楽園のあとで

志村麦穂

第1話 夢診断

 その夜、久方ぶりに古い夢を見た。懐かしいと言い切れるほど傷口は癒えておらず、夢の中でも動揺していた。

 白壁が朝日に映え、芝の緑が鮮やかに萌える美しい庭だ。十歳ほどの女の子が裸足で庭へ降りる。彼女の仕事は朝露を集めること。草葉の先から垂れる雫を、両手を重ねて受け止める。膝を折ってかしずくように、恭しく一滴ずつ溜めていく。膝が濡れることも厭わず、肌寒いだろうに忙しなく動き回る。彼女は一杯の清浄な水のために労を惜しまない。

 私はこの光景を知っていた。けれど、眼にしたことはなかった。

 夢だと判断できたのは、ありえない光景だったから。私の知識を元に脚色された記憶の風景だった。再現映像のようなもので、断片的な経験を下地にしているのだろう。

 気付いてしまえば、あとは間違い探しの容量で、当時ではありえなかった不可解な点をあげていく。例えば、幼い彼女の表情。私は幼い時分の彼女を見たことがない。成長した彼女から幼い頃を想像はできるだろうが、こうもはっきり思い描けるだろうか。

 風景にしても同じことだ。私は成人前までの時期を施設で暮らしていたらしい。施設は人里から離れた広い森の中にあった。陽の差し込む明るい森を今でも明瞭に思い出せる。マグパイの姦しい噂話、湿った朝靄、枯れ葉と虫のかくれんぼも。

 何もかもを覚えている。美しい記憶だ。壊すことの出来ない永遠の過去。

 だからこそ、違和感が拭えない。

 彼女には傷がなかった。

 私はもう、あの美しい場所にはいられない。


「顔色悪そうね。早めに上がってもいいのよ。雨の平日、客足も落ち着いていますから」

 バックヤード作業中に、返品梱包に手間取っていた私を、社員のヘイリー氏が気遣った。問題があることを了解済みで雇ってもらっている身としては、勤務に穴を開けることに後ろめたさがある。

「うまく眠れてなくて。言うほど体調は悪くないんです」

 簡単な梱包だ。商品を下から大きい順に段ボールに詰めていくだけ。できるだけ隙間をなくして、傷をつけないよう詰めるほかに手間取る理由はない。余計に焦りだした私の額に汗が滲んだ。顔はほてり、指は冷えてかじかむ。

「自覚症状がないこともあるわ」

 ヘイリー氏は私の肩に手をおいた。時間切れの合図だった。五度も詰め替えていた私に対し、我慢強い態度には違いない。寛容で丁寧な微笑み。彼女は他人に対して期待を持たない。犬が芸を覚えたら褒め、物覚えの悪い不出来な子も強く否定しない。躾は彼女の方針ではないのだ。

「焦る必要はないのよ。差し迫ったことはなにもないもの。そう、ゆっくりお茶でもいかがかしら? 店番は息子にでも任せましょう」

 皺の深い手は、予想外に強い力で、私を椅子へと座らせた。私はなにか、疑われているのではないかと不安に陥った。

「本当に、大したことではないんです」

 恥ずかしさが喉を絞めていた。いっそ排除された方が、負い目を感じずに済んだ。

「いいえ。なにが大したことかは、人それぞれだもの。また近所の子供に石を投げられたの?」

「いいえ。キニはあれから私に構ってきません。遠巻きに睨まれたり、甘ったれだと罵られることはありますが。彼はいい子にしています。きっと、養父母ご両親が厳しかったせいでしょう」

「やっかみね、悪い癖だわ。他所様に厄介になっていながら、自分の家の教えを守ろうとするの。そのうえ、施しを受けようというのだもの、厚かましいったらないわ」

 社会復帰のための、被害者救済支援。

 鑑札には、そう書かれている。赤い革の、私のためのやさしい首輪。

「ヘイリーさん、今回は私の不調が原因なんです」

 促されるままに、一口、赤みのある渋色の液体を含んだ。鼻から抜ける複雑な香りだ。人手の入りすぎた、作り手の意識が見える味。あの庭では感じたことのない、他人の意図が体内に入り込んでくる。今となってはとても気持ちが悪いものだった。理解の出来ない他人が、我が家の玄関よりもさらに内側まで土足で踏み入ってくるのだ。

「近ごろ、夢見が悪いのです」

 昔の記憶を手直しした模造品の夢は、あれから度々夜に現れた。思い当たるようなきっかけはなかった。いじめっ子のキニや、無愛想なヘイリー氏の息子のジョナサンも、過去への足がかりにはなり得なかった。店にやってきた客だろうか。私は頭を振った。

 私は化石を掘り起こしてはない。何某かの天変地異が起こったとき、それは自ずから地表に現れるものだという。断層から太古の人骨が見つかるように。

「話してご覧なさいな。こうみえて、フロイトもアドラーも一通りは駆け抜けた青春なの。彼らの語る心理学には夢があったわ。あら、ここは笑ってもいいのよ?」

 私は曖昧に口を緩めた。手作りのバタークッキーを一枚手に取り、会話の隙間を埋めた。

「夢は記憶の整理をしているともいわれているわ。すべてではないけれど、あなたの身の上については先生から教えてもらっています。機微に鈍いつもりはなくってよ。関係しているのでしょう? 夢とあなたの古巣が」

 私は繰り返しみる夢の内容を話して聞かせた。

 庭と、知るはずのない彼女の姿。何度も現れるが、常に同じというわけではない。庭の緑を照らす日差しの角度が変わり、空気の質感から季節の移り変わりを感じる。

「深層心理でしょうか? 例えば、私があの場所を懐かしく思うような。あるいは、私のような子どもたちの無意識に、接点をもってしまったのでしょうか。才能の、欠片のようなものが残っていたとしたら」

「危険な考えだわ」

 ヘイリー氏は舌を鳴らして、人差し指を立てた。

「あなたが手にしている環境は、とても得難いものだと自覚しなければいけないわ。あなたはとてもついていた。けれども、それを気にする必要はないの。ただ覚えておいて、頭の隅に置いてさえいてくれたら」

「忘れたことはありません。先生が放逐された私を拾ってくださり、ヘイリーさんが手厚く面倒をみてくれている。とうに一人前の年齢でありながら、牛ののろさで自分を取り戻す作業ができていることにも。私はキニに言い返す言葉もないぐらい、施されていると思います」

「そうじゃないわ。それでは私が恩を着せているみたいじゃない?」

「先生とヘイリーさんは、命の恩人です」

「私はお手伝いをしているだけ。あなたが、あなたらしく生きるためのね」

 息が詰まりそうな距離に、ヘイリー氏はわざとらしく手を重ねた。私には方法がわからない。なにをするにも彼女に逐一問いを立てねば動けない。逃げ方さえも知らないのだから。

 私らしさとはなんだ。あの頃の私には必要なかったものだ。

 あの美しかった庭を追い出されて私が知ったことは、私がなにも知らないということだけだ。図体だけが大きいばかりで、赤子同然の無知。それは無垢と呼ぶには、羞恥にまみれた姿をしていた。

「ヘイリーさん、私はぐっすり眠りたいだけなんです」

「ええ、もちろんよ。夜に煩わされるのはひどい気分でしょう。夫のいびき、子どもの癇癪。田舎道のバイク。この世には穏やかと程遠いものはいくつもあるわ。無論、悪夢もそのひとつね」

 小さい子供だったら、はちみつたっぷりのホットミルクをあげるところよ、とヘイリーさんは桃色の頬をほころばせた。

「先生には話をしておくわ。時間をみて、会いに行きなさい。あなたの悩みをきっと解決してくれるはずよ」

 口に含んだ紅茶は濃く出過ぎて、渋みが歯にかぶさった。

「先生は何でも教えてくれるはずよ。よく眠れる方法も、胸に隠したしこりを溶く魔法も」

「頼みの綱です。先生は本当に、何でも知っているから」

 カップの底に映った私の顔は、見知らぬもののように揺らめいていた。


 モルタルを塗り込んだ小さな教会。先生の診療所は教会の一室を間借りして開かれていた。慈善事業同然の診察料のために、薬や器具の調達にも苦労している有り様だった。助手を務める看護師のパイル氏が、以前勤めていた病院の伝手で、なんとか融通をしてもらっている状況だった。

「あなたからも先生によく言って聞かせてちょうだい。先生は自分のお好きなようにやれて満足でしょうけれど、支える人間がいてこその我儘だということを自覚してもらわないと」

「パイルさんの献身あってのものですよ。先生は面と向かってはおっしゃらないでしょうけれど」

「本人の口から聞きたいものね」

 訪れるたびにパイル氏からチャーミングな愚痴を浴びせられ、日向の匂いを感じる。先生がいる教会は、あの庭を思い出させる。不安のない心地よさに包まれている。洗いたてのシーツは黄ばんで、教会の壁は雨だれに汚れているけれど、眠気を誘う。

 教会の廊下を浅黒い肌の男の子が駆け抜けていった。長椅子の上で眠りこけている老女は、順番待ちを忘れているのだろう。年月を忘れた眠りの中で、庭木のように穏やかに息を続けている。

 年老いて黒く艶のある扉を控えめにノックする。先生はちょうどカルテの整理を終えたところだった。マグを口につけ、眼鏡の奥で眉をしかめてみせた。

「マギーはいつまで経っても珈琲の淹れ方を覚えようとしない。君からも言って説得してくれないか。私の言うことは聞く耳をもたないんだ」

 先生はパイル氏を愛称で呼ぶ。渋りきった口調には信頼と愛着が込められている。

「お二人共、相変わらずで安心しました。出会った頃から、ちっとも変わりません」

「進歩がないという嫌味か? 多少人間らしい喋り方を覚えたと思ったら、これか。確かに物真似は上達の秘訣だろう。だが、手にしたものの使い方は、個人の品性に委ねられる。いいか、あまりセンスのない人間にはなるな。これは忠告だ」

「珈琲は私が入れ直しますよ」

「ぜひ、そうしてくれ」

 珈琲の淹れ方は私が拾われて、まず最初に覚えたことだ。人間になる工程はひと通りではない。手間と時間を惜しむべきではない、と先生は教えた。パイル氏がいれる珈琲がイマイチなのは、彼女が家事に対してせっかちだから。先生が患者にかまけてばかりいるせいで、とは彼女の口癖だ。

 私はあの庭を追い出されてからの数年、先生とパイル氏のもとで暮らした。先生は私に道徳を教え、パイル氏は社会常識を教えた。仕事の合間を縫って、人間らしく生きることについて、ふたりは言葉を惜しまなかった。

「ヘイリー女史は気遣いの足りてないところがある。マギーほどでないにしろ、彼女は無神経な節がある。もう年寄りだから、自らに頑なだ。君も彼女の専断には辟易としているのではないか?」

「いいえ。ヘイリーさんは良くしてくれます。私が、あんまりうまくできないんです」

 湯気を立てるマグを差し出しながら、曖昧な笑みを浮かべた。先生はゆらめきの向こうからじっと眼を立てて窺う。時折、先生にも他人の心が見通せるのではないかと思うことがある。昔、何度も疑ったことがある。そのたびに私が分かり易いだけだ、と笑われた。

「私の考えていることがわかるか?」

「いいえ、なにも。珈琲を飲みたい、とかですか?」

「つまり、君の不安はその程度なものだ。訪れてもいない幻を睨んで、空が落ちてくると恐れている。せっせと空を防ぐ屋根を建てているが、まるで無駄な行いだ。はっきり徒労と言い切ろう」

「私の才能は、もとに戻ったりしないと?」

「そもそも勘違いだったのだ。彼らが追い求めた妄想を信じ込まされていただけだ」

 先生は珈琲を流し込み、消毒が傷に染みているようなため息を漏らした。

「不安が悪いことだとは思わん。危機に備えるための、一種の未来予測だからな。しかし、

それは明日の天気を占う程度にしか役に立たん。不安を人生の指針にしてはならない」

「取り越し苦労でしょうか。私は……なにかの、兆しではないかと。こんなことは庭を追い出されて、一度たりともなかったことです。正直に口にしてしまうと、怖いのです。先生とパイルさんのもとで積み上げた時間までもが、再び崩れてしまうような気がして」

 苦心して自分の手でいちから積み上げた家だ。過去に一度すべて崩されてしまった。しかし、それは他人に与えられたものだった。故に絶望はあったが、納得もできた。今度は私が作った家だ。不格好でも崩れ去ったら、やり直せる自信がない。

「言い当ててやろう。これは君らの言う才能などではない。人間同士とはどういうものか、多少人生に含蓄のある者なら吐ける訓示のようなものだ」

 先生はつまらなそうに指を立てた。いかに悩みが大したことがないかを示す、先生ならではのパフォーマンスだ。死期の迫った患者へ、何度もそうやって言い聞かせる場面をみてきた。初恋の終わりが来たようなものだ、と内臓の痛みを訴える患者に指を立てた。だれもが迎えて、終わってみれば良い経験だったと笑えるものだ、と。

「裏切りなんてものは、思い違いだ。信頼にしても同じこと。現実には存在しない、実態なきゴーストだ。幽霊がニセモノだったからといって、君の身体が消えるわけではない」

「頭ではわかっているつもりなんです。馬鹿なことだって」

 私はまだ心のどこかで信じようとしているのだ。他人と二心なく繋がりあえる、理想について。

「テレパシーは離れてしまったのに」

 彼女の気持ちは私を離れてしまったのに。

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