人生は舞台、人はみな役者

 火事――信じられないことだが、開いた扉からは熱気が襲い来るように溢れ、尋常でない事態であることを理解させて来る。

「火事、だと……! まさか――」

 九朗伯父さんが、緋簾葦と呟いた。

 まさか姉が鯉庭に火をつけたと、そう言いたいのだろうか。

「伯父さん、どういうことなのか、私にも分かるように――」

 九朗伯父さんに話しかけた言葉が、喉の奥で止まる。

 伯父さんが、突如として胸を抑えたからだ。

 九朗伯父さんが苦し気に倒れ込む。何が何だか分からない。一瞬、アレルギー? とも思ったけれど、九朗伯父さんが口にしたのは紅茶だけだ。伯父さんに紅茶のアレルギーは無い。

 なら何故? 呆然としている頭に、一つの声が響く。

「……あーあ、マジかよこれ」

 戸鞠先輩だ。先輩は酷く億劫そうな目で、九朗伯父さんを見下ろしている。その姿に、私や他の人のような驚愕は、露ほども感じられない。なんと言うか、「思っていたのとちょっと違う」という感じだ。日常生活の最中のようなラフさと、アンドロイドのような怜悧さを併せ持つ佇まい。まさか、先輩は……そんな馬鹿な。

「やっぱり神経毒じゃないなこれ。テトロドトキシンじゃない時点で察しはついてたけど」

「うっ……あ、……これ、は」

「恨むなら弟の馬鹿っぷりを恨んでください。毒の種類を間違えるなんて狩人にあるまじき失態ですよ……」

 戸鞠先輩は、はあと溜息を吐くと、憂いのある顔でそれにしても、と独り言ち始める。

「それにしても、緋簾葦はどうしてくれるんだろ。まさか僕を殺人犯にする気かな……いやまさか……」

 先輩は、やれやれと肩をすくめると、疲れた様子で九郎伯父さんが座っていた椅子に腰かけた。悠然と足を組む様は、どこか姉と似ている。

 私は先輩に駆け寄る。先輩は微笑みを浮かべて、私を見上げる。

「先輩! これは、どういうことですか……!」

「見れば分かる……というか分かっていると思うけど」

 ご覧の通り、と言うような手で、先輩は九朗伯父さんをやんわり示した。何らかの劇を演じるみたいに、芝居がかっている。吐き気がした。

「伯父さんは、まさか、先輩が……」

「うん。もう助かりはしないだろう」

 はたして、先輩はあっさりと白状した。

 それから、意味の分からないことを言う。


「物語の登場人物に、憧れたことは無いか?」


 らしくもなく大真面目な顔で、戸鞠先輩は私に尋ねた。火の手が上がった屋敷と、先輩のせいで死に瀕している伯父さん、どこからか聞こえるステンドグラスの割れる音。そのどれもに全く似合わない質問だ。私は、気の利いたことどころか、何も言うことができなかった。何も分からない。この人が、何を思って、何をしたいのか。私の信じていた先輩すら、ガラスの砕ける音に紛れて消えてしまったように。

「夢見がちな奴と馬鹿にされるかもしれない。いや、あるな。ロマンチストって言葉は半分以上は揶揄の意図に違いない」

 先輩は、一人滔々と語り始める。

「小学生の時、授業中にテロリストが入ってきたらとか考えただろ? それで僕が颯爽と敵を倒して、警察とか学校から表彰されて、みんなに注目される。あとは……そうそう、子供の頃に死ぬほど読み返した魔法物のファンタジー小説があった。あの頃は悪魔が本当に存在しているんじゃないかって毎日ワクワクしてた。大人になって一人暮らしができたら、その時は絶対、悪魔召喚の儀式をしてやろうってさ。ペンタクルを描く練習までしてたんだよ。ほんと馬鹿みたいだよな――って言いたいところだけど、生憎と僕は、その頃から変わっちゃいない。中学校の頃、先生が使ってたみたいな黒板用の巨大コンパスを買ったら緋簾葦に怒られたよ。床を傷つけないでくださいまし、だってさ」

 先輩は子供の頃の思い出を語るようで、酷く楽し気だ。遠くでまた、ガラスの砕けるような音がした。全てが遠い世界で起きているような。そんな心地がする。それなのに、少しずつ上がり始めた大気の熱が肌を舐める。山火事に遭った野生動物は、きっとこんな心地なんだろう。

「でも現実は、僕は普通の人間だった。普通というと悪くないみたいな人も居るけど……普通は嫌だよ、やっぱり。特別でありたい。つまんない人生は送りたくない。夢を見たい。それなのに、どんどん時効が迫って来る。夢を見ていい子供の世界は終わって、僕は大人になってゆく――耐えられないと思ってた。特別じゃない自分で居るくらいなら、いっそ死にたいくらい」

 先輩は小さく溜息を吐き、足を組みなおした。膝に肘を乗っけて、考える人のような姿勢をとり、俯き加減に遠くを見る。彼には、状況が理解できていないのではないか、私にはそうとしか思えない。刻々と迫る炎と煙に、先輩を無視するべきだと理性が耳元で叫ぶ。逃げるべきだ。母を連れて、外へ――。

「死にたいと思い始めてからは、いつ死のうか、それだけ考えていた。今日死のうか、明日死のうか、どうやって死のうか。電車が通った、遮断機の下りた音がする……なんて。傍目にはそうは見えなかったろうけどね。僕は客観的に考えても、あまり鬱々とした様子ではなかったと思う。普通にバイトしたり友達と飯に行ったりしながら、それはそれとして自分の身の振り方を常々考えていたんだ」

 私は周囲を見渡した。目を白黒させて棒立ちになっている教授、苦しげに呻く伯父さん、悲鳴をあげるくいな。私を見て気になったのか、先輩もまた周囲を少し眺める素振りを見せる。だがそれには、私と違って露ほども危機感が無い。むしろどこか爛々と、狂気的な輝きを孕んでいる。

「すごいな。緋簾葦はこれをどうする気だろう?」

「……知らないんですか、先輩も」

「知らないなあ。もしかしたら、僕ごと殺して証拠隠滅を図るのかもしれない――いや、さすがにそんなことをしないと願いたいけど。僕はまだやれるんだから」

 何をするというのか。戸鞠先輩は困った様子で腕時計をカチャカチャ触る。手持ち無沙汰で他にすることが無いのだろう、先輩にとっては。

「逃げないんですか?」

「逃げたいよ。でも緋簾葦がまだ居ないじゃないか。彼女を置いて僕だけ逃げるなんて出来ない」

 そのセリフだけ聞けば如何にもロマンチックで感動的だ。それこそ、先輩の望む物語の登場人物然としている。

「さっきの話の続きだけどね」

 先輩の目が私を見据える。先輩は一言、「まだ大丈夫だろう」と玄関の方を指差した。まだ炎は回っていないのだから焦る必要はないと言っているらしい。そういう問題じゃない。

「でもママが……」

「僕の予想では、麻衣華さんのもとには緋簾葦が居ると思う」

「ね、姉さんが……、どうして」

「何となくだよ。でも、なんとなく思うところがあるように見えたんだ。僕はこれでも、緋簾葦の気持ちのほんの少しくらいなら察することが出来る。だから、それを待ってくれないか」

 戸鞠先輩が、ね、と茶目っ気のあるウインクをする。この人がどう考えても狂人に一歩足を踏み入れていることを知ってしまった。遠くでまた、何かが崩れる音がする。それなのに、私は。

「退屈な人生だった。ちょっと痛くてもいいから刺激が欲しいと思ってたんだ。それなのに僕は、なかなか自分では行動を起こせなかった。痛々しいシンデレラコンプレックスってやつだ。待ってたんだ、誰かが来てくれるのを――そして、僕は運が良かった。そう、とても運が良かったんだ」

 先輩の目が、輝かしい過去に想いを馳せているのが、ありありと分かる。先輩を狂わせたのは――。

「僕の前に、緋簾葦という女性が現れた。厭味なくらいに綺麗で、賢くて、大胆で、人を喰った態度の人だ。一目見て確信したよ」

 戸鞠先輩は興奮を隠しきれないのか、クスクスと笑い声を漏らした。

「この人と一緒に居れば、僕は夢を観られる」

 先輩が楽し気に、ケラケラと笑い出した。ひとしきり笑ってから落ち着いたのか、私の顔を見て、ややテンションを下げた。

「それからは、ひたすらアピールしたりついて行ったりして、ストーカーかよって自分でも思ったよ。でも逃すなんて選択肢はなかった。少ししたら緋簾葦も折れたのか――彼女は折れないか――ともかくとして、傍にいるくらいは許された」

「……だから今も……ここにも、共に?」

「ここに来たのは僕の意志だよ。緋簾葦には留守番を言いつけられてた。でも、素直に言うことを聞いているだけの僕じゃないからね」

「姉さんは、怒らなかったんですか」

「不愉快そうだった。だったらなんだって言うんだ?」

 先輩は不思議そうにする。

「自分より他人を優先するのは、本当に美徳と言えるかな? 僕はそう思わない。思えない」

「だから自分勝手に伯父さんに毒をもったりしたんですか?」

 反射的に怒りの声が出た。傍らで苦し気にしている伯父に、私ができることは無い。理性的に考えて、ここは山奥なのだ。この様子では、先輩が解毒剤を持っている可能性もないだろう。毒を使うものが解毒剤を持っているのは、狂人を除いてだ。

「いや僕個人の話では、別に理由も無い。強いて言うなら緋簾葦がそれを望んだだろうから」

 先輩はサラリと言ってのけてから、ふと「それに」と付け足した。

「それに、悪役って言うのは花形が演るものだろ? 普通の人生では考えられない行為だからね……」

 先輩は愉悦を堪えられないニヤケ面で、また遠くを見ていた。ひどく自己中心的であり、悪いとも思っていなさそうだ。先輩の関心は、それが特別であるか否かであり、善悪の指標は関係無い。あるいは緋簾葦姉さんだけが、この人を制御できるのかもしれない。だが姉は今居ない。先輩は、あまりにも非現実なこの状況を、あろうことか自由に謳歌している。たとえ、この後警察に捕まったりしても、先輩はただの後悔も覚えないんじゃないだろうか。

「……先輩」

「ああそうだ。僕のこれまでの行動、翠華的にはどうだった?」

 戸鞠先輩が真剣みを帯びて尋ねた。

「どうって」

「それっぽい動きは出来ていたかなって。普段から雑学とか結構集めててさ。それなりに対応できるようにはしていたけど。誰かが僕を見て、カッコいいって憧れてくれるように」

 私はよく理解も出来ず、かと言って理解を示してやりたい気持ちにすらならなかった。だから「さあ」と投げやりなのも隠さずに肩をすくめる。先輩はさもありなんという風だ。

「まあ、翠華はあまり興味が無さそうだよね。僕を理解してくれるのは緋簾葦だけだ」

 何故だろうか? それを聞いて、私は酷く苛立たしい気持ちになった。

「姉さんが?」

「ああ。人生は舞台、人はみな役者って言うだろ? でも僕らは、何らかの役を演じたいわけじゃない」

「……何を言っているんですか?」

「僕らが求めているのは、僕らだ」

 分かるような分からないようなことばかりだ。一番恐ろしいのは、先輩にふざけている様子が無いことである。それどころか、私が理解していないことを察した先輩は、不満げに説明し始めた。

「人はいつも何らかの役割を求める。何らかの組織に入り、何らかの職業に準ずる。君は僕らが名探偵と助手だとかそんなことを期待したかもしれない。でもそんなのはただの歯車だ。どれだけすごい奴でも、結局は小説における舞台装置に過ぎない。何かの称号を求める時、人は確かに、自己を否定している。在るがままの自分を受け入れていないことの証拠だからだ。今ここに在る自分が嫌だから、何らかの別の存在になろうとしたり、あるいは他の存在に追随しようとする――そんなのは御免だ」

 先輩の声が、ほんの一瞬、涙に震えた。

「僕は僕だ」

 理解もできないのに、その祈りが痛切なことは伝わってしまう。他社を踏み潰す狂人の祈りなど、大した価値もないのに。要は社会不適合者なだけではないか。夢しか見られない夢追い人が夢を夢見ている。馬鹿らしいこと、のはずだ……。

 私は何も出来ず、床を呆然と見つめた。視界が涙で滲む。何も分かっていなかった。先輩がまた一人でに語り始めた。

「恐らくだけど、燕治さんが持っていたのは色々な毒が混合した液体だ。毒蛇には複数種類の作用を持つ毒液を持っているのが居る。それであるかどうかは分からないけど。そもそも毒なのかすら、賭けだったんだ」

 つまりは、効くかどうかで毒か否かを確かめたのだ。伯父さんの症状からして神経毒ではないそうだが、その判別結果が先輩にとって何になると言うのだろう? 一応確かめた程度の関心では、本当のところはどうでも良かったのではないだろうか。まるで研究に使うハツカネズミみたいに、戸鞠先輩は伯父さんを扱った。

「次はちゃんと、毒の知識についても体系的に得ておこう。見て分かるように」

 次なんて無いことを願う。もしこの人に、次の機会でも与えられようものならば、きっとまた誰かが犠牲になる。

「さて、そろそろお母さんのところに行ってもいいよ。つまらない話を聞いてくれてありがとう。君は本当にいい子だね」

 先輩の口調には賞賛も、嘲りすら感じられない。電卓が計算結果を表示するみたく淡々としている。

「――ええ、本当にね」

 馴染み深い声が、後ろから響いた。

 瞬間、先輩の顔が狂喜乱舞する。

「緋簾葦!」

「声が大きいわね……」

「大きくもなるだろ! 心配したんだぞ。今まで一体どこに……」

「爛道の部屋にね。あそこなら誰も来ないでしょ?」

 私の横を、緋簾葦姉さんが通りすぎた。風の精のように軽やかに、花の匂いが鼻孔をくすぐる。場違いなまでの優雅さが、姉の存在を痛いほどに証明している。

「姉さん……!」

「早く行ったら? 麻衣華さん、死んじゃうわよ」

 その言葉を聞くや否や、脱兎のごとく、私は駆け出していた。

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