水鶏
正直に言って、鯉庭に行くのは嫌だった。山奥で虫や蛇が出るのはそうだし、何よりは母の実家が近くにあるからだ。
幼い頃から、なぜだか母親に冷遇された。それが悪意でなく困惑を元にしていることに、幼いながら敏感に察知していた。まるで異物に振れるように、母はいつもそうだった。一つ上の兄とはまるで違う扱いに、布団を頭まで被って泣いた寂しい記憶が脳裏に仕舞われている。思い出したくもなかった。
反対に父は優しかった。まるで神棚を掃除するような扱いとでも言えばいいだろうか。父は自分がどれだけ大きな失敗をして、どれだけ頭に来ていたとしても、叩くことが無いだけでなく、大きな声で叱りつけることも無かった。おもちゃを振り回して窓ガラスを割ってしまった時、母は般若のように顔を歪めたが、父は即座に「怪我がなくて良かった」と破顔した。
不思議でなかったと言えば嘘になる。兄とは度々、その話をした。自分たち兄妹の差について、母と父の差について。
その答えが出ることは無かったが、もしかしたら、あの人が関係しているのかもしれないと兄が言った。あの人――父が若い頃から仕えている主人、堯爛道という人だ。
「へんななまえ……」
「そう言うな。すっごい偉いらしいぞ。消されちまう」
そんな馬鹿みたいな会話を、土手裏でしたことを覚えている。消されるという言葉の意味があの頃は分からなかった。とても偉くてお金持ちで、父の仕事の上司であることだけを理解していた。
とはいえは、兄や母と会うのは時々だけだった。普段は父の働く大きな家に、一緒に住んでいたからだ。少し年が下の女の子が二人いて、兄弟姉妹の意識はむしろその二人の方が強かったかもしれない。お人形のようにすました顔の緋簾葦と、少し臆病で可愛い翠華。二人は自慢の妹だった。母や兄のことで悩む時間を少なくしてくれたのは、二人の世話が何より幸せだったからだ。
尤も、それも大人になって突然、変化を余儀なくされる。
「お父さん、それどういうこと? なんで緋簾葦たちに敬語なんて……」
「もう子供ではないということだ」
「そんなの理由になってない。あの二人は……」
「分かってくれ」
そう言ったのは、後ろから現れた九郎だった。くいなは反射で「九郎おじさん」と言うも、続ける言葉は何も浮かばない。九郎は酷く、申し訳なさそうにしていた。
「すまないな……くいな」
あまりにもか細い声だったので、くいなは一瞬、彼が何を言ったのか聞き損ねるところだった。数秒の沈黙の中、父からチョンと肘を小突かれ、気がつく。九郎は爛道の兄であり、つまるところ偉い人だ。いくら爛道と違って優しい人だと言っても、甘えて良い訳が無い。
「そ、そんな、ええと、滅相も無い? ですっ」
「いや……本当に申し訳ないと思っている……だが分かってくれ。これは巡り巡って、お前のためになることなのだ……」
「はあ……」
この時はもちろん、くいなには九郎の言う意味が全く理解出来ていなかった。せいぜい「まあ爛道さんに理不尽に怒られるよりマシかな」なんて思ったものだ。
それにしても、父だけならいざ知らず、九郎にまで頼まれたとなれば――しかもこんな顔をさせたとあれば、聞き入れる以外の選択肢は無かった。家を出て久しい緋簾葦と違って、翠華はくいなの変わりように驚いていたが、何かを察したのか理由は尋ねてこなかった。それが逆に、申し訳ない気がした。
そのやるせなさを慰めてくれたのは、他ならぬ九郎だった。九郎は家に帰ってきた時は必ず、くいなに会いに来ていた。妙な習慣だが、くいなは九郎が優しい人だからだと納得していた。
「たとえ立場が変わっても、心は離れない。きっと」
希望論に等しい温かな言葉を、九郎はゆっくりと紡ぐ。
「顔を上げてごらん。空が美しい」
九郎はよく感傷的に、そんなことを言った。青い空が好きなのだと言っていたこともある。
「おじさんは空が好きなの?」
「空というよりは、青が好きなのかもしれないね。見渡す限りの蒼穹だ。心が洗われる気がする」
こんな仕事だと、どうしても人に恨まれることも多いから、なんて九郎は苦笑した。
「まるで大量の水で押し流すみたいにね――」
他愛のない会話だった。いつ、どんな話の流れかも思い出せない。そのくせ、くいなは度々空を見上げるようになる。ほんの少しの青でさえ覗けば、それは美しい。
鯉庭の記念パーティーの準備の指揮をとったのは九郎だった。主催者は爛道と聞いたのに蓋を開けてみればこれかと思ったことを、誰にも言わないだけの良識は身につけた。ただ合理的な思考回路を有しているはずの爛道が、こんな山奥の屋敷に人を招待するなんて珍しいとは思った。いや、そもそも最近の爛道が部屋に引き篭っているらしいことが、少しおかしいとは思っていた。
……そう、おかしいとは思っていたのだ。それなのに、その知らせを聞いた時、悲鳴に似た大声を上げてしまった。そのことに、自分自身で驚愕してしまった。
くいなが見たのは、物置のように狭い書斎に安置された爛道の遺体だった。土気色の顔、粘土のような手、コシも無くクニャリとした白髪交じりの頭髪……。
「先日、病で亡くなられた」
「病って、でも……」
「ここ数年はずっと体調不良にお悩みだった。いや若い頃から、爛道は――」
父が爛道を呼び捨てにしたのを聞いたのは、これが初めてだ。
父の来歴について、母から何度か聞いたことがあった。まだ二十歳もそこそこの頃、父は元名士であり、村唯一の医師の家系を継ごうとしていた。大学で医学を学び、ようやく実家の小さな医院で実務に励もうとしていたちょうどその時――村の現有力者である堯家の男性が現れた。名を爛道という彼の巧みな話術やカリスマ性に惚れ込んだ父は医術の道を捨て、世界各地を爛道と共に駆けた。マンハッタン、パリ、ラップランド、ギニア……父の居室には何百枚という写真と、珍妙とさえ言える謎の木彫りの仮面や人形が所狭しと陳列している。母が地震が起きたら危ないと整理しようとした時、父は見たことが無いほど激昂したものだ。さすがに母の方が正しいと思って、くいなはドン引きした。
だが、それだけ父と爛道の繋がりは深く、濃かった。彼らを取り巻く商談相手や部下からは、「恋人みたいだ」とまことしやかに囁かれ、二人それぞれが今の妻と上手くいっていないのもそのせいだなんて影で言われることもあった。本人たちが既知かは、くいなには分からない。
「せめて海外出張だけでも任せてくれれば……」
だが落胆し、憔悴した父の様子を窺うに、噂が真実に入り込む余地を、感じざるを得ない。恋人という肩書きが間違いだとしても、終生のパートナーであったのは間違いないのかもしれない。爛道は最初の妻とは仲が良かったと聞いたこともあるけれど、その女性はもう十数年以上前に亡くなっている。その後の爛道を支えたのは、やはり父なのだ。
「それにしても、お父さん、爛道さんが亡くなったってことは、じゃあパーティーは、中止ってこと? 片付けをしないと――」
「いいや、パーティーはする。そのためのものだからだ」
「そのため……一体どういうこと?」
父が苦しげな顔をするのを、くいなはじっと見守った。メイドとして教育され、くいなは忍耐強い人間となっていた。ややあって、父が言った。
「爛道は、自分の死期を悟ったのだ。そして、死後の子供たちの安寧を望んだ。敵は排除しなければならない。誰かも分からぬ敵を全て……あぶり出さなければいけない」
父の口調は至極真面目だったが、くいなには父の言う意味が理解できなかった。ふざけているのではないだろうが……頭がおかしくなったのかとは正直考えた。
「ええと、お父さん?」
「爛道はそうすると言った。私たちは従うまでだ」
父の言葉は力強かった。とてもノーとは言えない。
こうして、くいなは爛道や父の陰謀に巻き込まれた。
パーティーの指揮を執ったのが九朗だったのも、今となっては納得だ。彼は爛道に信頼されていたため、日向と協力してことを進めるよう、爛道に言われていたのだ。
招待客は燕治、麻衣華、翠華、緋簾葦、そして芧鏡教授だ。だが初めの人々は良いとして、緋簾葦は来るかどうか怪しい。一年前のとある日「あのクソジジイ! いつか分からせてやりますわ!」と緋簾葦が怒って出て行ったのを、くいなは今でも覚えている。招待状を贈ったものの、果たして緋簾葦がどう動くだろうかと九朗は悩んでいた。だが、それも杞憂に終わる。緋簾葦から参加の返答があったのだ。九朗は訝しんだが、これで悩みの種は自然と解消された。
爛道の想定では、燕治と麻衣華が、爛道の病気に乗じて何かをする可能性が高いらしい。わざと弱点を晒しておびき寄せ、罠にかける。自らの死さえ利用する爛道の狡猾さが、くいなには薄ら寒かった。あるいは、彼には全てが駒のように見えていたのかもしれない。チェス盤のような。
全ては上手く行っていた。計略がバレる可能性としては、一日目が最も高いのだ。爛道の指示通りに毒騒動を起こし、燕治たちに信じ込ませることが出来た。後はもう成り行きに任せ、招待客たちの化けの皮が剥がれる瞬間を待つだけ――。
だが、アクシデントが起きた。
訪れた不運は、何を隠そうくいなの兄、日向累だった。彼は何故だか、酷く興奮した様子で、水鶏の下をひっそりと訪れた。
「兄さん⁈ どうしてここに……てか、どうやって⁈」
「燕治さんにな」
兄は、少し前から燕治さんと協力関係にあること、スパイとしてこの村での爛道の行動を見張っていたことをくいなに説明した。そして今は、爛道が倒れた事実を燕治から聞き、燕治と階段で密会したらしい。どうりで燕治が雨の中、調理室の外に居たわけだ。
「ところで、お前に言いたいことがある。すごく大事なことなんだ……」
ここから、悪夢が始まった。長い長い悪夢が。
くいなにはどうでも良かった。穏やかに過ごせれば。
「兄さん……」」
気づけば、兄の死体が転がっていた。兄が、くいなの出生の秘密をみなにバラすと言うから、絶対に止めなければと焦って、気づけばこうなっていた。
父には言えない。兄を殺してしまったなんて、どうして父に言えるだろう?
ならば誰に――。
「……九朗さま」
兄の話が本当なら、九朗さまは私の――。
迷っている暇はなかった。割れた兄の頭から、血がドクドクと流れ出している。降りやまぬ雨が、今は味方になってくれている。今だけは。
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