


「違う?」


 俺の疑問に対し、師匠は何も答えず、ただ人差し指を空へと向ける。それを見た俺は、師匠が言いたいことを悟ることができた。今、『属性遊地ぞくせいゆうち』の青い空には、明らかに普段とは違う、異質なものが存在していた。それは。


「『地平を喰らう者オリゾン・イーター』か……!」


「うん、その通り。この異常だらけの『未踏領域みとうりょういき』の中でも特大のイレギュラー。それがヤツだ。【支配者ドミネーター】と呼ばれる強大な存在が突然『属性遊地ぞくせいゆうち』の空に現れたんだ。そこに元々生息していた魔物なんてパニックに陥るだろうさ」


 言われてみればその通りだ。つまりフレアイービルや一角氷馬いっかくひょうまたちは、突然現れた【支配者ドミネーター】という上位の存在に驚き、パニックに陥っていたのだ。そのせいで、普段行かないような縄張りに侵入してしまい、フレアイービルたちの逃走劇が始まってしまったようだ。


「覚えておくといい、ナユタ。『未踏領域みとうりょういき』の──特に『属性遊地ぞくせいゆうち』は案外奇跡的なバランスで成り立っていることが多い。だから、そのバランスを崩そうと思えば、意外とすんなり崩れるよ」


「そうです──ねっ⁉︎」


 と、師の教えを受けた俺の語尾が跳ねたのは、力が入ったせいだ。後方から迫る氷馬からの攻撃。ヤツが発生させる氷の柱を回避する際に全身に力を込め、速度を強めるために。

 

 先ほどの師匠とのやりとりの間でも、絶えず氷柱による攻撃は続いている。そして最悪なことに、俺たちと白馬の距離が徐々に縮まってきている。


「このままだと本当にまずい……。追いつかれます!」


「だね。状況は最悪と言っていい」


「っていうか師匠はよくそんな冷静でいられますね⁉︎」


「それは君が焦っているからだよ」


「え?」


「役割分担をしているだけさ。君が体力を使って逃げてくれるのなら、私は冷静に頭を使って逃げ切れる策を導き出す」


 師匠は、俺に抱えられたままという非常にシュールな格好をしているが、俺を見る目は自信に満ちていた。


「だから存分に焦って逃げるといい、ナユタ。その必死に逃げた時間の中で必ず私が逃げ切る道を探し出すから」


 やだ……、師匠かっこいい……! さすが『回る天穿樹てんせんじゅの大地』を解明した偉大なる踏破者グランド・ウォーカー。今まで抱えていた焦燥感が吹っ飛んで、期待と安心感が芽生え始める。


「カッコ良すぎます師匠。この異変が解決したら、師匠が書いた本の感想を50枚に纏めて提出しますね!」


「気色の悪い褒め方で私の心を乱すんじゃないよ! 作戦を考えるって言ったばっかりだろうがっ‼︎」


 何はともあれ、これで希望は見えた。あとは師匠のことを信じて、俺は全力で逃げに徹するだけだ。


 ──と、思って更に加速しようとした時だった。


 不意に、左手で引き連れていたルアさんの重みが消えた。


「なっ──⁉︎」


 驚きのあまり、目を見開いて後ろを見てみれば、俺の手を振り解き、俺たちとは逆方向に走り出すルアさんの姿があった。


「私が」


 ルアさんが叫ぶ。


「私が一角氷馬いっかくひょうまの気を引きます! だから、その間に逃げてください!」


 ルアさんの言葉は確かに俺の耳に届いたが、その意味を理解するのに、俺は数秒の時間を要してしまった。


 彼女は今、俺たちとは逆方向に走っている。それはつまり俺たちを追う一角氷馬いっかくひょうまと向かい合って距離を縮めることになる。それがどういうことなのかわからないほど俺は馬鹿じゃない。


 彼女は、俺たち二人を逃そうとしているのだ。死がともなう危険をかえりみず、自らが囮になることによって。


「待っ──」


 そんなこと許せるはずもない。だが、彼女の足取りには微塵みじん躊躇ちゅうちょを感じなかった。


 俺の制止の声を振り切って、ルアさんは一角氷馬いっかくひょうまに向かって走っていく。伸ばした手は、彼女にかすりもせず、虚しく空を切るだけだった。

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