彼女がそれを殺すとき

繕光橋 加(ぜんこうばし くわう)

本稿

「決して容易いことでは無いとは思います。ですが、あなたなら……、産婦人科医であるあなたなら、小姓の私に比べるまでもなく、容易いことではありませんか?」

 彼は私に言った。

 もうすぐ産まれてくるであろう、赤子。祝詞は周囲よりその童の小さな身にあまた寵がれ、多くの人々が笑顔とともに祝福するのだと、誰もが思うのかもしれない。ましてや一般的にそうでない人物がいたとして、その思いを私の前に克明に表す人物は稀である。その前提を破って、彼は頭を下げ、後悔に塗り潰された表情のまま私の前に座っている。

「あなたは、つまり。私にヤれと言うんですね。こっそりと。」

 軽蔑の感情は、わざとぶつけるつもりも、かと言って隠すつもりもない。その事実確認自体が、彼の良心を逆撫でするのに充分な攻撃力があることを、私は分かっている。哀れな彼は、苦虫を噛み潰したように顔をしかめた。

「こんなことを言うのに、自分で自分を恥じるべきだと言うのは分かっています。ですが、ですが!このまま新しい命を迎え入れる余裕が、私の家庭には無いのです。」

「みんな、そう言うものですよ。……しかし、ねえ。」

 私は勿体ぶって安い丸椅子をキイと鳴らした。妊娠検査薬は陽性である。これを彼の奥さんに、既に報告しているのだ。

 酒の悪酔いにも似た、ムカムカとした熱気が喉の奥にたれ込んでいる。名誉のために言うが、決して彼に苛立っているのではない。赤ん坊はまだ、「人間ではない」のだ。それを堕胎させてしまったとして、その責めを受ける謂れは私にはない訳だ。

「あなたは、奥さんを抱いたのでしょう。その時に、家庭を持つことの幸せに預かろうとし、そして膨らむ親としての自覚に裏打ちされた光に包まれたはずだ。そうではありませんか?」

「……?いいえ。私は暗闇の中にいます。だから、事を誤った。」

 私の投げかけは水泡に帰した。彼にとって、親になることはひとつの罪なのである。私の目から見て、彼は決して最低最悪な人間でもなければ、親という立場を直ちに失格宣告さるる階級や人格のものでもなかった。彼より能力が劣るにも関わらず、親として振舞っている人物も多いだろう。なべて幸せとは、阿片を吸ったように頼りなく、長きに渡り現実を直視できないよりかはマシ、そう言い放つのは過ぎた真似だろうか。

「先生、薬を。薬を処方してください。」

「……。……奥さんと、話し合ってください。」

 私は顔を隠しながら、そう言った。部屋は薄暗く、重々しい空気がのしかかる。壁掛け時計は、秒針のカチカチという音を暗がりに響かせていた。彼は、見ただろうか。見えないように上手く遮れたと思うが。


 両腕に抱え込む私の顔が、笑っているのを。


 ほんの前のことだ。私はある薬の所在を聞いた。前日の雨で湿った、交付記録特定封筒の安い青白ツートンの鎧に、資料は窮屈そうに納まっていた。

 あるメーカーからひとつの特許付き新薬が世に出た。どんなに育った赤ん坊でも、たちまちのうちにその命を刈り取ってしまうのだ。そして、妊婦には実害は出ないらしい。薬である以上、何の副作用もありはしないとは言えない。しかし実証実験では、複数の患者を相手に、何の不調も確認できなかったと言う。それ程弱い副作用で、今、胎児を流産させることができる。医術の進化が、それを可能にした。


 まるで断頭台に刃が振り下ろされたように仕事をやり遂げることが予想された。だから、その薬は、フランス革命……もしくはディッケンズの『二都物語』になぞらえて、「聖ギロチーヌ」と名付けられた。

 シルヴァーマンよろしく、私達が望まぬ妊娠と出産を回避することが、そのままま生かし続けることより、人道に則っている、というのが時代の総意らしかった。経済的事情や強姦による出産拒否の意思表示は、相対的な尺度として精神価値の表舞台に躍り出た。

 もっとも、それ自体、最近出現した風潮でもなかった。望まぬわが子を間引く輩は、明治だろうと昭和だろうと、古代ローマだろうといただろう。まして、かつての間引きの世より、いっそう人道的に幼い命を奪うことができるのだ。

 男は事が始まる前に睾丸を潰すことは無かったし、女は石女(うまずめ)ではなかった。それが命の誕生という、輝かしい悲劇へと繋がって、毒々しい私たちは顔を背けていたのである。


 私は、笑っていた。そんな親を蔑んで笑っていたのだ。

 決して面白いワケがないにも関わらず、鳥がトウモロコシを前に囀るより派手に、下品に、明朗に、笑いをこらえきれなかったのである。どんな薬剤や遮断装具、そして貞操帯より、一人一人の理性こそが避妊のための確実なツールであった、そんな時代がある。節制を説く中世キリスト教社会など最たる例だろう。それは、外的な権威によって必死に叫ばれ、掲げられたご託宣であった。

 だがいまや、どうだ。

 生殖という、快楽の渦から解き放たれる進歩的な現代人の姿は、令和になっても一定数より減らなかった。技術によってカバーし、そればかりでなく、ノーカウントにしようと薬剤投与を願うのである。

 だが、待ってくれ。かの男を責めないでくれ。それは言うまでもなく、この仕事をしていて珍しいものでもないのだ。赤ん坊を殺しにくる親に出会ったのは、彼一人では無い。


 しかし、私はそれでも特別に、笑いをこらえきれない理由があった。

 それが何かと言えば、つまり私が、彼の妻、最も愛している女さえも、新しい命の出産を望んでいないことをとっくに知っていたからである。ある日、彼女は目に闇をしたためながら私に打ち明けた。

「実は、私、あの人の子供を産みたくないんです。」

 確かにこの耳で聞いた。それはもう、ハッキリと。

 いやむしろ、旦那の方よりも早く、そして鋭い言葉で打ち明けていたようにも思い出させる。それは、性への知識が彼女の方こそより先んじており、「聖ギロチーヌ」、それに準ずる薬物の到来を嗅ぎつけていたからである。

 しかし、彼女は夫に角が立つのを嫌い、私に真っ先に相談してきたのだ。「我が子をあやめたい」、そんな醜悪な願いをぶら下げながら、凛々しい顔で言いのけた彼女を忘れるはずがない。しかしその凛々しさは、虚飾であった。一度はあしらった私だが、一歩引いて見てみれば、妻は夫にその思いをついぞ告げなかったらしい。対して、亭主はこの怯えようである。


 彼ら夫妻は、ほとんど同時に、新生児を邪魔者だと考えていた。そして健気にも、相互いに伴侶にそれを悟られまいと隠していた。その残虐さ、強欲さ、そして何より、その罪悪感までをである。

 そして私もまた私だ。

 私は、私は。


 嬉しかった。


 新しい薬を処方する機会をうかがっていたのだ。皆が皆、その暗殺者を聖女へとまつりあげ、射出された毒針をぬぐい去る護国卿であると見なした。

 縋るしかなかった。態度で反省してみせても、きっと運が悪かっただけだと、心の奥底で私たちは思うのだろう。その薬は、インクのような匂いを纏い乍ら、黒い髪をたなびかせるようにして、新しい酔いの中に命を閉じ込めるのだろう。

「自分の行いに自分で責任が取れないのなら、その股間はない方がいいんじゃないか。去勢を勧めるよ。」そんな説教を、聖女が言ったのならば、彼は聞き入れるだろうか?絶望しながらベルトを外し、象徴を大人しく手放すだろうか?

 嬉しさ。顔を上げ、私は処方箋を書くために、ソフトを立ち上げながら、彼に言うべき言葉を探していた。こっそりとは良くない、やはり奥さんに言うべきだとか、何とか。


 これが、私が初めてそれを使用した顛末である。

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彼女がそれを殺すとき 繕光橋 加(ぜんこうばし くわう) @nazze11

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