判決が先、裁判は後

 ふわりと風に舞うように、軽い素材のスカートが視界に揺れる。蝶のように優雅でありながら、蜂のように肌を刺す感覚。その人物が見えた瞬間――麻衣華は、審判の時が来たのだと悟った。

「ごきげんよう、麻衣華さん」

 緋簾葦が鮮やかに、そう述べた。自信と恒心、揺るぎなき自己の確立を、ずっと昔から麻衣華は緋簾葦に感じ……気後れを覚えて来た。自分の方が人生経験の年数は上だ。にもかかわらず、まるで己が非常識かつ泣くことしか出来ぬ赤子で、向こうは議論と思索に長けた哲学者のようだ。自分が何をするにも拙く、彼女は神がかる。

 けれど、麻衣華の心に、一切の動揺が起きなかったのは事実だ。霧のかかった湖畔のように、凪いだ水面は波紋さえもありはしない。

 麻衣華には分かっていたのだ。爛道か――あるいは緋簾葦が己を罰しに来ることを。死の報いを与えに来ることを。ギロチン台に立たされることをずっと前から知っていて、今更どうして驚いたりできるだろうか?

 反対に、緋簾葦は少なからず不思議に思ったようだ。麻衣華という人間を心の底から侮っている緋簾葦には、麻衣華が平静を保っているのが理解できないのである。

「あらら? どうしてそんなにお静かでいらっしゃるのです? あなたがどう喚いて助けを求めるのかを考えて、わたくしずっと悩んでおりましたのよ。どう黙らせようか」

 コツコツと、静謐な靴音が響き、近づく。

「麻衣華さんはお茶がお好きだから、毒でも忍ばせようかと思いましたけれど、毒はあの子に譲ったの。今頃はどうしているかしら」

「……あの子って」

 微かな声で尋ねる。幸か不幸か、緋簾葦はもう目と鼻の先にまで来ている。彼女はくすりと笑みを零した。上品で、残忍な。

「わたくしの連れですわ。連れてくる気は無かったのよ。でも勝手に着いてきた挙句、わたくしの予想を超えて順応してみせた。あの子が何をするのか、しているのか、正直わたくしにも分からないわ。けれどきっと、この上なく興が乗っているでしょうね。軛を解かれたジョーカーは、ディーラーすらも欺いて盤面を支配する」

 緋簾葦は愉悦交じりに一人語る。まるで劇の朗読のようだ。子どもの頃見た、古代ギリシャの劇場再現を思い出す。舞台の隅、観客の手前で、宵闇に紛れるようにひっそりとたたずみ、幕間にだけ現れるストーリーテラー。スポットライトに照らされた彼らは、物語には登場せずとも終始存在感を放っていた。それと、緋簾葦が重なる。

 だが恐ろしいのは、緋簾葦の言葉だ。毒の在りか、緋簾葦の連れ。あの人間は一見、純朴そうに見えたし、翠華もまたそう言っていた。それなのに。

「あの方が毒を使って誰かを殺すと言うこと? まさか、そんな……」

 麻衣華が心配しているのは、翠華だ。それを察したのか、緋簾葦は安心させるように、少し首を傾けて、まるで乳母のように微笑む。

「翠華ちゃんなら心配は要らないと思うわ。別に快楽殺人とかそういうのではないのよ。ただ……揺るぎなき信念を抱いている」

 何を言っているのか、まだ理解できない。だが翠華は無事なのだろう。それがわかっただけでも、麻衣華の心は今一度落ち着きを取り戻す。

「……要するに、あなたの連れは、あなたと同じく冷徹だったということ? 類は友を呼ぶのね」

「類は友……そうね」

 麻衣華の挑発に、緋簾葦は全く気にする素振りも見せない。

「わたくしたちは確かに似ているのかもしれない。わたくしにとって、あの子は大事な――ビジネスパートナーであり、ワイルドカードでもある」

「ワイルドカード?」

「切り札のことですわ。ジョーカーは、何にでも為れるの」

 便利でしょう、と緋簾葦がどこからかタロットカードを取り出して微笑む。愚者を表すカードで、荒野に繰り出そうとする青年と犬が描かれている……だが麻衣華の目を捉えて離さなかったのは、そんな小手先のマジックなんかじゃなかった。緋簾葦のその面持ち――まるで慈愛に似た感情が垣間見えた気がして麻衣華は一瞬唖然とした。だがそれも、秋の空のように一瞬で移り変わる。気づけばいつものような人を喰った笑みが現れていた。

「そうだ。ここにわざわざ参ったのは、麻衣華さんと楽しくお喋りするためではありませんのよ」

「……殺しに来たのでしょ。知ってるわ」

 出来るだけ落ち着いた声音を意識して、麻衣華は言う。

「あら、どうしてわたくしが、あなたを殺さなければならないの? わたくしがあなたを恨む理由があるかしら――逆は、あるけれど」

 緋簾葦は顔いっぱいに憐憫を湛える。

「昔からそうだったわね、麻衣華さん。あなたは異常に、わたくしを恐れている。わたくしがあなたに何かよからぬことをした試しも無いのに……不思議ですわ」

「……別に。これまで何もしなくたって、これからもしない保証なんてどこにも無いでしょう。可愛い妹にさえ愛情を抱けないあなたに、警戒心を抱くのは当然じゃない。それに先ほど、あなたは毒を盛るだなんだと言った。わたくしの考えていた通り、あなたは恐ろしい人だわ、緋簾葦」

「毒の件は冗談ですわ。あの子はともかくわたくしは……けれど、本当にそうなのね。悲しい、悲しいわ。本当にわたくし……お義母さまに嫌われている」

 初めて聞いた単語だ。おかあさま。麻衣華がここに嫁いだ時、緋簾葦もまた小さな小さな幼子だった。麻衣華にだって、その頃であれば、緋簾葦を愛する気持ちがあった。本当のことだ。ただそれは……長い年月や、しがらみが、消滅させてしまった。初めから存在しなかったように、麻衣華は緋簾葦を恐れ、遠ざけるようになった。

「……あなたは、わたくしを母親だなんて思っていないわ。いつも軽んじて、虫けらのように思っていた」

「そう思われたいのですか?」

「いいえ。あなたの方がでしょ、緋簾葦」

「……そんなに、わたくしに殺されたいのですか、麻衣華さんは」

 緋簾葦がふぅと吐息をくゆらせる。ややあって緋簾葦が「仕方ない」と呟いた。意味も図りかねたまま、時は移ろい、待ってはくれない。分水嶺はあちこちに在り、人生は選択肢の連続である。間違えたが最後、それはまるで、ボタンを掛け違えたシャツを公衆の面前で着続けるような。

「まあ、麻衣華さんのお気持ちも分かりますわ……罪の意識、罪悪感は人の心に深く根を張り、容易く振りほどいてはくれないもの。人が人として生きている限り、多かれ少なかれ、まるで寄生虫のように蝕む……」

「何を言っているの」

「あなたのことですわ、麻衣華さん。人が人を恐ろしく思うのは、それも異常に恐れるのは、己にやましいものがある時と決まっておりますの。あなたはわたくしに、何か隠していらっしゃるわね」

「……だから何を」

「順番通りに行きましょうか」

 緋簾葦はサラリと述べると、真顔になってどこからかカードを取り出した。またタロットカード。トランプより一回り以上は大きく、天に伸びる玉座のように縦長の形状は独特と言う他無い。

「麻衣華さん、あなたは燕治伯父さまと手を組んで、わたくしを貶めようとした」

 緋簾葦が一枚のタロットを裏返す。二人の男女が向かい合っている……恋人だ。

「わたくしは燕治義兄さんと、そんな関係じゃないわよ」

「分かっております。タロットカードは結局のところ、どうにだって解釈のしようがある。酷く遠回りで婉曲的な象徴に過ぎないのです」

 言いたいのはそんなことではないと言わんばかりに緋簾葦は頭を振る。

「わたくしが申し上げたいのはつまり、あなたがた二人は手を組んで、爛道を追い落とそうとした。ついでわたくしを」

 緋簾葦が二枚目のカードを見せる。教皇……。

「あなたは堯家の伝統を恐れていた。三匹の鯉。翠華ちゃんの立場を確固たるものにしたかった」

 三枚目のカードがひらりと飛び出る。女帝。

「あなたは翠華ちゃんを愛していた。けれど、あなたの母性は時にして厳格さとして現れた。堯家において、優秀でない者は間引かれる。あなたはそれを恐れていた」

 四枚目のカードがぬっと出現する。夢でも見ているのだろうか。麻衣華の頭はぼんやりとし始めた。緋簾葦は四枚目のタロットの表を明かさず、意味ありげにひらひらさせて笑う。

「あなたはわたくしを恐れ、あわよくば死なないかと考えていた。だからわたくしにきつく当たっていた――なんてね。凡人ならば、こう考えるでしょう」

「凡人?」

「ええ。あなたみたいな人」

 緋簾葦が揶揄うように言い、スッと立ち上がった。突然の行動だったので、おついていた麻衣華でさえ驚いて声を上げそうになった。緋簾葦は窓の外を見て、黄昏るように目を細める。

「足りないの。そんな理由じゃ……あなたにはもっと、別の理由があったのよね」

 まるで死刑宣告だ。麻衣華は一歩一歩と断頭台へ上る自らの足を想像する。本当にそんなことになった時、果たして自分はどうなんだろう? 惨めに泣き叫んで助けを求める? ああ、自分を信じることが出来ない。

 緋簾葦が静かに、切り出す。


「わたくしの母を殺したのでしょう? 麻衣華さん」


 緋簾葦はこちらを見ようともしない。煙が立ち上るように優麗に、それでいて天を貫く高き塔のように佇んでいる。

 ややあって、麻衣華は淡々と答える。

「ええ」

 緋簾葦が麻衣華に顔を向けた。北館のここは夕陽が見えづらく、明かりをつけていない部屋は顔が判別しづらくなってきている。それでもまだ、緋簾葦の顔はやけに鮮明だ。

「これでも、わたくしには弟が二人居るのよ。十個以上も下のね。それなのに、わたくしが二〇の時に両親は交通事故に遭って死んでしまった。悲しかったけれど、それ以上に怖かったわ。これからどうしていけばいいのか分からなかった。誰か助けてくれる人が……安心できる居場所が欲しかった」

「それで爛道に目をつけたのですか? 何も妻帯者にしなくても良さそうなものを」

「爛道は若くから頭角を現した鬼才として有名だった。それに彼は世界中に人脈を作ろうと、あらゆる策を弄していた。その一つに彼の催す数々の夜会があって、わたくしはたまたま縁があって居合わせた。取るに足らないつまらない催しだったけれど、わたくしたちはそこで、知り合いとなった――朱音さんも居たわね、爛道の傍らに」

「……へえ」

「あなたに似て、強気な方だったわ……けれど、度々夜会を抜け出して、どこかに居なくなった。わたくし無性に気になったものだから、跡をつけたの。そうしたら彼女、お手洗いで辛そうにしていた。『持病があり生まれつき虚弱なのです』って言った」

 麻衣華は目を伏せて、考える。あれはまるで、悪魔が囁いたみたいだった。

 けれど、悪魔じゃない。恐ろしいのも、下劣なのも自分自身だ。数十年、心を喰われ続けた罪過。

「端的に言って、使えると思った。わたくしたちは友となり、わたくしは機会を窺った。いくら彼女が死に近しい体と言っても、絶対に疑われない状況が欲しかった。そして、その時は訪れた――あなたと共に」

 麻衣華と知り合った頃既に、彼女は身ごもっていたのだ。虚弱故に無事出産できるか分からないと医者から告げられ、爛道が迷っているとも。

「わたくしは産むべきだと助言したわ。そして、あなたがここに居る、緋簾葦」

 緋簾葦が感情の見えない目で麻衣華を見ている。厭世的とも言える眼は、深淵の悲しき怪物を思わせる。

「謝るつもりは無いわ。わたくしは正しいことをしたと思っている。いえ……正しくはなくとも、最善手を打ったと思っているの。もしやり直す機会が与えられたとしても、わたくしは同じことをするわ」

 麻衣華は強気に言い切ると、緋簾葦の持つカードを指差した。

「それ、きっと正義とか審判とか、そういうものでしょ。あなたはわたくしに罰を与えに来た。報いなら甘んじて受けるわ」

「……正義?」

 緋簾葦が心底不思議そうに呟く。それが意外だった麻衣華もまた驚いてしまった。二人して数秒見つめ合い、沈黙が流れる。やああって、緋簾葦はタロットを裏返した。

 それは五枚のトランプだった。ハートのⅩ、ジャック、クイーン、キング、エース――。

「ロイヤルストレートフラッシュ」

 緋簾葦が言った。意味が分からなかった。

「麻衣華さん、あなた本当に素直な方ね。翠華ちゃんがああなのも頷けるってものだわ。わたくしがいつも、始点と終点、因果をきちんと結び付けていると確信していらっしゃるなんて」

「……どういうこと」

「賭けだった」

 緋簾葦がそう言って――笑う。

 高らかに声を上げて、哄笑する。待ち望んでいた勝利を確信したかのように。

 麻衣華は呆気に取られて、それを呆然と眺めていた。緋簾葦の態度の変貌、賭けの意味、全てが理解力を超えている。

「あらかじめ用意した手札でもって完璧に捻じ伏せるポーカーは楽しいのかもしれない。マジックもね。けれど、わたくしは全てが予定調和というのは、気に入らない。あんまりずっとそうだと、つまらないわ。だからわたくしは、時々は自らの運に任せきりにするの。オールorナッシングで、持ちうるチップをフルベットする。それってとっても楽しいことだわ」

 緋簾葦がニヤニヤと意地の悪い笑みを湛えていた。

「けれど一番楽しいのはね――元手も無しに勝負に勝ち、全てを手に入れることよ」

「……元手も、無し」

 ええ、と緋簾葦が頷いた。彼女はもう愉快でたまらない様子で、一人で手を叩き、自らを称賛する。

「わたくしがいつ、あなたに母殺しの根拠を述べた? 言っていないわ。母とは関係ない、翠華ちゃんのことだけよ。それなのに、麻衣華さん、あなたはわたくしが指摘するまでもなくペラペラと」

「……どういうこと?」

 緋簾葦の意図するところがまだ掴めない。彼女がなぜこうも愉快そうなのかも。

 興が乗っているのか、緋簾葦は麻衣華が理解せずとも怒らない。楽し気に高説を垂れ始める。

「わたくしがここに来たのは、あなたを罰しにではないわ――死に逝くあなたを使って、最後の賭けをしようと思っていただけなの……」

 緋簾葦が一呼吸おいて、憫笑を浮かべた。

「わたくしは、母の死の真相なんて――どうっでも良いのですわ。会ったことも無い人に情を抱くなんて、針の穴にラクダを通すより困難ですもの」

「……は?」

「わたくしはただ、面白い憶測が頭に浮かんだから、それの答え合わせをしたかっただけですわ。けれど、普通に追い詰めるのではつまらない。あなたに考えるだけの頭があるかどうか、それを試してあげればちょっとした趣向にはなるかと思って」

 量産型ユーチューバーのサムネイルみたいな安っぽい感覚で、緋簾葦は賭けにしたのだと言った。麻衣華が罪の意識に苛まれ、動揺するのを見て楽しんでいたのだ。

 緋簾葦にとって、これは暇つぶしだった。

「まあでも、死にたいなら止めはしませんわ。わたくしは帰りますけれど、急がないと焼かれてしまう」

「焼かれる?」

「火をつけました。それと父の部屋にはちょっとした爆弾を」

「ば、――」

「ただのスプレー缶だって、下手をすれば爆発するのですよ? 世界はスリルと刺激に満ちている。わたくしの未だ知らない――」

 緋簾葦は目を瞑り、恍惚と何かを考えていた。

 ややあって、目を開ける。真っ直ぐ、真顔で麻衣華を見る。

「さすがに面倒ごとが増え過ぎました。火が全てを飲み込んで消し去ることを願って……わたくしは帰ろうと思います」

 舞台は幕を下ろし、緋簾葦はスカートの裾をそっと持ち上げ礼をする。大根役者を演じるように、彼女は芝居がかって「さようなら」と告げた。

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