第2章 東京

 1969年(昭和44年)4月 、菊地秀行は1年間の東京での予備校生活を終えて、青山学院大学法学部に入学する。

父・徳太郎との約束を果たすため法学部をいろいろ受けた結果、青山学院に滑り込んだ形になった。

 入学後、菊地は青山学院大学推理小説研究会に入会し、その博識ぶりで会員たちを驚かせる。

本当は、「SF研究会」に入りたかったのだが、当時の青学には、SF関係のクラブや研究会はなかった。

そこで、推理研究会に入会することにしたのだった。

 菊地は、銚子時代に自分の趣味嗜好を話せる友人・仲間がいなかった。

だが、この研究会においては、菊地は〝水を得た魚〟だった。

 才能は自然と集まるものなのだろうか。研究会の同期には、『風の大陸』シリーズ『巡検使カルナー』シリーズで人気作家となった竹河聖(文学部史学科卒業)、一年後輩には、在学中からSF作品の翻訳を手掛け、小説家として『幽霊事件』シリーズを執筆した風見潤(法学部卒業後、文学部英米文学科に再入学・中退)がいた。

 菊地は、研究会の機関誌『A・M・マンスリー』において、〝きくち れい〟の名で作品を発表し始める。

 

 意外なことだが、この頃の菊地の作品は評論が中心で、創作も叙情的なショートショートだった。また、行動力に富み、3年次には同会の会長に就任した頃には、研究会の顧問に山村正夫を迎え、新入生の勧誘、歓迎ハイキングにコンパ、そして夏季合宿と秋の学園祭の催しを率先しておこない会長職を全うした。

 研究会に部室は与えられておらず、彼等の溜まり場は大学付近の喫茶店だった。学生は一部を除いて、そんなにお金を持っていない。

青山学院大学は、裕福な子弟が集まるイメージがあるが、全員が全員そうではない。

また、使えるお金があれば、真っ先にミステリーやSF関係に使ったはずだ。

コーヒー一杯で、延々と話を続ける彼等は、店側にとって必ずしも歓迎される存在ではなかった。

彼等は転々と居場所を求め続けることになるが、ミステリーやSFの話をできる仲間がいることが、彼等にとっては最高の喜びだった。

 また、研究会は、立教ミステリ・クラブと少し繋がりがあるだけで、早稲田大学や慶應義塾大学の同研究会とは、あまり関わりがなかった。

趣味も嗜好も知っている、心許せる同じ大学に通う仲間と濃密な時間を過ごせることは、菊地の大学生活を充実したものにしたに違いない。

 菊地の下宿は原宿にあった。六畳一間で家賃は1万円。三河荘といい、その名のとおり、三河屋という酒屋が大家だった。

 実家からの仕送りは4万円で、そのうち1万円は家賃に消えるので、自由に使える金は3万円ということになるが、菊地の大学在学中(1969年~1973年)の大卒初任給は、インフレ経済下で大きく上昇しているが(1969年 34,100円 1970年 39,900円 1971年 46,400円 1972年 52,700円 1973年 62,300円[年次統計より引用])、決して、苦学生というわけではなかった。

 

 菊地は、この頃から本格的に国内外のミステリー・ハードボイルド・SFを体系的に読み進めていく。

 上京して、青学推理小説研究会を通じて、銚子では手に入らなかった作品、興味を持っていなかった作品にも出会うことになり、菊地の視野も広がったと考えられる。

 大学に程近い場所にあった菊地の下宿は、研究会会員のあいだで〝菊地ホテル〟と呼ばれ、夕方から呑んで帰れなくなった会員たちの泊まり場となっていた。

菊地はこの頃から現在に至るまでアルコールを口にしないが、飲み会には積極的に参加して、ジュース片手に冗談を飛ばしながら、談笑していた。また、酒は飲めないが酒の肴はどれも好きだった。

ちなみに、菊地の好物は豚の生姜焼きとマグロとイカの刺身。嫌いなものは固体のチーズ(ピザのように溶けている状態だと好きだという)である

 この菊地ホテルに数度世話になったことがあるかもしれないとのちに語った竹河聖によると、

“「菊地氏は厭な顔ひとつせずに彼等を泊め、時には夜食や朝食を振舞うのだった。毎日とは言わないが、かなり頻繁に、入れ替わり立ち替わりなのである。しかも下戸の菊地氏が酔っ払いを泊めるのだ。(中略)几帳面な菊地氏は、いつも部屋を清潔にしていたが、部屋に入ると、まず大きな本棚が目に付いた。おまけに、それには本が二重に詰り、はみ出したものもある。(中略)ブラッドベリとウールリッチをこよなく愛していた菊地氏の本棚には、私が未だ読んでいなかったものが数多く並べられていた。ここでも〝ムムッ、やるな〟である。」”

(『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』 竹河聖 『菊地秀行氏のこと あのころ、あるいは〝菊地ホテル〟』1986年10月15日 講談社より引用)

 まだ、若者文化の発信地は渋谷ではなく新宿だった。

菊地は、当時の原宿を気に入ったのか、代々木上原の1Kに居を移すまで、大学卒業後も3,4年間、この部屋で暮らしている。


 大学卒業後、菊地は、就職をしなかった。

1社だけ創元新社を受けたが、倍率は100倍。敢えなく不合格となった。

 大学時代に所属したゼミは刑法だった。入学当初は、父が希望したとおりの法律関係の職に就くことを考えていたのかも知れない。

ちなみに卒論は、

“「犯罪の素質のある奴を早めに手をうってどうこうしちゃうのは是か非かっていうテーマでしたね。必死に捜したんですよ、趣味が出せる奴を。もう法律やる気なんかなかったですからね」”

 というものだったようだ。

 大学卒業後、就職もせず、法律関係の専門職を目指すそぶりも見せない息子に、父・徳太郎はひとつの提案をおこなう。

「食堂兼大衆割烹料理店をやめるから、喫茶店にして店を継げ。喫茶学校で勉強する金は出す」

 菊地はその言葉に従って、東京バーテンダースクールに通った。一応、卒業したのだが、父とのあいだで諍いが起こったことで、実家を喫茶店という形で継ぐのをやめてしまう。この頃、銚子の町は以前のような賑わいから遠ざかっていた。

 菊地曰く“「ゴーストタウンのようなところ」”

 この表現は大袈裟かもしれないが、銚子の最盛期を肌で感じながら育った菊地にとっては、上京後、たまに帰省したときに目に映る故郷の風景は、幼少期とかなりの落差があったことは違いないだろう。

このことで菊地は徳太郎から勘当同然となり、以降しばらくのあいだ実家とは気まずい関係が続いた。

 また、徳太郎は菊地がどんな形にしても店を継ぐことがないと悟ると、当時、小学生だった14歳離れた実弟の菊地成孔を調理場に立たせて、庖丁の使い方や天ぷらの揚げ方を教えている。

 やがて、成孔は調理場から逃げ出すが、やはり徳太郎は三代続いた店を、自分の代で閉めることに、申し訳なさとやりきれなさを感じていたのだろう。

 余談だが、菊地の同級生が銚子でジャズ喫茶を開いている。

その店の客となり、ジャズへの目を開かされたのが弟の成孔だった。

 もし、菊地が父の命に従って、喫茶店主となっていたら、ホラー・SFマニアが集う喫茶店のオーナーとして、名物マスターになっていたかもしれない。

 

 話を菊地に戻す。

菊地を心配したアパートの大家の紹介で、大衆食堂の皿洗いのアルバイトを経て、大学の先輩が経営していた喫茶店の手伝いをしていた頃、別の先輩から、

「ルポライターをやってみないか?」

 と声が掛かった。

 菊地は、この話に乗った。

ライターのグループに所属して、週刊誌のデータマンとして取材に駆け回った。

そのライターグループは、講談社が発行していた女性週刊誌『ヤングレディ』が主戦場にしていた。他にも、集英社の『週刊プレイボーイ』や小学館の『GORO』の仕事もしていたようだが、菊地は講談社の仕事がメインだった。

  『ヤングレディ』編集部で、菊地は意外な出会いをしている。のちに芸能リポーターとして有名になる梨元勝と出会ったのだ。

 梨本は、ルポライター見習いの菊地に親しく声を掛けてくれたという。

 当時、梨本は『ヤングレディ』の契約記者だったが、菊地は梨本を、

“「編集長だと思っちゃった」”

 と述懐している。

 菊地は、この出会いに何か温かいものを感じたのだろうか。

作家デビューを果たし、1983年5月に上梓された、トレジャーハンターシリーズの第1作『エイリアン秘宝街』では、主人公・八頭大とコンビを組む太宰ゆきにこんなセリフを吐かせている。

“「不潔。梨本さんに言いつけてやるから!」”

 しかし、菊地が小説家として独り立ちするまでには、まだまだ時間が必要だった。

 

 ルポライターとなった菊地秀行は、取材に駆け回った。初めて手掛けたのは、「スキー場の民宿百軒」という記事だった。電話でスキー場近くの民宿に電話を掛け、

「雑誌に掲載するので宣伝になります。その代わり、読者割引をしてほしいんです」

 と頼むのだ。現在の『ランチパスポート』のような性質のものだろう。

取材の為には、あちこちを歩き回らなければならない。そして、取材対象者に会わなければいけない。取材の中心は犯罪モノ・事件モノ・セックスモノなど多岐に渡った。

 暴走族の群れに飛び込みで取材をおこなったり、阪神タイガースと西武ライオンズで活躍したホームランバッターのスクープをものにしたりと、データマンとしての着実に仕事をこなしていった。

 菊地にとって、仕事とはいえ興味のない事柄を取材して、相手にお世辞を言い、持ち上げながら話を聞くのは、苦痛以外の何物でもなかった。

 そして、経済的にも決して恵まれた日々とはいえなかった。


 早稲田大学漫画研究会と立教大学漫画研究会を通じて知り合い、のちにゲームソフト『ドラゴンクエスト』の生みの親となる堀井雄二(1954年1月6日生まれ)や『桃太郎電鉄』の作者・さくまあきら(1952年7月29日生まれ)も大学在学中からフリーライターや放送作家としての活動をおこなっていたが、

“「月に50万円~100万円稼いでいました」”

(「家」の履歴書 堀井雄二(ゲームデザイナー)32歳で世田谷に一戸建てを購入。でもドラクエ御殿じゃないですよ 週刊文春1996年7月25日号)

“「寝る間もないくらい仕事を引き受けるの。僕らの仲間は全員20代で家を買ったよ」”

(『ゲームの巨人語録 : 岡本吉起と12人のゲームクリエイター(電撃文庫)』よりさくまあきらの発言 岡本吉起, 電撃王編集部 メディアワークス2000年5月刊)

 と、フリーライターでも生活は充分に潤っていた。

事実、堀井雄二は『ドラゴンクエスト』で大ヒットを飛ばす前に、中古マンションを経て、32歳で世田谷区に36坪の新築一戸建てを購入し、さくまあきらも26歳で中古の一戸建てを購入している。

彼らは、編集者から仕事の相談を受けると、「あっ、こんな奴がいますよ」と自分の仲間のライターやイラストレーターに仕事を回し合っていた。

 菊地にはないネットワークと営業力があった。

 しかし、このルポライター時代に、菊地はその後の作家生活に必要不可欠な技術を身に付けていく。

 原稿を締め切りまでに書き抜くことだった。早く大量の記事を短時間で書き上げる。週に1,2度は取材内容を、ペラ(200字詰め原稿用紙)で150枚埋めるのが日常だった。

菊地が書いた取材原稿は、編集部でチェックが入る。

いつも指摘されるのは、「もっと具体的に書け」ということだった。

 一種の娯楽として読まれる週刊誌に抽象的や哲学的な記述は必要ない。

この具体的に書くという行為は、取材記事執筆を通じて菊地の全身に染み込んでいった。



参考文献・一部引用


菊地秀行『幻妖魔宴(げんようまえん)』(1987年8月25日 角川文庫

菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)

週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』

小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』

『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)

『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼』(1986年11月15日発行 徳間書店)

全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』(1996年4月15日発行 スコラ)

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