絵を描けない女
犀川 よう
絵を描けない女
わたしの眼に涙が佇み、渚が生まれる。
温かい汀は窓の向こうにある夕暮れを滲ませ、視界をゆらゆらとさせる。苦学生しか住んでいないボロボロのアパートの一室の中で、わたしは泣いて畳に零れてできた、涙の湖畔に指をつける。指をぐりぐりと擦りつける度に、彼の足音が小さくなっていく。「待って」と縋りつけばいいのに、宵に迫る紫とオレンジの空があまりにも綺麗で、惨めで、目を逸らせない。脚が畳に吸いつけられているように重い。心の中の方がもっと重いはずなのに動けない。彼が消えてしまう前に、一言でも話すことができたのなら、何かが変わっていたのかもしれないのに、わたしは彼を無言で送り出してしまう。
畳の上で死んでいるのはわたしとわたしの財布。わずかに残しておいた小銭さえ彼に奪われ、骸になったわたしたち。だけど、わたしはそんな財布を見てフフッと笑う。大丈夫。財布はまだ、大丈夫。彼からもらった鈴がまだファスナーに縛りつけられているのだ。それはお守りでもアクセサリーでもないことは知っている。その鈴は、わたしが財布を持っているか知らせるためだけにつけられたもの。わたしたちを縛りつけておくための首輪。
お金がないと絵の具が買えない。わたしは赤を失った絵を描き続ける。夕日はこれ以上、赤を放てない。外にある夕日は宵を迎え、わたしにさようならを告げている。こんなに綺麗な別れができるなら、わたしはどんなに幸せだろうか。わたしは赤のない夕日を描く。手には黒色を持っている。闇に映える夕日。そんなことを思いつきながら、空腹から目を逸らす。絵には絵の具が必要なように、わたしには食べ物が必要であることに理不尽さを覚えながら、流し台に立ち水道の栓をひねる。蛇口から心細いくらいに出の悪い水が漏れるように降りてくる。コップはない。彼に割られてしまったから。わたしの両手で水を受けとめる。そこには悲しいくらいに透明な湖ができる。わたしに技量では表現できない透明さだ。薄暗い部屋の中にある唯一の美しさ。少しだけ震えることによって波が立つ。
わたしは湖を飲み干す。温くなってしまった水で空腹を満たす。喉を通り、お腹の中にちゃぽんと波打ち際ができていることがわかって、生きていることの無様さを思い知らされる。僅かに飢えを凌ぎ、奇跡を求めてキャンバスを見る。だけど、夕日の右半分は真っ白。わたしは途方もない喪失感に苛まれ、畳の上で横たわる。財布を引き寄せ握りしめる。振ってみても、出てくるものは虚しさだけ。
笑った。何故か嬉しくなって笑えてきたのだ。遠くから彼の足音がこちらにやってくるのがわかったからだ。これ以上、何を取りに来たのだろうか。わたしが無いものを産み出すのには、キャンバスや筆や絵の具が必要なのに。今のわたしに何ができるのか。絵を描くことしかできないわたしに、彼は何を取りに来たのだろうか。
フフッと笑って財布を振る。鈴はジャヤリジャリと鈍い音を立てる。わたしと同じだと思った。安物で、唯一できることさえ満足にできない。――ああ、お腹が減った。水を飲んで胃を動かしてしまったからだ。役に立たないところだけは健気に活動をする身体。
彼がドアを開け入ってくる。わたしの眼に水を飲んだ分だけの涙が佇み、渚が生まれる。できることなら、横たわっている今の自分をスケッチだけでもしてみたいと思った。だから、わたしがどんな表情をしているのか彼に聞いてみたくて、フフッと笑ってから、ぼんやりした視界で彼の顔を見た。
絵を描けない女 犀川 よう @eowpihrfoiw
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