第3話 楽園のあとで

「以前もした話を繰り返そう。結論から述べると、君のいうテレパシーは勘違いだ。まやかし、気のせい。君の懸念は旦那の帰りが遅いだけで浮気を疑う嫁の心理と、そう遠くない」

「疑心暗鬼、ですか?」

「そうだ。自分の影に怯えるな」

 カップの底を覗けば、珈琲の黒ずみが残っていた。

「自他の区別が曖昧な幼少期には珍しくない。他人の経験を自分のものとして話すような、人称の混同にすぎない。君たちの場合は、特殊な環境下で育てられたために、心身の成長が不十分だった。共に過ごした時間の長い双子が、似通った思考や趣向を持つことに同じく。彼らはテレパシーが使えるから以心伝心するわけではなく、似通った経験をもつから行動や思考のパターンが共通している。レーンの同じ工業製品、というわけだ」

 先生は製薬会社のロゴが印字されたボールペンを2つ並べる。どちらも同じ製品だが、それぞれは別の物体だ。先生は当たり前の話も、根気強く繰り返し説明してくれる。この話も、飽きるほど繰り返されてきた。

「思い出すことがあるんです。彼女は元気でやっているのかって」

「いい傾向だ。他人を気に掛ける余裕が生まれたことは、自分のことだけで手一杯じゃなくなった証拠だろう。極端に視野の狭かった状態は脱した」

 夢は生活の余裕が生み出した隙間に染み出して溜まったもの。それらはけして悪いものではない、と先生は力強く頷いた。生活に上手く馴染みつつあるのだと。私の夢は悪夢ではないのだと。

「お互い生きていれば、いずれ会うこともあるだろう。ひとたび別れたら二度と出会わないことなぞ、存外珍しくないものだ。それと同じように、人生は偶然に恵まれている。その点、きみはずいぶんツキがある。心配することもないだろう」

「先生に出会えたから、ですか?」

「珈琲の味と唯一自明なことだ」

 さして面白くもない冗談だったと、先生はカルテに向かい直した。

「次は手土産のひとつでも持ってこれる気遣いを身につけてくることだ」

 私は深々と頭を下げ、教会を辞した。



 不安は完全に消えたわけではなかったが、先生に話せたことで水面に立つような不安定さからは解放された。私は先生の助言に従うべく、路面電車を街中で下車する。休みをもらった感謝をヘイリー氏へ示すためだ。女史は南部ベーカリーが作るシナモンたっぷりのカップケーキがお好みだった。

 しかし、普段街中を出歩かないために、ひとの往来に目を回した。火曜日のアーベニューは落ち着いた人波だったけれど、私には肩がぶつかり合いそうにさえ思えた。目眩が私の膝を折った。手をついた雨上がりの石畳は冷たく、人目が突き刺さったけれど、私が息をつくにはほかにどうしようもなかった。

「こっちへいらっしゃい。温かい紅茶はいかが?」

 眼の前でひらひらと振られた小さな手。しっとり張り付くようなみずみずしさと、ぷっくりした朱色の肉付きが幼い子供らしい。

「ママが教えてくれたのよ。一息つきたいときは、目を閉じてお砂糖たっぷりの紅茶を思い浮かべるの。もちろん、本当に飲むほうがいいわ。ご心配なくね、ここにはきちんと用意されているのよ。たっぷりのミルクがほしければお望みのままよ。クリームとスコーンも揃っているわ。私はお茶に誘うときの礼儀は欠かさないの」

 私はすぐには動けなかった。口数の多い少女に面食らったわけではない。その少女の容貌に見とれてしまったのだ。朝日のような金髪と、色づいたアンズのような頬。夢にまでみた、いいや、夢でみた庭を駆け回る少女と瓜二つだった。

「お返事もしないのは失礼ではなくて?」

「あぁ……すいません。知人にそっくりだったもので、驚いてしまったんです」

「知ってるわ。いい挨拶ね。そういうの、悪い気はしないのよ」

「いいえ、本当に……もし、返事が遅くないのなら、お邪魔してもよろしいですか?」

 石畳に膝をついた私と、テラスの椅子で足をぶらつかせていた少女の視線は、自然に真正面で挨拶を交わす。

「そう。恥をかかせられたって、ママに言わずにすみそうでよかった。こうみえても厳しいの。とくに男のひとね。昔の男にひどい目に合わされたのよ、きっと。男に舐められるととっても怒るのよ、ママったら」

 少女は驚くほど口達者だった。年頃らしく、ツンととがった口が忙しない。自分のこと、母親のこと、学校の男の子のこと。聞いてもいないことを矢継ぎ早にしゃべった。私が一ヶ月でしゃべるよりも多くの言葉を浴びせられたけれど、不快ではなかった。彼女が息を付く間もなくしゃべりかけることで、私は人混みを意識せずに済んだ。

「ご親切なお嬢さんレディ。お名前を伺っても? お礼をする相手と、ちゃんとお知り合いになりたいのです」

 寒気が収まり、息を取り戻した私は、丁寧に口を開いた。陸揚げされた貝よりも慎ましい態度だった。もちろん、店員を呼び止めてケーキの追加を忘れなかった。

「悪くないわね。ここのクロテッドクリームは濃厚なの。ジャムもおすすめだけれど、甘すぎてちょっぴり子供向けなの」

「良いことを聞きました。甘いものを食べ過ぎると普段は怒られてしまうので、目を盗んで食べに来ることにします。穴場、というわけですね」

「素直なのは良いことよ。いいわ、教えてあげる。イヴよ、よろしくね」

「こんにちは、イヴ。ありがとう、私たちは素敵な出会いに間違いありません」

「神の思し召し?」

「いいえ……申し訳ないのですが、神様とは仲違いしたままでして」

 イヴは眉をあげて、目を光らせた。好奇心の強い、彼女を思い出させる仕草。もちろん、そんなものは見たことがないのだけれど。私の脳内にあった幼い彼女のイメージが具現化したように思われた。不躾にならない程度に、袖口から覗いた白い腕を盗み見た。そこに傷跡はなく、イヴが彼女でないことは明らかだった。

「レディは視線に敏感よ。美意識ってヴェールみたいなものなの。見られて磨かれるもの。だから、よくってよ」

「申し訳ありません。じろじろとみるつもりじゃなくて、不快な気分にさせてしまったなら」

「いいのよ、度量が深いこともいい女の条件なの。それで、あなたはなにをお探しなのかしら」

 慌てて差し出した謝罪は運ばれてきたケーキで差し止められた。

「美味しそうね」

 彼女は言い繕うことを許さず、まっさらな素直さを求めた。私は叱られた子どものような居心地で、喉の奥で言葉をつまらせた。

「当ててあげましょうか。簡単なゲームをしましょう。私が質問をするから、あなたは

イエスかノーで答える。隠し事はいけないわ、嘘はもってのほか。五つの質問をするまでにあなたのことを当てられたら私の勝ち。それでいいかしら」

 私は詰まりそうだったスコーンを紅茶で流し込んだ。

「ひとつめ。子供のころ、躾が厳しかった」

「ふつうの家庭とはいえなかった。おおむね、イエス」

「ふたつめ。昔は遠くに住んでいた?」

「イエス。でも、外国ではないと思う」

「みっつめ。近ごろ夢見が悪い」

「イエス」

「いい調子よ。よっつめ。このあと待ち合わせがある」

「ノー。まったくの偶然です」

「おかしいわね。じゃあ……昔の女性関係でトラウマがある」

「イエス。女性だけじゃないですけれど、昔のことはあまり思い出したくないですね」

「いつつめ。その女性は、ここに古傷がある」

 イヴは左前腕の内側に、指先を突き立てた。私は咄嗟に頷くこともできなかった。彼女には、その反応だけで十分な答えだった。

「イヴ、あなたは――」

 私の言葉は最後まで形にならなかった。

「なにしているの?」

 色づいた小麦色の眉を歪めた女性が、イヴの肩に手を置いた。

「ずいぶん長いお手洗いだったわね、ママ」

「あなたが勝手にどこか行くからでしょう」

 イヴの母親と思われる女性は、確かに彼女を成長させたような容貌だった。化粧っ気の薄い肌には、わずかに苦労が浮かんでいるものの、それが彼女の魅力を損ねることにはなっていない。彼女が同席している私を認めると、一旦目が見開かれたのち、鋭く細められた。

「ママ、悪いんだけど、お手洗いに行きたくなっちゃった。お化粧直しに時間がかかるから、この方の相手をしてあげてくれない? 私のいいひとなの」

「冗談は聞きたくないわ」

「冗談じゃないのよ。私にはママのこと、なんでもわかるのよ。通じ合ってる家族だもの」

 言うが早いか、イヴは私にウインクをして席をたった。

「まったく、言うことを聞きやしない」

 女性はため息をひとつ落として、私の向かいに重たく腰掛けた。

 私から口を開かなければと思ったが、相応しい言葉が浮かばない。女性は深くため息を吐いて、伏せた顔をあげた。

「子供に会わせない、というのは酷だと思ったの。私も親として、あの子を育て始めて十年になる。だれがそうなのか、と考えたときに、あなたの顔が浮かんだ。あの子は好奇心旺盛だし、隠してもいずれは気付かれる。ただ、誤解しないでほしいのは、私たちは別にやり直すつもりなんてないってこと」

「なんの話か、私にはわかりません」

 彼女は戸惑った私の反応に、もうひとつため息をついて、上着の袖をまくり上げた。左腕の内側。そこには癒えない傷跡がはっきりと残されていた。焼け付いた記憶と共に。

「ライラ。今はそう名乗ってる」

「こんにちは、ライラ」

 自己紹介に対する半ば自動的な挨拶の癖を、苦々しく繰り返した。

「ええ、こんにちは。お久しぶり、あなたはずいぶん親切な人たちに拾われたみたい」

 イヴは席をたったきり帰ってこない。テラス席を囲む四つの椅子のふたつには、沈黙が重たい身体を預けていた。私は話す糸口を探していた。ライラには言わなければいけないこと、聞きたいこと、多くの気持ちが地層のように積み重なっていた。

 ライラは手つかずだったケーキにフォークを入れる。切り崩された断面からスポンジと間に挟まったレモンカードが覗き、爽やかに香る。

「長く掛かったことは謝る。私にも時間が必要だった。過去と和解する時間が、たっぷりと。決心がついたのは、あの子の力が抑えられなくなってきたから。使わせないことは難しかった。あの子の力は私の塞ぎ込んだ力も勝手に開放してしまった。だから、否応なく繋がってしまった、と言ったほうが正しい」

「力って……私たちは、もう失ってしまったじゃないか」

「まだ誤解したままなの? それとも誤解させられた?」

 彼女は口元にケーキを運び込んだ。その瞬間、私の脳内に柔らかな弾力と初夏の酸味が広がった。紛れもなく、彼女の経験の共有だった。

「一度繋がった道は簡単にはなくならない。枯れた川も、一度雨が降れば流れができるもの。今までは単に、私もあなたも、双方が繋がることを拒絶していただけ」

「テレパシーなんて存在しないんだ。でなければ、秘密を持てたはずがない。秘密は、隠し事は、だって、テレパシーの理念に反しているじゃないか」

 子供じみた駄々のように、拳を握りしめて私は吐き出した。

 あの庭で、彼女は私に秘密をもっていた。それはお互い通じ合うというテレパシーの存在に反している。

「私たちのテレパシーは、ウェブ上のクラウドに保存されたデータをみるようなもの。個人の記憶、経験を鍵のかかっていない共通のストレージにアップロードし、個々が任意のタイミングで、任意の記録を呼び出して追体験できるシステム。夢のような無意識下においては、一方的に記憶を送りつけることもできる。意識がないなら、拒絶もできない。あなたに見せた記憶は、そういう理由で伝わったはず。見たでしょ? イヴが庭で遊んでいるところを」

 ウェブとか、クラウドとか、わかる? と、彼女は目線で確認した。私はかろうじて頷き返した。

「私は秘密なんて持っていなかった。あなたが自分の殻に籠もって、私のすべてをみようとしなかっただけ。痛み、血。その気配を感じるたびに、あなたは自分の殻に引きこもって逃げた。私がなにを経験して……いいえ、なにを経験させられたのか、本当のことは知らない。おそらく、これからも知ろうとしない」

「そんなはずないよ。私はきみの経験を、あの庭でのことは、みていたつもりだよ」

「わかっていたフリでしょう? 私はあなたのことを、あなた以上に見ていたのよ?」

 うなだれた首をあげることができなかった。

「でも、謝らなくていい。私もあなたに言わなかった。あなたが私を都合よくしか見ていないことを知っていながら、真実を伝えようとしなかった。口で言えば伝わったのに。それにあえて苦しみを共有するなんて、馬鹿らしいでしょ? そこまで背負ってくれるひとじゃないって解ったもの。だったら、押し付けるのは暴力と同じ。私もあいつら――父や兄を名乗っていた大人たちと同じにはなりたくない」

 だから、これは和解なんかじゃない、と彼女は釘を差した。

「私はあなたの顔なんか見たくもないけれど、時々イヴに会うくらいならいいよ」

「なぜ?」

「あなたが臆病で腹が立つけど無害なままでいてくれたことがわかったことがひとつ。もうひとつは、あなたが父親でもいいから。ほかの誰を父親に据えるよりマシってこと」

 私は彼女の言わんとすることに気が付き、絶句した。いいや、薄々気づいていたのだ。それを見ないようにしていたのは私の方だ。腹部の圧迫感、痛み、血、苦しみ、恐怖、混乱。それらの気配はずっと昔から知っていたものだ。それらの遊びは、ずっと昔から繰り返してきたことだった。

「謝らないで。腹が立つだけだから。今はもう整理のついた話。傷は残っているけど、それでもイヴに会えたことだけは、私の幸福よ。それを汚すことは許さない」

「あぁ……」

 私は目線を上げて、彼女の顔をみた。

 精悍な横顔は、厳しい冬に耐えた白樺のようで、それについて感想を言葉にすることさえためらわれた。

「母親になったんだね」

「ええ。長い時間をかけてね」


 私たちの会話はそれで終わりだった。

 戻ってきたイヴは私たちの雰囲気を察して、どこか不満そうに鼻を鳴らした。

 私は日が暮れ、カフェテラスが閉まるまで、長らく腰掛けていた。ゆったりと過去に思いふけった。これまでのこと。これからのこと。冷めた紅茶に浮かんだ顔をなぞった。

 私は、いくつかのことを思い出し、いくつかを忘れることにした。

 その晩、なにか夢を見た気がした。けれども、目覚めてしまえば、どんな夢だったのか、思い出すことはできなくなっていた。

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楽園のあとで 志村麦穂 @baku-shimura

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