冬を抱く。春を掬う。
霜月はつ果
第一話 春を恋う
四十三年ぶりの深呼吸は、生温い空気を肺に送り届けた。寒すぎも暑すぎもしない。病室の懐かしい空気だった。
「おはよう、秋山。調子はどうだい?」
答えようとして、声の出し方を忘れていることに気づいた。
「
「生きている。今も眠っているよ」
すっかり老けた旧友は、優しく微笑むと面影が残っていた。
「
「うるせえ。イケおじと言って欲しいね」
声を出せずとも口の動きで言いたいことが伝わったことに安心した。四十三年という年月は人を孤独にしていたらしい。旧友は七十七歳になっていた。戸籍上は僕もそうなのだが。
鏡を見せてもらうと、自分の記憶にあるそのまんまの顔がこちらを見つめ返してきた。自分の何が変わったわけでもないのに、自分が弱くなったかのような。そんな感じがした。
二一六七年。季節は春。そうは言っても、眠っている間に四季も気温もずいぶん変わってしまったらしく、今ではほとんど春と秋がないらしい。先日まで雪が降っていたと思ったら急に桜が顔をのぞかせているそうだし、木々が真っ赤に染まることは稀でちらほらと色づいたと思ったら葉が落ちてしまっているという。病室の窓から見える桜の木は、もう花びらを落とし緑を芽吹きつつあった。葉桜の季節。
「夏と冬ばかりで過ごしづらいかもしれないな。私はもう慣れたけど」
僕の倍以上の時を生きた旧友は、一人称が変わっていた。旧友はよく病室に顔を出して色々な話をしてくれた。僕の友人としての話し相手と主治医を兼ねているのだと彼は笑った。
「秋山が無事に目を覚ましてくれて本当によかったよ」
旧友は医学部時代からの友人で、共に研究に取り組んできた仲間だった。冬ごもりプロジェクト――いわゆる、コールドスリープの実用化。それが僕らのグループの研究で、僕らは当時最先端を走っていた。僕、秋山一稀は、当時治験に参加した十人の被験者のうちの一人で、唯一の健康な被験者だった。
「お前の健康が確認できたらさ、これから順次残りの九人も目を覚ます予定だよ」
声を出せない僕の無言の問いかけに、旧友は優しく目を細めてから言う。
「ああ。
柊華は、僕の恋人で、同じく被験者のうちの一人だった。
「もちろん。もう、治療法はできている。彼女は現代の医療ならきっと治るよ」
僕が眠っていた四十三年間で、医学は着実に進歩を重ねたそうだった。
一週間ほどして、再びしゃべれるようになると旧友はもっと専門的な話題を持ってくるようになった。あまりに聞いたことがない内容ばかりで、僕は本当に浦島太郎になったのだと実感する。
「また勉強し直さないといけないなあ」
「大変だぞ、秋山。おれらが大学で使った教科書なんか、もう古書のようなもんだぜ」
ぽつりと言葉を漏らすと、旧友が楽し気に笑った。彼の口調がときどきかつてのようになるのをうれしく思った。
「おれ、教授になったんだよ。お前に講義してやれるぜ」
「かけてもいい。お前が先生だったら留年してたね」
旧友の笑い方が上品になっていることに寂しくなった。
「秋山さんお久しぶりです」
会いに来てくれた後輩は、当たり前だが自分よりずっと老けていて、ぎゅっと心臓をつかまれた気がした。旧友に再会したときよりもずっと胸が苦しい。もう彼らと同じ時を過ごすことは、できないのだと知った。
「明日からリハビリだな。ちょうど三週間後に柊華さんの覚醒が予定されている。それまでにある程度歩けるようになって、会いに行ってやりなよ」
声が出るようになり、嚥下が危なげなくできるようになると、運動のリハビリが始まった。コールドスリープの効果で老化や筋肉の衰えが防がれているとは言え、半世紀近くの休眠は体の動かし方を忘れるには十分だった。
採血・日々のバイタル測定・問診に加え、リハビリでもたくさんのデータがとられた。これを参考に他九人の被験者たちのリハビリを組み立てると言う。
「なあ、秋山。お前はこれからまた研究に戻るんだよな?」
「ああ。だからちゃんとデータ取ってくれよ。僕がこの後研究に使うかもしれないんだから」
そう答えると旧友は安心したようだった。本音を言えば、研究に戻るかはわからない。四十三年のブランクというのは、それだけの大きさだった。
「秋山が戻ってきてくれたら冬ごもりプロジェクトも安泰だと思うんだよ。初期メンバーがことごとく年をとってしまった上に、この四十年、新しい若手はほとんど増えていない。でもこのプロジェクトはこれからが本番だろ?」
第一弾の治験が終了し、結果が出るまでは第二弾の治験を行えない。それは、半世紀前から冬ごもりプロジェクトは大きく研究を進めることはできていないということだった。研究を進められないから、若手も入ってこない。当時から言われていた問題点だった。
「秋山もうニュース見たか? 世間は今、冬ごもりプロジェクトで話題が持ち切りだよ。お前が無事に半世紀の眠りから目を覚ましたってな」
彼の言いたいことはわかっていた。今がチャンスなのだと。世間の注目が集まるなか被験者も務めた自分がプロジェクトを再開するとすれば、それはまたとない機会だった。けれど。
「ニュース、まだ見れてないんだよなあ。なんだか怖くてさ」
自分のニュースを見るのが怖いというのではない。世界から取り残されたことをこれ以上突き付けられるのが怖かった。
「まあそうだよな。ごめんな、急かして。ゆっくりでいい。お前が戻ってきてくれたらうれしい」
情けない、と思った。
研究を進めていたとき、目を覚ました患者が会うことになる孤独に僕は気づけていなかった。考えはした。けれどもその考えが足りなかったのだと思い知る。
愛する人と一緒にいられれば怖くないと思っていた。どんなことでも乗り越えられる。ふたりでこれからもたくさんの想いを共有していくことが僕らの幸せで、それさえあればいいと思っていた。だから一緒に眠りについたはずなのに。
「秋山。お前コールドスリープをしたこと、後悔してないか?」
旧友に訊ねられて、言葉に詰まった。
咄嗟に正解を見つけたれなかった僕に、旧友は慌てて続ける。
「ごめん。変なこと聞いた。忘れてくれ」
「……後悔はしてないよ。柊華とまた暮らせる。コールドスリープ前にはできなかったことだ。これから救える人だって増えるかもしれない。だから、後悔はしてない」
取り繕っても、旧友の目に一瞬浮かんだ動揺は忘れられなかった。きっと僕らはわかっていたんだ。最初からずっと。
その人の時を止めてまで病を治すことに意味があるのかということを。
ひとり、またひとりと、被験者が無事に覚醒したという報告が来るようになったのは、目を覚ましてから三週間ほど経ったころだった。彼らは体調を確認し次第、治療に入るという。四十年前には治せなかった病が今では治せる。未だに医学が無力な病も多々あれど、治験に参加した僕を除いた九人の病は、どれも今では治療法があった。もとより、被験者十人を覚醒させるタイミングは全員の治療法が確立されたときに同時に、というのが当初から決まっていたことだった。
「もう十分動けるようになったな。明日で退院しよう」
僕の退院が決まったとき、柊華の覚醒はもうあと四日にせまっていた。僕が目覚めからもう一ヶ月が経とうとしていた。
我が家は眠りにつく前に引き払ってしまったので、僕は研究所が用意した新居で暮らすことになっていた。病院と研究所のほど近く。馴染みある地域のはずだった。
旧友の運転する車に乗り新居に向かうも、道中の景色は知らないものばかりだった。そこになにがあったのか、どんな家が建っていたのかさえ思い出せない。寝て、起きたら一夜にしてあちこちの取り壊しやリフォームが終わっているのだから当たり前と言えば当たり前だった。一夜が少し長すぎた。
僕が眠りにつく前にはすでに車の全自動運転技術が完成していたが、まだ事故も少なくなかった。今では交通事故はほとんど起こらないのだという。
新緑の桜並木を通り抜けて少ししたところが、僕の新居だった。桜並木は四十三年前と変わらずそこにあって、それに少しだけ救われた。
新居はローテーブルとベッドと、それからずいぶん前に荷造りをした十数個のダンボールだけだった。
「柊華さんと暮らすことになるだろうと思って、少し広めの部屋にしてる。家具はおいおい揃えていくとして、急ぎで必要なものがあったら教えてほしい」
旧友は引っ越し祝いだと、蕎麦のカップ麺と湯沸かし器を僕に渡す。
「今でもカップ麺とか食べるんだな」
「カップ麺は不滅だよ」
カップ麺のデザインは見覚えのないものだったが、食べてみると味は懐かしいものだった。つゆが沁みる。一滴残らず飲み干した僕を見て、旧友は「若いな」と苦笑いした。
旧友が帰りがらんとなった部屋で、ひとり荷解きをする。「だいじ!」と大きくマッキーで書かれた箱はどうしてか開けたくなくて、「使わないけど捨てられないやつ」と書かれた箱を開けたくなった。はさみもカッターもないから、がっちりと留めたテープの端から剥がす。四十年以上の時を経て劣化していたテープは、引っ張るとすぐに剥がれた。
箱を開けてすぐに目に飛び込んできたのは、大きなサメのぬいぐるみだった。思い出が蘇る。柊華と水族館で買ったものだった。
不意に水滴が頬を伝った。涙が溢れてきたのだと気づくまでに少しかかった。目を覚ましてから堪えていたものが、心に押し込めていたものが流れていく。
早く柊華に会いたかった。僕らの選択は間違いでなかったと思いたかった。もうずいぶん彼女に会っていない。彼女のやわらかな笑顔を見たかった。彼女の少し低いやさしい声を聞きたかった。会って、彼女への想いが変わらずあると確かめたかった。
あたりに春の空気はもうほとんど残っていない。半袖で寝ても寒さで目を覚ますことはない。
長い冬が明け、春が瞬いた。もうすぐ夏が来る。
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