贋作の騎手
加賀倉 創作
贋作の騎手
西暦二九八五年。
ある病院の
手を握る夫。
陣痛は深夜から始まり、今やもう、窓越しから光が射している。
そして、ついに赤ん坊が生まれた。
助産師が赤ん坊を取り上げる。
しかしその子は、いつまで経っても、産声をあげない。
「咲良……咲良? お願い、声を出して……咲良!」
分娩室に響き渡るのは、母親の声だけ。
彼女の声は、その咲良という名前で生まれるはずの赤ん坊には、届かなかった。
***
三〇二四年、桜花賞。
卯月某日。百花繚乱の中、各馬がゲート入りを完了した。
__実況は今年も私、
吉野咲良は、ちっとも焦ってなどいなかった。
彼女は、視線の先に満開の桜を拝みながら、風を切った。
***
時は遡ること、二九九五年。
卯月某日。満開の桜の連なる、
小学三年生の咲良は、父の
吉野一家は、中でも一段と大きい桜の樹のそばに、レジャーシートをいっぱいに広げて座り、談笑している。時おり舞い落ちる桜の花びらを、咲良がキャッチすると、それを見た真美と香実は声をあげて拍手する。真作はあまり会話には参加していない様子で、酒を飲んでばかり。大の字になって寝転がり、ほとんど目は閉じているように見える。まだ真昼だというのに、ビールの缶は五本も空いている。
咲良が、目の前の満開の花びらをつけたソメイヨシノの木をじっと見つめる。そして、こんなことを言い出した。
「このソメイヨシノは、男の子?、女の子?」
子ども特有の、突飛な質問。
「あら咲良ちゃん、ソメイヨシノなんて名前、よく知ってるわね」
感心する香実。
「うん! えらいでしょ! それで、男の子? 女の子?」
咲良は、物知りなのを褒められたことよりも、好奇心から来る疑問をいち早く解消したい様子だ。
「実はね、ソメイヨシノはね、男の子でも、女の子でもないんだよ」
香実が答える。
「えっ! どういうこと?」
咲良は、香実のそばに駆け寄り、目をキラキラと光らせて尋ねる。
「ソメイヨシノは、男の子でも、女の子でもあるの。もっと言えば、樹のあちこちに、男の子のお花と女の子のお花が、ごちゃ混ぜで咲いているのよ」
香実は、優しく教えた。
「へぇ、おもしろいね! ってことは……」
咲良は腕組みをして、何やら考え込む。
そして、少し恥ずかしそうに、頬を赤らめながら、こんなことを聞いた。
「えっと、この木の中にいる男の子と女の子が、ちゅーしたら、これと同じくらいきれいな桜の木がもう一本できるの?」
真美と香実は顔を見合わせ、戸惑った。ふたりは体を寄せて、咲良には聞こえないひそひそ声で話し始めた。
「ちょっと真美、この話題は避けた方がいいかもしれないわよ」
香実は、とても真剣な眼差しで真美に助言した。
「でも母さん、咲良がせっかく興味を示しているんだから、ちょっとくらいはいいじゃない? 咲良ったらオマセさんなのよ」
真美は一見、娘の好奇心の旺盛さに理解を示す、良い母親に見えた。
「いや、そういうことじゃなくって……」
香実の表情は険しい。
どういうわけか、ふたりは話が噛み合っていないようだった。
「咲良、お母さんが教えてあげるわ。同じ樹の中じゃ相性が良くないの(注1)。この樹の男の子とお隣の樹の女の子、あるいはこの樹の女の子とあの樹の男の子だったら……」
(注1)
「いけないわ」
真美は、何かに気づいたようだった。
「え、できるよね? あたしきいたもん! おともだちのひとみちゃんがね、パパとママがちゅーしたからひとみちゃんは生まれたんだって、そうパパとママに教えてもらったって。ソメイヨシノも、そうだよね? 新しい木が、できるんだよね?」
「うーん、えっと、何というか、桜の樹の場合は……ねぇお母さん、どう説明すればいいかしら?」
「だからやめた方がいいって言ったでしょう」
香実の声色は、低く暗い。なぜだか、少し怒っているようにも、呆れているようにも見えた。
「ねぇ、どういうこと? ちゃんと教えて!」
ふたりは、言葉に詰まった。
ご存じだろうか。ソメイヨシノはその全てが、たった一本のオリジナルから生まれたクローンである。つまり、クローン同士は同じ株にあたるため、自家不和合性が働いて、自然交配によって子孫を残すことは、できないのである。種子はできることにはできるが、できた種子を地に埋め、水と栄養と光をやっても、芽が出ない。他の品種の桜とは交配可能だが、その場合はもちろん別の品種になってしまう。
吉野一家が見ていた樹も、隣の樹も、そのまた隣の樹も、川を挟んで向こう側にあるあの樹も、みんな全く同じ遺伝子を持つ。同じ遺伝子を持つからこそ、開花の条件さえ揃えば、示し合わせたように一斉に咲き始める。
長い沈黙の後、うたた寝していたはずの真作が、
「ちょっと真作さん、お酒の飲み過ぎですよ!」
香実が、一回りも二回りも大きい真作の体を肩に担ぐ。
「お
真作は、香実の手を振り解く。そして、ふらつきながら、こう言い放った。
「いいか咲良、教えてやろう。別の樹であろうとなかろうと、ソメイヨシノの男の子と女の子がチューしても、新しい樹は、ぜーったいに、生まれないんだ!」
ひどく酔っ払っている真作が、大声で、歯に
「どうして? ひとみちゃんはうそつかないよ? パパも、うそつかないよね? どうしてそう言えるの?」
「ああ、パパも嘘なんかついちゃあいない。ちょっぴり酔っ払ってはいるけどな。この樹をよーく見てみろ」
真作は、一家の目の前にそびえる立派な桜の樹の、下の方を指差した。
「なあにこれ? この桜、けがしてるの? かわいそう」
咲良は、樹に近寄る。
樹の幹の下の方。真作が指差した先には、大きな裂傷の痕のようなものがあった。
「これは
「へぇ、へんなことをする人もいるんだね」
「そして、これが接ぎ木でできたソメイヨシノの第一号。江戸時代からずっと、ここにあるんだ」
「えどじだい?」
「千年以上も前の話さ。で、夙川沿いにある他の桜も全部、この接ぎ木の桜と同様、たった一つのオリジナルのソメイヨシノから株を分けてつくられた」
「うーん……ぜんぶ、同じおかおの桜ってこと?」
「その通り! わかるのか、偉いじゃないか。だから、ぜーんぶ、チューしてできた樹じゃない。つくりものなんだ」
「うーん。やっぱりわかるような、わからないような」
「咲良には、まだちょっと難しい話かもしれない。でも今パパが言ったことを、一つにまとめて表せる、便利な言葉がある」
「べんりな、ことば?」
「ああ。いいか咲良? どうしてソメイヨシノの男の子と女の子のひと組から、新しいソメイヨシノが生まれないか。それはだな、ソメイヨシノは、咲良と同じ、
春の陽気が、氷のように凍てつく。
真作の説明の多くを、まだ幼い咲良は、理解できなかった。
きょとんとする咲良。
思わず手を口に当てる香実。
顔面蒼白の、真美。
「真作あなた……それを言っては、いけなかったのに」
真美は、両手を地面について、俯いた。彼女の脳内では、あの時の、分娩室の悪夢の、フラッシュバック。
「いやああああ!」
真美は、悲鳴をあげる。
「ママ、どうしたの? どうしてさけぶの? かなしいの? クローンって何? あたし、クローンじゃないよ?」
咲良は、激しく動揺した。
咲良は、あの日亡くなった赤ん坊の、クローンだったのだ。
***
数十分後。
香実の介抱のおかげで、真美はかなり落ち着いた。
真作はどうしようもないことに、再び寝転び、いびきをかいている。
咲良はクローンという言葉の意味を完全に理解した訳ではなかったが、子供ながらに、どんよりとした空気を和ませようと、明るく振る舞っていた。
「よくわからないけど、あたしは生まれてきて、しあわせだよ。ママも、パパも、おばあちゃんも、桜も、みんな大好き」
咲良は真美に抱きつく。
思わず涙腺が緩む、真美と香実。
「あ、桜といえばね、あたし大きくなったら、桜がいっぱいのレースで、ぜったいに一番になるんだ!」
咲良は、腰に手を当て胸を張り、そう表明する。
「桜のレース? なんだいそれは?」
香実が尋ねる。
「おばあちゃん、知らないの? お馬さんのレースだよ。パパがいつも、ビールのみながら見てるの」
咲良は馬を真似て、不器用なスキップをして見せる。
「桜花賞のことです。咲良、真作さんの競馬好きの影響で、馬が好きなんです」
「ああ、そういうことね。酒にギャンブルに……心配だわ」
寝酒をする真作を横目で見て、不安そうな表情の香実。
「あたしのことはしんぱいしないで! だってあたし、強いもん! だから、おうえんよろしくね」
咲良は、元気いっぱいに、そう言った。
***
__花盛りの最終コーナー、先頭は依然ホシヒューマ。後ろから、追い上げてきたソメイヨシノ。一時は最後尾を走っていました。ソメイヨシノを駆る吉野咲良がホシヒューマの尻尾を睨みながら、鞭を叩く!一回、二回、三回!これで全十回の使用制限に達した! 加速するソメイヨシノ!__
その時、
__おーっと! ここで追い風か? ソメイヨシノが追い上げる! この南風は神風なのでしょうか? ホルモンサティスファイを抜き去った! 止まらないぞ! まだ抜くか? ソメイヨシノに引き離されるフウマビューイング、トクダイヒットマン、そしてついに……先頭のホシヒューマを抜いた! ソメイヨシノ、ソメイヨシノ! ソメイヨシノ!! 一着、ソメイヨシノ!!!!__
南風に乗った桜の花びらが、勝利を祝福する紙吹雪のように、彼女に降り注ぐ。
__満開の桜の阪神競馬場に、吉野咲良が返り咲いた!__
***
咲良は競技後、会場で実況の
「いやぁ、吉野さん、さっきは見事な大まくりでした。興奮しましたよ」
「どうも」
「それともう一つ、おめでたいことがありましたよね?。かの有名なアラブの石油王アブド・アル=アーダムさんとの間にお子さんが生まれたというお話ですが(注2)、何でもお子さんを、『咲良』と名付けたそうで……」
(注2)人間のクローンが実際に子孫を残せるかどうか、は技術的には可能とされてはいるものの、そもそも倫理的観点から人間のクローンを作ること自体が禁忌とされているため、今のところ確かめようはない。尚、同種内で遺伝子が異なるなら、当然交配は可能であるため、他の哺乳類でのクローンによる交配実験には、成功例がある。
「ええ。咲良ジュニアよ。あたしが赤ん坊の頃に、そっくりなの。きっと、あたしのような
咲良は微笑みながら、そう言った。
つくりものであることは、どうだっていい。
彼女の笑顔は、会場の他のどの人間よりも、どの桜の花びらよりも、美しく、輝いていた。
***
人間は、ソメイヨシノの創造者であり、同時に管理者でもある。
ソメイヨシノが消え、その美しい姿を春に拝むことができなくなるのは、人間にとって痛手である。
一方で、人間が滅びると、接ぎ木をするものがいなくなり、ソメイヨシノも、残存した個体が寿命をむかえてしまえば、滅びてしまう。
つまり、どちらか片方でも、欠けてはならない。
人間は、ソメイヨシノと一心同体なのである。
〈完〉
贋作の騎手 加賀倉 創作 @sousakukagakura
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