第二話 夏を呑む
五月初旬。うららかな春はすぐに去り、梅雨が来た。
柊華の覚醒予定日は朝から雨だった。雨音で目を覚まして、日付を確認せずとも今日がそうだとわかった。ずっと待ちわびていた日だった。
傘をさして歩く。思えば、こうして雨の中を歩くのはコールドスリープから目覚めてから初めてだった。
病院に行く前に花を買った。家よりも病院に近い花屋は、記憶にあるままの店名だった。先日病院から新居に向かったときには新しい建物ばかりに気を取られていたが、四十三年前と変わらずある建物も意外と少なくなかった。
久しぶりの来店を向かい入れてくれたのは新たな店主だった。彼が先代の息子さんだという話は本人から聞いた。僕がコールドスリープから目覚めたというのをニュースを見て知っていたらしい。聞けば、四十年以上前の僕の写真が全国放送で流れているのだという。恥ずかしさで苦笑いしかできない僕に、全然お変わりないから大丈夫ですよ、と彼がフォローを入れてくれた。僕が変わらずとも髪や服の流りもカメラの画質も全然違うだろうに、とも思ったが、不思議と彼の言葉は自然と受け入れられた。
店内をぐるっと一周して、水色の花びらの、糸みたいに細い葉がついた花を選んだ。柊華は水色が好きだったから。ニゲラというそうだ。
「花びらに見えるそれ、花びらじゃないんですよ。がくっていう、花びらを支えたりつぼみを守ったりする部分なんです。おもしろいですよね」
新たな店主は、僕ニゲラ好きなんですよ、とつけ加えて微笑んだ。はにかむようなその微笑み方が、先代に似ていると思った。
花屋を出るときには雨脚は少しだけ弱まって、傘を叩くリズムが遅くなっていた。
病院に着き受付で名前を告げると、用件を言わずとも病室の番号を告げられた。柊華は今朝研究所から病院に移ることになっていた。
エレベーターで上に上がり、病室の番号を見て歩く。目的のドアの前まで来ると先客がいた。
「秋山。おはよう、早いな」
白衣を着た旧友は、僕を待っていたようだった。
「おはよう。今どんな感じ?」
「柊華さん、順調だよ。三日前から徐々に体温を上げ始めて昨日の夜には体温は上がりきった。あとは目覚めるのを待つだけだ。今のところ特に問題はないよ」
ふっと、息が抜けた。冬ごもりプロジェクトに関わった研究者としてのプロジェクト成功を願う安堵ではない。彼女の恋人としての希望への祈りだった。
「ありがとう。……中入っても大丈夫か?」
「ああ。そばにいてあげな」
四十三年ぶりの夜明けがさみしくないように。強がりな彼女が孤独に押しつぶされないように。彼女が目覚めたときに最初に視界に入るのは、自分の姿であってほしいと思った。
扉を開く。病室の少し端に、真っ白な世界の中に、彼女はいた。入口で一瞬足を止めた僕の背中を旧友がそっと押す。
「柊華」
あなたのその名前を呼べる日がどれほど待ち遠しかったか。
木製の丸椅子をベッドのわきに引き寄せる。持ってきたニゲラは横の棚の上に置いた。彼女は、僕の記憶のままでそこにいた。長い睫毛も形の良い鼻と唇もそのままで。眠ったまま切られたらしい艶やかな黒髪は少しだけ不揃いで、さらさらと枕に広がっていた。相変わらずきれいだと思った。
「しゅうか」
眠り姫は目を覚まさない。生きていることを示すように、掛けられた布団が規則正しく上下していた。そっと頬に触れると、心なしかまだ少し冷たい気がした。彼女がそこにいることがうれしくて、つんと鼻が痛くなる。
柊華が目を覚ましたのは、それから三時間ほど経ったお昼過ぎのことだった。雨はまだ止まなくて、それでも太陽を覆う雲が少しの間横にずれて、病室にゆるやかな光が差し込んだ。
突然に、静かにゆっくりと。柊華は重そうなまぶたを持ち上げた。一、二、三回。ゆっくりと瞬きをしてから、僕と目が合う。懐かしい、涼し気な目元に目が吸い寄せられる。
なにかを言いかけて、彼女が咳込んだ。
「柊華! いきなり話すのは無理だ」
顔だけ横に向けてしばらくむせていた柊華は、落ち着くと再び僕の目を見た。むせた苦しさからか、目尻が薄っすら濡れている。
「かずきくん」
慎重に、一音一音選ぶように柊華が僕を呼んだ。ずいぶん久しぶりに聞いた彼女の声は少しだけ弱々しい。零れそうになった涙を、ゆっくり瞬きして追いやった。
「おはよう、柊華」
やわらかな柊華の笑顔が愛おしかった。
柊華が目覚めてからは忙しかった。僕のときもされた検査に加え、彼女の病特有の検査もある。合間を縫ってたくさんふたりで過ごした。
「わたし、血抜かれすぎじゃない? ミイラになれちゃうかもしれない」
「なりたいの?」
「迷いどころだよね」
たくさん軽口を叩きあって。
「世界が進みすぎてる! 私浦島花子になった気分だよ」
「それ僕も思った。怖くない?」
「怖い! けどテンションあがる!」
ときどきからかいあって。
「ねえ、今も線香花火って売ってるの?」
「どうだろ? あるんじゃないかな。カップ麺もあったし、意外とそのまま残ってるものも多いよ」
「もし売ってたら線香花火大会したいな。負けた方がアイス奢りで!」
いっぱいこれからをやりたいことを考えて。
「一稀くんは落ち着いたらまた研究に戻るの?」
「考え中かな。戻りたいけど、ギャップがありすぎて戻れるかなって」
「一稀くんが研究してないの想像つかない。研究者じゃなかっらなにしてるんだろう」
ちょっとだけ未来の生き方を悩んで。
「冬ごもりプロジェクトの他の被験者のみんなはどうなったの?」
「つい一昨日、最後のひとりが目を覚ましたよ。僕ら入れて十人とも、とりあえずは無事に目を覚ました」
「よかった。ほんとによかった」
少しだけ涙して。
「今だから言えるけどわたしさ、コールドスリープする前、起きたら一稀くんのこと好きじゃなくなってるんじゃないかって心配だったんだ」
「起きてみてどうだった?」
「杞憂でしたね」
たくさん笑いあった。
コールドスリープ前は僕が研究で忙しくてあまり会えなかったから、そのぶんまで取り戻すように、柊華の顔を見たかった。柊華の声を聞きたかった。君をひとり占めしたかった。雨の日も、曇の日も、ときどきある晴れの日も、君に会いに行った。君が気に入ったというから、会いに行く度にニゲラを買った。
柊華の新しい主治医の川西先生から話があると言われたのは、彼女が目を覚ましてから十六日目のことだった。今後の治療方針についてだという。
「一稀くんも来れそう? 先生ができたら一稀くんもって」
「もちろんだよ」
「ありがとう」
行かない、という選択肢はなかった。
川西先生は約束の時間きっかりに病室にやってきた。川西先生は、爽やかな愛想の良い四十代くらいの医師だ。何度か話しているが、いつだって説明がわかりやすく、親身で優しい良い医師だと思っていた。
そんな川西先生がどこか暗い雰囲気を纏って病室に入ってきた。目の下にはクマができている。初めて見る先生の姿。
わかってしまうのが嫌だった。これからされる話は、希望にあふれた未来なんかじゃない。きっと、ずっと残酷で、避けようがない現実だ。
気のせいであって欲しいと願う。柊華と繋いだ手の力を、どちらともなく強くする。気のせいであってくれなきゃだめだった。
「伝えるのが悔しいのですが、今日は残念な話になります」
頭が真っ白になる。川西先生はすぐには話を続けなかった。僕たちが彼の言葉を飲み込むのを待っていた。急かすことなく、静かに待っていた。
「はい。お願いします」
沈黙を破ったのは柊華で、僕はその凛とした声でようやく顔を上げただけだった。真っ直ぐに川西先生の目を見る柊華に導かれるように川西先生の方を向く。僕らの目を順番に見てから川西先生が口を開く。
「柊華さんの身体は、……治療に耐えられないと思います」
柊華の病状の進行はずっと重く、治療の効果が出る前に命を落とす可能性の方が高いのだと。川西先生が言うには、柊華が治療を受け、日常生活に無事に復帰できる確率は数パーセントもないそうだ。
世界が消えてしまえばいいのにとこれほど強く思ったのは初めてだった。僕たちはこの言葉を聞くために四十三年もの間眠りについたんじゃない。冷たい孤独の中で、僕たちが待ち続けていたのはこんな未来じゃない。
「そうなんですね。大丈夫です、覚悟はしていました」
柊華の声が震えていることに気づかないほど鈍くはなかった。同席しているのに、なに一つ声をかけられない自分が嫌だった。なんと言葉をかけたらいいのだろう。なにを言っても現実は変わらない。僕にはもう、現実を変える力はない。
「治療を進めるか、治療を辞めてこのまま退院するか。一緒に決めていけたらと思っています」
後者の意味するところはわかっていた。僕は結局、柊華を助けることはできなかった。僕がしたことは無駄だったのだ。
「治療を進めるにしても、退院して家に帰るにしても、まずは体力を戻さなくてはいけません。考える時間はまだあります。もちろんセカンドオピニオンに行きたければ繋ぎますし、相談や聞きたいことがあったらなんでも言ってください。やれることはなんでも。できる限り力になります。こんな言葉しか言えなくてごめんなさい」
川西先生が病室を去って、僕らふたりが残される。
「ねえ、一稀くん」
柊華が僕を呼ぶ。静かな声だった。
「わたし、どうしたらいいんだろう。生きたいよ。生きたい。でもさ、残りの時間が短いのなら、もう治療はしないで一稀くんと一緒にいられる時間を大切にしたいと思うんだよ」
涙を堪えるように視線を上に向けてから、柊華が微笑んだ。
「このまま退院してもいいかなあ。……もう十分頑張れたかなあ」
「ごめん」
瞼が熱くなった。柊華が堪えたものを僕が壊す資格なんてないのに。
「ごめん、柊華。君を助けると約束したのに、僕は君を助けられなかった」
いっそ、コールドスリープなんて開発しなければよかったんだ。希望を与えるだけ与えて目の前で奪い取るなんて、残酷すぎるじゃないか。彼女の時を止めてまで、そんなことをする意味はなかったんだ。コールドスリープさえしなければ、彼女はもっと最後まで友人や家族に囲まれて過ごすことができたはずなのに。
「泣き虫だなあ、一稀くんは。一稀くんが謝ることはないよ。先生も言っていたでしょ? コールドスリープが身体に悪影響を与えたのではないって。カルテを見る限り、四十三年前の眠る前だとしても治療するには遅かっただろうって」
柊華が僕の胸元に顔を埋めた。人前で涙を見せることが嫌いな彼女が、小さく肩を上下させている。Tシャツの胸元が熱を持ち、湿っていく。
「世界、わたしにちょっと厳しすぎるよね」
嗚咽を堪えるように、言葉が絞り出された。
「一稀くんの努力を無駄にしたくなかった。もっと生きていたかった。一稀くんともっともっと生きたかった。悔しいよ」
ただ、彼女を抱きしめることしかできなかった。正解の言葉を探して、見つけられなかった。彼女を苦しめたのは自分なのに。彼女を裏切ったのは自分なのに。僕はもう何も変えられない。
いっそ責めてほしかった。嘘つきと罵ってくれれば。お前のせいだと恨んでくれれば。
こんなことを想う自分が嫌だった。柊華は絶対にそんなことをしないとわかっているのに。
窓辺に置かれたニゲラが、少し頭を垂れながら射し込む日の光に当てられている。僕はただ、無力な自分を呪うことしかできなかった。
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