黒鵜

 やはり、そうなのか。緋簾葦は、父親の死を知っていたのだ。いつからか知らないが、彼女は知っていた。

「爛道が毒に倒れたと聞いた後、わたくしは深夜、爛道の部屋に忍び込むことを決めました。遺体が発見される少し前のことでしたわ。わたくしが現場に参るのが遅れたのは、その時わたくしが、父の遺体を見つけていたからなのです。さすがに驚くでしょう?」

 緋簾葦は微笑みすら浮かべて言う。そうか。これは憶測でもなく、彼女は実際に見たのだ。

 爛道の部屋に安置された、父親の亡骸を。

「驚くも何も……」

「けれども、納得もしましたわ。だって、連絡はほとんど人任せで、電話をしたいとは言いましたけれど、電話なんて録音した音声を流したって良いのですからね。その時点で少し疑っていたのですよ。爛道は本当に居るのかしらって――まさか、この世からいなくなっているとは思いませんでしたけれど」

 あの父が、と緋簾葦が遠くを見た。それがどんな感情を孕んでいるのか、九朗には見当もつかない。昔から、この娘の考えを推し量れたと思ったことは無い。穏やかな植物のような自分とは全く違う存在である隔絶、それでいて獰猛な白虎のような圧倒的格上の風格。いずれにしても、理解できると思うことが、思い上がりだと思わせられてしまう。

「だが、その後の君は、まさか父親が死んだと知った娘のそれではなかったように思えるが」

「伯父さまは、わたくしが父の死ごときで取り乱すと思っていらっしゃるの? わたくしは家族にも血のつながりにも支配されませんわ。言ったでしょう?」

「私の目には、君は誰よりも自由に見える」

「……愛情。友を持つのか持たれるのか。人を愛することは、己の支配権を相手に譲渡することですわ」

 緋簾葦はどこか憂いのある面持ちで、テーブルを見つめる。

「現に伯父さまは、たかが娘一人のためにこうしてわたくしに問い詰められている……あなたが殺したわけではないのだから、知らないフリも出来たでしょう。あなたがそうしなかったのは、ひとえに愛のせいですわ」

「なら君は、何ものも愛さないというのかい」

 そんなことが果たして可能だろうか。あの爛道でさえ、そうではなかったのに。

「さあ……少なくとも、己が身の上すら危ういものなど、わたくしの興味ではありませんわ。勝手に朽ちて逝けばいい」

 言葉の割に、緋簾葦は静謐な響きを纏わせて言った。諸行無常という単語が頭に浮かぶ。凪いだ湖畔のように、霧に佇むように。ややあって、彼女は「話を戻しましょう」と提案した。九郎は困惑しながら、頷く。

「父の毒騒動全て、あなた方の自作自演だった。なぜそんなことをしたのかは後に触れましょう。今重要であるのはただ一点……あなたが爛道の毒殺未遂が嘘であると知っていたことですわ。皆が毒に気を取られていた中、あなたは毒なんて最初から存在しないことを知っていた。だから翠華ちゃんがまるで毒でも盛られたような反応を示した中、冷静にアレルギーだと指摘できたのです」

「……そうかもしれないな」

 九郎は辛うじてそれだけ返す。大丈夫、まだ推論の域を出ていない。

 そう考えた途端、緋簾葦の顔が、加虐的な笑みを浮かべた。

「あらあら、そう怯えなくてもよろしいですわ。わたくしは何も、伯父さまを虐めに来たのではないのだから」

「……なら、一体何を」

「取り引きに決まっておりますわ。けれど、それは後に回しましょう。でなければきっと、伯父さまはわたくしを無視いたしますもの」

 つまり、九朗が緋簾葦を無視できないように、彼女はしたいわけだ。とどのつまり、やはり彼女は自分を屈服させたいのである。

「ここまでの話は取っ掛かり。わたくしがあなた方を疑うに値する根拠でしたわ。それから、わたくしはあなたがどんなことをするのか興味がありましたの。父の毒殺未遂は嘘で、父はそれより以前に亡くなっている。糸を引いているのは九朗伯父さまに日向にくいな。中庭の遺体はくいなが殺してしまった日向累。けれど、日向累は日向さんの息子であり、くいなの義理の兄にもあたり、九朗伯父さまが彼女を手助けしている……ふふ」

 緋簾葦がおかしそうに笑う口元を手で隠す。何故笑うのか、九朗には全く理解できなかった。彼女は弁明するように、笑いながら「ごめんなさい」と謝罪した。

「白状いたしますわ。わたくし、ここで少々、状況の理解に苦しみましたの。だって、父の件でお三方は一致団結していたはずですわ。それなのに、どうして日向さんの息子である累さんが殺されるんですの? 確かに日向さんと息子さんは爛道を巡ってか、門の前で争っていました。何しろ日向累さんは、日向さんの息子でありながら――だからこそかもしれませんが――集落でも三人しかいない爛道反対派の一人でしたわ。爛道への忠誠で、まさか息子を殺すようくいなに命令した? いいえ日向さんはそんなことしない……ここでわたくし、一つ思い出したのですわ。そうだ、日向さんは、くいなによる翠華ちゃんのアレルギーをわたくしたちに言われた時に、酷く動揺したことを」

 教授とのお茶会の時の話だろうか。九朗は思い出すも、確かに日向は見たことも無いほど青ざめた面持ちだった。

「日向さんの反応は、その時点でのわたくしの予想とは少し違っていましたの。けれどわたくしは、それで思考を修正できたのですわ……つまるところ、日向さんはそこでやっと、息子の死の真相――くいなの犯行を知ったのです。あるいは勘付いたと言うべきかしら? どうして手塩にかけてメイドに育てた娘があんな痛恨のミスをしでかしたのか、その理由にね」

 血の繋がった息子を殺したのが、二十数年面倒を見て来た義理の娘……もし自分が日向と同じ立場であれば、これほど運命を呪ったことも無いだろう。だって、それ以外に何を恨めば良いのか分からないはずだ。

「爛道の死の偽装で一致団結していたはずの三人ですが、累さんの殺害は日向さんに知らされていなかった。そもそも、くいなのあの動揺を見るに、計画的なものである可能性は限りなく低い。ましてや日向さんも九朗伯父さまも、娘に汚れ仕事をさせるとは思えない――であれば、導き出される結論は一つ。日向累さんの死亡は、爛道の件とは別件。全くの無関係で起きた突発的な犯行だったのです」

「……ならば君は、くいなが突然、自らの兄を殺したというのかね」

「あらゆる可能性を排除して、残されたのがその結論であるなら、受け入れるしかありませんわ」

 緋簾葦はサラリと言ってのけ、それにと続ける。

「それに殺人が全て悪意ゆえだなんて、そんな浅慮は愚物の特権でしてよ。くいなはわたくしにとっても――姉のような方ですもの。幼いころより共に、日向さんに育てられました。与えられた教育に違いはあれど、長い時を共有した。わたくしは知っています。あなたの娘は実に、清らかな人間であったと」

 それを聞いて、九朗は思わず黙りこくってしまう。本当なら自分で育てたかった子供……それを他人任せにした挙句、こんな面倒ごとに巻き込まれるまで助けてやれなかった。爛道は良い父とは言えない弟だったが、自分はそれ未満だ。ほんの少しでも、父親として接することができなかったのだから。

 悔やんでも時は戻らない。せめて日向の教育が、くいなを立派に育て上げたことを感謝するしかない。

「そしてわたくしは、これを思い出したのですわ」

 緋簾葦はそう言って、懐から――紙束を取りだした。

 それは、五枚の白い紙切れだった。

「……これは?」

「やはり、伯父さまもご存知ないのね」

 どうやら確認も兼ねて見せられたらしい。緋簾葦は懐古するような眼差しで、少し横を向く。壁を見ながら、彼女は語り始める。

「最初はね、爛道の嫌がらせかと思ったのよ。どうしても父が、わたくしを手元に連れ戻したいのだと。それで、わたくしが興味を引かれるように、こんなつまらない戯言を送り付けて来たのだと――けれど、違った」

 娘に脅迫の罪状を疑われる父親。兄弟として、同じ父親として、それがどういうものなのか考えてしまう。あるいは、爛道はどう思うだろうか……。

 九朗の思考も知らず、緋簾葦は淡々と続けた。

「この脅迫状を送り付けてきたのは、あの青年よ。日向累さん。彼がわたくしに、脅迫状を書いていたの」

「彼が、君に……だが君たちには、なんの関係性も、ましてや面識も無かったはずだ」

「ええ……けれど、彼は日向さんの息子なのだから。それも、彼は爛道反対派だった」

「爛道が憎まれていたからということか? しかし……」

 緋簾葦に向けられる殺意とも言える攻撃性。いくら緋簾葦相手と言えども、違和感が拭えない。

「ふふ、わたくしも、当初はそう考えておりました」

 緋簾葦が愚かな過去を憐れむように、口元を隠して笑う。

「ですが、その違和感は彼の怨恨の所以が、鯉にあると考えていたことにありますわ。わたくしたちは、彼が伝統派だからこそ爛道反対になったのだと考えた。けれども真実はその逆。彼は爛道反対だからこそ伝統派として活動していたのです」

「……爛道への恨みが先んじて存在していたのか?」

「ええ。言ったでしょう? 彼は日向さんの息子なのです。そして、くいなの兄でもある」

「くいなの兄、か……」

 付き合いの年月、濃さで言えば、実父である自分よりも上なのかもしれない、なんて思ってしまう。九郎は爛道の敵対者としてしか日向累を知らないが、くいなにとっては、そうではなかったはずなのだ。それなのに、殺してしまった……。

「日向家は、日向累さんの幼い頃に別居しています。それも日向さんが、爛道への忠誠を優先したせいで……それを、累さんが恨んでいたとしたらどうでしょう? 爛道のせいで一家が二つに割かれ、あまつさえ兄妹で別々に育てられたのだと、彼が考えたのだとしたら」

「爛道を深く恨み、爛道の邪魔をしようと決心するかもしれない……だが」

「なんです?」

「それもやはり、君とは関係無いように思える。父親がどんな所業をし、それで害を被ったとしても、娘を恨む動機にはならんはずだ。理性的な人間であるならな」

「そうですね。だから、今の話は彼が爛道を恨んだキッカケに過ぎないのです」

「キッカケ?」

 爛道への恨みが、緋簾葦をも恨む理由に広がったということだろうか? 一体、何が?

「これは推論ですけれど、彼は爛道を恨み、爛道ひいては堯家を知るうちに、くいなの出生に気がついたのではないでしょうか。三匹の鯉の風習、そして居ないことにされた零匹目の鯉、くいな……彼は確かに爛道を恨んでいた。けれども、それ以上に妹への愛情はあったのかもしれない。くいなの境遇を憐れみ、そうとは知らずに美しき鯉として悠々育ったわたくしを嫉んだとすれば……」

「彼はくいなのために、君を脅迫したと……?!」

「三匹の鯉は、一匹が居なくなれば追加の鯉が補充されますから。わたくしが消えれば、くいなに出番が回ると考えたのかもしれませんわね」

「だが何故君が? 鯉なら他にも、燕治の息子や君の妹が居るではないか」

「あら」

 緋簾葦が、どうしてそんなことを疑問に思うのか、とでも言いたげな愉快そうな笑みを浮かべる。

「そんなの、わたくしが一番、明媚にして目立つからですわ。目を惹かれるのは当然でしょう」

 自信家にもほどがあると言いたいところだが、この我の強さは爛道に通ずるものがある。あの父にしてこの子あり。いや――。

「……君は、お母さんにもよく似ているね」

 ふと、そんな言葉が口を滑った。緋簾葦があっと言うような、呆気にとられた顔をする。

 爛道は、商才には恵まれたが、別段に眉目秀麗な男ではなかった。むしろ、日頃から考え過ぎて気づけば顰め面をしてシワが増えたという悩みを聞いたことがあった。人生という旅路のほとんどを成功という宝石で敷き詰めた彼の、数少ない悩みだったのだ。

 反対に、彼の妻は酷く美しい人だった。それこそ、まるで数億の値がつく芸術品のように。

 だがそれだけではない。彼女は爛道にも負けず劣らず……頑固な人だった。

「考えてみれば当たり前だけれど……伯父さま、わたくしの母に会ったことがあるのよね」

 感情の見えない表情で緋簾葦が言う。幼いころから、緋簾葦は人並み以上に大人びて、不透明な怪しさをオーラのように纏っていた。その孤高は時に、九朗には強がりに見えなくもなかった。

「君のお母さんは、爛道が唯一頭の上がらない人だった。君は知らないだろうが」

「……なんだか厭味な言い方ですわね。それに唯一というのは誤りですわ。わたくしも、父ごときには屈しません」

「本当にそっくりだな……」

 しかしそんなことは、今はどうでもいい。彼女の母はとっくの昔に、産後の日立ちが悪く死んでしまったのだから。そして、その娘に、今自分は追い詰められている。蛇の生殺しのようにじわじわと崖際に追い詰められながら。

「……それで、君が日向累くんから脅迫状を貰って、それでどうして、くいなが彼を殺すことに繋がるのだね。私にはまるで荒唐無稽に思えるが」

「伯父さまったら、嘘がお下手ね。くいなと同じだわ」

 緋簾葦がクスクスと笑う。癇に障るが、何も言い返せない。

「簡単な話だわ。くいなから見て、わたくしは一緒に育った妹。対して日向累さんは、くいなにとっての兄。わたくしの兄ではないけれどね。日向累さんはくいなを想うほどに、わたくしを大変憎く邪魔に思っていらっしゃる。さて問題ですわ――くいなは果たして、どちらの味方につけばよいでしょう?」

 緋簾葦はくすりと笑って「もちろんわたくしは、わたくしの味方につくべきと存じますけれど」と尊大な様子で、椅子の背もたれに悠然とふんぞり返った。

 ――こんな奴のために、と瞬間的に怒りが湧く。だって……どうしてこんな、爛道の娘で如何にも傲慢な人間のために、我が娘が……。

 ややあって、九朗は観念するように、呟いた。

「……善人が、報われない世界だ」

 緋簾葦が、みるみる嘲笑を広げる。

「善行と利得に因果関係はありませんわ。わたくしより長く生きているのにご存じありませんの?」

「知っているさ。この世には天国も地獄も無い。兄弟が同じ土俵に立てることは少なく、うっかり下の人間に生まれようものなら、汚泥のように纏わりつく劣等感に苛まれる……君の妹と同じだ」

 緋簾葦が「同じねえ」と意味深に笑う。

「わたくしに言わせれば、あなたはサイコロを振る前から一の目を恐れて、何も出来ないの」

「……ならば闇雲に振って、娘が窮地に陥るのを見ていろというのか」

「いいえ、違うわ」

 緋簾葦が真面目な顔で、どこからか――サイコロを三つ取り出した。反射的に「は?」と九郎は言ってしまう。開いた口が塞がらない。いったい何故、どこからどうやってサイコロを?

「これはね、イカサマサイコロなの」

 緋簾葦が指先でサイコロを三つ弄ぶ。まるで器用な扱いだ。手品師や詐欺師を彷彿とさせる。

「時々だけれど、わたくしはあの子と――戸鞠と、カードやサイコロで遊ぶの。けれど、遊ぶからには勝ちたいの、絶対に。そういう時に、これの出番が来る」

「……イカサマをすると?」

「ええ」

 緋簾葦はなんでもない顔で頷き、軽やかにサイコロを三つ投げる。

 サイコロは示し合わせでもしたかのように、全て六の目を出した。全て。

「イカサマも含めて勝負なのは、あの子も分かっているわ。あらゆる条件、逆境の上で、わたくしたちは勝負を楽しむ。人生と同じね」

 緋簾葦がいつからか、左手にトランプのカードを持っていた。ハートのクイーンが、瞬きする間にジャックに変わり、さらにジョーカーに変貌する。

「ワイルドカードはいくらあっても良いもの」

 今度は右手に出現した複数のカードを裏返す。全てジョーカーだ。しかし製造元が違うのか、絵柄がそれぞれ異なっている。大量生産の簡素な道化師と技巧の施された匠の道化師、他の道化師も混ざり合い、一瞬にして全てが消え去る。跡形もなく。

「……家を出て何をしているかと思えば、手品師にでもなったのかね」

「まさか」

 緋簾葦は不満げに言う。

「わたくしがそんな低俗な遊び人だなんて侮辱が過ぎますわ。こんなのはほんの遊び心です」

 緋簾葦は居住まいを正すと、パチリと目を閉じて、瞬いた。その瞬間、その瞳が爛々と輝く。まるで夜闇に紛れた黒猫が、その金色の眼だけを宙に浮かせているように。

「人生は最初から賭けなのです。分は悪く、ハンデを背負わせられる賭けですわ。それでも楽しくない訳ではないし、楽しめない訳ではない。わたくしはどんな状況であっても、楽しむために利用する。ついでに勝てるなら文句は無いわね」

「……つまりは、どういうことなのだ」

 迂遠な物言いにも飽き飽きだ。九郎はゲンナリしたのも隠さず尋ねる。

「わたくしは、あなたに取り引きを持ちかけに参ったのですわ」

「取り引き、か」

 先程も言っていた。だが、彼女の言うそれが真っ当なものだとは思えない。何しろ、こちらは殺人の罪を脅されている。

「わたくしは、あなたがどんな罪を犯そうとも、構いやしませんわ。そうね、たとえあなたが弟を殺そうと、日向さんを殺そうと、わたくしが生きているならば問題は無い」

「……二人を殺したのは私だと考えているわけか……まあそうか」

 それ以外に誰が居るだろう? 爛道は催しの前に病気で死んでいる。翠華や麻衣華には度胸が無い。くいなは初めの兄殺しで精神が参っている。元より殺人などしたくなかったのだ。教授はただの被害者。

「補足をいたしますなら、日向さんはくいなの異変に気が付いてすぐ行動を起こされたのですわ。しかしその行動は、決して賢い選択とは申せませんでしょう。彼は娘が息子を殺したとは到底信じられなかった。だから、誰かが殺させた、あるいは殺しに加担させられてしまったのだと思ったのです。そして、その加害者を燕治伯父さまと仮定した。だから彼に会いに行った。誰にも見られないよう、調理室の外階段でね。けれど、それを知っている者がいた。あなたですわね、伯父さま」

 ここまで来れば否定するのも億劫だ。九郎は力なく頷く。

「ああ……日向と私は、爛道の件で秘密を共有する仲だった。いや、それ以前から、私たちはほとんど幼なじみのようなものだ」

「日向さんはあなたがたとほとんど年齢が変わりませんものね。そのうえ、長い年月を共にされた。お若い頃より……であれば、燕治伯父さまへの疑いを、あなたに相談しても何らおかしくは無い。むしろ、何時も主人への報告を忘れないなんて、さすがは使用人の鑑と言うべきかしら」

 緋簾葦の口調に若干の嘲りが滲んでいることに、九郎は狼狽する。結局のところ、彼女は日向をどう思っていたのだろうか。

 あるいは、血縁や仲間という枠組みを超えて、ひとりの人間としての評価をしているのかもしれない。どんな人間であれ、結局は人間であることに行き着くように。神の前では何人も、個人であるように。客観ではなく絶対を。

 だとすれば、この人を喰ったような笑みも、佇まいも、納得がいくだろうか……。

「それにしても、あなたもまた確かに、くいなの父親でいらっしゃるわね。大切な家族を、必要とあらば殺してしまえるなんて。なかなか出来ることではなくてよ?」

 九郎のこめかみがピクリと痙攣する。緋簾葦の目がそれを逃さず捉え、一瞬だけ目を細めた。

「あなたは焦ったのよね? このまま日向が、くいなのことで燕治伯父さまの元へ行けば、くいなの犯行も九郎伯父さまの関与もバレてしまう可能性が極めて高い。しかし、あの時は一刻の猶予も無かったはず。考える時間も無いあなたに、取れる行動など限られていた」

「……元々、私に出来ることなどたかが知れている」

 ポツリと弱音が零れた。

「子供の時から、私はいつも、爛道が何かするのを後ろからついて行くだけだった。今回もまた、自分では何も出来ず、気づけば後手に回っていた」

「後攻というのは不利なものよね。あなたは決断力が無い。だから、なんの計画性も無く人に振り回されるのだわ」

 尤も、と緋簾葦が意味ありげに言う。

「尤も、父はそんな伯父さまだから助かっていたとは思いますわ。慰めではなく実直な意見です」

 緋簾葦がまた、感情の読み取れない人形めいた顔になる。

「けれども、伯父さまと日向さんの遺体発見後の三文芝居には辟易させられたわ。相打ちなんて信じるお馬鹿さんはいらっしゃいませんもの。麻衣華さんあたりは、わたくしがやったとお考えになったかもしれないけれど」

 緋簾葦は馬鹿げていると言うが、実際はありえない話ではない。緋簾葦自身は女性らしい体躯で、燕治や日向を相手取るのは難しいだろうが、例えば彼女の連れも一緒であれば、彼ら相手でもやりようはある。だから九郎も、もはや意味があるのかすら覚束無い偽装工作に踏み切るしか無かった。いざとなれば緋簾葦や連れに濡れ衣を着せるしか無いだろうとも考えていた。すべては娘のために。それもやはり無駄に終わる兆しがあるが。

「伯父さま、そう落胆なさらないで。あなたは無い頭を振り絞り、娘の不始末にほとんどアドリブでご対応なさった。やれることはやったのです」

 ですので、と緋簾葦が怪しく笑う。

「ですので、後はわたくしに、お任せ下さいませ」

 九郎は緋簾葦をじっと見据える。何か一つでも彼女の弱みを見つけてやりたかった。

 ややあって九郎は言う。

「後、とはなんだ。一体何を任せればいい? まさか死体も殺人罪も、無かったことにしてくれるわけではあるまい」

 結局のところ、これだけの騒ぎになっても九郎の望んでいるのはこれだけだ。何もかも無かったことにして、平穏無事な生活に戻りたい。それだけのことがもはや不可能なのである。笑ってしまうくらいに運も実力もなかった。ゴミみたいな人生だ。

「では、『なかったことにして差し上げましょう』と、わたくしが述べるとするなら?」

 緋簾葦がくすりと微笑を漏らす。本気とも嘘とも判然としない。

「……そんなのは不可能だ」

「あなたみたいな人が普通に考えただけではね」

 ああ、と緋簾葦が何かに気がついたように続けた。

「ああ、見返りならば、ご心配なさらずとも結構ですわ。もう貰っているから」

「貰っている?」

 反射で言ってしまうも、九朗の頭には何らの可能性も浮かんでこない。

「ええ……この状況、まるで夢みたいじゃない」

 緋簾葦の陶酔的な物言いに、九朗は理解する。

「最近ずっと退屈だったのよ。鬱屈した空気が停滞して、息をするのも億劫だった。賭け事にも興が乗らなかった。何もかもどうでも良くて……いっそのこと死んでしまいたいくらい」

 退屈は人を殺す。虚無に耐えることの出来る人間は居ない。緋簾葦は胸を抑え、目を瞑っていた。まるで苦しみを奥に秘め隠す賢者のように。

「正直に申しますと、あの脅迫状が届いた時、わたくし、救われた気持ちになりましたのよ。そして思った。この謎と共に死んでも構わないと」

「……狂ってるな」

「なんとでもおっしゃって。けれどこの狂騒は、あなたの中にも眠っている。眠らせているだけなのよ」

 九郎には、彼女の言っていることが寸分も理解出来ない。

「ならば君も眠らせれば良いではないか」

「それはいけないわ。そういうのは生ける屍と言うの。長い物に巻かれるだけの人生なんて御免よ」

「ならばもし君が、私の人生を歩もうものなら、きっと頭がおかしくなってしまうのだろうね」

 九郎は半分冗談のつもりで自嘲的に言うも、緋簾葦は心の底から嫌そうな顔をした。そこまで嫌がられるとさすがに傷つく所では無いのだが、と九郎は内心で思う。

「それに、あなたにはしてもらいたいことがございますもの。決してわたくしだけが損をする取引ではないと言えば、あなたも納得するかしら」

「してもらいたいこと、か」

 なんだろうか。少し待ったあと、緋簾葦はとても静謐に答えたのだ。

「あなたには、全ての罪を被って死んでもらいますわ」

「……どういうことだ」

 否定はせず、九朗は尋ねる。自らの死が全てを終わらせるなら、それで構わないと思った。

「わたくしね、一つ面白いものを手に入れたのよ。それを、部屋に置いて来た。これは賭けだけれど、十中八九、あの子はそうするわ」

 こちらに分からせる気も無い口調で、緋簾葦が言う。

「わたくしはこれから、帰るための準備をする。それには少し、わたくしは自由に動く必要がありますわ。あなたはわたくしのそれには目を瞑ってくださいまし。わたくしが居なくなった後は、あの子が何とかするでしょう……わたくしが消えれば、あの子はまず間違いなく、相当な焦りを見せる。そして動く」

「動く? 私は、それに合わせれば良いのか?」

「……そうね」

 緋簾葦が儚げに微笑んだ。

「あなたはあの子の言う通りに頷けばいい……たとえどんな酔狂を述べたとしても、必ず」

「分かった」

 こうなれば、もう、彼女に任せる他無い。

「大丈夫。あなたの娘は助けますわ」

 あるかも分からぬ善意に、縋る他無い。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る