食葬
@azumamisao
しぐれ煮
妻が死んだ。死んでしぐれ煮になった。
「・・・・・・これが、妻、ですか?」
木目調の長机の中央には小鉢が鎮座している。精進落としで利用される部屋を使っているため、明らかに広すぎる部屋の中央に置かれたもので、その他は喪服の男が二人、私と葬儀スタッフだけがここに存在する。
小鉢に向かい合うように座っていた私は、横に控えているスタッフに尋ねた。壮年の男性スタッフはこの手の質問に慣れているのか、なんでもないかのような顔で返事をする。
「姿かたちは生前とは大きく変わってしまいますが、故・土井充希様の御身体からいただき、調理させていただきました。」
ただの肉料理にしか見えないのだが。そう返そうとしたのを喉元で留め、会釈をする。
食葬なんてやめた方が良かっただろうか。
現代日本が抱える墓問題は年々大きくなっている。宗教価値観やライフスタイルが変化したことで、墓の継承者がいない、墓を建てる場所がない等。また、引き取り手のいない遺骨や納骨堂の閉鎖、火葬場の混雑により、人は死後も居場所を探す必要に迫られた。そこで国はSDGsという大義名分を用いて、遺骨を砕いて畑の肥料として土地に還す自然葬を許可した。今までの自然葬は墓地としてしか機能していなかったが、散骨された土地に野菜や果樹を植え、宗教団体の食事に利用したり、精進料理として調理されている。生理的嫌悪を抱く層は一定数いたものの、土地や資源を圧迫し続ける墓問題の解決となり、無縁遺骨や墓じまい後の遺骨の都合のいい処分先となった。また、本来の生き物らしく死んで土に還るという思想が気に入った人々からも支持され、今やポピュラーな埋葬方法である。
そして新しい自然葬に付いて回る、故人が形として自分たちの手元に存在しないという問題を解決する方法が食葬だった。食葬は文字通り、故人の身体を食べて弔う葬式だ。遺灰で育った植物を食べるのとは違い、直接死体を加工して肉を食べる。当然だがこちらは支持を全く受けていない弔い方だ。環境問題に世界から大幅に遅れて着手した日本は何をとち狂ったのか、過激な環境・宗教団体の指導者に舵取り役を任せた。これによって食葬は生まれてしまい、「大切な故人が貴方の中で生き続ける」という謎のキャッチコピーが書かれた広告が地方のバスに掲載されていたりする。
そして私はそんな怪しいものに契約してしまい、妻だった物を食べようとしている。
何をしようとしているのだろうか、私は。最初は海への散骨素敵だなんて言ったくせに、海以外に行けないのは不便だからあなたの中に入って旅行するのが丁度良さそう、だなんて言うから。
私は一人で旅行なんて行かないと知っているくせに。
三十六年前、彼女に出会った。
私は何も持たない、自我がまるでない人間だった。幼少期よりその場限りの人間関係だけしか持たず、クラス替えのたびに新しい友人ができては過去となった知人とは自身からは決して連絡を取らず、交換性の友人付き合いを行っていた。大学では親元を離れ一人暮らとなった。サークル活動を行わず選択授業のために一人で過ごし、いつしか誰とも会話をせずに家と大学を往復する日の方が多くなる。しかし、それを孤独だと感じることはなかった。
三年生になって皆と同じような時期に就職活動を始める。コミュニケーション能力が低いにもかかわらず、出身大学と成績表、就職活動のためだけに用意した嘘ではないが過剰表現でしかない質疑対応を武器に、世間からも評判が高い企業に内定を貰った。親とゼミの先生、社交辞令としてゼミの同期が称賛したが何も響かない。ビデオのように人生を早送りさせてさっさと終わらせたい、それだけしか思わなかった。
社会人になっても大学時代とさして変わらない生活を送った。時間通りに起床、スーツを着て出勤。時折残業して退勤、自宅で家事を済ませれば後は眠りにつくまで暇を潰す。本を読む、酒を舐める、運動不足解消に散歩をする。どれもなんとなく行っていて、胸を張って言える趣味など一つもなかった。数年間もそれをルーティンとしている内に、正月に年賀状を送ってくれていた友人からもついには連絡が途絶えた。学生時代は形だけとはいえ会話を交わそうと努力していたが、その気力も失せた今、面白い事も言えない私に労力を割くのをやめたのだろう。私から話せる話題など一つもないのだ、見切りをつけるなら早い方がいい。
主任となり、グループリーダーとして仕事も増えた。部下も付き、益々己の人生が如何に無感動か思い知った。若い者は気力が漲り、年を重ねたものは独自の哲学を持つ。私は? 惨めな気分にはならない。しかし、よくできたロボットとして日々を過ごしているだけにしか思えず、この社会に居心地の悪さを感じた。それならさっさと生活費を貯めて隠居し、死ぬまでの日々を待とう。バブル経済真っ只中を送る二十代後半にしては後ろ向きな目標を持って、仕事を続けた。周囲の人間の様に好きなものに金を使うことはなかったため、早期退職も現実的に思えた。
そして、充希と出会った日。三十代も間近に差し掛かり、社内のお節介な上司たちにお見合いや縁談を持ち掛けられ辟易していた頃だ。入社一年の間は愛想笑い程度は繕っていたが、今は能面のように表情筋を動かさずに会話をしているせいで、当時の部下が「土井さんって俺のミスを怒っているんでしょうか。」と自分のいない場所で部署の同期に相談をしているのは知っていた。成人した男性社員が不安になるほどの面様だというのに、人生を共に歩むだろう伴侶に己を選びたいなど誰が思うだろうか。
縁談を全て丁重に断った帰り道。定時後に食事に無理やり連れ出され、話を持ち掛けられた。これでは家に着くころには就寝時間を過ぎてしまう。
駅のホームで電車を待つ。駅メロが流れ、乗車したい電車がもうすぐ来ると教えてくれる。椅子から腰を上げ、白線の縁ギリギリに立つ。上司に連れられた店は通勤に使用している駅から遠いため、普段とは違う駅を利用して帰る。初めて使う駅だ。ここは点字ブロックじゃないのか、としげしげと足元を眺めていれば、左手首に衝撃を受けた。
「自殺はよくないです!」
振り向けば女性が私の左腕を掴んでいた。女性は登山にでも行っていたのかと思うほど膨れたリュックを背負っている。年は私と変わらない程度か。
周囲の乗客も遠目からこちらを窺っている。私は別に自殺など考えていなかったが、俯いたスーツの男が線路に飛び込める位置にいたのは確かに紛らわしかったかもしれない。
「えぇっと、ただ、この駅は点字ブロックじゃないのかと見ていただけでして・・・・・・」
急な事態に動揺しつつも誤解を解くべく伝えれば、みるみると女性の顔が真っ赤になっていった。掴んでいた手をバッと離し、呻きながら視線を彷徨わせたと思えば、貧血にならないか心配になる速度で頭を下げられる。
「本当にごめんなさい! 失礼なことを言ってしまって・・・・・・」
「いえ、こちらも誤解させるような動きをしていましたから。だからどうかお顔を上げてください。」
女性の後頭部に語りかければ、丁度ホームに電車が滑り込んできた。ゆっくり止まる電車の窓の向こうでは好奇心を隠さないグループ客がこちらを指さして話している。恐らくは男女の告白現場、それも男が振られている状況にでも見えたのだろう。
注目を浴びてしまっている中でこの車両に乗るのは非常に居心地が悪い。女性に声をかける。
「貴女もこの電車に乗るんですよね? 目立ってしまっているので、一個隣の車両に乗りましょう。」
「あ・・・・・・すいません。乗ります。」
勘違いをした上、またしても視線を集めてしまったことに気付いた女性がか細い声で返事をする。
少しの距離を歩き、三つ隣のドアから乗り込んだ。
流れで仕方ないとはいえ、女性と一緒に電車に揺られる事となってしまった。無言でいるべきか何か話しかけた方がいいか。雑談、それも初対面の人となど得意ではないが、何も気にせずにいられるほど神経が図太い訳では無い。話題をどうにか捻り出そうと、普段使用しない頭の部分を働かせる。知らない相手でもそこそこ話せるような話題はないかと女性を観察すれば、大きいリュックサックと物が限界まで入ったトートバッグを担いでいた。女性が持つには重いだろう大荷物を持つべきか否か悩んでいれば、じろじろ見ていたのに気付いた女性がトートバッグを漁り、箱を私の目の前に差し出した。
「こちら、よかったらお詫びとしてどうぞ。」
物欲しげに見られてしまったのだろうか。箱には栗よせ、それと飛騨高山の文字が書かれている。どうやら女性は旅行帰りのようだ。
「いや、そこまでしていただなくても。それに、誰かに渡すお土産だったのでは?」
「いえ! 自分用に色々買ってきた中のひとつなので。むしろ買いすぎちゃったくらいだから、食べてもらえると助かります。」
そこまで言われてしまったら断るのも気が引ける。ありがたく頂戴し、最適そうな話題を振った。
「飛騨に旅行に行かれてたんですね。いかがでしたか?」
「すごく良かったです。八幡祭目当てに一人で行ったんですけど、屋台を直ぐ側で見られましたし、ご飯も何食べても美味しくて。」
「一人旅ですか?」
思わず一人で、という部分に突っ込んでしまった。一人旅、それも女性となれば大丈夫なのか、と下世話ながらも心配する気持ちが先行してしまう。
「最近流行ってますからね。といっても、初めての一人旅なので観光地で面白い事があっても、その場で気持ちが共有できないのは寂しかったです。」
「へぇ。」
私は今まで旅行に言った経験は大人数の卒業旅行と社内旅行の二回だけしかないし、その思い出を共有したいとも思わなかった。全く同意できなかったので、適当な相槌を打っておく。
その後も女性の旅行話を聞き、コロコロ変わる表情を眺めていれば、降りる予定の駅名がアナウンスされた。そろそろ降りなければ。しかし、話のキリが非常に悪い。彼女は朝市の話を終え、クマ牧場に話題を移したところだった。正直クマなど大して興味ないが、楽しそうな女性の話の腰を折るのはどうにも憚られた。
家に帰ったところでどうせやることなど何もない。会話が終わった頃合いにでも降車すればいい、と割り切った。
電車が発車した。
彼女は三つ先の駅で降りた。
話したいことを全て話し切った女性は、「すいません長々と話してしまって。」と謝った。相槌しかまともに返せなかったにも関わらず、もしかして私は聞き上手なのかと錯覚させるほどにいい話しっぷりだった。
ブレーキがゆっくりかかっていく車内で、もうすぐいなくなる女性を見る。今日初めて出会い、数十分も経っていない関係性だというのに、目の前の女性を好ましいと感じた。このまま電車のドアが開いてしまったら、私たちはそれっきりの関係だ。らしくない自覚があったが、連絡先を交換できないだろうかと口を開いた。
開いて、そして閉じた。聞いて何になる? 魅力的な人だ、手に指輪は嵌められていないがパートナーが既にいてもおかしくない。それに、たとえ相手がいなかったとしても、だ。この優しい女性は笑って連絡先を交換してくるに違いない。その後はどうする。私はつまらない人間だ。一緒にいたところでつまらない思いをし、離れていくのが落ちだろう。失望されるくらいなら、このまま綺麗な思い出で留めておいた方がいいと自己防衛本能が呼びかけた。だから、何も言わないでおいた。
「今日はありがとうございます。お話、楽しかったです。」
「いえ。むしろ私の方こそ、変なことした挙句自分の事ばっか話して・・・・・・お土産、口に合えばいいんですけど。」
電車が完全に止まる。横に移動しなくなった外の景色を一瞥し、女性が身体をドアの方向に向ける。
「それでは。いつかお会いできたら、またお話ししましょう。」
「ええ。それでは。」
軽い会釈を交わし、ドアの向こうに消えていく後ろ姿を見送った。この電車はいつもは使わないのでいつかはないんですよ、と心の中で独り言ちる。いっそこの線を通勤に使ってしまおうか。いや、食事に連れて行かされた帰りで乗った電車だから時間帯も合わないし、何より女性も旅行帰りなだけで普段この電車を使っているとは限らない。やはり連絡先か名前だけでも聞いておけばよかっただろうか。女性について分かったことは、飛騨高原の魅力だけだった。
女性が降りた駅の一つ先で、私も電車を降りる。ドアから真っ直ぐ向かいホームの乗車位置に向かい、本来の降車駅に連れ戻してくれる電車の時刻を調べる。次の電車は13分後。本など暇つぶしのものは持ってきていないため、頭の中で考え事をして暇を潰した。
仕事のこと。食事中に話していた上司の会話について。女性のこと。そういえば夏季休暇を消化していなかった。休みを嫌い残業を好む社員も多い部署で働いているせいで、夏季休暇の存在を忘れていた。別に今の時期は特段忙しくないため、休暇を取っても文句は言われないだろう。もし言われたとしても休暇は当然の権利だから拒めないはずだ。私も一人で旅行に行ってしまおうか、など。
明日にでもガイドブックを買いに行こうと外出の算段を立てれば、ホームに音楽が鳴った後電車がやってきた。思考が途切れる。
プシュー、と音を鳴らして開く扉から人が疎らな車内に入り、椅子に座る。膝の上に置かれた鞄の表面に浮かぶ皺をなぞる。
いや、旅行など止しておこう。楽しそうな人を見たからといって、自分がそれを楽しいと思うような感性は持ち合わせていないのだ。今私は浮かれているだけだ。明日になればきっといつも通り過ごしているに違いない。
諦めにも似た判断を下し思考を手放していれば、女性が降車した駅に着く。私が降りる駅まであと十分。下を向いたまま車掌のアナウンスを聞き流していれば、視界にスニーカーが入った。職場から家へと向かう電車ならまだしも、この電車は逆方向のため客は少ない。それにも関わらず誰かが私の前に立っている。酔っ払いかヤンキーだったら席を移ろう、と正面に立つ者の顔を前髪の隙間から確認した。
「えっ。」
誰も会話をしていない静かな車内で思わず声が出てしまった。
大変気まずそうな顔をした女性が目の前にいる。女性は私の顔より少し下の鞄に目を合わせながら、ぼそぼそ声で喋った。
「お久しぶりです。隣、いいですか。」
「どうぞ……」
勘違いをしていた時以上に真っ赤な顔をした女性が、リュックを前に移して隣に座った。
互いの間に微妙な空気が流れる。先ほどまで饒舌だった女性もリュックの紐を弄ったきり、中々口を開かない。耐え切れずにこちらから話を振る。
「貴女はこの駅が最寄りではなかったんですか。」
「そちらこそなんで折り返しの電車に乗ってるんですか。」
互いに聞いてほしくない質問をする。数秒の沈黙の後、女性がふふ、と声を漏らした。旅行話を聞いている時も思ったが、勝気そうな顔をしているのに笑うと随分と幼く見える。こういった人がもてるのだろうか。手遊びを止めた女性が頭をこちらに向ける。目が合った。
「多分、同じ理由ですよ。」
ずるい返し方をされた。やはりこの人はとてももてるのだろう。ここまで言われてしまえばお膳立てされているようなものだ。人生で一回も使うことはないと思っていた軟派男が常用する言葉を口にする。
「連絡先を教えてもらえませんか。次は電車ではない場所でお話しましょう。」
「もちろん!」
固定電話でよければですけど、とはにかむ女性に自身の連絡先と名前を書いたメモを渡す。運動後でもそうならないほど手が汗で湿っていた。そこでようやく、自身が緊張していたと気付いた。女性にもメモ帳と筆記具を渡し、書いてもらう。
「伊月さん、ですか。」
「やだな、名前でいいですよ。私も貴弘さんって呼ぶので。」
「……充希さん。」
「はい。」
明らかに女性慣れしていない己の言動に恥ずかしくなった。にやにやと笑う充希さんから目を逸らし、車内の少ない乗客の視線を気にする。話しているのは私達以外いないため、会話内容は筒抜けとなっているに違いない。向かいの席に座っていた妙齢の女性が生温かい目で見守っている。私がそれに気付けば、視線を斜めにずらして広告を見ているかのように装った。
その日以降、ルーティンを繰り返すだけの日々は彼女によって塗り替えられた。
いつか終わってしまうのだろうかと怯えながら始まった恋人関係だったが、案外何事もトラブルなく円滑に進み、数年後にはトントン拍子に結婚が決まった。
新婚旅行はその時代に似つかわしくないくらいに質素で荒々しかった。土曜日から次の週の日曜日までにわたる休暇のうちに八泊九日で国内をどこまでまわれるかしら、だなんて充希が言い出したせいで、蜜月なんて甘ったるい表現に似つかわしくないものになった。そこで彼女の思い付きに乗ってしまった自分も自分だ。きっと新婚で浮かれていたのだろう。
車に乗って青森をスタート地点に各県の観光名所を巡ってはご当地グルメを食べ、当日に宿を探し、時には車中泊をした。私としては案外回れた方だと感じていたが、充希曰く思ったよりも巡れずに千葉で終了となった。せめて長野までは行きたかった、と文句を言われてしまった。その希望的観測でよく一人旅行などできたものだと感心してしまったが、一人だったら実現可能な旅行しかしないと返される。なぜ二人ならいけると思うのか甚だ疑問だ。
どうせ少し車を走らせれば家まで着くから、と南房総の観光を最後にじっくりと堪能する羽目になった。水族館や牧場などを閉園間際まで観光し、二人の家に着いたのは日を跨いだ頃だった。本来の予定であれば八日間の旅行で最終日は家で休む予定であったのに、らしくもなく計画性のない旅となってしまった。
翌日、無理、出勤できない、休む、と愚痴を垂れる充希の口に朝食を押し込んで一緒に出勤をする。普段使いのビジネスバッグと一緒に各観光地で買い漁った土産を持って電車に揺られれば、隣のサラリーマンが幅を取るその荷物に顔を顰めた。
数駅手前で彼女が先に降りたので軽く手を振り、職場の最寄りの駅で大勢のビジネスマンと共に降車すれば日常に戻ってきたとようやく実感が沸いた。
一週間半ぶりに出勤し、上司に挨拶をする。数時間前まで車に乗り続ける生活だったため、疲れが抜けていない顔だったのか笑われてしまった。
「残業の時でも見られなかった土井の死んだ顔が新婚旅行で見られるなんてな。尻にでも敷かれてるのか?」
「はぁ、まぁ。とりあえず、これ皆さんにどうぞ。お休みいただきましたので。」
「おー、ありがとう。随分と多いけど国内だったのか。」
「休みの間に本州のどこまで行けるか挑戦してました。」
「女が喜ばなさそうなことをしてたのか。」
「その女が立案しました。」
そう言えば上司は引き付けを起こしたかのように更に笑った。何が面白いのか全く分からない。贅を尽くせば喜ぶ女しか知らずに生きてきたから、充希のような女性は面白いのだろうか。
会話にキリがなさそうだと感じたため、上司を無視して部下に休暇の礼と一緒に、部署の人に配るよう土産を渡した。以前裏で私のことを分からないとびくびくしていた部下は今、上がっている口角を隠さずに土産の入った紙袋を受け取っている。何か言いたそうな目も一緒に。
「・・・・・・何か?」
嫌々部下に質問を促せば、待ってましたと言わんばかりに身体を乗り出された。一歩後退し、唾がかからない距離で話を聞く。
「土井さんの奥さんってどんな人ですか? 結婚祝いの飲み会では、結局何の話題もなかったですし。」
「式の時の紹介通りとしか。」
「あんな格式ばった紹介だけなんてあんまりですよ。ほぼ仕事の話じゃないですか。土井さんから見てどうかが知りたいんです。」
「・・・・・・人生を滅茶苦茶にする人、かな?」
「何ですかそれ、土井さんが今まで選びそうにない女性ですね。おもしれぇ。」
随分と砕けた口調に言いたいところがあるが、幸せそうで何よりです、と言われてしまい注意する気が微塵も湧かなくなってしまう。この疲れた顔でそう見えるのか。
土産は合計で13箱分もあったためかちょっとしたお菓子パーティーのようになってしまった。部長が全員分の茶を頼んだため、事務員の女性達が給湯室に向かう。丁度そのタイミングで手洗いに向かえば、普段会話をしない彼女たちの声が給湯室の壁越しに耳に入ってしまう。
「土井さんって愛妻家なのかな。土産こんなに買うって相当浮かれてるでしょ。」
「会社でドライな分、家では、って感じ?」
「やだぁ想像しちゃった。」
クスクス笑うのを聞いてしまい、いたたまれなくなる。彼女たちの発言はわざわざ否定するものでもないが、男性のからかいとは違う女性特有のそれには辟易してしまう。この手の女性はやはり苦手だ。
何も聞かなかった顔で席に戻る。少ししてから、何食わぬ顔で先ほどの彼女たちが部署に戻って茶を配膳し始めた。私の席に湯呑を置く際に「お土産ありがとうございます。」と笑顔付きで言われる。会釈で返せば事務員の女性は言うことは言ったと言わんばかりに表情を元に戻して他の席に茶を置いた。給湯室でのあの会話など、一切存在しなかったかのように機械的な動きだ。
心の底では今何を考えているのかと思うとひやひやする。そこまで考えて、ようやく気付いた。今までの私の方がずっとそう思われていたのだと。
居たたまれくなり、肩を縮こまらせて湯呑の茶を啜った。薄い。
「無精子症、ですか。」
結婚して五年。中々子どもに恵まれず、妻と一緒に病院で不妊症検査を行った。結果、私のせいで妻がなかなか妊娠しなかったと分かった。
「貴方の場合ね、非閉塞性無精子症といって、精子自体がうまく作られていない状態なんです。閉塞性の方であれば通り道が上手くできていないだけだから、そこを治せばいけるんだけど。」
「はぁ。」
じゃあどう頑張ったって無理だったわけだ、と納得した。
緩いと言うべきかやる気がないと言うのか、ひどく緩慢な仕草で私の前に置かれた検査結果の用紙をペンでトントンと突きながら話を続ける。
「精巣から直接精子を取るって方法もあるんだけど、まだできたばかりで国内でそれをやってるところもそうそうなくてねぇ。」
「あの、一旦妻も呼んできていいですか。」
「あぁどうぞ。」
奥さんいたの忘れてたよ、と顔に書いてある医師に断りをいれ、診察室から一度出る。待合室にいる充希を呼べば、文句を言いたげな表情で顔を上げた。待ち時間はどうせ長いだろうからと持ってきた本は終盤に近いのか、後ろのページに栞を挟んだ。大方クライマックスで盛り上がったところだったのを中断させられた、といったところだろう。
「お疲れ様。終わり?」
「まだ。説明があるから一緒にいてもらおうと思って。」
「・・・・・・そっか。」
私の言葉に全てを察した充希が静かに答える。既に再検査のため何回も受診しており、充希の方は異常なしと既に結果が出ていた。初回来院にも関わらずすぐ検体採取用の個室に連れていかれ、疲れた顔の私をにやにやと笑いながら迎えていた彼女も、回を重ねるにつれて淡々と待つようになった。それがたまらなく怖かった。一度たりとも責める言葉を吐かなかった充希が心中では私のせいで、と恨んでいるんじゃないかと妄想してしまう。
本を鞄に入れ、彼女が椅子から立ち上がるのを見つめる。死刑を宣告される前の被告の気分だ。私の顔を見た充希が腕を優しく叩いた。今、顔色が途轍もなく悪いと自覚できるため、相手から見れば死にそうな顔でもしていたのだろう。そのまま背中を押され、診察室に共に入った。
医師は最初からもう一度同じ内容を、今度はより丁寧に説明した。メインの患者は女性だからかもしれないが、私の時とは明らかに態度を変えている。
「じゃあ子どもは難しいってことですね。」
医師が遠回しにしか伝えなかったことを端的に言う。
私は俯く。横並びでかつ医師と向き合っている充希からは私の顔が見えないが、医師が私の様子を見て慌てて訂正する。
「現状でこの医院では、です。不妊治療は日々進歩しているので新しい治療法が見つかる可能性も捨てきれませんし、AIDという提供された第三者からの精子を使って子どもを授かる方法もあります。」
「へー、そういうのもあるんですね。」
ようやく充希が私の方を向いた。下を向いたままの私を見て、それですぐに医師の方に向き直った。
「すいません、一旦今後どうするか話しあってから決めたいと思うので、今日は帰ります。」
「はい。では治療の費用や他に関係のある書類を参考にお渡ししますので、ちょっとお待ちくださいね。」
医師の横でずっと私達を見守っていた看護師が後ろに下がり、冊子や紙の束を充希に渡した。一番上には里親制度についてのパンフレットが置かれている。
今後、今後ってどうするのだろうか。何を言われてしまうのだろうか。結婚すれば次は出産して子を育てるのが当たり前の世の中だ。子を授からなかったことで離婚というのも珍しくない。私はどうなるのか。
医師のお疲れ様です、という声が聞こえた。ぐらぐらと頭が痛むが、なんとか頭を下げて充希の後ろをついていく。診察室から出てすぐのソファにもたれかかれば、充希が大きく溜息を吐いた。身体がびくりと震える。
「びっくりしたぁー・・・・・・てっきり癌が見つかったと思っちゃったよ。」
「ごめん。」
「別にいいけど、軽率に死にそうな顔しないでよ。ただでさえ幸薄そうな顔してるんだし。」
「ごめん。」
今までそんなことを思ってたの、と返せる余裕がなく、ごめん、とだけ繰り返す。
私の反応を見て、何か言うのを諦めた充希は読みかけだった本を開いた。時折ぺら、とページを捲る音を聞きながら、会計に呼ばれるまで私は膝を見ていた。受付で名前を呼ばれた時、本は丁度読み終わったようだった。
「ケーキ買って帰ろう。貴弘本当に死にそうな顔してる。」
別に私はケーキが好きではない。充希が食べたいだけじゃないか、と返したかったが喉がつっかえていたため、頷きだけで返事をした。
帰り道はずっと、無言の私に充希が先ほどまで読んでいた本の感想を話し続けた。喋り倒す彼女の話を聞き続けるのはいつも通りだが、普段と違って彼女の話が耳から脳へとうまく入らない。さっきまで何を彼女は言っていただろうか。ネズミがなんだって? そもそも何の本を読んでいたかすら覚えていない。頭が全く働いていない。
電車に乗っても話は続いた。窓から見える空は快晴。四月頭のため線路沿いには桜が時折横切っていく。日の光が急に目に入って思わず顔を顰める。吊革に掴まりながらチャーリーがそこから、と一人で盛り上がる充希も同様で、うっ、と呻き声を上げて言葉が途切れた。
最寄り駅に着き、重たい足を引き摺ってホームに降りる。充希の後ろを辿るように歩けば、振り向き様に「背後霊みたいで怖いんだけど。」と言われてしまった。充希の左横に移動し、帰路を辿る。途中、仕事帰りにたまに立ち寄るケーキ屋に入った。
休日の昼間のためか店は繁盛していた。普段店に寄るのは夜だったため、商品の数も少なかったがこの時間帯は種類も豊富で客も多い。
店員に注文を告げている最中の男性客がいた。男性客のすぐ傍には小学生に上がったばかりと思しき年の少女と、妻らしき女性が立っている。
「プリンも!」
「それはまた今度にしよーね。」
「なんで! お祝いなんだしいいじゃん、一個じゃ足りない!」
「じゃあケーキ食べて、お夕飯も食べたらまた考えよっか。」
わがままを言う子どもと、それを軽くいなす母親を見る。また頭が重くなった。私にはこの家族のような幸せは叶わないのだと突きつけられているようだった。
少し身体を傾けてショーケースの中を吟味する充希が声を掛けてきた。
「苺のケーキばっかだねぇ。何にする?」
「私の分も好きなの選んでいいよ。」
何も口に入れる気分ではないが、いらないと答えるのもどうかと思い、そう答える。
「本当? じゃあ苺のロールケーキとチーズタルト半分こしよう。」
「うん。」
注文しようと充希が姿勢を元に戻せば、こちらに気付いた店員がご注文承ります、とケース越しに対応した。先ほどまで家族連れの注文を取っていた店員だ。客はというと、丁度会計を済ませたところだったらしく、母親が子どもにケーキの入った箱を渡していた。
「走ったり横にしたら崩れるからちゃんと持ってね。」
「はぁい。」
持ち手とは逆の手で箱の底を支え、ゆっくりとした動きで子どもが店を出た。先に外へ出た父親は店の扉を支えて少女と母親が店を出るのを見守り、扉を閉める。扉が閉まる直前に、段差気を付けて、と注意する声が聞こえた。その声はとても優しかった。
視線を正面に戻せば、店員が中身の確認のために私たちの前にケーキを詰めた箱を斜めにしていた。期間限定の苺のロールケーキ、いつも買っているチーズタルト、そしてプリンが二つ。プリン?
おかしいな、と隣を見る。中身合ってます、と答えた充希がしたり顔で私に言う。
「お子様はケーキしか買ってもらえなかったようだけど、私たちは大人なのでケーキとプリンどっちも買えまーす。朝一で病院行ったのにお昼跨いだからお腹空いてるんだよねぇ、検査結果だけならすぐに呼んでくれたってよくない?」
と私に愚痴をこぼす姿からは、私の様に家族連れを見て虚しくなった素振りは一切感じられなかった。
充希が鞄の中から財布を取り出そうとすれば、医院で貰った書類が引っかかり飛び出てきた。うわ、と声を上げた彼女によって紙は雑に押し込められた。乾いた紙の音が聞こえた。ファイルか封筒でも貰えばよかっただろうか。
会計を済ませ、ケーキを渡された充希から箱を横流しされ、手荷物係として受け取る。前を歩く充希に扉を開けてもらい、店を出た。
飲み物を何にするか、という話に始まり、職場の出先で飲んだ茶の種類にまで話題が膨らんだところで、ようやく家に到着した。それまでの間も、私は相槌以外打っていない。
靴を脱いでまず先にケーキを冷蔵庫に入れる。今日は通院帰りに買い出しに行く予定だったため、冷蔵庫はほぼ空の状態だった。手を洗って外着から各々ラフな服に着替える。ズボンから伸縮性のいいジャージに履き替えてリビングに戻れば、先に着替えを終わらせた充希がワンピース姿で台所の棚を漁っていた。
「結局、紅茶とコーヒーどっちにする?」
「コーヒー。」
「はーい。」
水音とコンロを回す音がして、しばらくすればヤカンからお湯が沸いたと音で知らせてくれる。先に半分に切ったケーキとプリンをダイニング机に置いていた充希が、慌ててキッチンに戻る。
私の皿に乗せられたフォークは、左利きの私に合わせて持ち手が左側を向いている。一方で、私の向かいに置いてある皿にはロールケーキの上に乗せられていた苺が丸ごと一粒置かれている。私の皿にはない。食への執着が薄い私と強い充希の中ではお決まりの光景だ。
お茶の準備をしている間ずっと、私は鞄の中に置き去りにされた書類を取り出して種類ごとに振り分けていた。医院に置いてあるものを一式渡されたようで、初診時に渡されたパンフレットや私達には関係のない治療についての説明資料がほとんどだった。不要と判断した書類は紙ごみ入れにしている引き出しに入れておく。まだ関係があるだろうと思った書類を一纏めにして机に置けば、マグカップが視界の端から現れた。コン、と音がして、コーヒーの香りが立ち込める。もう一個のマグカップは紅茶のようだ。
「これからおやつタイムなんだから、それ他のところに置いといてよ。」
「読まないの?」
「まだ読まない。」
椅子を引いて充希が座る。向かい合う彼女は皿に置かれたフォークを持ち、いただきますと言って食べ始めた。私も遅れてそれに倣った。しかし、ケーキを一掬いしたはいいが食べる気力が湧かず、結局フォークを置いてしまった。
「苺のロールケーキ、実質2粒しか入ってなくて悲しいね。」
「・・・・・・これからどうする?」
「え? 何が?」
ロールケーキを先に完食し、プリンに手を伸ばしていた充希の手が止まった。脈絡もなく話を持ち出したせいで、何のことか要領を得ない顔をされる。
「夕飯のこと? それとも、これのこと?」
充希が目線で促す先には、ローテーブルに先ほどの書類が鎮座している。悲痛な面持ちで頷けば、首を傾げた充希が私に言う。
「そんなに子ども好きだったっけ。」
「普通だけど。」
「じゃあなんで?」
「私のせいで子どもができないから。」
「せい、とまで言わなくってもいいでしょ。確かに私達二人の遺伝子を持った子は望めないだろうけど。」
「うん。それで、これからどうしたい?」
「さっきから何が言いたいの?」
段々と険しくなる表情と冷たくなる声から逃げるように、目を逸らして言葉を捲し立てる。
「充希は子ども欲しがってたから。医院で話があったAIDってのをやってもいいし、里親の登録でもいいよ。もし完全に血の繋がってる親子がいいなら私と別れても何も言わないからみ——」
「嘘つくな!」
充希の好きなようにして、と続けようとした声が遮られた。
初めて彼女が怒るのを見た。鋭く低い声からは普段の自由気ままさは見られなかった。
「全然そんなこと思ってないくせに何言ってるの! 私が欲しがってたから、って何!? 貴弘の意思は!? ないの!? あるでしょ!?」
「そ、れは・・・・・・」
緊張で喉が渇いていて、掠れた声しか出なかった。充希はフォークを置き、座っている私の横に立った。彼女を見上げれば涙を零しながら私に詰め寄った。
「私が欲しいのは子どもじゃなくて、貴方との子どもだよ・・・・・・別れるなんて言わないでよ・・・・・・」
しゃくり上げながら抱き締められ、どうしていいか分からなくなってしまう。映画やドラマ、本以外で彼女が泣くのは今までで一度も無かった。結婚式の時も目を潤ませてはいたが、その程度だった。
「ごめん。本当にごめん。」
身体が正面を向いたまま、両腕を伸ばして充希の腕と背中を摩る。それ以外どうすればいいか分からなかったからだ。
今日は怒らせたり泣かせたり、初めてが多いなと冷静になった頭の部分が言ってくる。先ほどまで暗い感情しか渦巻いていなかったが、泣いている人を見るとそれも吹き飛んでしまったようだ。宥めなければ、という第一優先事項ができたからだろうか。
「たっ、かひろはっ、どうしたいのっ。」
ひっくひっくとしゃくり上げながらそう言われれば、言葉に詰まってしまう。本音で彼女の望むようにしてもらって構わないと思っている。充希が望まないから別れはしない、と決まって安心はした。しかし離婚すると言われてしまえば悲しみはするが、それでいいとも思ってしまう。
「充希が望むことは何でもしてあげたいし、充希が望むように何でもしてほしい。私に主体性なんてないから、充希の好きなように生きてもらいたい。それは本当。」
「だったらあんな顔してないでしょ!」
頭上から降ってくる大声に驚き、肩が上がった。
「病院の時も帰り道もケーキ屋の時も、今だってそう。もし私がただ子どもが欲しいってのを第一に考えていたら、お医者さんに言われた時点でどうするか話し合ってたでしょ。でもそうしなかった。あんまり乗り気じゃなかったし、青い顔してた。その選択は嫌だって言ってるようなものだよ。」
話しているうちに段々と落ち着いてきたのか、充希はつっかえることも無く言葉を紡ぐ。
「・・・・・・私より私のこと知ってるんだね。」
「貴弘が自分のこと分かってないだけだから。」
思わず感心してそう言えば、充希が笑みを含んだ涙声で返した。
摩るために彼女の腕と背に回していた手に力を込めた。
「怒らせてごめん。泣かせてごめん。自分のことも充希のことも分かってなくてごめん。それで、私がどうしたいかだけど。」
「うん。」
「これから先も二人で一緒に居ていいでしょうか。」
不安からか思わず敬語で訊いてしまった。ぶはっと吐き出すように笑った充希が腕の中からするりと抜ける。手が空を掴んだ。え、と声を漏らせば、その手を逆に掴まれた。彼女の温かい両手で自身の両手を包まれた。そこでようやく緊張のせいか、自分の指先が冷たくなっていたことに気付く。
「末永くよろしくお願いします。」
これプロポーズみたいだね、と笑う充希の顔は涙やら鼻水やらでぐちゃぐちゃだった。手を離された際にティッシュ箱を差し出せば、今すごい顔酷いんだろうな、と独り言ちながら顔を拭いた。そしてぬるくなった紅茶を飲み干して、残りのデザートにありついた。
いつの間にか私の元にも食欲が戻ってきたようで、一口も食べていなかったケーキとプリンを平らげる。食器を片したら夕飯の買い出しに行かないと。
食器洗いは私の係のため、二人分の皿とマグカップを洗い、片付ける。手をタオルで拭いてリビングに戻れば、化粧を落とした充希がリビングに箱を置いて待っていた。
「それは?」
「今日のために買ってたの。どーぞ。」
促されるまま包装紙のテープを外して中を見る。中にはカメラが入っていた。
「一眼レフカメラ?」
「そう。」
「これ高かったんじゃないの?」
「まぁ少しは高かったけど、お互い賞与は好きに使っていいルールじゃん? そのお金で買ったの。」
中身見せて、と言われて箱を開ける。箱に印刷されたイラスト通りのカメラと操作確認用の電池、説明書が中に入っていた。
「なんでまた急に。」
「全然嬉しくなさそう。」
むくれた顔の充希に慌てて訂正をする。
「いやだって、どうしてカメラを渡されたか分からないし。」
これ以上機嫌を損ねられたらかなわない。言葉を選びながら理由を尋ねる。
「二人の門出祝いとして買ったの。」
「門出?」
「うん。病院通い続けてるうちに、多分子どもは難しいだろうなー、って思って。でさ、思ったのよ。子どもを残すってのは、遺伝子っていう己の欠片を次世代にも残すための本能なんでしょ。じゃあそれだったら、絵でも写真でも形として自分の何かが残ればほとんど同じなんじゃないかなー、と思って。私も貴弘も多分絵は向いてないだろうし、写真だったら紙としてもデータとしても残せるから良さそう、ってことで、カメラちょっと奮発して買っちゃいました。」
いい案だと思わない? と自信満々に言う充希に苦笑する。彼女はどうやら最初から子どもは難しいと予期していたようだ。私の苦悩はなんだったのだろうか。こちらは離婚まで考えていたというのに。
備え付けの乾電池を入れて電源を入れる。画面が映し出されたので、試しに充希に向けてシャッターを切った。油断をしていた充希が驚くような顔をして、すぐにフラッシュが焚かれた。カシャ、という音が鳴る。眉根を寄せて目を瞑る充希の顔が撮れた。
「ちょっとお。」
完全に機嫌を損ねた充希が文句を言う。反して私の機嫌は良かった。
「いい顔が撮れたと思うけど。」
「もっといい被写体を撮ってよ!」
「じゃあ、今日は門出祝いなんでしょう? 夕飯は外食にしようよ。これで写真撮りたい。」
別にいいけど、と嫌々言う彼女の顔をまた撮影すれば、本日二回目の怒号が飛んだ。
その後、充希の旅行趣味と渡されたカメラの相性が良かったためか、六十代の現在に至るまでの趣味となった。撮影して現存をした写真でアルバムを作ったり、個人ブログが台頭した西暦二千年代初期からは私自身の日記がてら投稿を始めた。個人サイトで細々とやっているにも関わらず閲覧者は意外といるようで、箇条書きの文章と写真しか載せていない記事にもコメントがつく。
また、たまに充希が勝手にフォトコンテストに写真を応募するため、時折入賞した写真が掲載されたパンフレットや賞品が家に送られてくる。デジタルカメラが賞品として贈られたこともあり、それは充希専用のカメラとなった。
「思った以上に才能あったみたいだね。」
「数打ったうちの一部が当たっただけでしょ。そもそも応募してるの充希だし。」
「じゃあ私の運がいいってことかぁ。」
そんな会話をしながらカメラを弄り回す老後生活を送っている。
長年勤めていた会社を五十半ばで早期退職し、今は投資と充希のパート、それとブログの広告で細々と暮らしている。私はあまり人と積極的に関わるタイプではないため、家にいるかカメラ片手に散歩をする日々を送っているが、一方の充希は常に身体を動かしていないと落ち着かないようで、週三のパートとボランティアで日々を謳歌している。外から帰る度に日々の出来事を報告してくるため、この生活が退屈だと思ったことはない。年に数回は国内外に旅行にも行くし、互いの両親についても孫の顔を見せられなかった負い目があったが、その分金に余裕があったため信頼のできる老人ホームを紹介でき、最期は看取ることができた。景気がなんだと言われている世の中ではあるが、非常に恵まれた立ち位置にいるだろう。
ある日充希が突拍子もないことを言い出した。
「生のペンギン見たいなぁ。」
晩酌をしながらテレビに映るケープペンギンの群れを観ながら充希が呟いた。
「これすみだ水族館だよね? シフト休みの日にでも行く?」
私がそう提案すれば、少し酒が回った充希が首を横に振った。
「南極行ってみたくない?」
「え、南極?」
いつも突拍子もないことばかりするが、今回はそれに輪をかけるようなことを言い出した。机に腕を置き姿勢が悪くなっている時は、彼女が酔っている証拠だ。
日本酒が注がれたグラスを片手ににまにまと笑う彼女の表情は刻まれた皺や年齢よりもずっと幼く見えた。
「結構前にコウテイペンギンの雛を白浜動物園で見たじゃん? あれすっごい可愛かったからさぁ、また見たいなぁ、って。」
「白浜じゃだめなの?」
「もっといっぱいわちゃわちゃしてるのがいいの。ね? いつか行こーよ。」
これは完全に酔っぱらっているな。空になったチェイサー用に置かれたマグカップに麦茶を注いで隣に置く。目で飲むように促せば、不服そうにしながらもマグカップを傾けて一気飲みした。
飲んだのを確認してから返答をする。
「今までも無理のある旅程は一緒に行ったけど、流石に南極は急すぎるよ。米寿の祝いにでも行く?」
「はぁい。じゃあ六十五歳の祝いはウユニ塩湖行こ。」
「それ初めて聞いたんだけど。」
確か山を登った先にあった気がするんだけど、と尻込みすれば、充希がカラカラと笑った。
「二年後の旅行までにお互い健康に気を付けて体力つけていきましょ。」
「ボリビア旅行は確定なのか。」
苦笑しながら返答すれば、当然でしょ、と言いながら充希がグラスに残っていた日本酒を飲み干した。
散歩しかしていない身なので筋トレでも始めようか、と私は考えた。
それが私たちの旅行計画の最後だった。
充希がパートから出かけたっきり帰ってこない。
残業が基本的には存在しない職場にも拘らず、勤務して帰宅する時間からは既に一時間経っている。トークアプリで連絡をしても既読は一切つかなかった。
もしかしたら彼女の身に何かあったのではないかと不安になり、電話をかける。四コール、五コール、と数えているうちに電話がつながった。
「充希? 今どうしてるの?」
「失礼いたします、こちら〇〇病院です。こちら土井充希さんのご家族のお電話でしょうか?」
頭が一瞬で冷えた。病院? なぜ? 充希に何が起こった? 喉が締まる。肺が苦しい。心臓が異常な動きをする。
「充希の夫ですが、充希に何かあったのですか。いま彼女は、」
「旦那様ですね。土井充希さんについてですが、道端で倒れた状態で救急連絡を受けまして。」
何が起きた。やめてくれ、その先は言わないで。やめて。どうか。
「現在心肺停止状態で〇〇病院に搬送されております。」
「あぁ……」
どうしてそんなことを言うんですか。そう伝えようとした言葉は、ただの口から空気が抜ける音となって消えた。
充希のいる病院に向かい、受付に名前を告げればすぐに個室に案内された。担当医と名乗る医師が、本人がすぐに一一九番通報したこと、人工心肺装置によって現在は生命維持されているが、意識を取り戻すのは難しいことを教えてくれた。要約すれば充希はもうすぐ死ぬ、とも。
頭に靄がかかったような感覚が抜けないまま、通路の隅で各所に連絡を入れる。急性心不全で状態が悪く、いつ目覚めるかは分からない、そう告げる。そうすれば戸惑いの声と一緒にどこも似たような言葉で返された。「新しい情報が入りましたらご連絡お願いします。」と。新しい情報とは何だろうか。死んだら教えろということか。
どうにも家に帰る気力が湧かず、病院に併設されているカフェでコーヒーを買って居座る。見舞客や患者が談笑する中で、手慰みにスマートフォンを触る。「急性心不全 原因」「急性心不全 死亡率」「家族 死んだら」「死亡 手続き」「葬式 〇〇市」、検索をしては候補に上がったサイトを開くを繰り返していく。最後に葬式はどうすればいいかと検索をかけたところで、コーヒーを買ってから既に二時間も経過していたことに気が付いた。周囲の客は、座った時とは違う人たちに入れ替わっている。
これを軽く見たら帰ろう、と画面をスクロールさせれば、あまり馴染みのない単語が目に入った。
(食葬・・・・・・)
最近できた葬式の一種ではあるが、あまり流行っていないとしか認識していない。それこそ食葬が認可されてすぐの頃は、ワイドショーを賑わせてコメンテーターやタレントがやいのやいのと囃し立てていたが、今ではすっかりこの言葉を聞くことはなくなった。
まさか近所に食葬ができる場所があるとは。興味本位でホームページのリンクをタッチする。開けば画面上部に机と箸の写真が出て、遅れて「貴方の中で大切な人が生き続ける」と文字が浮かび上がった。死んでるのに生き続けるだなんて調子がいい、と毒づきながらサイトに書かれた文を読み進めた。
いつの間にか、私は病院を出て電話をかけていた。
かけてすぐに電話は取られ、若い女性の声が聞こえた。
『はい。こちら〇〇葬儀でございます。』
「すいません、そちらでやっている食葬について、お話聞きたくてご連絡いたしました。」
食葬、という言葉を出せば、電話越しの雰囲気が変わった。
『食葬、ですね。そちらについては式を執り行うにあたって条件が厳しく設けられておりまして・・・・・・お時間ございます際にオンライン面談、あるいは弊社のセレモニーホールにて直接資料をご覧になっていただきながらご説明も可能でございます。』
「今日、空いてますか。」
「本日ですか……少々お待ちください。」
戸惑った様子を隠さない声の後に、保留音が鳴る。声からしてまだ葬儀社に就職して年数の経っていない社員なのだろう、戸惑うのも無理はない。葬式の宗派は自由といえど、めったに行われない、それも宗教団体の構成員のごく一部くらいでしか開かれない葬式について電話口で聞かれたのだ。
目新しい物に対しネットで体験レポートが蔓延するのが常だが、人の死に関わり、そう簡単に体験できない内容のため、どのように行われているかは世間ではほぼ秘匿状態となっている。ネタとしては事欠かないであろう。一般市民が知っているのは書類が面倒くさいことと、亡くなった人を食べること、その二つのみだ。それ故に冷やかしか悪趣味な記者が電話をしているのか、と警戒していたに違いない。
二分ほど経ってようやく保留音が切れる。先ほどの女性の声で再び名乗られた。
「大変お待たせいたしました。本日でしたら十八時から二十時までの間、対応可能となっております。ご都合いかがでしょうか。」
耳にくっつけていたスマートフォンを離し、画面を確認する。今は十六時四十三分。電車と徒歩でも十分間に合いそうな時間だ。
「十八時からお願いします。」
「承知いたしました。それではお客様のお名前と電話番号、住所をお願いいたします。」
ここまでいけば普段通りの対応だからか、コールスタッフは淀みなく応対した。聞かれた内容に答えていき、締めの言葉を聞いてから電話を切る。
切ってから、見切り発車に行動してしまったことへの後悔が押し寄せてきた。食葬なんて未知のもので充希を弔おうとしているだなんてどうかしている。そもそも葬式だなんてまだ彼女は死んでいないのに早計ではないのか。いや、早めに考える分には終活という言葉もできているし問題はない。プランについて聞くだけだから合わなければ断ればいい話だ。ルート検索して出た道通りに歩きながら少し前の己の行動を悔やんでいれば、ありふれた葬儀ホールが見えた。
葬儀ホールは葬儀参列者用と相談にきた客で入り口が分かれていた。二十人余りの喪服の参列者が自動ドアから入っていくのを横目に、テンパードアの取っ手を掴んで中に入る。
入ってすぐ右手側に受付があり、受付に予約の旨を伝える。受付が内線で客の到着を連絡すれば、奥から落ち着いた雰囲気の壮年の男性が来た。
「ご予約いただきありがとうございます。本日葬儀のご相談を担当させていただく妻夫木と申します。」
「あぁ、よろしくお願いします。」
「では、説明のためお部屋にご案内いたします。」
名刺を渡されて会釈を互いにしあってから、背を向けて奥の部屋に向かう相談員についていく。扉を開けて通された部屋は会社でよくある応接室のような、ソファが二つとその間に挟まるように横長の机が置かれていた。
「飲み物をご用意いたしますがコーヒー、紅茶、緑茶、オレンジジュース、水の五つがあります。」
「じゃあ、水で。」
「温度は冷たい、常温、白湯がありますが。」
「常温でお願いします。」
歳が歳のため、一日に何杯もコーヒーを飲めるほど胃が強くはない。喉を潤すなら水で十分だ。
お座りになってお待ち下さい、と言って相談員が一度部屋を出ていくのを見送る。ソファに座れば居心地の悪い沈黙が流れる。自身から出る呼吸音がやけに気になって、普段通りの呼吸ができなくなった。私はどのようなリズムで息を吸って吐いていただろうか。浅いよりも深いほうがいいかと思い、腹式呼吸を繰り返す。そうしていれば相談員の男性が紙コップを持って戻ってきた。
「お顔の色が優れないようですが、大丈夫ですか?」
「え? あぁ、大丈夫です。」
男性から見た私の顔はきっと土気色になっているのだろう。
充希からも時折指摘されるが、表情はあまり変わらないくせに顔色は雄弁だ。充希にその日の機嫌や体調の指標にもされていた。もう、その顔色を毎日確認することはないのだろうけれども。
当日中に葬儀の相談予約をする客に何かを察したのか、相談員は椅子に座って本題を話し始めた。
「それでは、食葬についてご説明させていただきます。パンフレットを見ながら紹介いたします。」
観音開き状のパンフレットを開いて相談員が説明を始めた。
「まず、食葬を行うに当たって二点条件があります。
①故人様がお亡くなりになった日から翌日までの間に弊社が御身体を引き取ることが可能なこと
②死体損壊罪として弊社を訴えないとする誓約書を書くこと
①については衛生的な観点からです。故人となって数日経過してから食葬のご相談を受けることもありますが、その場合はお断りさせていただいてます。②は食葬における故人様の身体から一部をいただくため、弊社と合意の上の行為であると証明していただきます。
こちらについて、ご理解お願いいたします。」
「はい。」
相談員が話しているルールは既にテレビやネットから仕入れていた情報だったため、すんなり頭の中に入った。食葬ができてすぐの頃、反対派が葬儀社を死体損壊容疑で訴える事案が起きたことがある。それ以降作られた誓約書なのだろう。
「では、基本的な葬儀の流れをご説明します。まず、葬儀の契約を決めた後、故人様の御身体を弊社にてお預かりします。引き渡された御身体につきましては専門の加工場で御家族様がご希望する料理に調理をした後、葬儀場にてご提供します。この際に拝借する故人様のお肉については少量ですので、お通夜や本葬で故人様と対面することも可能です。その後火葬となりますが、遺骨につきましては御家族様の所有する墓地に納めていただくか、弊社と繋がりのある農地に肥料用加工のうえで散骨となります。」
「あの、参列する人には食葬をするのを知らせずに、自分だけが故人を食べるのは可能ですか。」
「土井様御本人が契約主かつ喪主であれば問題ありません。多くの場合、参列した方の精進落としとは別の時に御家族様が故人様を取り込んでいただくことになっております。」
「分かりました。」
食葬をするなど、人によっては生理的嫌悪を催してしまうだろう。今まで生きてきた人を食物として見なすなどそう簡単にはできない。しかし、それを私はやろうとしている。
ここに辿り着くまでの葛藤などどこかへ吹き飛び、相談員に言う。
「ここで葬儀を取り付けたいのですが。」
相談員はかしこまりました、と食葬の予約に必要書類を机の上に置いた。
即決し、葬儀の段取りもすぐに決める私に驚きながらも付いてきてくれた相談員が、私にある質問をした。
「食葬でお出しする料理はいかがいたしましょうか。」
今まで訊かれた内容には全てすぐに返答できたが、何の料理にするか、言葉が詰まった。思い出の料理なんてたくさんある。人を食すわけだから肉料理に限られるとしても、これまで旅行や記念日に食べたものは数えられないほどだ。
「ちょっと写真確認してもいいですか。」
「えぇ。もしよろしければ画像とお料理の特徴を教えていただければ、僅かではありますが似せることも可能です。」
相談員に断りを入れてスマホの画面をつける。私が開設したブログの名前で検索して開けば、一昨日投稿したばかりの記事が画面に映った。
『すみだ水族館のマゼランペンギン。平日のため人は少なく快適でした。写真に写っているペンギンは、「横で喧嘩が起きていてもそのまま眠そうな顔をしていて良いね」と妻が気に入った子です。』
そこには水槽全体を写したものと争っているペンギンの横で目を瞑りながら直立するペンギンの写真が添付されていた。
結局南極に行けなくなってしまったな、とため息を吐きながら過去の投稿に参考になりそうな物はないかと探す。カテゴリ一覧から料理を選択し一通り見るが、目ぼしいものは何もなかった。ここで長く考えても時間の無駄だと思い、最後に投稿が古い順でブログ記事を確認すれば『初投稿』と書かれたタイトル文と小さな画像で何かの料理が添付されている記事があった。タップして記事を開く。
『初めまして。初投稿です。写真を趣味でやっています。旅行や日常写真を投稿していきたいと思います。これは今日の晩酌のしぐれ煮です。』
家の中で光や角度を考えずに撮ったせいであまり美味しそうには見えなかった。コメント欄まで確認すれば、妻と名乗るコメントがあった。
『長く続きますように。ちなみに我が家のしぐれ煮は生姜多めです。』
いったいどこに向けたメッセージなのだろうか。十年以上続いているブログだが、をそう見返すことはない。初のコメントは充希だったとは覚えてはいたが、そういえばこんなことを言っていたか、と新鮮な気持ちになった。
スマートフォンから目を離し、パソコンに向かって作業をしている最中の相談員に声をかけた。
「食葬の料理はしぐれ煮をお願いします、生姜多めで。参考に写真を送ります。」
写真をメールアドレスか何かで送ろうとすれば、このままで大丈夫です、と社用のタブレットでスマホ画面を直接撮影された。画質は問題ないのかと不安になってしまうが、我が家の料理は基本味付けが固定されていないため、何を出されても家の味ではない上、最悪充希を取り込みさえできればいいと考えていたので黙っておいた。
味付けは濃いめ薄め、使っている調味料、等を確認していき、その日決める内容については全て済んだため、相談員に見送られて葬儀ホールを出た。
誰もいない家に到着し、明かりをつける。午後に病院からの電話を受けたまま放置された部屋は、充希の診察券やおくすり手帳を漁ったためか一部だけが荒れている。
いつ何と連絡が来てもいいように準備をした。生前彼女が気に入っていたワンピース、棺に入れたいもの、私の喪服。
未だに涙一粒零れない眼球が霞んだ。酷使した身体のパーツを代表して疲労を訴えているのだろう。身体を流し、ベッドに向かう。寝室にはシングルベッドが2つくっついて並んでいて、そのうちの片方に横になる。右隣にはいつもなら先に横になっている充希がおらず、違和感を覚えた。
病院で見た彼女の姿を思い出す。動かない瞼、口や身体に繋がれた管、定期的に鳴るモニター音。彼女は今もその姿のまま、白いパイプベッドの上で眠っているのだろう。旅行が好きなくせして、枕が変わると眠れないと言っていたのに。
また呼吸が浅くなり始めた。息苦しさでなかなか寝付けず、数分おきに寝返りを打っていれば三時頃にようやく眠気がやってきた。
六時の目覚ましで起きる。アラームを止めて横を見る。無意味な動作だ。充希のパートの日に合わせて起床時間を設定していたが、充希は家にいないのだった。昨日つい癖で設定してしまったのだろう。
洗面所に行き顔を洗う。タオルで顔を拭いてリビングに向かい、冷蔵庫を開けて麦茶をグラスに注ぐ。昨日は夕食を食べずに寝てしまったが、何も入っていない胃が空腹を訴えることはなかった。グラスを少しずつ傾けて飲み干せば、空っぽの臓器が急激に冷えた感覚に襲われ、思わず顔を顰めた。
昨日の朝から干したままにしていた洗濯物は既に乾いていたようで、固くなってしまったタオルを畳みながら今日の予定を考える。必要な場所に電話は既にした、葬儀の予約も昨日のうちに済んでいる、後はまとまった現金を手元に準備しておく程度だろうか。病院にATMがあるため、ついでに引き下ろすのを忘れないようにしなければ。
そう段取りを組んでいる途中で、はた、と洗濯物を仕分ける手が止まった。私自身の予定など何もないのだ。仕事をしていないため予定の調整などがほぼ無いのは当たり前だが、私の人生は充希ありきで回っていたのだと今更気付いた。まだ私は六十三歳で、健康に生きるとすれば残り二十年近く時間が残っている。どうやって生きればいい? 一瞬、自殺が脳裏をよぎった。妻に先立たれて命を絶つ夫のニュースはそう珍しくもない。そのニュースをテレビで見た時に、「死なないでよ」なんて茶化すように注意されたことがあった。当時は軽率に死を選ぶと思われているのか、と文句を返していた気がするが、いざ同じ状況になってみれば私もニュースに出てきた男と何ら変わらない存在だったようだ。いや、まだ充希は死んでいない。危篤状態から持ち直す可能性だってある。以前のような生活は無理かもしれないが、私は健康だし時間も金もゆとりがある。充希を支えていくのは難しい話ではないだろう。
暗い考えを振り払うように急いで洗濯物を片し、外出の支度をする。病院は泊まり込みができず、ホテルも近くにない。電車を使えばすぐとはいえ、通いで向かう必要があるのが不便だ。片道三十分すら惜しい。
通帳を鞄に入れたか確認し、いざ出ようとしたその時、スマートフォンが電話だと知らせてきた。送信先は充希のいる病院からだ。息を吸う。吐く。通話ボタンを押した。
「はい、土井です。 ……あぁ、はい、わかりました。今すぐ向かいます。」
充希が息を引き取った。
通夜は平日に行われたにも関わらず、訃報連絡を受けた内のほとんどが参列をした。充希が参加しているボランティア先なのか、ちらほらと親子連れも来ている。多くの人が目に涙を浮かべていて、充希が私と違っていかに人望があったか思い知らされた。喪主であるにも関わらず、妙な疎外感を感じる。
シンプルな無宗教葬を指定したため、充希の写った写真で作ったスライドショーを流した後、喪主として閉会式の挨拶を行い短時間で通夜は終了した。出口で挨拶のために立っていれば、参列していた人たちが次々に、充希が私についてこう話していました、と伝えてきた。
「すごく仲が良くって二人でお出かけするって」「旦那さんが写真上手って充希さんから聞きました」「聞き上手な人だって充希さんが仰ってて」
それらを苦笑いで返し、ホールから出ていくのを見送った。きっと充希の話から想像していた夫像は柔らかい雰囲気の男性だったろうが、今日の私を見てイメージが崩れたに違いない。妻が亡くなったというのに表情一つ変えずに淡々と通夜を進行する男は冷たく映っただろう。何と思われていようが、別にもう二度と会う機会はないためどうでもいいのだが。
告別式は開かずに、明日は火葬と食葬を行う予定となっている。どちらも私一人だけが立ち会う。火葬後の遺灰は海に散骨する手筈だ。
なぜ充希を取り込もうなんて選択をしてしまったのか。何か過去に食葬にまつわる話を二人でしたからだとは思うのだが、思い出せない。
通夜後、セレモニー内に併設された宿泊スペースに棺桶が運ばれ、二人きりになった部屋の中で化粧を施された充希の顔を眺めながら頭を捻る。血色よく見えるその穏やかな顔からは、見た目では死んでいるとは判断できない。よく似合っていたからと選んで着せたワンピースだが、季節は冬に差し掛かっているというのに夏物の鮮やかな配色で、違う服の方が良かっただろうかと今更になって思った。しかし秋服や冬服は暗い色ばかり好んで選んでいたため、やはりこれで良かったのだと一人納得する。
「あ。」
思い出した。どうして食葬が己の心に引っかかったのか。
義親の墓じまいを終え、家で一息着いたときのことだ。充希がふと、こんな話をした。
「私達死んだらどうする?」
「どうする、って墓とかってこと?」
「そうそう。お互い実家が遠いし親戚が全然いないから墓じまいにしたけど、次私達が死ぬ番でしょ? どこに行こうか。」
補助金を利用したとはいえ、代行業者に大体の業務を頼んだために一度に高額な金が動いた。この金でジョージア旅行ができたのに、と充希が嘆いたのをよく覚えている。
「実親が死んだばかりなのにもう次の話を? 気が早いよ。」
「だからこそ、でしょ。終活だって話題になる時代なんだから遅いとかないし。あ、私納骨堂は嫌だからね。狭そうだし。」
死んでいれば何も分からないだろうに、充希がそう主張した。充希がうーん、と悩む素振りをして指を折って数える仕草をする。
「樹木葬は場所によってはほぼ納骨と変わらない場所もある、って聞いたから注意しとかないと。海洋散骨もいいよねぇ。私綺麗な海に行きたい。あと宇宙葬もあるって聞くけど、死んでからより生きてる時に行きたいな。宇宙ってロマンあるわぁ。いっそ複数個所に骨を埋めるか……」
真剣に馬鹿げたことを話す充希に思わず笑ってしまった。死んでも生きていても、どっちだとしても旅を楽しもうとする心意気には思わず脱帽する。
あぁそれと、と彼女は続けた。
「食葬とかもあるよね。」
何でもないかのように話す充希に、私は目をぎょっとさせた。
「よしてよ、カニバリズムはどうかと思う。」
「カニバリズムって。そんな仰々しく言わなくってもいいじゃない。」
「仰々しくもなるさ。人間が人間を食べるのはタブーだと思うけど。」
たまに彼女はまるで人間ではないかのような視点でものを語る癖がある。いい結婚相手を選ぶにはどうすればいいか、とテレビで芸能人たちが話し合っているのを観た充希が「皮膚と生殖器を取り除いて、それでも好きだと思えた人がいいんじゃない?」と言っていた。そんな風に私を選んでいたのかと少し思う所があったが、動物的な本能抜きに私は選ばれたのだ、と前向きに考えることにした。
嫌そうな顔をした私を潔癖症だなぁ、と彼女はせせら笑った。
「でも私は貴弘に食べてもらいたいよ? そうすれば一緒にいられるんでしょ? 海も森も宇宙も魅力的だけどさ、貴弘の体の中にいれば色々な場所に行けるじゃん。遺骨散り散りにしなくても、食葬にすればそっちの方がお得だ。」
「私は充希の写真係として旅行してるだけであって、一人だと行かないよ。」
「ルート確認と正確なコミュニケーション担当もね。あと、一人じゃないってば。貴弘の中で私が生き続けてますよ。」
「何それ。どこの受け売り?」
「広告に書いてあった。」
スマートフォンの画面を差し出される。そこにはただの主婦が動かしているブログサイトにも関わらず、食葬の広告が表示されていた。墓や葬式に関する調べ事をしたせいか、アルゴリズムによって食葬の広告が出てきたのだろう。そして充希はまんまと興味を持ったというわけだ。全然自分の好みを反映しない広告ばかりだと思っていたが、案外うまく需要と供給が合致することもあるらしい。
「とりあえず、私が死んだあとはいい感じによろしく。」
「善処はしておく。どうせ私の方が先に死ぬと思うけど。」
「幸薄いもんね。」
私を揶揄う充希の顔を最後に思い出し、現実に戻る。だから食葬なんて選択をしてしまったのか。
充希の近くに布団を敷き、横になる。
「おやすみ。」
手元のリモコンを操作して部屋の電気を消した。今日が二人で眠る最後の夜だ。
そして今、目の前には妻の身体を使って調理されたしぐれ煮が置かれている。料理のレシピや特徴は事前に話し合い、食器や箸等は家で普段使用している物を使っているものの、やはり別物であると言わざるを得なかった。
置かれた箸に目をやる。持ち手は右側だ。家であれば利き手のことが事前に分かっているが、外で料理を配膳される場合は利き手が右の前提で箸を置かれてしまう。左利きの人間としては、真っ先に違和感を覚えるところだ。
それに、家で作るしぐれ煮よりも大分色が濃く、生姜も細切りになっている。家で食べていた味を再現したいわけではないが、もう充希が作るごはんは食べられないのだと嫌でも実感させられた。
スタッフが徳利と御猪口を横に置き、口を開いた。
「では、ごゆっくりお過ごしください。」
「どうも。」
何度目かの頭を下げ、スタッフが部屋から出ていくのを見送る。
ごゆっくりと言われても、小鉢程度の量ならあまり時間はかからないだろう。それに、居酒屋ではないのだから酒など飲むつもりはなかったのだが。邪魔にならないよう酒と器は端に避けておく。
箸を持ってしぐれ煮と対峙する。どんな味がするのか興味一割と生理的な嫌悪感九割、の気持ちだ。万が一舌鼓を打つほど美味であった場合でも、材料は人肉のためそれはそれで問題だが。
「……いただきます。」
箸先に黒色の肉が触れる。充希の肉。年を重ねてもハリのあった肌からは想像もつかないほど、目の前のそれは繊維がほぐれている。これが充希? 最初に小鉢を見た時と同じ感想を抱く。人肉料理なんて人生で一度も経験していないのだ。適当な動物の肉を提供されていても分からないだろう。そもそも加工場なんて実在するのかも怪しい。今になって騙されているのではと疑念が湧いてきた。疑ったところで事実確認はできない。半ば現実逃避であった考えを放棄し、肉と生姜を一緒に摘み上げる。
軽く深呼吸。大きく息を吸って吐いて、そして少しだけ吸う。息を止め、口を開いて舌先に少量のしぐれ煮を落とした。迎え舌になってしまったがここにいるのは私一人だけだ。マナーを注意する人は物言わぬ肉になっている。
……少々癖のある肉の味がする。しかし生姜の風味や濃い味付けのせいか眉根を寄せるような味ではなかった。もしも旅先でジビエ料理を注文し、これを出されたならば「ジビエにしては当たりじゃない?」「確かに。」なんて会話をしていただろう。充希を食べながら充希とこれを食べる想像をする。馬鹿みたいだ。
味付けもやはり家で作るものとは違うと改めて感じた。確かにこの濃さは少量しか盛られていないとはいえ酒がないと食べるのが難しい。遠くに置いていた徳利を引き寄せ、反対の手に持った御猪口に手酌で日本酒を注いだ。家では冷酒しか飲まないためグラスを使っているが、提供された御猪口は陶器だ。渋い色合いで高級感が漂う。
透明な液体を口に含む。すっと入る口触りから、これも中々な品であることが伺える。水分不足のせいか、一口しか飲んでいないにも関わらず酔いが回った。和らぎ水代わりに鞄に入れたまま口を付けていないペットボトルの緑茶のキャップを開け、半分ほど一気に飲みこむ。キャップを閉めて机の上に置き、再び箸を取った。
結局、彼女は私の中に居られるのだろうか。たとえこの肉が本物だとしても、充希の体重の一%もないだろう量だけを食べたところで何になるのか。排泄もされるし、身体に吸収されたところで細胞は日々生まれ変わる。充希はすぐにこの身体からいなくなってしまう。それに、私の身体の中に入ったとて、充希は退屈でしかないだろう。私が率先して遠出を思いついたことなどない。充希がいないなら、出会う前と同じく、家に引きこもるだけの日々になるに違いない。
そもそも、だ。充希は占いや信仰などを一切信じないクチだった。なのに何故、食葬なんて私に提案してきたのだろうか。食葬という言葉が出てきたあの日、彼女は何を考えていた?
しぐれ煮と日本酒を交互に口に含む。御猪口が空になったため、また注ぐ。これで三杯目だ。
「何が目的だった?」
しぐれ煮に尋ねる。言葉は何も返って来やしない。当然だ、これは充希じゃなく充希だった肉を調理したものだ。本当に、私は何をしているのだろうか。
そして、再び希死念慮が頭をよぎった。彼女といる人生を生き過ぎてしまった。今更一人で生きていけるのか。廃人のように生きて、終には孤独死する自分が嫌でも想像できる。無駄に生きていくのならば、今すぐ終わらせた方が合理的なのではないか。
スマートフォンを鞄から取り出す。誰にも迷惑を掛けない死に方はなにか。できれば発見する人が楽に遺体を処理できる方がいい。死んでからすぐに発見できるとなると、家ではなく外だろうか。
親指が汗で湿っているせいでロック画面の指紋認証ができなかったため、パスワードを打ち込みホーム画面を開く。検索をしようとしたが、いつもの癖でメールアプリをタップしてしまった。やけに重い読み込み画面を消そうとして、出てきた通知に手が止まる。
『ホテル○○ ご予約の確認』
「忘れてた……」
このアプリは使い勝手が悪く、通知が時折送られてこないため定期的にメールボックスを開いて確認をしていたのだが、ここ数日はそれを怠っていた。メールの内容は今週の木曜から金曜日までの宿泊の最終確認について記されている。
三週間ほど前、充希が行きたいと言っていたから計画した旅行だった。二名で朝夕食事付プラン。既にキャンセルの無料期間は過ぎている。今日は水曜日。そして宿泊予定日は明日だ。キャンセル代金は全額だがしょうがない。支払いは前払いで済ませているが、食べ終わり次第電話連絡をしなければ。
スマホの画面を切った。メールを確認したことで、死を考える前にまずは荷物整理や事務処理を行う方が先だと冷静になった。役所への届け出は終わった。銀行の連絡も既に済ませている。準確定申告は多分必要ないはずだ。あれこれと頭の中でリストアップをしていると、行き残した旅行先について思い出す。
結局南極はおろか、再来年に行こうと資金を準備していたボリビアも行けずじまいだ。明日行く予定だったのは木更津の江川海岸だった。ウユニ塩湖の前にそこで肩慣らしをしよう、と充希が言って、それでその日のうちに予約をした。天気予報を確認して、晴天であれば海岸に、そうでなければ他の場所を巡ろうと考えていた。
本当に、充希は死ぬ予定などなかったのだ。まだ行きたい場所があっただろうに、なぜ死んだんだ。
私が充希を食べて、行きたかった場所に行けば彼女は満足してくれるのだろうか。いや、死んだらもう後は何もない。充希はそういう考えの持ち主だ。じゃあそう考えるのはなぜか。
……私がそう願いたいだけか。
充希は本当に自分が死んだあとに私が後追いするかもと予期していた。だから、少しでもこの世に未練が残るようにと食葬の話をしたのかも、しれない。分からない、答えてくれる人はもうこの世にいない。でも、私以上に私の事を充希は知っていた。
私が生きていくために彼女は私に身を捧げた? いや、もういい。
正否はもうどうでもよかった。私にとって、私の中にいる彼女が、充希がどうあってほしいかを考える方がよっぽど重要だ。私の中にいる充希はどうしたい? まだ行ってみたいところは沢山あっただろう。
酒が回ったせいか視界がぼやける。今まで枯れたと思っていた涙腺が稼働し、涙が零れた。嗚咽が漏れ、うまく飲み込めない。喉が鳴るのを堪えながら器に残ったしぐれ煮をかきこんだ。
これは呪いだ。愛だ。私の中にいる充希が「生きて」と呪詛を耳元で囁く。くそ、残りの寿命何十年もあるかもしれないのに生きろってか。今まで一度も荒い口調で充希に接したことはなかったのに、死んでから暴言を吐いた。生きてほしいと願うならまずお前が生きろ、何先に死んでいるんだ。生きていてほしかったのに。一緒にいてほしかったのに。
いい歳した男の泣き声が、広い部屋に反響する。不快だ。止めたい。止まらない。ハンカチを持っているのも忘れて喪服の袖で顔を拭き、最後の酒を飲み下す。
味なんてもう分からなかった。ただ、充希が少しでも私の中にいてくれればそれでいい。死んでもなお一緒に生きてくれと、そう祈りながら充希を飲み込んだ。
空になった器の縁を指でなぞる。木更津旅行はキャンセルしないでおこう。綺麗な写真が撮れればブログにあげたい。そうだ、もういっそ、数か月ほど旅行先を点々としながら暮らしてみるのもいいかもしれない。二人なら予算が嵩むところだが、今の二人なら一人分の値段だけで済む、なんて。
充希の肉を食べたところで充希はもうこの世にいない。食べたのも充希だった身体の肉でしかない。それでも、私の中には充希がいると信じ続けていたい。
彼女を糧に、私は明日も生き続けていく。
箸を置き、手を合わせる。先ほど泣いたせいか痰が喉に纏わりついていたが、気にせずに声を出した。
「ご馳走様でした。」
食葬 @azumamisao
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