第三話 秋を待つ

 夏は理不尽だ。圧倒的な暑さで支配するくせに、世界を輝かせてやってるんだから楽しめと言ってくる。八月中旬。夏は日に日に勢いづいている。


 柊華が退院したのは、川西先生から話をされた二ヶ月ほど後のことだった。ひとりでは広すぎた新居は、ふたりだとちょうどよかった。


「おはよ、一稀くん」


 水族館のふわふわのサメ越しに柊華が言う。押しどころが悪かったのだろう。さっき止めたばかりの目覚ましが再びなり始めたのを止めたところだった。


「おはよう、柊華」


 横を向けばサメと目が合う。


「サメじゃま」

「一稀くん、寝相悪いからここから先はわたしの場所っていうライン」

「それはごめん」

「うそだよ。久しぶりに一稀くんと隣で寝るから恥ずかしくなっただけ」


 サメの頭の上から目だけ出した柊華と目が合う。ずるいと思った。


「朝ごはん食べれる?」

「もちのろん」


 寝ころんだまま顔をサメで隠してブイサインを作る彼女が愛おしい。


 柊華の余命は一年ほどだと言われたが、実際のところはわからないという。元々珍しい病気だというのに加え、コールドスリープの影響がどのくらいあるのかわからないのだそうだ。柊華の人生はもっと長いかもしれないし、もしかしたらある日突然あっけなく終わるのかもしれない。本当は今朝だって怖かった。朝起きたら柊華が息をしていないんじゃないかと思うと、怖くて仕方がなかった。病院から家に帰るというのは、不測の恐怖と共に生きることだとわかっていたはずだったが、わかったつもりになっていただけだった。


「そうそう。わたし、欲しいものがあるんだよね」

「どうぞ?」

「言っちゃいますよ? 最新型のね、テレビが欲しいんですよね」

「買いましょう」

「いいの!? あの投影式のやつだよ? 高いよ?」

「うん、後で調べてみよう。ふたりの寝起き祝いにしようよ」


 朝ごはんの食パンとインスタントの味噌汁を食べながら、そんな話をした。柊華が飲む六種類もの薬だけが、どこか異質なものに思えた。病気の進行を遅らせる薬。この四十三年の間に開発された新薬だった。気休め程度の、柊華の命を救うには力及ばない薬。


 今日はお墓参りに行こうと決めていた。僕の両親は都内の納骨堂に入っているが、柊華の両親は郊外の昔ながらのお墓に入っていた。今ではずいぶん珍しくなったことだった。


 家を出て最寄りの駅に向かうころには、すっかり太陽が真上に昇っていた。梅雨が終わり、日を遮る雲もなくなって、じりじりと頭のてっぺんを焦がされる。


「タクシー乗らなくて大丈夫?」

「うん。歩きながら街並み見たいからさ。無理しないように気をつけるから」


 柊華が目を輝かせて言うものだから、僕たちは十五分ほど歩くことにした。四十三年の時を飛んだ街を僕は寂しく思ったが、彼女は違うようだった。僕よりも以前と変わらずあるものを見つけるのがずっと上手で、新しいものを見つければその度に足を止めた。結局駅に着いたのは、家を出てから三十分近く経ったころだった。


 駅を使うのはずいぶんと久しぶりだった。目を覚ましてからずっと、新居と病院と研究所の周辺だけで生活が回っていたのだ。


 今日一緒に来てくれるはずだった旧友が、冬ごもりプロジェクトの関係で行けなくなったという連絡が来たのは、昨日の夜だった。謝罪と一緒に電車の乗り方の丁寧な説明が送られてきて小学生の遠足みたいだななんて笑ったが、実際に駅に来てみると教えておいてもらってよかったとしみじみ思う。


「紙の切符とか教科書の中の世界だと思ってたよ」

「ほんとにね」


 人生で初めて紙の切符を買った。駅の隅っこに一台だけある、icカードをチャージする機械で切符が買えるというのは、今まで知識として持っていただけだった。かかる金額を先に調べてから買う。なんて面倒なことだろう。四十三年前にはすでに物理のicカードを使う人はめっきり減り、スマホで改札を通ることが一般的だったものだから、この機械を使うことすら初めてだった。


 機械から出てきた二枚の頼りない紙切れを、柊華が大事そうに両手で持つのが可笑しくて、思わず口元が綻ぶ。有人改札で切符を見せると、駅員さんは意外にも慣れた手つきで切符に穴を開けてくれた。


 電車は記憶とあまり変わっていなくて、駅のホームが少し綺麗になったくらいだった。高層ビルの群れを抜け、七駅乗って乗り換える。だんだんと建物の高さが低くなっていく。乗り換えてから三駅乗ると、目指していた駅名がアナウンスされた。どこか懐かしいメロディとともに電車を降りる。記念にどうぞともらった切符は財布にしまった。


「一回休憩する?」


 暑さは容赦なく体力を奪っていく。僕ですら少し疲れたのだから、柊華ならなおさらだろう。頷いた柊華のリクエストで、僕らは氷の暖簾に引かれるようにカフェに入った。


「どうしたの、そんなににこにこして」

「いや〜? 一稀くんとこうしてお出かけするの久しぶりだなって。うれしいね」


 真っ直ぐに微笑まれて、僕は彼女のこんなところに惹かれたのだと思い出す。ずいぶんと昔のことのようで、ずいぶんと最近のことのようだった。


「付き合う前はさ、よくこうやってかき氷食べに行ったじゃん。あと、オムライスとかパンケーキとか。一稀くんはわたしのこと食べ物でなら誘えると思っていたふしがあります」


 柊華がぐいっと顔を僕に近づける。色白な額がじんわりと汗をかいていた。空調の効いた店内が心地よい。


「……否定はできません」

「正直でよろしい。一稀くんの見つけてくるお店どこもおいしくて、最初グルメな人なのかと思ってたんだよね」

「ちょっと待って、恋バナ始まってる?」

「始まってますね。嫌?」

「嫌じゃないけど心の準備が必要」

「そんなの待ちません! 続けます」


 お冷を一口飲んだ柊華は、間髪入れずに言葉を続けた。からんと氷が揺れる。


「でも、一稀くんが普段は研究室でカップ麺ばっかり食べてることにある日気づいてさ。あ、この人わざわざわたしのために調べてくれてたんだなって思って」


 やわらかな笑顔を向けられて、僕はまた心を掴まれる。


「気になり始めたんですよ。知らなかったでしょ」


 どうにもふわふわ気持ちになって、僕は頷くので精一杯だった。いい歳して柄にもなく恥ずかしい。


「なに頼む? わたしはかき氷のショートケーキかブルーベリーパンダにする」


 メニューを広げた柊華が両手の人差し指で二つのかき氷を指しながら言う。


「じゃあそれ二つ頼んでふたりで半分ずつ食べようよ」

「いいの? ありがとう!」


 決められなくて結局シェアすることにするのは、お決まりのパターンだった。


 店を出ると芯まで冷やされた体が温められてちょうどよく感じた。墓地は急な坂を車で十分以上登った先にあるので大人しくタクシーを捕まえて向かう。墓地に近づくにつれ、柊華の口数が少なくなっていったのはきっと気のせいではなかった。


 コールドスリープから覚めたら両親が亡くなっていた。それを柊華はどう感じているのだろうか。情けないことに僕はそれを聞く勇気がなかった。僕はコールドスリープの治験に参加する前に、早くして両親を亡くした。親の死に目に会えずに葬式にも出られずに、目を覚ましたら親がいなくなっているというのは、同じ時を生きて親を亡くすよりも受け入れがたいことなのではないかと思う。


 霊園の入り口にあったはずだという花屋さんは、もうなかった。訪問者が少なくなって売らなくなってしまったのだそうだ。


「まあ花はないけど、お供えのビールは持ってきたし許してくれるよ」

「柊華のご両親、お酒好きだったもんな」

「そうそう。ふたりとも一稀くんと飲むのすごい好きだったんだよ」


 柊華によく似た話し方をする、気さくな両親の笑顔が頭に浮かんだ。はたと思う。自分はふたりに恨まれていたのではないだろうか。彼らから大切な娘を奪った僕を、大切な娘の時を止め、共に時間を歩むことをできなくした僕のことを、恨んでいたのではないだろうか。恨まれていても仕方がないと思った。それだけ犠牲を払わせてなお僕は、彼女を救うことができていない。


 柊華のご両親のお墓は、見つけるのに随分と時間がかかった。墓の数が少ないから一つ一つ名前を見て行ったらすぐだろうと思ったのが間違いで、好き勝手に生えた雑草たちが行く手と家名を阻まれた。


「あった! ここだ!」


 ようやく柊華のそんな声が聞こえたときにはふたりともすっかり汗をかいてしまっていて、かき氷効果はとっくに切れていた。入口で組んだバケツの水もずいぶんぬるくなっている。


「お母さん、お父さん。ひさしぶり」


 柊華のもとへ行くと、彼女は墓石の前にしゃがんでそう言葉をかけていた。


「ご無沙汰しております。秋山一稀です」


 柊華の横に並んでそう言えば、柊華は優しく微笑んでありがとうとつぶやいた。


 黙々と雑草を抜いて、持ってきたゴミ袋に入れていく。少しずつ着実に膨らんでいっぱいになったゴミ袋を見て、不思議な達成感で満たされる。汲んできた水とスポンジで墓石を洗うと、最初の印象とはずいぶん違って見えた。


「ふう。ずいぶんきれいになったね。一稀くんのおかげだよ、ありがとう」


 額の汗をぬぐう柊華は、来たときよりも少しだけすっきりとした顔をしていた。


「もう伝えたい話はだいたいしたからさ、お線香あげて、ビールで乾杯してちゃっちゃと帰ろ。暑すぎる」


 律儀に柊華の両親と柊華と僕の四人分四本持って来たビールを墓石前に二つ置く。僕らで一つずつ持ってこつんと合わせた。


「一稀くんはうちのお母さんとお父さんになに話したの?」

「目が覚めたら柊華と入籍させてくださいって約束、まだ有効ですか?って」


 ふたりの大切な娘を僕は救えなかったけれど、せめて残された時間だけでも彼女を幸せにするために捧げたい。どうか見守ってくれませんかと、そう願った。


 驚いたのかわかりやすく動きを止めた柊華は、照れた気持ちを持て余すように視線を下に彷徨わせながらぽつりと言う。


「もちろんって言ってる。お母さんとお父さんが」


 さらさらとした黒髪から覗く耳がほんのり赤くなっている。


「柊華は?」


 聞きながら、体を墓石から柊華の方に向ける。しゃがんだままなんて不格好だなと思いながらも、続けずにはいられなかった。


「僕と結婚してくれませんか」


 はっと顔を上げた柊華が、目にいっぱいの涙を湛えて真っすぐに僕を見る。


「わたし、一稀くんの人生奪っちゃったのにいいの? 一緒に四十年も眠らせておいて、一稀くん置いて行っちゃうよ。それなのに忘れないで欲しいって思っちゃってるよ。結婚したら、もっとそう思っちゃうよ。わたしは一稀くんのこれからの人生に責任をとれないのに」


 一息で言ってから、堪えきれなくなった涙が彼女の頬を伝った。


「責任なんてとらなくていいし、柊華のことを忘れるわけがない。ずっと誰よりも覚えておくし、覚えていたいんだ。柊華のことがだいすきだから」

「わたしも一稀くんがだいすきだよ。――結婚、よろしくお願いします」


 ふたりで持っていたビール缶のプルタブを倒した。こつんと二回目の乾杯をして缶を仰ぐ。だいぶぬるくなったビールはあんまり美味しくなくて、ふたりで笑った。


 来年の夏に君はいないかもしれない。一緒に秋を探すことは、冬によりそい、春を見つけることは、できるだろうか。秋が短くなった今、わずかな紅葉を見れた者には小さな幸せが訪れるという。


 あと少しで夏のいちばん暑い時期が終わる。秋の足音を、僕らは静かに待っている。

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