第2話 楽園の庭

 私の過ごした美しい庭。その実態は超能力の研究施設だった。私はなにひとつ理解しないまま、失敗作の烙印を押されて放逐された。研究機関や施設が今も存続しているのか、あるいは解体されたのか。知るすべはない。

 庭は季節の変化に乏しく、私は時間の経過に疎かった。生まれてから庭の外に出た記憶はない。先生に助けられたときは十八歳ほどの少年だったという話なので、幼少期のすべてをあの場所に置いてきたことになる。

 私の他には、研究機関の長と思われる『父さんファーザー』と、生活の世話をしていた『兄さんブラザー』、そしてもう一人の実験体として彼女がいた。私と彼女には名前が与えられず、その必要もなかった。

「いいですか。お庭で遊んでも、辺りの物を拾って口に入れてはいけません。食べられそうな果実が生っていたとしても、触れてはいけない。わかりますね?」

 兄は外に出る度、口酸っぱくして言った。お父さんに怒られてしまうからね、と重ね重ね忠告した。

 私たちふたりはやんちゃな盛りで、外に強い好奇心をもっていた。家のなかは壁も床も平らで目新しい刺激に乏しかったのだ。暑さに汗をかくことも、寒さに震えることもなかった。望めば空腹は満たされ、まどろみだけがふたりを包んでいた。

「カチカチ、ゆび。なぞって、ぽにぽに。やわやわ、おなか」

「うん。しってる」

 私たちふたりの遊びはお互いの身体を触り合うことぐらいだった。

「ゆびはいった」

「しゅびしゅび」

 脇腹を撫でられ、くすぐったいの造語を口にする私。くすぐったい、という言葉は与えられていなかった。

 私たちは無垢であって、お互いを口に含んだり、指を突っ込んだり。痛いこと、心地いいこと。お互いを思い出すことができたから、力加減はすぐに覚えた。噛んだり、叩いたり。なんにも起こらない家のなかで、自分たちの身体を玩具にしていた。

「もしょな、ね?」

「うん。もしょな」

 私たちは退屈や飽きたという言葉を持たず、勝手に言葉をつくって空白に耐えていた。そんな折、なにも与えようとしなかった父や兄が、私たちに庭で遊ぶことを許したのだ。

「キキ、こっちもキキ!」

 鋸歯の葉縁を足の裏に受けて、彼女ははしゃいで叫んだ。枝を踏み喜声をあげ、嬉々として小石を踏んだ。ついには身体を放り投げて、転がりまわった。知り尽くした感覚がなにひとつなく、語彙の少なさがもどかしい。私たちはとにかく、言葉を重ねることで程度を現していった。

「ンド、だよ。ンドドドド!」

 私の体重ひとつ分がンド。それからドを増やして、重量の増加を表していった。私は庭木に抱きついて、ドを連呼していった。それまで自分たちの身体以上に重たいものは知らなかった。

 しばらくは新鮮さに飛びつき、感触を確かめ、新しい言葉を作り出していった。私たちの意識のうちで大半を占めていた触覚から、外に出たことで嗅覚を、さらに自分たちの声以外の音を得て聴覚を広げていった。


 庭での活動が私たちの身体機能を向上させたのだろう。這ったり、転げ回ったりするだけだった私たちは、手を使うことを覚え、不安定ながら一時的に立ち上がることもできるようになった。外の一般的な成長過程を知った今では、ずいぶん遅い発達だ。あの庭では危険はなく、不安もなく、言葉でさえも多くを必要としなかった。父さんは私たちが立ち上がることを望んでいなかっただろう。自立は別離を匂わせる。

 庭に出はじめて、しばらく経った朝のことだった。

 その朝は匂いに包まれて、私たちは新たに感覚が開いていくことを知っていった。

 瑞々しい朝露に、未熟な青い香りをみつける。淡くむず痒い期待が鼻をくすぐった。

「する。あーまからだよ」

 庭木に果実が実っていることに気がついた。頭上の好奇心。嗅覚と手足。私たちが手に入れることをためらうはずもない。

「おしり押すから、とってとって」

「もっと、こっち! ちょっと、のびで、のび!」

 彼女が樹に飛びついたところを、私が肩で押し上げた。匂いを頼りに木に登り、やみくもに手を振り回して果実を探ろうとする。私の頭上からはザワザワと木の葉を揺さぶる気配が伝わってきた。

「もうちょっと! たぶん」

 私の肩からはもはや遠く、彼女が果実を払い落とすことを口を開けて待っていた。彼女は腿だけで幹をはさみ、両手を振り回す。そんな姿勢で満足にしがみつけるはずもない。異変を感じたときには手遅れで、私の耳朶を打った落下にはうめき声が伴っていた。

 身体を受け止めるのに、地面は優しくない。私たちは受け身の取り方も、足から着地する術も知らなかった。彼女はかろうじて頭を打たずに済んだ。命に関わる怪我は避けられた。

 うずくまる彼女は涙を流していた。呼吸もままならない様子で、どうしていいかわからず触れた私の手は、彼女に苦痛を与えただけだった。鋭い悲鳴が手ひどく頬を張った。事態の深刻さに思い至った私は、彼女の痛みを慮った。

 私はすぐさま彼女を思い出した。

 彼女の傷と、痛みを、反復した。

 左腕に激痛が走った。脇腹にも強い圧迫感があり、重たくのしかかられているようで地面を捻転とした。意識が遠のき、助けを求める声を出すことも出来ない。言葉にならないうめき声は、噛み切った唇の端から漏れただけだった。

 異変に気付いた兄さんが私たちを発見し、適切な処置を施してくれたらしい。

 彼女は左前腕と、肋骨が数本折れていた。私はその痛みを思い出し、頭の中で傷を負ったに過ぎなかった。

 しばらくの間、彼女とは離れて生活をした。これまで常に共にあった彼女がいない孤独。それでも私たちはつながっていることができた。私たちはいつでも互いを思い出せた。

 テレパシーという名を知ったのは、私が先生と出会ったあとだった。

 私と彼女はお互いの経験を共有していた。互いが記憶を、いつでも自由に思い出すことができた。どんな些細な出来事も、身体の感覚や高揚感まで鮮やかに、自らの脳内で追体験した。

 だからこそ、彼女が怪我をして、私は思い出さないようになっていった。

 彼女の経験は痛みを伴ったもので、傷が治るまで、それらは私に対しても生々しい傷をつけた。

 はじめての孤独だった。

 それまで彼我の境界が曖昧だった私たちに、孤独は明確な線を引いた。肉と記憶を分かち、私たちは自分の身体を意識するようになった。はじめての知恵だった。

 思い出せる限りの、明確な転機だったように思う。

 彼女が戻ってきたとき、再開されたふたりの遊びは色合いが変わっていった。

 私は次第に彼女の経験を避けるようになった。しかし、思い出さないからといって、彼女の出来事を知らないわけではなかった。荒い気配や甘い声色。しつこい触り方。私たちは互いの身体に、前よりのめり込むようになっていた。しばらくの間、庭を禁じられていたことも影響していた。

 私たちは私たちの身体を玩具にするほかなかった。

 幾ばくかの時間が過ぎた。彼女が寛解したのち、庭へ出ることが許された。私の脳裏には癒えない傷が残っており、思い出す度に滲みて痛んだ。私は外出しないようになった。対して彼女は、臆した様子もなく外へ出た。

 家に閉じこもり、彼女の経験を覗きみて間接的な快感を得る。

 寝たままにして私は外の刺激を手に入れられた。痛みを伴いそうなときは、記憶を閉ざして拒絶した。テレパシーは働きかける側に選択権があった。知りたくないと思えば、こちらから道を閉ざすことができる。

 父さんは言った。「信頼が道を開いているんだ」、と。

「記憶や感情は独占すべきものではない。私たちは家族なのだから、私たちの財産はみなで共有すべきものだ。一方的に与える関係、搾取する関係であってはならない。真に対等な関係は精神からこそはじめるべきだ」

 理解は及ばずとも絶対だった。父さんは私と彼女を創り出したのだから。

「知りすぎてはいけない。求めすぎてはいけない。知識は疑念を生み、憎しみを育み、信頼を蝕む。知恵を求めてはいけない。知識を欲しがってはいけない」

 知は欲を育てる肥沃な大地だと、父さんに教えられた。

 テレパシーに垣根はない。ひとを平等にする。痛みを共有して、感情を分け合う素晴らしい技術なのだと、今でも信じて疑わない。信じているから、私は裏切りに耐えられなかったのだろう。

 テレパシーはお互いの信頼が失くなったとき、失われる。

 私はそう考えている。

 私は裏切りにあった。

 彼女の手酷い裏切りだ。


 彼女の事故以降、私たちが共に行動することが減った。私は引き籠りがちになり、彼女は懲りずに庭へ遊びに出た。私は日がな一日彼女の思い出に浸り、夢の中で庭を知り、彼女と繋がっていた。私は今日を思い出すこともあれば、昨日を思い出すこともあった。痛みを避けて心地いい思い出だけを繰り返しなぞる。

 変化は突然に訪れた。

「あッ」

 彼女の記憶から飛び込んできた白い針。彼女の今日を思い出したら、突然痛みに襲われた。私は混乱したまま、兄に助けを求めた。

「残念なことです。あなたも知ってしまったのですね」

 歪められた眉をみた。

 私ははじめてヒトの顔を視た。

 にじんだ視界が晴れていき、白さが収まっていく。白い針は光と呼ぶのだと、あとから知った。

「なにが起こったの?」

「あなたは知ってしまったのです」

 兄は涙を流していた。私は事情を把握しようと焦り、すぐさま彼女を思い出してしまった。そして、さらなる知識を獲得してしまった。それはわずか一日の世界ではなかった。何日も掛けて蓄積された、私たちと世界に関する膨大な情報。そして、深く燃えたぎるような彼女の怒り。

 私は目を開き、足裏をついて、二本の足で立ち上がることを知った。

「あなたは出ていかなければなりません」

 はるか頭上から降り注いでいた兄の声は、目の前から水平に発せられていた。私の身体は既に子供とは呼べないものだった。

 私は駆け出した。彼女の姿を探した。はじめての歩行は難儀なもので、何度も転がったが、痛みは私の身体を止められなかった。

「彼女はここを去るところです。今から行けば、ひと目みることも叶うでしょう」

 兄の言葉を背中に受けて、私は白い壁に囲まれた廊下を抜けた。記憶にある方向感覚に従い、庭へと出ると彼女の後ろ姿がみえていた。彼女は手を伸ばして、以前は手に取ることが出来なかった果実をもいだ。かぶりつき、私のもとまで甘ったるい果肉を香らせた。

「さよなら」

 彼女はそういった。

 熟しきった果実の汁が、肘を伝って、なだらかに丘を描く彼女の秘密に滴り落ちた。

 それは柔らかくも、細っていた彼女の肉感からは想像もできない、丸く突き出た腹部。それは毎日経験していた彼女にはなかったものだ。

 このときの私は、彼女の変化について知識を持っていなかった。しかし、明らかに別の生物へと変わってしまったことは理解できた。身体だけでなく、意識も遠く離れ、もはやテレパシーの届かない存在へ変わってしまったのだと。

 秘密だ。彼女は私に隠し事をしていた。

 異様に膨らんだ腹が、ひどく私を傷つけた。

 彼女は私に言うこともできた。テレパシーを介さずに、身体を打ち明けることもできたのだ。でも、そうしなかった。

 彼女は光をかき集めたような金色の髪を耳にかけた。生白い肘には傷があった。樹から落下した際の傷跡だった。艶かしく、赤く、のたくった肉の筋。私は複雑な感情のままに、彼女の美しさに見惚れていた。

 裏切りにひどく打ちのめされていたのに、突き上げる熱を抑えられなかった。

 そんな私に澄み切った目線が刺さった。

「さよなら」

 彼女は静かに、もう一度、別れを告げた。

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