第3章 翻訳家志望

 菊地秀行はフリーライター時代の10年間、雌伏の時を過ごした。

モノを書く仕事に就いていると言っても、書きたいものではなく、経済的にも恵まれていたわけではなかった。父・秀満に勘当された身ではあったが、菊地の状況は実家にも伝わっていたのだろう、実弟・成孔は、

“「兄貴はブレイクしたのが30代後半で、それまでは、この人、どうするんだろう?って感じだった」”

 と述懐している。

 だが、菊地も貧乏ライター生活に手をこまねいていた訳ではない。

 英語検定試験を受け2級を取得して、他のライターが嫌がる実入りの少ない細々とした翻訳記事の仕事を引き受け仕事の幅を拡げた。ギャラは少なくとも翻訳記事の執筆は、その後、翻訳家志望への夢に繋がっていく。

 

 また菊地は、1977年に開講された漫画原作者・小池一夫の『劇画村塾』に入塾して1年間、原作科を受講している。第1期生は約250名。

 同期生では、漫画家では『うる星やつら』『めぞん一刻』『らんま1/2』『犬夜叉』の高橋留美子、『軍鶏』のたなか亜希夫、『エルフ・17』『SABER CATS』の山本貴嗣らがいる。菊地が在籍した原作科では、卒塾後に漫画原作者として活躍した『迷走王 ボーダー(作画・たなか亜希夫)』『ルーズ戦記 オールドボーイ(作画・嶺岸信明)』の狩撫麻礼、『パイナップルARMY』(作画・浦沢直樹)の工藤かずや、『ジゴロ(作画・檜垣憲朗)』の早乙女正幸らがいる。

 また、フジテレビプロデューサーの岡正や小説家・占星術家の式貴士がいる。

前述したさくまあきらも編集者育成科を受講しており、第3期では堀井雄二も原作科に入塾している。

 さくまあきらと堀井雄二は、卒塾後に漫画原作を手掛けている、堀井は本田一景というペンネームで、さいとうたかをの『ゴルゴ13』にも『サギ師ラッキー』(1984年10月発表作品)・『アイリッシュ・パディーズ』(1984年12月発表作品)・『イリーガルの妻』(1985年4月発表作品)・『弾道』(1986年1月発表作品)の脚本を担当している。

 菊地は、漫画原作者コースを受講したものの、小池一夫に認められる成果は挙げられなかったようだ。成績優秀者は1年後に、「特別研修生」となり、2年目に小池一夫より、さらに具体的な指導が受けられたが、そこに菊地はいなかった。

 しかし、小池一夫の持論であり、のちにコミック業界に確立された『キャラクターが第一。キャラクターを起たせること』という教えは、菊地の作家生活において大きな影響を及ぼしている。

 劇画村塾に関しては後日談がある、菊地秀行が作家となり人気を得てからも、菊地が劇画村塾出身者だと気付いた者はいなかったという。

 菊地が第1期生だったことが判ったのは、2001年に第8期までの塾生の同窓会が開かれた際に、当時の第1期生在籍者の名簿を調べていたときだという。

同窓会時に、この事実が報されると、会場から大きな驚きの声が聞かれたという。そして、塾頭を務めていた小池一夫も反応は同じだった。

 

 1970年代後半に差し掛かる頃、菊地は所属していたライターのグループから離れて、独り立ちをしている。

「週刊誌のルポライターは自分には向かない」と判断した結果だった。

 菊地は趣味で古いホラー映画の8ミリフィルムを集めていた。

ルポライター時代の仲間が『JACKER(ジャッカー)』という雑誌の編集長を務めることになり、菊地は誌面でホラー映画の紹介グラビアを担当した。記事は12回も続き、一部の好事家に注目された。

 そして、菊地はSFビジュアル雑誌『宇宙船』を出していた朝日ソノラマにこのグラビア記事を持って、何か書かせて欲しいと営業に出掛けた。

結果、『宇宙船』でも、菊地は仕事ができるようになった。

 この朝日ソノラマとの縁は、作家・菊地秀行誕生に大きな役割を果たす。

 菊地は作家になることを目指していた。しかし、

“「自信がなかった」”

 と語っている。

 山田正紀の登場も自信を揺るがす要因になった。1974年に『神狩り』で24歳の作家デビューを飾った山田は、『流氷民族』(のちに出版された角川文庫版では『氷河民族』)で地歩を固め、立て続けに『崑崙遊撃隊』『謀殺のチェス・ゲーム』とSF小説・冒険小説を放ち続け、1977年の『火神(アグニ)を盗め』では直木賞候補に挙げられている。

 菊地は、山田正紀の小説を発表当初読むことができなかった。

打ちのめされるのが目に見えていたからだという。

結果的には読んだが、2、3日は、アパートの天井を見ながらボンヤリと過ごした。

 だがこれは、菊地に限ったことではない。

『新宿鮫』シリーズで一躍人気作家の仲間入りを果たした大沢在昌も、矢作俊彦の初期作品を読んで、衝撃のあまり2、3日寝込んだ経験を持っている。

 菊地は、青山学院大学を卒業後も、山村正夫が主宰していた『推理文学会』に、竹河聖とともに同人として参加しており、何作かショートショートを書いている。

 

 この頃、菊地は翻訳家になることを真剣に考え始める。

銀座のイエナ書店、そしてサンフランシスコへ行き、『ファンタジーエトセトラ』でどっさりと原書を購入した。

菊地は翻訳した作品を奇想天外、廣済堂、サンリオに持ち込む。奇想天外社に赴いた折には、夢枕獏と初対面を果たしている。その結果、

1979年3月『オリンピック村の誘惑』ロビン・ヤング原著(廣済堂出版)

1979年5月『女医の部屋』マルコ・ヴァッシー原著(廣済堂出版)

1979年7月『課外授業』アルバート・リハイ原著(廣済堂出版)

1979年10月『舌戯』ジーン・ブレント原著(壱番館書房)

1979年12月『凍結都市』アーノルド・フェダーブッシュ原著(廣済堂出版)※初のハードカバー

1980年7月『ザ・ワルチンブック』デヴィッド・ワルチンスキー原著(集英社)※この作品は井上篤夫との共訳

1981年7月『メデューサの子ら』ボブ・ショウ原著(サンリオSF文庫)

1982年2月『パラダイス・ゲーム 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年3月『フェンリス・デストロイヤー 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

1982年5月『スワン・ソング 宇宙飛行士グレンジャーの冒険』ブライアン・M・ステイブルフォード原著(サンリオSF文庫)

 と、ハイペースで翻訳作品が本になり、生活も安定していく。

 翻訳に際しては、三枝藤夫や水田冬樹彦というペンネームも使った。


 30歳を迎えた菊地は、5年間通って初段の段位を取得した伊藤昇の少林寺拳法の道場で知り合った女性と結婚をしている。

 菊地より2歳年下の彼女は、スレンダーな美形である。

彼女にはふたりの兄がいた。長兄はアメリカ・ニューヨークに滞在しており、次兄は菊地と同い年であり、ある出版社の記者だった。

菊地は、近しい職業の兄を持つ彼女に親近感を覚えたようだ。

 余談だが、菊地の妻となった女性も初段の段位取得者であり、菊地は、

「脚は妻のほうが上がる」

 と発言している。

 また彼女は、旅行好きであり、出不精だった菊地を誘って旅に出掛けた。

やがて、菊地自身も旅の魅力を知り、ヨーロッパやアメリカを訪れている。

ちなみに新婚旅行先はアメリカだった。

 1994年には、NHK衛星放送第2(BS2)で放映されていた『世界・わが心の旅』に出演して、菊地自身2度目となるルーマニア・トランシルヴァニア旅行に出掛けた。この旅行については、1996年にNHK出版から旅行記として『トランシルヴァニア 吸血鬼幻想』がハードカバーで出版されたのち、2000年に中央公論新社より『吸血鬼幻想―ドラキュラ王国へ』として文庫化されている。

 菊地のユーモアと裏話たっぷりの旅行記となっている。

 また、結婚後は、食事が規則的になったのか、菊地は独身時代より10㎏体重が増えている。妻となった女性には、愛情を込めて「シュウトン(醜豚)」と呼ばれていたようだが、ある雑誌の取材で夫人とともに食卓を囲む菊地は幸せそうに見える。

実家の仕事柄、家族で食卓を囲む経験に恵まれなかった菊地だが、結婚後は食卓の温かみを知ることになる。

 

 同じ頃、菊地は同人誌『推理文学会』に『人でなし』という30枚ほどの作品を発表する。この作品は、完全なエンターテインメントで菊地独特のエロスとバイオレンスが芽を出している。

 この作品を、ある席で直接、褒めたのが川辺豊三という人物だった。

船乗りとして生活したのち、推理作家に転身した人物だ。

1997年に川辺が死去した際、菊地はノベルスのあとがきで、川辺との思い出を記している。

菊地にとって、『人でなし』を手放しで褒めてくれた川辺の存在と言葉は、創作活動において大きな支えだったのではないだろうか。

 しかし、菊地が長編小説を書いて新人賞に応募するか、出版社に持ち込むことはなかった。元々、切れ味の鋭い短編小説の書き手になりたかったこともあるが、もうひとつライター経験者ならではの理由もあったと思う。

 『あした蜉蝣の旅』『行きずりの街』などで知られるハードボイルド作家の志水辰夫と新宿歌舞伎町を舞台にした『不夜城』シリーズで爆発的ヒットを果たし、『犬と少年』で直木賞を受賞した馳星周が同じ発言をしている。

“「一度、文章を書いて金をもらった人間にとって、金になるかわからない文章を書くのは、苦痛でしかない」”

 贅沢だとも傲慢だとも受け取れるが、プロの書き手であれば、当然の考えだとも思える。菊地も、アテのない小説原稿を書くことがなかったのは、こんな理由もあったのではないだろうか。


 フリーライター・翻訳家として活動中の1981年、菊地に転機が訪れる。

朝日ソノラマの『宇宙船』の編集者から、

「ソノラマ文庫に何か書いてみないか」

 と声が掛かったのだ。この編集者は、菊地の興味が古い映画に偏っており、そのマニアぶりに興味を示したのだという。

〝書けば本を出してもらえる〟

 菊地の心は高鳴っただろう。この時期の菊地は金欠に悩まされていた。

月末に、部屋代を払うと、財布には5000円しか残っていないこともあった。

ちなみに、この5000円は菊地の全財産だった。菊地はこの札をポケット収めて、編集者と焼肉屋で打ち合わせをしたことがある。

飲食費は、編集者持ちだったが、帰り道にふとポケットを探ると、5000円がなくなっていた。

一瞬で血の気が引いた菊地だったが、店にとって返して「忘れ物をした」と言い訳をしながら、テーブルや椅子の下を懸命に探した。

探した甲斐あって、5000円はすぐに見つかったが、この経験は一生忘れられない、とのちに語っている。

 自由業の哀しさだが、サラリーマンと違って、毎月決まった額が懐に入る訳ではない。大沢在昌がエッセイに記しているが、作家として売れなかった頃、ノベルスの印税が入る月には100万円以上の収入があっても、その翌月には2万円しか月収のないときもあったという。

 菊地は早速ストーリーを作成して提出したが、これはあえなく没となった。

 理由は「長すぎる」。

 その後、菊地は半年ほどのあいだ新たにストーリーを提出しなかった。

自負はあったが、没にされたことで一時は自信を失ったのではないだろうか。

 また、この時期にはサンリオから立て続けに翻訳作品が出始めた頃でもあった。

一時の金欠からは立ち直っていたのも理由かもしれない。

 しかし、永井豪の『バイオレンスジャック』と映画『ニューヨーク1997』にインスパイアされて、再度、小説に取り組むことになる。

編集者から、

「書いて出せば、初版1万部で1冊300円ちょっと。源泉徴収されても30万円にはなるよ」

 とあらためて聞かされ、

「それなら、毎月一冊書けば、金の心配はしなくて済む。食っていける」

 と考えたのも起爆剤になった。

 しかし、まだデビュー作も完成させていないのに、〝毎月一冊書けば〟という発想は、のちの菊地の活躍を見ると、捕らぬ狸の皮算用でも、ただ、月収30万円×12=最低年収で360万円という単純な計算でもなかったように感じる。

 多作が出来る創作家としての、自負だけはたっぷりとあったのだ。



参考文献・一部引用


菊地秀行『幻妖魔宴(げんようまえん)』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』(1996年4月15日発行 スコラ)

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