period.

遠井 音

period.

 おれは、この惑星の最後の人類だ。


 おれが産まれた時、惑星の人々は十年ぶりの新生児の誕生を大いに祝ったという。

 それ以来おれの誕生日には各国で賑やかなパーティーが行われるようになった。

 おれは物心ついた頃から、自分に対する祝福の中に、べっとりとした期待があることに気づいた。

 それの正体がわかったのは、定期検診でおれの精巣が成長していることが発覚してからのことだった。

 それはつまり第二次性徴の始まりで、次の日から大人たちはおれに熱心な性教育を施した。

 正しい生殖方法、正しい性知識、正しく安全で、持続可能な性生活。

 おれは気色悪さを覚えながら、性教育の試験をパスした。

 だからおれは膣のことも子宮のこともよく知っていた。

 触ったことはないけれど、断面図なら教科書を見なくても書ける。


   × × ×


「人類最後の希望がこんなことしたらあかんでぇ」

「禁止する法律も条例もない。第一、大人たちが勝手に期待してるだけだ」

「それなぁ」


 けらけらと目の前で男は笑う。

 おれはその男の本名を知らない。

 その男を、俺はフィーレイと呼んでいた。

 本当は「フィ」ではなく「ピィ」らしいが、どうせ本名ではないのだから、どんな名で呼んだって一緒だろう。

 その名は霹雷へきらい、すなわちカミナリを意味する。


 フィーレイは、都心部の繁華街の脇道を進んで裏道を迷い込んだところにある、猥雑な迷宮のような街に暮らしている。

 中国語の訛りが抜け切らない関西弁で喋り、ツヤのない黒髪を長く伸ばし、三つ編みに結んでいる。

 開いているのか閉じているのかもわからない糸目の奥にある瞳は、わずかに緑がかった色をしている。

 どこの国の色なのか、おれは知らない。


「希望くん、タバコ吸う?」

「条例違反だからいらない。局員にも怒られるし」

「出た、局員。なんやったっけ、ナントカ管理局」

「生物学的生理学管理局」

「どゆ意味?」

「さあ」


 フィーレイはマッチを取り出し、シュッ、と火をつけた。

 大きな火が一瞬生まれる。

 そして、その火はすぐにしぼんでいく。

 フィーレイは唇に咥えたタバコに、マッチの火を近づける。

 ジジッ、とタバコの中の草が燃える音。

 フィーレイがマッチ棒を振って火を消し、灰皿に置いた。

 灰皿には、吸い殻が死体のように寝転んでいる。


「希望くん、チューしよ」

「ん」


 フィーレイがタバコを吸いながら言う。

 おれはフィーレイにキスをする。

 苦い味がした。


 フィーレイはおれを「希望くん」と呼ぶ。

 人類最後の希望だから、希望くん、だ。

 もちろん、おれの本名は「希望」などではない。


 おれがこの迷宮に迷い込んで同性相手にうつつを抜かしていることさえ、管理局には把握されているかもしれない。

 GPSでおれの居場所がリアルタイムで監視されていたっておかしくはない。

 なにせおれは「人類最後の希望」だ。


「希望くん、オレのこと好き?」


 笑いながらフィーレイが訊ねる。

 おれは言う。


「別に」


 と。


   × × ×


 迷宮から現実世界へと戻り、都心部から電車に乗ってベッドタウンへと移動する。

 おれが産まれたお祝いに、おれの両親には庭付きの一軒家が与えられた。

 不自由なく子育てができるように、との偉い人の配慮だ。

 ここが日本ではなくアメリカだったのなら、プールつきの豪邸だって与えられただろう。


 家の中はシンとしている。

 冷えた空気が、おれは嫌いではなかった。

 両親には働かずとも暮らせるぐらいの出産祝い金が国から振り込まれたらしい。

 親戚から聞いた話だ。

 それでもフルタイムで就労しているのは、労働が好きなのか、暇を恐れているのか。

 おれはキッチンに行き、冷蔵庫の中からオレンジジュースを取り出した。

 コップに注いで一気に飲み干す。

 果汁の甘味と酸味、それからわずかな苦味が口内に残る。


「……」


 タバコの苦味を思い出す。

 タバコの、というか、タバコを吸っている最中のフィーレイの舌の苦味、だ。


 おれが迷宮に迷い込んだのは偶然だった。

 繁華街の中の映画館で映画を見た帰りに、物珍しくてピンク色の看板を見ながら歩いていたら、いつの間にか迷宮の中にいた。

 帰ろうと後ろを向くと、道がなかった。

 たじろぐおれの肩に手を置いたのがフィーレイだった。

 「迷ったん、キミ?」と。

 そしておれはフィーレイの住む部屋に招かれた。


 フィーレイはあらゆる商売をしているらしい。

 何を商材としているのかについて、おれは聞いていない。

 たぶんだけれど、条例にも法律にも違反する商材だろう。


 フィーレイと身体を重ねるのは、逃避行動だ。

 わからないほど愚かではない。

 おれはただ、「人類最後の希望」というレッテルから逃げ出したいだけなのだ。

 おれは正しくあらねばならない。

 正しい性行為をして、人類として種の存続を是とし、己の遺伝子を残さなければならない。


 やってられるか。


 自傷行為だ。

 フィーレイはおれが傷つきたいことさえ見抜いているに違いない。

 おれは、こんな時代に、こんなふうに産まれてきたかったわけじゃない。

 正しい性行為ってなんだ?

 持続可能な性生活ってなんだ?

 おれには婚姻を伴わない生殖行為すら許されている。

 三十年前には違法だった行為だ。

 すべては。

 すべては、種の存続のために。


「ただいまぁ」


 夜になり、母が帰宅する。

 おれはダイニングキッチンで夕食の支度をしながら「おかえり」と応えた。

 母がリビングのソファに腰掛け、テレビをつける。

 「大変です! 大変です!」とアナウンサーが叫んでいた。

 おれは手を止め、テレビ画面を見る。

 燃え盛る炎に包まれた迷宮の映像が映し出されていた。


「あらやだ、こわいわねぇ……」


 神妙な面持ちで母がテレビをじっと見つめる。

 パリン、と音がした。

 おれが、手に持った皿をうっかり落とした音だった。


「大丈夫!? 怪我はない!?」

「ああ、うん……大丈夫……、ごめん、お皿割っちゃった」

「いいのよ。お皿なんて買い替えればいいんだから。ホウキとチリトリ持ってくるわね」


 母がパタパタとスリッパの音を立てながらリビングを出て階段を昇っていく。

 おれは床に落ちた破片を拾おうと、大きなものを指先でつまんだ。

 鋭利な破片が、おれの指をスッと撫でた。

 痛みにおれは手を引っ込める。

 おそるおそる指先を確かめると、人差し指に、ひとすじの傷ができていた。

 ぷつっ、と血が浮かぶ。

 それはどんどん大きなかたまりになって、ぱたっ、と床に落ちていった。


 テレビの画面の中では、まだ炎が燃えている。

 おれの心臓はばくばくと鳴っていた。

 フィーレイはきっと生きているだろう。

 こんな火事で死ぬはずがない。

 けれど。

 けれどきっと、もう二度と会うことはないだろう。

 おれはフィーレイの連絡先を知らない。

 フィーレイは携帯電話を持っていないと言っていた。

 おそらく、いや、絶対に嘘だろうけれど。

 でもおれは、おれたちはそれでよかった。

 重ね合わせる身体さえあればよかった。

 身体を重ねることしか知らなかった。

 それはおれの逃避行動であり、自傷行為であったけれど、フィーレイにとっては、どんな意味を持っていたのだろう。


 フィーレイ。

 本当の名前も知らない、おれの正しくないともだち。


 ともだち。


「……」


 おれとフィーレイは、正しくなどなかった。

 正しくありたくない者同士が集まって、戯れていた。

 ただそれだけのことだ。


「フィーレイ」


 その名を呼ぶことも、もう、二度とはないだろう。

 おれはそっと、指先を伝う血を唇で吸った。


 血液は鉄錆の味がして、少しだけ、甘い味をしていた。

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