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@nkmy

冬眠

 寒さを思うと春が恋しくてしょうがないのだが、冬を舐めていたわけではなかった。ただ冬の山が美しいのを知っていて、登山で得られる苦痛と達成感に満たされるのが好きだった。天気をしっかりと確認し、防具も道具も良いのをこさえて来たはずだ。しかし自然も運命も、人間の営みにさして興味がないのか、机の上の消しかすを飛ばすくらいの気軽さで雪と風を吹く。彼女らは風雪によって激しい冬の白さを押し付けられたため、登山道のマークを見失った。遭難事故防止マニュアルを思い出し、寒さを凌げる場所を探して歩いてみるもどこにもなく、さればとテントを取り出してみたら風で飛ばされ、ならばと穴を掘れる場所──木の根元などを探しつつ上を目指して歩き、仲間は一人、また一人と白に消えていく。逸れないためにと互いの名前を叫んでいたのに、返事が返ってこなかった時に喉に込み上げた悲鳴が鋭くて正気が傷付いた。彼女は怖くてしょうがなかった。四方八方に吹き荒ぶ風の勢いを借りて、吹雪は容赦なく存在する物の全てを刺し貫こうとしている。自分の体を囲むばかりか遠くの景色の気配でさえも隠しきり、服を黙殺し身の内側にまで浸透してくる冷たさがある。皮膚が凍っていくようで、ゴーグルに囲われた目には涙が滲み出したが、指で拭うことができない。奥歯が震えている。打つ手がない。しかし彼女は歩き続けるしかないと思って、だからひたむきに足を動かした。こころにあるのは、歩かなければで自分はここで死ぬのだろうという恐れのみだ。受け止めきれない寒さのせいで体の繊維が消えていき、ソフトビニール製の人形のように単調で不便な作りになっていくようだった。最後に残ったもう一人が訳のわからない呻き声をあげ服を脱ぎ出そうとしても叫んで止めた。挙句倒れてしまっても、服を掴んで引きずって行った。疲労と悲観で疲れた体にそれは重労働だったが、永遠に不変だろうと思える一寸先が白い世界で、一人になって右往左往と彷徨うなんて気が気ではない。中腰になって仲間の肩を両手で引いてずりずりと遅い歩きをしながら、身体の奥から発熱しながらも急速に外から冷えて続けていく異常事態に、鼻水で凍るネックゲイターの繊維へ叫んだ。誰でもいいからなんとかして、寒くて心細いの、助けて。

 すると、一軒の家が見えた。雪に霞んで見難かったが、小さくて平たい木製の家だ。彼女は喜びに目を見開き、これで最後だと残った力を振り絞らんばかりに威勢よく歩いた。雪を踏み潰しながら、けれども誰も居ないだろうなと頭の片隅で察している。こんなふうに天気が荒れ狂う山に住もうだなんて、人生を捨てたようなものだ。実際、近寄って見てみると、家は手入れがされていないのかボロボロで、扉には南京錠がついていた。彼女は引きずっていた仲間をそっと雪に降ろすと、八つ当たりのようにドアを叩いた。開けて、開けてと叫びながら、滅多矢鱈に拳を握る。ドアのボコボコとした隙間に積もった雪が、殴られるたびに微量だけ落ちた。どかどかと殴る音がしてもいいはずなのに、不思議と彼女の耳にはなにも聞こえなかった。どれだけやっても返事はなかった。やがて疲労困憊になり、息を切らして俯いた。視界の片隅にもう動かない仲間がいるが、知らないふりして感覚のない両手を見つめる。口で懸命に空気を取り込もうとしながら、ふっと頭に飲みかけのコーヒーカップが浮かんでくる。厚手の手袋をしない、指先の肌で触れた白い陶器のコップの滑らかな手触りが脳裏に現れる。お湯を注いだ途端に立ち上る湯気、ほのかに香るコーヒーの素朴な香りを呼吸のついでに吸い込みながら、テレビのニュースを眺めていた。そうして家を出る前に飲んだあの温かな生活感は飲みかけのままで、リビングに置きっぱなしにしてある。返って来てから洗おうと思って置いておいたあのコーヒーは、こんな吹雪も永遠のような白さとは遠くに置いてあり、今夜は彼女の帰らない家で、ひとりぼっちで暗闇の夜を通過する。

 彼女はしゃっくりあげ始めた。瞬きをすると目玉に溜まった涙が瞼に押し出され、頬を伝ってゴーグルの底に溜まっていった。仲間の名前を呼びたくなった。彼女の声に立ち止まり、どうしたの? とこちらを見てくれるあの顔の、警戒のなさに安心したい。頭のてっぺんから爪の先まで余す所なく震えながら、彼女はゴーグルを指で擦って綺麗にした。振り向いてみたが、視界が涙で潤んでいるからか、目を凝らさないと吹雪の線がよく見えなかった。よく見えたとしても変わりはない。彼女を今埋め潰さんとしているのは、あまりに大きな白色の闇だ。

 彼女は目を皿にして、自分を埋めて隠そうとする吹雪を睨む。鼻先が凍ってしまっているのか、息がし難い。震えの勢いに便乗して奥歯を噛み締めてみるものの、一向に噛み合う様子はない。そして彼女は自身を淘汰する雪に叫んだ。どうして。しかし声にはならなかったので、その絶叫が吹雪に触れることはなかった。

 腕につけていた登山時計が壊れている。

 ゴーグルに溜まる涙が凍り始めた時、彼女は突如としてお気軽な気分になった。嗚咽をそのまま笑いに変えていくように肩を揺らして、被り続けていた帽子を投げる。力の入らない指でゴーグルを投げ捨てた。ネックゲイターは首元に引き下げ、手袋も外して捨ててしまうと、放り投げられた防具はすぐさま吹雪の中に消えてしまった。あまりにもあっけないのが無性に可笑しくなって、ヘラヘラと笑う。まるでピクニックにでも行くみたいだ。例えば暖かな気候の春、新年度にもなれた頃、桜が満開に咲き誇るのを見上げて歩く。動くと薄くて軽い服が肌に擦れて、冬の寒さから解放された草花が茶色の地面からすくすく顔を出し、陽気な木漏れ日を堪能しては揺れている。まだ寒いかもと用心した人が暑がっていて、ベンチに座り涼しい風が吹くのを今かと待っている。頭上の桜よりも高いところにある青空はどこまでも遠く、太陽は白い点となり、今日の穏やかな時間を保証してくれている。新しい季節にるんるんと浮かれた視線をふと雑草に向けると、春にしか見れない植物があった。それは四葉のクローバーを群れに隠した、白詰草の花だった。

 彼女は涙を拭う仕草をしたが、涙はすでに止まっていたので意味がなかった。頬に伝った涙の線が肌に張り付いて凍っている。髪の毛は吹雪にもみくちゃにされ、ねこが悪戯に引っ掻いた毛糸玉に似ていた。整えようとしたのか自分でもわからなかったが、頭を何回か手のひらで撫でる。まるで好きな人に会う前の乙女みたいだと思い、また笑う。春の暖かさを考えているからか、暑くて服を脱ぎたくなった。ダウンジャケットに手をかけようとしたら、既に半分雪に埋もれた仲間の死体が目に止まる。

 側にしゃがんで、身体を隠す雪を優しくはらってあげた。雪は湿った土のように指にくっついた。だから埋もれていた仲間の手袋を見つけると、まるで植物を掘り返しているみたいだと、自分の行動が愛おしくなった。彼女はそっと仲間の手を、壊してしまわないようにそっと持ち上げて、花の香りを楽しむ仕草で指先を鼻にくっつけた。匂いはもう感じられなかった。手袋の指先をひっぱり、手首の空いた隙間から指を滑り込ませて、手のひらをなぞるようにするりと手袋を外して傍に置く。指先が黒く染まっていた。しかし肌のところどころは赤く染まって見える。流れることをやめた血液が、それでもまだこの皮膚の向こうに居てくれる。

 彼女はそっと舌を伸ばして、指の一本を舐め始めた。舌先で表面をなぞって雪を潰してしまうと、パクリと口に仕舞って弱々しく噛み始める。彼女の住む家に近い公園には、毎年の春になるとつくしが咲いていた。コンビニに買い物に行ったり気分転換に散歩をする時、彼女はつくしの集っているのを見ては、あれって食べられるらしいな、と考えていた。下ごしらえで汚れを洗い、はかまと呼ばれる関節みたいな硬い葉を取り、茹でてあくを抜かなければ美味しくないらしい。ということは、そのまま食べたら苦い味でもするのだろうか。唾液で湿った指でいっぱいの口で味わう指の食感を得られないかと、眠気に似ている倦怠感の重さに抗いながら、彼女はぼんやり、つくしのじわじわとした苦みについて考えていた。その日はまだ十一月だった。

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