エピローグ

 混沌とした馬鹿騒ぎの後は、一転してクラシックを聴くと良い。ベートーヴェンのピアノソナタなんかであれば尚良い。緋簾葦のセレクトはテンペストだ。確かに悲しい時も楽しい時も、落ち着いた時も昂った時も聴ける稀有な曲だとは戸鞠も思う。そうして出来上がった部屋で、緋簾葦は自慢のレコードと蓄音機を少し触り、優雅にコーヒーを嗜む。彼女は紅茶よりコーヒー派なのだ。

「疲れたなあ」

「あなた最近そればかりね」

 緋簾葦がうんざりしたのか、責めるように言う。

「後始末が大変だったのはわたくしだわ。風にそよぐ以外に能も無い雑草相手に、何週間を費やしたと?」

「緋簾葦がめちゃくちゃやるからだろ」

「めちゃくちゃを始めたのは父の方よ。わたくしは乗っただけ」

「お父さんね、でも緋簾葦のお父さんは、事件の前に亡くなっていたんだろ?」

「そうみたい」

 緋簾葦は他人事のように言うと、黙ってコーヒーを一口含んだ。薔薇の装飾は彼女のお気に入りなのだ。確かフランスの老職人のオーダーメイドだった。

「良かったのか? それなのに、家燃やしちゃってさ。火葬にしても派手だ」

「派手な方がいいでしょう?」

 そうだろうか。世の中には海に散骨してくれと生前望む人もいるようだが、大切な屋敷を火事で全焼させるのは外連味が過ぎるんじゃないかと思う。死人に語る口なしだから、それこそ議論のしようが無いことだが。

「それにね」

 緋簾葦はティーカップを置き、淡々と続ける。

「鯉庭って、わたくし気に入らなかったのよ」

「屋敷がってこと? 緋簾葦が気に入らなくても、村民が――」

「そうじゃなくて」

 緋簾葦がやんわりと、しかし確かな口調で戸鞠を遮る。少し珍しいことなので、戸鞠は黙って彼女を待った。ややあって、彼女は言った。

「鯉庭というのはね……父の教え、という意味の言葉でもあるの」

「えっ?」

「知らなかった? そうよね。普通の人は、言葉、漢字の並びだけで納得するもの」

 緋簾葦がテーブルに、肘をつき、ふうと息を吐く。戸鞠は音を立てずに椅子を引き、その前に座った。彼女の顔が真正面にある。綺麗な顔がよく見える。

「わたくしには、父の教えなんて必要無いわ」

「そうだね」

 戸鞠はなんとなしにそう返した。疲れはしたが、彼女の選択を間違っているとは、露ほども思わない。

 前に座られたのが気になるのか、緋簾葦が上目がちに戸鞠を見る。真っ直ぐな瞳には、独特の気怠さと優雅さが混在し、夕陽の去り際みたいな残光が見えた気がした。

「あなた、まだここに居るのね」

 不意に、緋簾葦が言った。意味が分からなくて、戸鞠はキョトンと彼女を見つめてしまう。

「え、まだって?」

 何か予定でもあっただろうか? 考えても、なにも思い浮かんでこない。

 緋簾葦は表情も変えず、ただ面倒そうな面持ちで居る。

「……わたくしの脚本で、あなたは危うく殺人犯になりかけたわけだけれど」

「なりかけたと言うか、事実として殺してしまった気がするけどね。僕の盛った毒で死んでしまっただろうから」

 もちろん、緋簾葦が放った火の煙を吸い込んで、それで死んでしまった可能性もある。だが細かい死因を、戸鞠は聞いていない。興味が無いからだ。聞いたのは、芧鏡教授との縁が続いていることだけである。芧鏡教授は警察に対し、緋簾葦との口裏を合わせたらしい。つまりはそういうことだ。

「良いの?」

 緋簾葦がやはり、淡々と尋ねる。戸鞠の表情で察しはついているはずなのに。

 ――どうしても、言葉で欲しいときはある。そう言うことだろうか?

 ややあって、戸鞠は常日頃から思っていることを、白状してしまうことにした。

「僕は、僕の人生を緋簾葦にフルベットしても構わないと思ってる。そのほうが楽しいだろ?」

「ふぅん」

 緋簾葦の相槌は酷くつまらなそうだ。続いて彼女は、目線を下にずらして口を開く。

「何者かに全面的に服従することは、自分自身を一切信用していないことの現れである。とある哲学者が、そんなことを言ったわ」

 その先を言葉にしない緋簾葦は、視線だけを戸鞠に寄越した。戸鞠は少し首を傾げる。だって、そんなの今更過ぎるじゃないか。

 いや、今更なのはさっきからずっとか。なら、ここは自分はエスコートしてやろう。たまにはそんなこともある。

 戸鞠は一呼吸置くと、わざと冗談めかして言った。

「僕は、緋簾葦を信じる僕を信じているんだ。これでいいだろ?」

 緋簾葦は肩透かしを食らったみたいに、柳眉をひそめる。

「まったく、酔狂ってあなたのことを言うのね」

「お互い様」

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