空の色とかそういうの

草森ゆき

CobaltBlue&more

 肌から染み込むような磯の臭い、山に囲まれていようが焼けている横顔、擦り切れそうなシャツを掴んで引き留めた瞬間に湧き上がる後悔、緑の山々、眩しさ、青いばかりの空、俯かれた時の深い影、声という刃。もう取り戻せない過去に根差した自分を反芻する度に俺はあなたを思い出す。


 海辺で生まれたのだとあなたは話した。川や湖しかない俺の故郷に引っ越してきたのは、親が離婚したからだと何でもない顔で続けた。雪が音を飲み込む冬場の話だ。高校の、誰もいない教室の中で、俺は忘れ物を取りに来てあなたと二人きりだった。

 海は遠かった。車を走らせても、三時間以上かかる。俺は高校生にもなって海を直接見たことがなかった。山なら腐るほど目にしていた。家の玄関を開けた途端に目に入るから、あなたが未だに山が珍しいと思うことが、それこそ珍しかった。

「でも、山と海は、似てるよ」

 あなたは慎重な、皮膚に染み渡るような声で話す。

「匂いというか、気配というか、見ていると安心するよ、どっちも」

 俺には理解しにくい言い分だった。あなたは俺の様子に苦笑していて、教室の真ん中にある消えたストーブを見下ろしながら、みんないるからだろうね、と付け足した。

 それは俺にもわかった。つい最近、クラスメイトがひとり、山へと行った。今年は十人ほど山に戻れた。例年より多いと、みんな安堵の顔を見せた。

 行った日の夜、俺は山がぼんやりと光る様子を家の窓からこっそりと眺めた。本当は見てはいけないらしかったが、目にしたからと言って何かが失われるわけでもなく、今の今まで山に戻る日が来ていない。薄い、青白い光は何かに似ていた。空の色だとあなたが言った。なら、山に戻ると空にも戻るのかもしれなかった。


 閉鎖的なつもりはない集落だった。山に囲まれた窪んだ土地に、ぽつりと穴のような湖があった。俺は偶に、その湖のそばに寄った。水はそれなりに忌避されていた。みんな、山に戻りたがった。

 あなたの父親が海に戻ったのだと噂が流れたあとの崩壊は早かった。

 俺とあなたは同級生で、つまりまだ高校生だった。子供に出来ることは少なくて、あなたの、あなたたち母子の孤立を、俺は止められなかった。

 誰もいなくなった放課後の教室でだけ、あなたは俺にぽつぽつと過去を話した。それを誰かに言ったことはけしてないけれど、証明もできないし、あなたにとっては最早そんなことは些末だろう。

 ストーブの熱が緩慢に消えていく教室の中、あなたの吐く息がほのかに白くなる頃、窓の外は夕暮れだった。まだ帰らないのかと聞く俺に、君もだよとあなたは苦笑し、俺達、いや俺は、高校生であることが唐突に嫌になった。

 だからあなたの手をとった。海に行こう。前後をなにも考えない青さだった。それは俺だけじゃなくて、あなたは驚いたくせに承諾した。

 山のむこうがわに太陽は落ちていた。集落に電灯はほとんどなくて、夜はひたすら暗かった。山道を、二人で進んだ。徒歩だった。山には雪が少しだけ積もっていて、はやく通り過ぎなければ山に戻らされるかもしれないと、俺は焦った。あなたは無言だった。どんどんと暗くなる山道の中には山の声しか響いていなかった。

 通りかかったトラックに俺達は乗せてもらえた。荷台は山の中より暗くてなにも見えなかった。積まれた段ボールが、揺れで時折ガタンと鳴った。細かい振動は機械的で、なにかの体内にいるように錯覚した。あなたと強く手を繋いだ。荷台から降りたあと俺達は同じ腹からうまれた兄弟になるのかもしれないと思ってから、それなら山に戻れば一緒くたになるのだし同じことかと気が付き、でもあなたは海の匂いの話をした。深い磯の香りは肺の中を海に変える。死んで生き返るような複雑な匂いは包まれているうちに眠りたくなる。失神かもしれない。でも自分は、うまれた時は海の真横の助産院にいた。戻るなら、海だと思う。お父さんみたいに自分もあそこに戻りたい。


 トラックは目的地の途中で俺達を下ろしてくれた。海に行くのだと話したからか、降りるともう海岸線だった。空はうっすら明るかった。俺がなにか話しかける前にあなたは走り出して、海岸線沿いの堤防を乗り越え砂浜に飛び降りた。焦って追い掛けた。海の濃い臭いが砂とともにまとわりついてきた。生きながら死んでいるような臭いだった。あなたは躊躇いもせずに波打ち際まで走り、俺はどうにか追い付いてシャツを引っ張った。戻らないで。そんな言葉が口をついて後悔が込み上げた。あなたは振り向いてから、目を合わせずに俯いた。

 ノイズみたいな漣の音が不規則に続いていた。薄暗かった空はどんどんと明るくなり、海面からどろりとした太陽が覗いた。俺はあなたから目を外して、朝焼けの方向を見た。その隙にあなたは俺の手を振り解いて桃色の波の中へ進んでいった。連れて来てくれてありがとう。あなたは後ろ姿でそう言った。俺が伸ばした手は空を切った。先程の太陽のように、あなたはどろりと蕩けて海へと戻ってしまった。

 取り返しがつかないほど明るくなった海辺に俺はしばらく立ち尽くしていた。漣が無感動にざらざら鳴って、空は雲もなく一面青かった。不意に強くなった磯の臭いに肺が痙攣した。吐き気を堪えながら俺はその場をふらふら離れた。


 あなたが海に戻り、あなたの母親もやがて集落の中では見掛けなくなった。俺は順当に暮らして、普遍的な大人になった。山には戻れないと三十歳を越えた頃にふと悟った。俺には海の、いやあなたの臭いが染み付いていた。

 海は海で俺を歓迎しない。行き場がなくなり、集落を出たあとは、色々と職を変えた末にトラックの運転手になった。ガソリンスタンドで油のにおいを嗅ぐと放課後の教室のストーブを思い出し、海のそばを走ると俯いたあなたの顔を覗かなかったことへの心残りが過ぎる。

 一緒に溶け出してばらばらになりたかったのかもしれない。でも俺にそんな未来は来ない。山道を走りながら、どこにもいけない俺のまま、逃がしてくれない空の下にずっといる。いつかどこかに戻ったときは、あなたの声がまた聞きたい。

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