#7 失われた時を求めて
知らない男の寝顔ほど、憎らしくないものはない。
ただ恨むのは自分だけ。
なんで、どうして。
身体だけの相手なんて、一番さいあくじゃん。
白いベットの上に散乱した下着をかき集めて、入念にシャワーをあびて、
丁寧に上着を着る。
汚い埃を振り払うように、見えない何かを振り払う。
よだれを垂らして寝ている男の顔を見る気もせず、置手紙も残さず、
金を置いていった。
腕を組みながら向こう側から歩いてくるカップルに嫌気がさした。
なんで、ほんとにいや。羨ましくなんてない。
いや、いや、いや。
朝日がぎらついている。私を蔑むように。
とりあえず今は、何も考えず、ただ家に帰って、もういちどシャワーを浴びたい。
あの男に舐められた部分すべてを綺麗に洗い流したいだけ。
家に帰りたいわけではない。
早朝の電車に乗ると、みんなが私を指差して笑っているような気がした。汚い女だと。誰とでも寝るような女じゃなかった。満たされると思ったものは満たされなかった。残ったのは何?
汚い私だけ。
ユキは自分を落ち着かせようと、なんとかして呼吸を整えたかった。
しかし動悸が止まらなく、頭がくらくらしてきた。
家のドアの前に着いたとき、ふとなんとなくハルとのメッセージを見てみた。特に何もない。おやすみも、おはようもなにもない。ただ業務連絡のようなやり取りしかない。冷たい会話しかなかった。
「期待してんのかな」
自分に言い聞かせた。たぶん、ハルが心配してるんじゃないかとか、何かメッセージ来てるかなとか。。
ユキはドアノブを回した。
「あ」
ハルの靴がなかった。
ユキはその場に膝から崩れ落ちた。
いままでの私だったら、平気でいられたんだろう。
ああいつものことだと。どうせほかの女とでも遊んでるんだろうと。
別にいいよ、すきにすれば。
たぶんそのとき気づいてしまったんだと思う。
ハルに心配してほしかった。一言でいいから、言葉がほしかった。
わたしはその気持ちに気づいていたのに、変なプライドが邪魔して、
いえなかった。
わたしは、満たされていたかった。
「むかつく」
ハルじゃなきゃ、満たされなかったことに気づくのが心底嫌だった。
9時間前
男とでも寝てんのかな。
ハルはベットに横になりながら、そんなことを考えていた。
ユキとのメッセージを見返しても、何も来ないメッセージを眺めるばかりで、何かするというわけでもない。メッセージをしたところで、おそらく何も変わらないんだろう。
それでいいんだ。
最近していないし、もう完全に冷めてしまったんだろうとハルは感じていた。きっとそうだ。それでいいんだ。
それがハル自身の肯定だった。
一時的な欲求を満たすための手段はいくらでもある。他の女を抱くのに、理由などいらないだろう。
「金がない」
財布からは、チリさえ出てこない。本当に空っぽだ。
就職に失敗してから、何もしたくない。就職すると言ってから二年が過ぎて、まさにひも状態だ。
ハルはちらりと卓上にある写真立てを見た。
笑顔のユキだ。
ハルは少し笑って、写真を伏せた。
夜食を買いに行こうと外へ出た。ぽつぽつとつく街灯に寂しさを感じた。
哀愁というか、切ない感じ。
自分にもこんな思いを感じることができるのかと、ふうと深呼吸した。
コンビニから出たあと、道端の自動販売機でジュースを買った。
すると、女性の唸り声がした。
「えっえっ」
ハルはあたりをきょろきょろと見渡すと、うずくまっている女性を見つけた。
「あの、大丈夫ですか。すぐそこコンビニなんで明るいとこいきましょ」
女性は首を横に振った。
女性はスマホを見せて文字をうって画面を見せてきた。
”彼氏に殺されそう。かくまってほしい”
「えっ、えっと」
ハルは無我夢中で女性の手を引いて、急いで家へと向かった。
すぐ鍵を閉めて、外の様子をうかがうが、特に変化はない。
女性はガタガタと震え、リビングの隅でうずくまっている。
「警察通報した方がいいんじゃないんですか?あの…これ...え」
女性は立ち上がると、ハルにいきなり抱きついた。
「ちょ、ちょっと!!!」
女性は体を擦り付けるようにハルにすりよった。
「まって、待ってくれ。なんなんですか」
「ナツコのこと嫌い?嫌いなんでしょ」
女性はナツコというらしい。ハルは落ち着いて、とその場に座らせた。
「あの…その、ここは俺の家なんです。同棲してる人もいるし、ずっとかくまうわけにもいかないので警察を...」
「いや。怖い。ナツコ怖い。一緒に居て」
厄介なのに絡まれた、とハルはため息をついた。
「…同居人帰ってきちゃうんですけど。朝までっていうのは」
「じゃあこっから出て。外で泊まって。一晩でいいの。いっしょにいて」
ナツコは甘えた声でそう言った。
ハルは変な期待を少ししつつも、どこか承諾してしまった。
おそらく、頼られたことが嬉しかったのかもしれない。
「…朝までなら」
眠れるまで一緒に居るよ、とべたな台詞を言った。
ユキが帰ってきたときのために、置手紙を残した。
これで心配いらないだろう。
「じゃあいこうか」
別にいいよな。
ドアを閉めたときに入ってきた風が、置手紙を吹き飛ばした。
静寂が流れ、そして誰も居なくなった。
#8 失踪、そして鼓動。につづく
大学生から同棲はじめたぼくらの末路 水野スイ @asukasann
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