第2話 死にかけています

 少しでも音を立てたら、死ぬ。

 それが俺、ナユタ・フォッグフォルテが、今抱く切実な想いだった。


 『巨神の庭ギガント・ガーデン』の木々はとてつもない高さと幅がある。根元を走って一周するのだって20秒以上かかるほどだ。そんな大木に背中をピッタリとくっつけ、隠れていても、安心感は微塵みじんも感じられない。


 理由は明確。俺が『ヤツ』に獲物として命を狙われているからだ。


 騒ぐ心を治めるために、深呼吸をしようと、息を静かに大きく吐き出そうとして。

 ──バキリッ。と右斜め後方から響いた音に、俺は思わず呼吸を止めた。


 まるで薄氷を砕いたかのような音だが、違う。あれは、今俺が背にしている大木『ギガウッド』から落ちた枯葉が、『ヤツ』の足によって踏み砕かれた音だ。

 人から考えれば規格外の大木であるギガウッドは、その枝につける葉ですら馬鹿でかい。

 成人男性の上半身をすっぽりと覆い隠せるほどの、青々とした葉が枯れて落ち葉となっている。


(くそっ、くそぉっ! 10日間まで、あとたった10分なんだぞ⁉︎)


 心の中で思いっきり悪態あくたいをつきながら、ゆっくりと、ゆっくりと、首だけを右に動かして、音がした方向を見る。


 ────いた。

 『ヤツ』だ。


(最後の最後に、『ニーデルテール』に目をつけられるなんて……!)


 ヤツの名はニーデルテール。見た目は、白い毛並みの巨大な猿に見えるが、最大の特徴はその尻尾にある。──長い。とにかく長い。3mはある自らの体の、2倍は確実にあるだろうその尾っぽは、先端に発達した鱗があり、まるで棘のように周りを覆っている。

 師匠の本によれば、ニーデルテールは普段はその尻尾はマフラーのように、器用に首へと巻き付けているらしいが、今は地面に垂れ下げており、先端部分だけを天へと突き上げ小さく円を描くように振り回している。

 あの状態の時も、師匠の本に書いてあった。あれは。


(……完全に獲物を探しているときの、尻尾の動きだ……)


 身につけた知識が、俺にさらなる絶望感を与えてくれる。事前に頭の中に入れておいた、10日間の間に絶対に出会いたくない『魔物』のトップ5に、ヤツは入っていた。


(頼むっ! このまま気づかないでくれ……!)


 全身から噴き出る汗を自覚しながら必死に祈る。

 果たして、その願いは通じたのか。

 巨躯の白猿は俺に気づくことなく、こちらとは反対方向へと歩き出していった。


「────……は、ぁっ……」


 その姿を確認してようやく、小さくではあるものの、まとまった息が吐き出せた。

 だが、その時だった。

 突然、俺の視界が、青々とした緑一色に染まった。


「うわあっ⁉︎」


 と同時に感じる、何か布のようなものに包まれる感覚。俺は慌てて手をバタバタと振り回し、その布のようなものを掴み上げた。いきなり上から俺に覆い被さってきたものの正体。それはギガウッドの巨大な葉だった。


 先ほども説明した通り、ギガウッドに実る枝葉は、成人男性の上半身を隠せるくらいには大きい。つまり、まだまだ成長途中の、14歳になる俺の視界など、たった一枚で遮ることが可能だ。


 そう、たった1枚。偶然俺の上に落ちてきた、たった1枚の木の葉に、俺は驚いて声をあげてしまったのだ。


 あれだけ押し殺してきた、大声を。


「────⁉︎」


 ──ビュンッ、と空を切り裂く鋭い音を察知できたのが、不幸中の幸いだった。

 もはや回避とは名ばかりの、ほとんどその場に倒れ込むような不恰好な体の沈み込みだった。直後、さっきまで張り付いていた大樹の幹に突き刺さる、刺々しい巨大な尾。


 間違いなく、ニーデルテールの白い尾だ。倒れ込みながら、白い尾が伸びてきた方を見る。するとこちらのことをバッチリと視界に収めている猿の顔と目が合った。


「は、……はは」


 知らずの内に、笑いが込み上げてきた。全く笑えない状況のはずなのに、口が引き攣って自然に声が漏れてしまった。

 だが、ニーデルテールは、俺が漏らした笑い声を良しとはしてくれなかった。深い皺が刻み込まれた顔を盛大に顰め、鋭く俺を睨みつける。そして。


『ガアアアア──!』


 と口の端からよだれを撒き散らしながら、叫んだ。それが合図だった。


「うわあああああああああああっ⁉︎」


 こちらも負けじと声を張り上げながら、必死に立ち上がり、白猿に背を向け全速力で駆ける。


 ──命がけの鬼ごっこが、幕を上げた



 ◆



 駆ける。


 空を裂くつもりで腕を振り、大地を砕くつもりで地を踏みつける。


(まずい──)


 地に足が着くたびに、大きな落ち葉が擦れる音と砕ける音が辺りに響いていく。


(まずい、まずい、まずい‼︎)


 全速力で一直線に駆け抜けたいが、それを阻むように大木であるギガウッドが聳え立っている。わずらわしさを覚えながら、俺は大木のみきに沿って迂回しながら進んでいく。

 しかし、ただでさえ高く弱々しく届く木漏れ日を遮って、俺の頭上に影を落とす存在がいた。


『ギシャアーーッ!』


 白い体毛に覆われた巨躯きょくの猿、ニーデルテールだ。

 奴は、宙を飛び回っていた。


 その大蛇の様に長く太い尻尾を進行方向の大木の幹に巻きつけることで、空中での移動を可能にしているのだ。白猿の空中軌道は無情なほど素早い。

 必死に地面を駆ける俺なんか、嘲笑あざわらうかのように飛び越えて、俺の前方に佇むギガウッドに飛び移る。白い尾を幹に巻き付け、尾の先端にある棘と四肢の爪で大木へ張り付く。


 そして、遥か下方にいる俺のことを睨みつける。ニーデールテールは、いつでも俺に襲い掛かれる状態だ。それでも俺に飛びかかってこないのは。


(俺が疲れるのを、ずっと待ってるんだ……!)


 奴の判断は冷静で、あまりにも冷酷だ。獲物を見定める奴の目に睨まれ、ゾクリとした悪寒が背筋から駆け巡るのを感じる。しかし、ここで足を止めてしまっては本末転倒だ。緩みそうになる足になんとか踏ん張りを効かせ、俺は走っている勢いを殺さず進路を左へ。


「──⁉︎」


 その時、切り替わった視界の先で、俺は『ある場所』が目についた。


「あそこなら……!」


 思わず口から言葉が漏れてしまうほどの高揚感こうようかんを自覚しながら、俺はその場所へ向け速度を上げた。後ろの木々を点々と飛び移る確かな圧を感じても、その速度を緩めない。


 そして、アーチを作るギガウッドの根をくぐり抜けた先で俺の視界に映り込んできたものがあった。──木漏れ日よりも強い日の光と、高く青く澄んだ空だ。


 俺が目指したとある場所。それは、天然の森の広場だ。


 かなり広大な広場で、その地面には草が一切生えていない。

 ニーデルテールが行う空中軌道、その足場となる木々がない広場へ俺は駆け込んだのだ。


(ここだ……!)


 腰に携えた鞘から、刃渡り50cmの剣を引き抜く。


(ここでニーデルテールを迎え撃つ!)


 分が相当に悪い賭けだ。だけど、俺にはもうそれしか残されていなかった。

 決意とともに足を止め、俺は勢いよく振り返る。

 俺のすぐ後方にいるであろう白猿を迎え撃つために。


 ────だが、振り返った先の景色に、ニーデルテールはいなかった。


「なっ──⁉︎」


 地上にも、辺りに見えるギガウッドの幹にも奴の姿はない。


(……諦めたのか?)


 と緊張の糸が一瞬だけ緩んだ、その時だった。


「──っ⁉︎」


 正面の木々の間から、猛スピードでこちらに突っ込んでくる『何か』があった。

 俺は咄嗟に右へと大きく跳躍することで、迫り来る何かを回避することに成功する。


(一体、何が⁉︎)


 回避の最中、俺は反射的に体の横を通り過ぎてゆくものを目で追った。

 凄まじい速度で俺に迫ってきたものの正体、それは。


(折れたギガウッドの枝⁉︎)


 枝といっても、ギガウッドという大木の枝だ。そのサイズは俺の全身を覆い隠せるほどもある。


 なぜ、こんなものが?


 ニーデルテールの襲撃以外考えていなかった俺の頭は驚きに満ちていた。

 ──そう、驚いて、俺はなりふり構わず大跳躍をしてしまったのだ。

 まだ白猿という脅威は消えていないのに。


『ガアアアーーッ‼︎』

 

「⁉︎」


 その叫声きょうせいを聞いて、ようやく俺は気がついた。

 奴は、初めからこれを狙っていたのだ。


 広場に逃げた俺に対し、発達した尻尾を利用して遠方から大木の枝を投げつける。

 投げつけた木の枝の影に隠れ走り出し、俺との距離を詰め、避けたところを仕留める。


 だから、俺の目の前には今、既に右腕を体の後ろに振りかぶっているニーデルテールがいる。大袈裟に枝を避けてしまった俺に、次なる回避手段は残されていない。


 驚きを通り越して、美しさすら感じる獲物の追い詰め方だった。


 『──未踏領域に生息する魔物は、時に人すら凌駕する賢さを持つ──』


 何百、何千と目を通した師匠の本の中にある一文を、俺は今まさに、体験している。


 ────ああ、終わる。


 俺はここで命を落とす。確かな実感とともに、振り下ろされる白猿の右腕を見ていた。

 不思議なほどゆっくりと時が進む中、鋭利な爪を立てた奴の右腕が俺の胸を貫こうとした、その瞬間──。

 

 ────閃光がほとばしった。

 

 視界の左端。広場を囲む木々の方から圧倒的な速度を以って。

 虹色の煌めきを持つその閃光は、俺の鼻先を掠るか掠らないかの絶妙な距離で、左から右へと炸裂した。

 幸いなことに俺は巻き込まれずに済んだ。

 だが、目の前で、俺のことを仕留めんと前のめりになっていたニーデルテールはほとばしる閃光に飲み込まれてしまった。


 結果、どうなったか。──白猿の上半身が丸々消滅したのだ。


「────」


 あまりの出来事に、俺は言葉を失ってしまった。

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