九朗
「あんまり勿体ぶったのは嫌いだから単刀直入に言うわ。日向累を殺したのはくいなでしょう」
緋簾葦がそう言った時、九朗は何もかもが終わったのを理解した。いや終わっていたのは、ずっと分かっていた。それを強制的に理解させられた。そんな収まりの悪さだった。
「……何を言うのかね。君は」
「勿体ぶったのは嫌いって言いましたわよね。面倒くさいですわ。そういうの」
緋簾葦が椅子の背もたれに背を預け、大仰に溜息を吐く。だがそれは、演技ではなく彼女が心の底から面倒臭がっていることの現れだった。九朗は、緋簾葦がまるで緊張感も無く眼前に居ることに戸惑いを覚える。殺人の事実を突きつけるのは、どんな状況であれクライマックスとか佳境とかそういうものだろう。そのくせ彼女は、そういう熱を一切持ち合わせていなかった。その様はどこまでも――ビジネスライクで、商談でもしに来た有様である。
だが九朗は知っていた。その姿は、在りし日の弟を思わせる。弟は――爛道は、チャレンジ精神旺盛でありながら、負ける勝負には絶対に挑まない。執念と言えるまでの用意周到さと完璧主義が、爛道を兄弟の中で最も成功させたことを、他ならぬ九朗は知っていた。それと緋簾葦が重なって見える。彼女の中には、勝ち筋があるのだ。つまるところそれは、九朗を完膚無きまでに屈服させる。
だがそれでも、負けを認めることは、人生を捨てることを意味している。自分だけならまだいい。でも――あの子は? それはダメだ。それだけは決して。
九郎は沈黙を貫いた。黙秘なんてほとんど認めているようなものだが、それでも地雷原の荒野を無策で突き進むよりはマシだ。
九郎の意図を察してか、緋簾葦は僅かに柳眉をひそめる。そして自分が話すべきだと思ったのだろう。長々と話し始めた。
「本当に面倒臭いですわ。けれど諦めがお悪いのも理解出来ます。娘を守りたいのでしょう? くいなはあなたの実子ですものね」
なぜそれを? と尋ねてしまいたいにをじっと堪える。緋簾葦は分かっているのか、滔々と続けた。
「昔から似ていないと思っていたのよ。日向さんとくいなでは全然体格が違いますわよね。それだけならまだ良いのですが、くいなとは水鳥の一種ですわ。あなたと同じ」
「……日向は昔から爛道に仕えている。娘の名を一族の習わしに添わせるのは、爛道への忠誠とも捉えられると思うが」
「なら息子さんはどう捉えますの? 日向累さんは」
そんなの、知ったことではなかった。
「累さんは鳥でもなんでもありませんわ。ですが息子さんが生まれた時点で、日向さんは爛道に仕えて久しかった。爛道のせいで奥様と別居する羽目になり、息子さんは奥様に引き取られたそうですね。その一年後にくいなが誕生。離婚するのかしないのかとごたついている時に子供が生まれるなんて妙ですわ。しかも何故か、娘の方は日向さんに引き取られ、兄妹で離れ離れになった」
「そういうことも世の中にはある」
「そんなのは後先と子供の気持ちを考えられない馬鹿な親がすることです。日向さんは馬鹿ではなかった。なにか理由があると考えた方が納得出来ますわ」
これも日向への信頼なのだろうか。緋簾葦は柄にもなく立腹した面持ちで言う。
「あなたは、くいなを堯家に加えたくなかったのでしょう。一族の習わし――三匹の鯉を憂えて」
「三匹の鯉、か」
なんともまあ、バカバカしい習わしだろうか。
そんなもので、愛する娘を手放すことになるなんて。
「九郎伯父さま、燕治伯父さま、そして爛道。三人兄弟ですわね。それ自体は別におかしくないのですけれど」
「なら、何がおかしいのだね」
「わたくしたちの子供世代の話ですわ。わたくしは妹との二人姉妹ですけれど、もう一人、兄のように慕わせていただいている方がおりますわ。燕治伯父さまの息子さんのことです。今回はいらっしゃいませんけれど、親族が集まる催しには、必ずと言って良いほど参加しておられました。そう、必ずと言って良いほど」
緋簾葦の言う通り、燕治は自身の息子をほとんどの行事で同伴させていた。表向きには、自慢の息子を周囲に披露したい自己顕示欲に見えたことだろう。だが実際のところ、燕治が周囲の思うほど直情的なだけの人間ではないことを九郎は理解していた。彼が息子をいつも連れ立っていたのは、別の意図がある。
「習わしを知っていたのは燕治伯父さまも同様です。伯父さまは親族に息子をアピールすることで、彼が三匹のうちの一匹であることを強調していたのですわ――決して、息子が消されないように」
「……ふん。間引きなど、時代錯誤も甚だしいな」
「まったくですわ。けれどあなたはそれを恐れた。堯家最初の子供と言えど、安堵は出来なかったのでしょう? くいながもしも爛道に殺されたら、なんて。表立って殺さずとも、爛道なら暗殺ぐらいするかもしれない。それぐらいなら、最初から日陰に生きた方が良いと」
実にあなたらしい判断だと緋簾葦が、やや憐憫を交えて言う。
「けれどもまあ、後の爛道の行動を考慮すれば、あなたの選択は正しかったのかもしれないわ。堯家の跡取りとして用意された椅子は三つだけ。わたくしが居るだけでは飽き足らず、爛道は三つ目も自らのものにしようと画策した。わたくしの母が亡くなった後、爛道は何らの興味も無い女と再婚して子を産ませた……本当に、翠華ちゃんは可哀想な子だわ」
「……なぜ、憐れに思うのだね?」
「あら、だって、ただの数合わせではありませんか」
緋簾葦は悪びれもせずに述べると、胸の下で緩やかに腕を組んだ。
確かに、兄弟姉妹で差があることがいかにして惨めさを煽るか、それは九郎がよく知っている。だが、翠華はまだマシなのだ。妹ならば、まだ言い訳のしようもあるのだから。本当に退路が絶たれているのは――。
緋簾葦は言わなかったが、くいなを養子に出したのはそれが一番大きかった。一番最初の子供。長子。それがいかに残酷な人生を歩むことか。
九郎は信じることが出来なかった。自分の才能を、遺伝子を、人生を、全てを。ひいては娘の未来を。
だが緋簾葦は、彼女はどうだろう? 己の道は既に開かれていて、己の全てが天に満たされていると確信しているような佇まい。彼女は、一体自らの何をそう信じていて、何故信じているのか……。
「お話、続けてもよろしくて?」
「……ああ」
「それと一応申し上げておきますけれど、わたくしは何も、それだけであなた方の関係を疑っていたわけではありませんのよ。決定的におかしいと気づかされたのは、昨日の伯父さまの行動ですわ」
「……私の行動?」
何かをしでかした記憶は無い。臆病だと揶揄されても、九朗は慎重な行動を常日頃心がけている。誰にも盾突かず、なるべく穏便に、温和に振舞う。それが子供の頃に焼き付いた九朗の処世術だ。
「翠華ちゃんのアレルギー反応ですわ。最初に気付いたのはわたくしでしょうけれど、声を上げたのはあなただった」
「君は気づいていて何も言わなかったのか」
責めるつもりで九朗は言うが、緋簾葦は歯牙にもかけない。
「あの時は自分のことで精一杯でしたもの。わたくしは慈善事業がしたくて生きているのではありませんわ……それはそれとして、わたくしはあの時の伯父さまの行動が不思議でなりませんでしたの。伯父さまは翠華ちゃんの症状の原因がアーモンドのアレルギーと気づいて、くいなに伝えた。それは正しかった。けれど、正しいことがおかしいのです」
まるで言葉遊びみたいなのに、緋簾葦にふざけている様子はない。
「翠華ちゃんのテーブルには、他の方には無いものがありました。デザートのプリンですわ。それ自体は毒も入っていないただのデザートですけれど――普通、一人だけ食べているものがあれば、それが毒の混入物だと思いません? 今回の例で言えば、くいなちゃんだけが食べていたデザートが、毒の在りかだと誰もが思うはず」
「あのデザートはなら君たちも食べていただろう」
「伯父さま、三歳児みたいなおこちゃまじみたことはおっしゃらないでくださいまし。わたくしたちがデザートを口にしたのは三時のことですわ。それから夕食までデザートは冷蔵庫で保管されていた。その隙に何者かが毒を混入させた……普通の人はそう考えるのですわ。爛道という前例もありますし。けれどもあなたは、そうとは思わなかった。不思議ですわ。無いことの証明は困難、あるいはほとんど不可能であるにも関わらず、あなたはあのデザートに毒はないことを確信していたのです」
「……別に、確信などしていなかったが」
「けれど思い浮かびもしなかったのでしょう? 普通の人が普通に考えることを。どうしてあなたがミスディレクションに惑わされず、正しい答えに辿り着けたのか――簡単ですわ。あなたは他の人が知りえないことを知っていたから。それによってミスディレクションそのものに気づかなかったから」
どんなに優秀な叙述トリックでも、読み手に偏見や先入観が無ければ成立しない。緋簾葦がそう補足する。尤も、九郎には理解出来なかった。
「君は何が言いたいのかね」
「お分かりになりませんか? 要するに、あなたは毒の混入がありえないことをご存知でしたの。主に二つの視点から。一つは混入ルート。もう一つは毒という存在そのものの否定」
「……毒の存在の否定?」
爛道の頭が急速に回る。まさか、この娘は知っているのか――?
「順番通りに行きましょう。まず混入ルートですけれど、これはデザートの保管体制についてですわ。デザートはもちろん、くいなが調理室の冷蔵庫に入れました。彼女が毒を入れたのでなければ、それ以外の方が毒を入れるには彼女の監視の隙をついたことになりますわ。けれどあなたは、どちらの可能性も否定できる。なぜならあなたは、くいなと共に調理室にいたからですわ。あなたは夕食前の時間、くいなに会っていたのです」
これは否定するべき事実だろうか? 逡巡が駆け巡る――答えは出ない、分からない。
「あなたがくいなに会っていること自体は、別段やましいことではありませんわ。問題は、その後のくいな……彼女は、堯家のメイドらしくもない痛いミスをした。翠華ちゃんのアレルギーを知っていながら、間違ってアーモンドを料理に入れてしまったこと――わたくしは思ったのです。これ自体は悪意も無い、くいなの心の底からのただのミスですわ。けれど、どうして彼女はそんなミスを? 偶然であればいい。けれど――例えば、彼女が心在らずになってしまうような大きな出来事が、あったとするなら? それによりショックで、普段なら絶対にしない間違いをしてしまったとするなら――?」
「間違い、か」
思わず呟く。間違いなら、確かにしていた。取り返しのつかない間違いを。
「そう、殺人ですわ。最初に申しましたけれど、あの青年、日向さんの息子である日向累さんを、くいなは殺してしまったのです」
「……何故、くいなが殺したと言い切れる?」
「あなたが彼女を助けたからですわ。調理室での密会。あなたがくいなを助けるのは実の娘への愛情からであって、誰にでもそうする訳ではない。それは今回のあなたの傍観ぶりを見ていれば分かりますわ。わたくしが燕治伯父さまにくだらない喧嘩を仕掛けられた時も、伯父さまは察しがついていたでしょうに何もしなかった……ああ、別に結構でしてよ。あなたの手助けなどわたくしは必要ありませんから。けれどそうね……例えばほんの些細な雑言ですら、あなたはくいなを庇う場面が多々あった。姪のことは放っておくのに、たかがメイド一人には手取り足取り優しくするなんてね」
緋簾葦は皮肉っぽくクスリと笑う。
「己の子供とそれ以外とで大きな区別をつけるのは、どうやら爛道だけではないみたい。堯家に連なるもののサガかしらね」
「堯家の……なら、君はどうかね」
「あら、わたくしですか? わたくしは家にも家族にも縛られませんもの」
「……そうか」
この世の理を説きながら、自分だけは例外だと胸を張る傲慢、あるいは神性。ダブルスタンダードと言ってしまえばそれまでだが……自分の欲しかったものを、彼女は若くありながら既に持っている。
「それで、毒が入っていないとあなたが考えた二つ目の理由なのですけれど……ああ、どうしようかしら」
緋簾葦が綺麗な形の顎に手をやり、少し撫でる。考えているようにも、彼女の嫌いな勿体つけた間の取り方にも見える。道化じみているが、ふざけているようには見えない。
「二つ目か。早く言いたまえ」
「まあそうなのですけれど……でもね、恐らくは皆が察しのついていたことなのです。それでありながら、誰も言わなかったこと。それを今わたくしが言うなんて、なんだか緊張いたしますわ」
「……ここには私と君しか居ないのだ。何を緊張する?」
人を殺人者呼ばわりしておいて、と言いたいところだが、緋簾葦が言い淀むのも、正直共感できてしまう。
ややあって、緋簾葦は何でもない口調で言った。
「爛道は毒なんて盛られていませんわ。とっくに死んでいるんですもの」
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