呪われしを閉ざせ

入賀ルイ

呪われしを閉ざせ

 おぎゃあ、おぎゃあ。

 無機質なコンクリートの箱に、産声が上がる。妻である椿の呻き声に合わせて瞑っていた目を開くと、そこに新しい命が繋がれていた。

 子供が生まれた。元気な男の子だ。「男の子なら理喜って名前にしよう」と二人で決めた約束が果たされ、この子は理喜という名前を授かる。

 なんと喜ばしい事だろう。椿に繋がれた生命は非常に愛らしく思える。しかしそれとは別に、ここまで歩いてきた三十年の人生で初めての出来事に、心なしか僕の両足は震えていた。

「もう大丈夫ですよー。よく頑張りましたね」

 ベッドに横たわる椿の隣に陣取っていた助産師が、椿に柔らかい声音で語り掛ける。全てが終わったことに、椿は苦悶の中に確かな笑みを浮かべた。

 僕も同じように励ませばいいのだろうが、気が動転するあまりどんな言葉をかければいいか分からず、労いの言葉を言いあぐねていた。「おめでとう」なのか、「ありがとう」なのか、言葉を探してみるもののどうしてもうまくまとまらない。ただ伝えなければ、ともがきながら金魚のように口をパクパクさせ、情けない格好で椿の手を握り続けていた。

 何度も深呼吸をしてみるが、パニックを起こしている心は中々静まってくれない。頭に血がのぼって、顔も熱い。

 一分ほど経ってようやく、早いラップで鼓動を刻んでいた心臓が落ち着いてきた。まだ洗いままの息を震わせながら理喜の方に目を向ける。それは簡単に捻りつぶすことが出来そうなほど小さくか弱い存在。けれど確かに尊くて。

「はは……大変だったね」

 僕に語り掛ける椿の息は絶え絶えで、今にも燃え尽きてしまうのではと思ってしまった僕は、遠くへ行ってしまわないように一層強く手を握り返した。

「痛いよ……」

「あっ、ごめん」

 困った笑みを浮かべる椿に負い目を感じて、僕は繋いだ手を意識的に緩める。もう十回を数える深呼吸を終えた時、口先がゆっくりと動き出した。

「……本当にありがとう、椿」

 そうして今度こそ、僕はちゃんと椿に伝えたかった言葉を投げかけた。グダグダと悩んでしまっていたが、僕はこの命が生まれたことと、この命を生むために我が身を痛めた椿に最大の感謝を贈りたかったのだとようやく気が付く。

「もう離して大丈夫だよ、手。ちょっと痺れちゃったし」

「分かった」

 椿に促され、僕はそっと繋がれた手を解く。その頃にはさっきまで繋がっていた椿と子供のへその緒が断ち切られたみたいだった。おぎゃあ、おぎゃあと泣き続ける理喜は、この瞬間を持って母から独立し、確固たる一つの存在になる。


 おぎゃあ、おぎゃあ。

 理喜は声を挙げ続ける。僕はただ環境音の一部のようにその泣き声を聞き流していた。この微笑ましい幸福の具現を見守りながら、漠然とした穏やかな温かさを持つ未来を想像する。

 しかし、それは突如として反転した。

背中の方にゾワリと悪寒が走った。それはまるで怪異との邂逅。

ほどなくして、ツーっと冷たい汗が使い、肩の方から鳥肌が立つ。体中から血の気が引いていく感覚は、程なくして訪れた。

僕は何かに恐怖していた。得体のしれない何かに怯え、身体が拒否反応を起こしている。

 ……理喜は、なんで泣いているんだ?

 それを意識してしまった時、不安定な形をしていた恐怖が実体を持った。僕はようやく自分が何に怯えていたのかを知る。

 ああ、理喜は産まれたことを呪っているのだ。おぎゃあ、おぎゃあと泣きながら、「どうして自分を産んだのか」と世界を恨んでいる。そう意識してしまうと、理喜の泣き声が地獄から発せられるような怨嗟の声に思えてきた。仄暗く、紫色に滲んだような空気に足が竦み、吐き気すら覚える。

「どうしたの?」

 理喜から発される世界への憎悪を真正面から浴び、その場で硬直してしまった僕の様子が流石におかしく思えたのだろう。少しばかり眉を顰めて椿は僕の顔色を伺う。その表情には怯えも恐怖もない。この怨嗟を感じ取っているのは、どうやら僕だけだったみたいだ。

 とはいえ、それを赤裸々に椿に語ることは出来ない。

「なんでもないよ。……なんでも」

 はぐらかすように口先だけで答えて、僕は模様のないクリーム色の床に視線を落とした。僕の胸中はもう「呪い」という言葉だけに支配されていて、他の全てを拒絶していたのだ。


 思えばずっとそうだった。僕の生は間違いなく呪われたものだった。

 母と父の間に言い争いが無い日は一日も無かった。その火種の原因は大概、家事も、子育ても、何に対してもルーズだった母の性格にあったと思う。そうした母のずぼらな生活態度に癇癪持ちの父が激高し、その暴力性が僕に飛び火する、というのが一連の流れ。子供の頃はそんな毎日を送っていた。

顔に、腕に、脚に刻んだ青痣の数を指折りで数えることは出来ない。7歳の時、父親から飛んできた熱湯を被り、首元から肩にかけて出来てしまった大きな火傷の跡も、未だに消える素振りすら見せない。

誕生日すら、すぐに祝福されなくなった。ケーキもプレゼントもない、明かりのない五畳の部屋の隅で膝を抱え、自分に八つ当たりが飛んでこないことを祈るだけの寂しい日。小さな僕の誕生日の記憶はそれしかない。僕はこの世に生を授かったことを次第に恨むようになった。

「そんなに仲が悪いのにどうして結婚などしたのか」、と問い詰めることも出来ないまま、僕は大きくなっていく。中学校、高校とステップを踏んでいくが、暴力と怒鳴り声に怯え、自分以外の誰かを信じる事が出来なくなってしまっていた僕に、青い春など訪れることなどなかった。僕の人生は、呪われたものになった。

 けれど、種を撒かれ、立派に花を咲かせた僕の「呪い」を断ち切ってくれる人がいた。その人は今も自分の隣で荒い呼吸をしている。

 椿と出会ったのは大学生の頃。当時の僕はと言えば、どうにか親から距離を置く事は出来たが、莫大な学費と生活費を賄うのに奨学金だけでは足りず、バイトに追われる日々を過ごしていた。

 彼女もまた、僕と一緒だった。早いうちに父親を亡くし女手一つで育った椿は、僕と同様に学費工面に追われる日々を送っていた。同じゼミ、同じバイト先と、一緒の時間を過ごしたことで、僕は初めて家族ではない誰かと縁を結んだ。

似た境遇だから惹かれあったのか、それとも偶然の産物か。理由こそ分からないが、僕は椿に思いを寄せた。それが実って、今、こうして新しい生命の誕生を迎えている。

 椿と出会ってからはこれまで以上に生きる事に精一杯で、自分を恨むことも少なくなった。就職活動も思ったようにいかず、大して希望などしていない企業への就職となったが、傍で支えてくれる存在というのは大きなもので、僕は沢山椿から励ましの言葉を貰いながら、今日ここまで歩いてきた。

 その道中で、いつの間にか呪いも薄れて消えかけていた。黒い雨が降り続ける毎日だって、幸せなのだと思えるようになった。


 それなのに、今、目の前で新しい呪いが泣き声を上げている。産まれたことを嘆いて、精一杯涙を流している。かつて自分の生まれを呪った僕と同じように。

もう見る事はないだろうと思っていたそれを目の前にして、僕は茫然としていた。

 ……僕が生んでしまったのだ。僕に染みついていた呪印を、理喜は継いでしまったのだ。

 悲しくなって、鼻の奥の方がツンとする。そうすれば涙が零れるのは時間の問題で、瞬く間に僕の頬は無数の雫で湿った。

 その時だった。助産師が情けない面の僕の方に歩み寄り、どんよりとした声で泣き続ける理喜を僕の方に差し出す。

「お父さん、抱いてあげてください」

「……え?」

 もちろん、こんなことになるだろうと思っていなかった僕は聞き返す。けれど助産師はそれ以上何も言わず、ただニコニコと僕の動向を見守っていた。視線を逸らして椿の方を見てみるが、椿が浮かべる表情も全く一緒のものだった。「早く抱いてあげたらどうだ」と言わんばかりの穏やかな視線が突き刺さる。

 断り切れなかった僕はついに理喜を抱いてしまった。抱きかかえた腕の中でなおも、おぎゃあ、おぎゃあと怨嗟の声を挙げながら、暴れ、うねる。

 ……やっぱり、小さいよなぁ。

 最初見た時からずっと思っていた。生まれたての赤ちゃんは想像以上に小さく、指を大きく広げるだけで簡単に首根っこを掴むことだってできる。

 ……だったら、今この場で理喜を楽にしてあげることだって出来るのではないだろうか。

 幸いにも、世界を呪う声はまだ小さく、か細い。しかし歳を取るにつれてそれはどんどんと肥大化していき、最終的には手が付けられないものになる。それには身に覚えがあるのだ。

 だから、ここで消してしまえば、理喜はまだこれ以上の絶望を知らないで逝くことが出来る。……幸せになれるんだ。


 血迷った僕の腕はまっすぐ理喜の首元まで伸びた。

残り数センチ、というところまで手が進む。指先が触れた理喜の首元は生まれたばかりの生暖かい温度を保っていた。それをキュッと掴み、力を入れるだけでこの命を、呪いを閉ざすことができるのだ。

親指と人差し指を大きく広げて、理喜の据わっていない首に照準を定める。

 ……しかし当然、殺すことなんて出来なかった。

 ここまで信頼を寄せてくれた椿を裏切ることなど出来ない。どうしようもないクズな僕の両親と同列に扱われたくない。そして何より、こんなに儚くて愛らしい命を閉ざすことが、とても怖くて叶わないのだ。

口の端が引きつり、指先から生まれた震えが全身に伝う。僕は底知れない恐怖でまた大粒の涙を流した。

「そんなに嬉しかったんだね」

 零れた雫を歓喜と捉え、穏やかな目をした椿が僕に微笑みかける。この場にいる僕以外の全員、同じ顔をして僕を見つめている。

違う、そうじゃないんだ。これは決して嬉し涙なんかじゃなくて……。

 今にも崩れ落ちそうな砂の塔を、貧弱な二本の足が辛うじて支えている。僕はまだ立っていられるうちに、理性が働いているうちに、理喜を誰かに預けてしまいたかった。いまだに止まない泣き声を聞くたびに、気が狂いそうになって仕方がない。

 なんだよ……泣かないでくれよ……!

 どうすることも出来ないで、僕はまたわあわあ声を挙げて涙を流す。人に見せられないほど情けない姿でさめざめと泣く僕の方が、よっぽど子供みたいだった。

 こんなに素晴らしい光景が目の前にあるのに、どうして今こんなに苦しいのか。

 真っ白になった頭の中で、自分の呪いの起源を探る。僕はいつから呪縛に囚われてしまっているのか。あの時の僕は、何を欲していたのか。

 僕は……。


 行き詰まって立ち尽くしていると、僕の手の甲に冷たい何かが触れた。それが椿の手だと知るのは、五秒ほど過ぎた頃。

「ありがとう、良くん。今日まで頑張ってくれて」

 細く綺麗な指先で、椿は僕の手の甲から中指の方をなぞる。それは投げかけられた言葉と相まって、じんわりと胸の方に温もりを伝えた。

 その時ようやく分かった。まだ少年だった頃の僕が一番欲しかったものが。

 僕はただ、祝福されたかったのだ。「ありがとう」と「おめでとう」を、溢れるほど受け取りたかったのだ。それは形だけのプレゼントなんかでは変えられない、唯一無二の宝物。呪いを跳ねのけるただ一つの盾なのだ。

 もちろん、過度な祝福は抱えきれない期待となり、やがて自分を縛る重荷となってしまうだろう。しかし決して呪いではないはずだ。少なくとも僕は、椿の期待に応えられなかったことを「呪い」などとは思わなかったのだから。

 だからもし、祝福と呪いが相反する存在であるのならば、呪いを断ち切ることは簡単だ。

有り余るほどの祝福と愛情を捧げればいい。然るべきときに、「ありがとう」と「おめでとう」を伝えることが出来ればいい。僕の呪いはそれで晴れた。この子だって、きっとそうだから。

 ……ああ、そうか。ただ僕は、親になる覚悟が足りなかっただけなんだな。

親というものは、与えられるよりも与える存在であることを忘れてはならない。それなのに恵まれなかった自分の生を呪いだと嘆いて、足りなかった祝福と愛情が欲しいと、ただ子供のように駄々をこねていただけだったのだ。

 そんな子供じみた願いは、ここで終わりにしよう。理喜の呪いを打ち消すほどの祝福をあげることが出来るのは、僕と椿しかいないのだから。

 僕はもう、親なのだから。

 ようやく震えが止まる。随分と時間がかかったが、僕は涙を止める堰を作り直すことに成功した。まだ顔は熱く、頭がぼんやりとしているが、僕を支えていた二本の足にはちゃんと力が籠っていた。


 おぎゃあ、おぎゃあ。

 僕の両腕で作られたゆりかごの中で、理喜はまだ泣き続ける。しかし、それが世界を呪う声かどうか、僕にはもう分からなかった。

 もしかしたら、もとより理喜に呪いなど存在しなかったのかもしれない。それは僕の心の弱さが生み出した幻想で、この泣き声は何色にも染まっていないのかもしれない。

 いずれにせよ、今の僕に出来ることは決まっている。僕はそうしたいと望んでいる。だって、こうしてこの世界に産まれてきてくれたことが、言葉に出来ないほど嬉しいのだから。

 だから、言う。どこまでも穏やかな心で、小さな背中を撫でながら。

「……誕生日おめでとう、理喜」

 その一言で、色が変わる。ただ一言で、梅雨の開けた夏空のような、澄み渡る水色の空気が当たりを包んだ。理喜の声は止まないが、それはもう呪いとはかけ離れた、普通のものになっていた。いたって普通であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 けれど今は、これでいい。


 抱きかかえていた理喜を助産師に託すと、こちらの理解が追い付かないスピードで残りの仕事が進められ、瞬く間に理喜は別の部屋へと移された。「少しだけ二人だけの時間が欲しい」と椿が我儘を言ったのもあって、部屋には僕達以外誰もいなくなった。

 そのころにはすっかり僕の呼吸も、椿の呼吸も落ち着いていた。それぞれの苦痛を跳ねのけて、痛みを身体に馴染ませるように息を吸っては吐く。その最中で椿は口を開いた。

「理喜、嬉しそうだったね」

「嬉しそう……? そうなのかな、ずっと泣いていただけだと思ってた」

「ううん、理喜はちゃんと喜んでいたよ。お父さんに抱いて貰えて、それから『おめでとう』なんて言ってもらえたんだから」

 目元を緩め、母の顔をして笑む椿は理喜の思いを信じて疑わなかった。きっと、椿はずっと前から母親になる覚悟が出来ていたのだろう。今になって決心がついた僕は、自分の不甲斐なさに苦笑いを浮かべるほかなかった。

 けれど、そんな弱みを見せるのも一瞬だけ。これから理喜が見て育つ背中が、弱弱しく情けないものでは僕も立つ瀬がない。もう一度だけ深呼吸をして、しゃんと背筋を伸ばした。椿は少しからかいながら、僕を鼓舞する。

「おっ、お父さんっぽい顔だ」

「ぽいじゃなくて、お父さんになったんだよ。椿もお母さんになったんでしょ?」

「そうだよ。……私たちは今から『親』なんだから、頑張っていかないと」

 さっきまで僕が一人で悶々と考えていたことを、椿は軽々しく口にした。……もしかしたら、椿は最初から僕が何に悩み、悶えていたか分かっていたのかもしれない。理喜を僕に抱かせるように提案したのが椿だと言われても、簡単に頷ける。まあ、今となってはもう、どうでもいいことか。

 僕は天を仰いで、明日からの自分を想像する。幸せそうな椿と、幸せそうな理喜と、幸せそうな僕、そしてまだ見ぬ幸せそうな誰かがいる光景。それを作り上げるために必要なものを、僕はもう知っている。

「ねえ椿。理喜のこと、沢山祝ってあげような」

「もちろん。……あ、でも、甘やかしすぎちゃダメだからね。叱る時は叱らないと」

「分かってるよ」

 叱ることもまた愛であって祝福。意味のない癇癪を見てきた僕だからこそ、正しい言葉で理喜を愛することが出来るだろう。時には間違ってしまうかもしれないけど、その時は椿の出番。互いに支え合いながら、もう一人ではない、呪いのない人生を歩いていく。

 そうやって少しずつ幸福の種を撒いて、祝福の水をやる。時には呪いという雑草を取り除きながら、育っていく花を眺めよう。

 


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呪われしを閉ざせ 入賀ルイ @asui2008

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