第1章 港町・銚子
菊地秀行は1949年(昭和24年)9月25日千葉県銚子市に生まれた。
父は徳太郎・母は知可子。長男であった。
実家は、当時、銚子随一の歓楽街であった観音町で、昼間は食堂、夜は大衆割烹の呑み屋を経営していた。しかも、菊地が生まれた当時、この店は銚子で一番の店だったという。
徳太郎はこの店の三代目にあたり、菊地が生まれた当時は、祖父・源太郎が店のいっさいを仕切っていた。母も寿司屋の長女として産まれており、飲食業に縁の深い一家、夫婦だったといえるだろう。
また、先祖は九州の〝菊池郷〟にいたという。
あるとき、そこから出航した船が難破して銚子沖に辿り着き、銚子に定住することになった。元々、苗字は〝菊池〟だったが、信心深く、姓名判断にも凝っていた父・徳太郎が〝菊地〟に姓をあらためた経緯がある。
昔も今も、銚子は港町だ。
鈴木智彦のノンフィクション『サカナとヤクザ~暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う~ 』(小学館文庫)にも銚子の町が登場するが、菊地がこの世に生を受けて上京するまで、海に出る男たちとアウトローが幅を利かせる場所だった。この原体験は、作家となって以降の菊地の作品に色濃く反映しているように思えてならない。
幼い頃の菊地は身体が弱かった。扁桃腺炎で週に一度は熱を出し、小学校を休むことが多かった。小学校2年時には肺結核に罹り、一時は長野で静養を余儀なくされた。
そんな少年は、家で漫画雑誌を読むのを何よりの楽しみとしていた。
当時は、街に貸本屋があったが、銚子にはそれはなく、菊地は幼い頃から本屋ではいっぱしの顔であり、両親も、菊地が欲しがるものは何でも買い与えた。
そして、映画館。
店舗兼自宅近くに新東宝の映画館があり、菊地が店の手伝いで出前を持っていくことで、映画館主に顔を知られていた菊地は、タダで映画を見ることができた。毎年夏に上映される怪奇・化物映画は菊地のホラー趣味を育んだ。
父・徳太郎もホラー映画が好きであった。身体は弱いが、自分と同じ嗜好を持ちつつある息子・秀行を好もしく思っていたのではないだろうか。
ただ、同じ恐怖映画でも、菊地が好んだのは洋画であり、情念の世界である邦画のホラー物は肌に合うものは少なかった。邦画の怪談で、菊地が唯一気に入ったのは〝怪猫〟モノだった。
小学校高学年で扁桃腺切除手術をおこない、病弱からは抜けだしたが、慣れ親しんだ趣味からは離れられなかった。漫画・SF小説、そして、映画に耽溺した。
また、実家が客商売をしていたこともあって、〝テレビのある店 菊地〟と看板を掲げて、1953年(昭和28年)にはじまったテレビ放映後まもなく、テレビは店に置かれた。
一家に一台テレビがあるという状況から程遠い時代だった。人々は、街頭テレビに熱狂していた。そんな時代から、テレビで放送される番組と身近に触れられたことも、のちの作家活動に影響を与えただろう。
菊地は『宇宙船エンゼル号の冒険』(1957年 日本テレビ)『海底人8823』(1960年 フジテレビ)『宇宙船シリカ』(1960年 NHK)『恐怖のミイラ』(1961年 日本テレビ)などを、記憶に残った番組だ、と後に語っている。
1960年、小学校5年生のとき、菊地は人生を決定づける映画に遭遇することになる。ハマー・フィルム・プロダクション製作『吸血鬼ドラキュラ』(英・1958年)である。実は、この映画が銚子で上映されるのは二度目だった。最初に上映されたのは、封切られた1958年か翌年の1959年だろう。
ただしこの時、菊地はこの映画を観ていない。
もし、菊地が少年時代にこの映画を観ていなかったら、いや、もし観ていたとしても、もっと先のことだったら、菊地の人生は変わっていたのかも知れない。
菊地の映画館通いは、銚子市立第三中学校に上がると、職員会議で問題になるほどだった。学校では、中学生の映画館通いは禁止されていたのだ。
にも関わらず、コソコソすることなどなく、堂々とひとりで行く。
菊地は勉強ができる成績優秀な生徒だった。それなのに、禁止されている映画館通いを頻繁におこなう。そのアンバランスさが教師の目には余計に奇異に映ったのかも知れない。菊地がどう言い逃げたかは定かではないが、教師の指導・注意だけで映画館通いが止まることはなかった。
上映後、菊地は海沿いを歩きながら、「俺だったら、あそこはああじゃなくて、こうするのにな」と想像に耽るのが楽しみでもあった。
当時の日本では西部劇がブーム(ウエスタンブーム)だった。
銚子の映画館で上映された『シェーン』(1958年米)『駅馬車』(1939年米)『荒野の決闘』(1954年米)『ヴェラクルス』(1954年米)『OK牧場の決斗』(1957年米)などの西部劇映画を菊地も楽しんだ。
また、漫画では、のちに『ワイルド7』で大ヒットを飛ばす望月三起也の『ムサシ』『秘密探偵JA』、一般的な人気を得ることはなく横山光輝のアシスタントとして活躍した岸本修、そして小説では山田風太郎の作品に熱中した。
1963年(昭和38年)6月14日に弟の菊地成孔が誕生している。菊地の兄弟は成孔だけだ。
だが、14歳も歳の離れた成孔の誕生は、いわゆる〝恥かきっ子〟というわけではない。現在、ジャズミュージシャン・文筆家として活躍している成孔がメディアで語っているので記すことにするが、菊地と成孔のあいだには4人の子どもがいた。
しかし、何の因果か全員が死産であった。
父・徳太郎は6人きょうだいの長男、母・知可子は9人きょうだいの長女という当時としてはあたりまえの大きょうだいと共に成長した。
自分たちも、多くの子どもを儲けることが当然だという考えもあったのだろう。
だが、現実はあまりに哀しいものだった。
また、父・徳太郎の女性問題もあった。菊地も弟・成孔も母・知可子似である。
父は実業家然とした梅宮辰夫風の偉丈夫だった。
食堂兼大衆割烹料理店の経営者・花板である父は、常に仕事姿を客に見られる立場にあった。そして、酒を出す店という部分もあったのだろう。
日本料理人である彼に惹かれる女性は数多くいたようだ。
母・知可子は、そんな夫を責めたりはしなかった。代わりに四六時中、夫に付きっきりとなり、他の女性を寄せつけない法を選んだ。
しかし、父・徳太郎にも苦悩があった。源太郎から店を継いだが、源太郎時代ほど経営がうまくいっていなかったのだ。
弟・成孔は、
“「私が生まれた頃は、店の凋落期。祖父の頃は銚子でナンバーワンだったのが、ナンバー7くらいに落ちた」”
と語っている。
経営していた店は大衆向きで、決して名門料亭ではなかったが、個人的に焦りもあっただろう。それに、
「菊地の店は、息子の代になってから落ちたな」
と銚子の人々が口にしたり、思っていたことも考えられる。
徳太郎は店を移転して捲土重来を期したが、再び、銚子でナンバーワンの店に戻ることはなかった。徳太郎は少年時代の菊地に、
「(店を)継がなくていい」
と言っていた。 菊地自身は、
“「俺は扁桃腺をやっちゃって、週に一度は熱を出して寝込んでいるような子どもだったから、(徳太郎は)こういう商売は無理だと思い込んだんだな」”
と回想しているが、徳太郎の思いはそれだけではなかっただろう。また、菊地も本当のところを語っているわけではないように思う。事実、菊地の扁桃腺炎は、小学5年生のときにおこなった切除手術によって治っている。
『魔界都市ブルース』『吸血鬼ハンター〝D〟』シリーズなどに流れる菊地作品独特の哀切感は、この時代に観た映画の影響とともにこれらの体験から生まれた部分も少なからずあるのではないだろうか。
次章に譲るが、菊地が大学進学を目標に東京の予備校へ入り、その後大学卒業が近づくと、徳太郎は心変わりして菊地と諍いを起こすことになる。
菊地が東京で暮らしている時代、幼かった成孔は、店を潰してしまうのではないかと、常に必要以上におびえている徳太郎の姿を見ている。
徳太郎は、信心深いだけではなく姓名判断に凝っていた。
「店が先代よりうまくいかないのは、自分の名前が悪いのではないか」
と考え、名前を徳太郎から秀満に変えている。ただし、この改名は正式な法的手段を踏んだものではなかった。あくまでも自称であり通称であった。
正式に改名をしていたと思い込んでいた親族が事実を知ったのは、菊地秀満が、菊地徳太郎として、2004年の冬、80年の生涯を閉じたときだった。
ただし、徳太郎が経営していた菊地食堂の天丼と玉子丼はたいへん美味であった、と、当時を知る銚子の人々は現在に伝えている。
1965年(昭和40年)地元の進学校である銚子市立銚子高等学校に入学した菊地は、勉強そっちのけで、ますます映画とともにSF小説に没頭していく。
ウィルマー・H・シラス『アトムの子ら』、シオドア・スタージョン『人間以上』、ロバート・A・ハインライン『夏の扉』、そして、レイ・ブラッドベリの『火星年代記』。
なかでも、ブラッドベリは菊地がもっとも影響を受け、作品に憧れる作家だった。
1968年(昭和43年)3月 銚子市立銚子高等学校を卒業した菊地は、東京で一年間の浪人生活を送ることになる。
父・徳太郎との約束は「法学部に入ること」だった。
これは、「法学部はつぶしが効く」といった理由ではない。
徳太郎は、自らが水商売に向いていないことを知悉していた。本人は、
「人を助け、ありがたがられる仕事がしたい。薬剤師になりたい。先生と呼ばれたい」
と漏らしていた。
息子が法学部へ進学すれば、法曹への道があると思ったのだろう。
司法試験に合格して弁護士になるか、司法書士になって銚子に戻ってくれれば、法律家の「菊地先生」と呼ばれ、いくらかの尊敬と依頼者から感謝される息子の姿を見ることができる。
徳太郎は、そんな未来を想像していたのかもしれない。
そんな徳太郎の「先生と呼ばれたい」という夢は、父が想像もしない形で息子ふたりが叶えることとなる。
参考文献・一部引用
菊地秀行『幻妖魔宴(げんようまえん)』(1987年8月25日 角川文庫
菊地秀行『夢みる怪奇男爵』(1991年1月30日 角川書店)
週刊小説1986年2月21日号 「十五年前の私」 『人生と戦いたくなかった』
小説春秋 1987年6月号 『作家になるまえ』
『小説現代臨時増刊 菊地秀行スペシャル 新妖戦地帯+劇画・妖戦地帯&All ABOUT秀行』(1986年10月15日 講談社)
『SFアドベンチャー増刊 夢枕獏VS.菊池秀行ジョイント・マガジン 妖魔獣鬼譚』(1986年11月15日発行 徳間書店)
全日本菊地秀行ファンクラブ・編 菊地秀行学会・協力 菊地秀行・監修『菊地秀行解体新書』(1996年4月15日発行 スコラ)
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