片づけなくちゃ。

春野せなか

片づけなくちゃ。

彼女の足首は華奢で生ぬるい。

力を入れればすぐに折れ曲がってしまいそうだ。

さて、これからどこへ連れて行こう。

僕には少し時間がほしい。


彼女と初めて出会ったのは4週間ほど前のこと。

僕は退職してから今日まで、毎日が休日のような日々を過ごしていた。

初めのうちは一日中寝巻のまま過ごせることがこんなにも素晴らしいことなのかと感激し、朝から晩まで気の赴くままに過ごしていた。


そんな生活をもう6年ほど続けている。

再就職する意欲はとっくのとうに失われた。

生活の当てにしていた退職金や失業給付金はすでに使い果たしており、今は貯金を切り崩してなんとか生きている。


当然こんな生活を続けていると精神面でも健康面でも様々な不調が出てきた。

一日中頭はぼうっとしているし何の気力も湧かない。

ずっと座ってパソコンを見ているせいで腰が砕けそうだ。

からだの節々が凝り固まっているからマッサージにでも行きたいところだが、残高が少しでも減るのが怖くて思い切れない。


せめて日の出ている時間帯に散歩にでも行こう。

そう思い洗面台へ移動した。

14時になるのにまだ顔も洗っていなかった。

蛇口から勢いよくでる水を、弱々しくなった手の平に溜めて顔にかける。

そばに置いてあったいつ何を拭いたのかもわからないタオルで顔を拭く。


何気なく正面の鏡を見た。

髪もひげも随分伸びている。

あまりに見っともないのでキャップを被って外へ出た。


太陽がギラギラと照りつける。

もう7月だ。

暑いに決まっている。

健康のためを思って外出したというのに逆効果に感じるほど、たった10分の歩行で体はヘトヘトだった。

80代くらいのおばあさんに「大丈夫ですか」と心配された。

情けない。

僕はあなたの半分ほどの年も生きていないというのに。


退職してから今日まで怠惰な生活をし過ぎたみたいだ。

貯金ももってあと数カ月。

毎月コンビニで支払う年金と保険料の三万強がとても痛い。

今までも払ってきたはずなのに給料から天引きされていたのと自分の財布から支払うのでは訳が違う。

プラス3万円ほど多く払っているような気にさえなる。


そんな不満をぼそぼそと呟きながら歩いているとコンビニの半分ほどの大きさのフラワーショップが現れた。

以前はよく通勤で通った道だったが、数年前とは少し変わっており新しい店もちらほら出来ていた。

テレビで放送される花の映像とは違って、目の前のフラワーショップからは生き生きとした花の生命力に加え、柔らかくしっとりした甘い香りが感じられた。

柄にもなくきれい...と呟いていたらしい。

視界の外から女性が「綺麗ですよね!」と突然声をかけてきた。


急に話しかけられたものだから心臓がどくんっとうねった。

帽子を深く被っていたせいで近くに人がいたことに気が付かなかったらしい。

右手で軽く帽子のツバを上げて声の主を探す。


すると両腕に花を抱えている女性が笑顔でこちらを向いていた。

まさに天真爛漫という言葉がよく似合うような可愛らしい人だった。


思わず上げていたツバを元に戻す。

もともと根暗なうえに6年も独りでいる僕には他人に対する免疫はアタカマ砂漠のように乾ききっている。

そっとやちょっとじゃ沁み込まない。


けれど、彼女の屈託のない笑みは不思議と僕の心に浸透していくようだった。


あれほど年金がどうの貯金がどうのと言っていたのに、彼女におすすめされたヒマワリの花を手に取り息をする様にお金を払っていた。

ヒマワリ3本で846円だった。


軽く会釈をして店を出る。

「またお持ちしてます」と彼女が言った。

なんだか花を買ったことよりもその言葉が僕にとって今日一日を生きるモチベーションになるような気がした。


晩ごはん三日分。

菓子パンを頬張りながらため息をつく。

花瓶など持っていないためペットボトルに挿した黄色い花3本をみて思った。

思いもよらぬ出費をしてしまった。

数日後には枯れてしまうというのに。

しかし部屋に飾られたヒマワリを見ると彼女を思い出す。

彼女の笑顔は僕を苦しめたギラギラの太陽のように輝いて見えた。

自分に対してあんな表情を見せてくれる人はなかなか珍しい。


晩御飯代わりの菓子パンを食べきって思う。

花が可哀そうだから明日花瓶を買いに行こう。


翌朝はやけに寝起きが良かった。

頭もすっきりしている。

少しだけ足腰に筋肉痛が残るがそれも自分が頑張った証みたいで嬉しかった。


洗面台で顔を洗う。

水道代が惜しくて週に一度しか髪を洗わない。

おかげで髪はキシキシだし肩に着くほど髪が伸びている。

さすがに自分の容姿に無頓着だった僕でもやばいやつ感が溢れているのが分かる。


すぐに美容室を検索した。

ひげを剃り、なるべくシワの少ないシャツを探して着た。


家から徒歩25分のところにある美容室へ向かう。

ネット調べたところ3000円以下でカットしてくれる美容室はここしか無かった。

少し遠かったが仕方なく歩いた。

到着するころには汗だくだ。


同い年くらいの美容師が担当に着く。

どんな髪型にしたいかと聞いてきたので、何となく

「ヒマワリが似合うような髪型で」と答えた。

美容師は一瞬困惑した様子だったが突然納得したように頷き

「おまかせください」と張りきった声で言った。

何をそんな急に張りきったのか僕には理解不能だったがやる気があるのは良いことだと思う。


髪が床に落ちてゆく。

隣の主婦と張り合えるくらいの量だ。

「最後セットしていかれます?」

今までなら断ってさっさと帰っていたが今日はお願いしてみた。


人生で初めてワックスで髪を遊ばせた。

なんだかこそばゆい。


支払いを済ませ店の外に出る。

なんだかさっきよりも空が広く青く見える気がした。


大通りを歩く。

交通量が多く忙しない街だ。

ふとホームセンターが現れた。

店先には花が売られており鉢植えも並んでいる。

もちろん花瓶も売られているだろう。


しかし僕はそのホームセンターに立ち寄らなかった。

足はスタスタとさまざまな道を通り抜け、ついに昨日訪れたフラワーショップへと辿り着いた。


ふうっと息を整える。


静かに店内に入るとゴソゴソと音がした。

レジの裏にだれかいるらしい。

覗き込むと彼女と目がった。

彼女は驚いて「気付かずすみませんでした!」とペコペコとあやまっていた。


僕は昨日買ったヒマワリを生ける花瓶を探している旨を伝えた。

すると彼女は透明な目を大きく開いて

「昨日うちで買って下さった方ですか?」と聞いてきた。

思い出してくれたことがちょっと嬉しかったが顔には出さずに、そうだと答えた。


彼女は花瓶を3種類持ってきた。

その中でもガラスがねじれた様な細長い花瓶をおすすめされ、その通りにした。

金額は二千円ほどだった。


「髪切ったんですね!とても似合ってます。」

帰り際、彼女はそう言った。


礼を言い、店を後にする。

僕はこの花瓶が割れてしまわぬように大切に持って帰った。


ペットボトルから二千円ほどの家に引っ越したヒマワリは心なしか嬉しそうだった。

僕は菓子パンをかじりながら見つめる。

とはいっても焦点はどこにも合わせておらず、彼女との会話を思い出していた。


僕のことを覚えていてくれた。

髪を切ったことに気付いてくれた。

胸が高鳴り頬が緩んでしまう。

また彼女に会いたい。素直にそう思った。


深夜0時。

独りきりの散らかった部屋で僕とヒマワリだけは生き生きと輝いていた。


花瓶を買ってから5日。

ヒマワリが枯れた。早すぎる。

電気代の請求が怖くてなるべく冷房はつけないでいた。

しかし花瓶の水は半日に一回変えるようにしていたのに。

もっと別の人がこのヒマワリを持ち帰っていたらあと3日くらいは長生き出来ただろうか。

でも仕方がない。

この花をおすすめしてくれた彼女にも悪いが僕も精一杯面倒を見た。


僕はしおれてクタクタになったヒマワリをゴミ箱へ捨てた。

二千円の家にいた時よりも哀愁があり何だか物悲しい。

夏がもう終わってしまうような気配さえした。


ヒマワリが枯れるまでの5日間。

特に大きな出来事はなかった。

ただ一つだけある習慣が身についた。

それは散歩である。

なんだか散歩にいくと1日が充実したような気になるのだ。


散歩は15分程度だが必ずあのフラワーショップは通るようにしていた。

たまに覗いていると彼女が気付いて話しかけてくれる。

僕はそれがたまらなく嬉しかった。

僕の顔を見て思い出してくれる人。

僕の服をみて似合ってると言ってくれる人。

僕が来るのを待ち望んでいたかのような笑顔を向けてくれる人。


僕は彼女が好きだ。

きっと彼女も少なからず僕に好意を持っているに違いない。

そうでなければあんな笑顔を見せないはずだ。


そんな思いは日々の積み重ねで妙な確信へと変わっていった。


とある火曜日。

なんだかとても良い気分で起きた。


彼女と手をつないで公園を散歩している夢をみたのだ。

道端に咲く花にいちいち反応する彼女はとても愛らしかった。

屈託のない笑みで僕に笑いかける。

僕はそんな彼女が心の底から愛おしくなり抱きしめようと手をまわした瞬間

目が覚めた。

心臓はすさまじいほど早く打ち、脳内はアドレナリンでいっぱいだ。

もう一度夢のなかへ戻ろうと目をつむるがうまくいかない。

激闘の末、僕は起き上がることにした。


ああ、夢じゃなければいいのに。

なんだか妙にリアルだった。

なんならこれは予知夢なのではないかとさえ思い始めた。

彼女とのデートを疑似体験したために今までとは比べ物にならないくらい脳内が彼女でいっぱいになった。


これはきっと神様が僕たちの未来を教えてくれたんだ。

はやく彼女に会いたい。

はやくこの気持ちを伝えたい。

はやく抱きしめたい。

きっと彼女も待ち望んでいるはずだ。


こんなにも人を好きになったのは初めてかもしれない。


今日は真っ先にフラワーショップへと向かった。

散歩という口実で彼女に会いに行くのはもう23回目である。

もうどうしようもないほど彼女が好きだった。


次の角を曲がれば彼女に会える。

無意識のうちに駆け足になっていた。

今日こそ気持ちを伝えよう。


そう意気込んで角を曲がった瞬間、僕は後ずさりをした。


スーツ姿の男性が花束をもって彼女と話している。

彼女の店では揃えていないようなとても色鮮やかで珍しい花ばかりだ。

僕は静かに二人の会話に耳を傾けた。


「うちの母とても喜びますよ。素敵な花を揃えてくれて本当にありがとうございます。」

「○○さんのお力になれて嬉しいです。お母さまも喜んでくれると良いですね。」

「はい。でもこんなに珍しい花を沢山...本当に大変だったでしょう。」

「いえ!好きなことなので楽しかったです。」

「なら良かった。それと...」


男性がひとつ咳払いをした。

「この間の返事...まだ出ませんか。」


僕は一瞬分からなくなる。なんの話だ。


彼女はすこし間を置き、やや緊張した声で答えた。

「そのことなんですけど...。私で良ければ、宜しくお願いします。」


心臓を槍で突かれたような衝撃を感じた。


男は笑顔でまた連絡しますと言って足早に車へ乗り込んだ。

彼女は何度も丁寧なお辞儀をしてその男を見送る。


誰がどうみても二人は恋をしていた。


偶然見てしまった二人の進展は僕の許容範囲を大いに超えていた。

心がぐちゃぐちゃになり精神が破壊された気分だ。

血の気が引いて今にもめまいで倒れそうになる。


吐きそうになる喉を抑え、しゃがみ込んだ。

もう何も考えられない。

夢に見るほど。毎日会いに来るほど彼女を愛していたのに...

どうして。どうして。どうして。


それからのことははっきりと覚えていない。


僕は店に戻った彼女のもとへと近づいた。

僕に気付いた彼女はいつもの笑みを浮かべる。

その笑顔にとてつもなく大きな不信感を抱いた。


僕は彼女が持っていた花鋏を奪い取り、思いっ切り彼女の腹部を挿した。


うぐっぅ、、、と、喉の奥で濁るような声を上げて彼女は倒れる。


どうしてという表情で見つめる彼女に僕は

「好きだった。ほんとうにどうしようもないほど好きで好きで...苦しかった。」

そう伝えた。


彼女は意味が分からず恐怖する顔のまま涙を流し目を閉じた。


彼女の生涯が目の前で終わった。

さっきまで満たされていなかった部分がすべて満たされた気分になった。

僕は動かなくなった彼女の華奢な足首を持つ。


あぁ、片づけなくちゃ。


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片づけなくちゃ。 春野せなか @yudoufu057

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