カワセミ、疾走

 緋簾葦姉さんが居ないと判明した瞬間、戸鞠先輩は膝から崩れ落ちた。余程、先輩にとって衝撃的な事実なのだろう。私にだってそうだ。私にとって、姉は神に等しい不撓不屈の人だった。戸鞠先輩も同様に姉を思っていたとするなら、あるいはそれ以上の信頼を置いていたとするなら――こうなってしまうのも無理はない。

「そんな、緋簾葦が、……」

「……先輩」

「緋簾葦が、なんで、そんな、僕を……僕は……」

 九朗伯父さんが、可哀想なものを見る目で、戸鞠先輩を見下ろしている。色々なことが起きて、おじさんも感情が追い付かなくなっているようだ。半端に開いた口は何かを言おうとしているが、肝心の言葉が何一つとして音の形をとらない。せめてもの慰めすら出て行かない。

「言いづらいことだが、この屋敷は山の頂上、つまりはほとんど崖際に立っている。山を下る道は一本しかない。だが小一時間ほど前にも言ったように、道は村人が安全確保のために見張っている……人が通れば、何かしら報告してくれるはずだ」

「……そんな」

 人が通れば言うに及ばず、緋簾葦姉さんのような清楚可憐な女性が歩いていれば、気づかない人なんて居るはずが無い。屋敷にはおらず、かと言って山を下った形跡もない。姉は、忽然と姿を消した。

「あ、あの、でも、まさか緋簾葦姉さんが……その消えちゃうなんて、私はあり得ないと思うんですけど。だってあの人が……」

 倒れた父に、死んだ燕治伯父さんや日向さんの遺体から思考を逸らして、私は戸鞠先輩に言った。先輩の肩は、見たことが無いほどがくがくと震え、床には……僅かに水滴が落ちていた。

 緋簾葦姉さんはまだ、姿を消しただけだ。死んだわけじゃない。それでも、先輩は……。

「考えられるとすれば、崖から落ちたか、我々の目をかいくぐって逃げているかの二択だ。だが今になって、我々から逃げる意味が分からない。緋簾葦くんは確かに自由人だが、常識を知らぬわけでないのだから」

「……九朗さん、あなたは姪っ子が居なくなったのに、どうしてそう冷静でいるんですか」

 先輩が震える声で九朗伯父さんに言う。だがそれは、ほとんど八つ当たりだ。私が幼いころから、九朗伯父さんは悪いことが起きると率先して責任を被り、功績は弟たちに譲る人だった。今だって、非常事態に見舞われながら、家の存続を同時に考えているに違いない。爛道――父の件はそれだけ、国の境を超えた経済圏にまで影響をもたらすからだ。下手に動いて、敵対組織や心無いマスメディアにバレてはマズい。

「――あの」

 自分の喉から、不協和音と悲鳴の混ざったような声が出た。

 九朗伯父さんが、濁った眼で私を見る。恥じを殊更に感じる。けれど、私は――。

「姉の捜索、私に任せてくれませんか」


 九郎伯父さんが気まずそうに立ち去った後、先輩はいよいよ本腰を入れて、おいおいと泣き出した。顔を覆ったままの手の隙間から涙を疑うほどの水が、雪解けの増幅した川のように流れ出す。私はどう慰めたものかも分からないのに、ただその背中を指の腹で触れるようになぞった。先輩は体温が高い。

「うっ、うっ……緋簾葦が居なきゃ、僕はダメだ、ダメなんだ……」

 先輩は何度も繰り返し、そう嗚咽を漏らした。

「そんなことはないですよ」

 私の口から出て行くのは、そんなつまらない言葉だった。

「ダメなんだ、ダメだ。僕は緋簾葦が居なきゃなんにも出来ない……」

「そんなことないです……先輩は、私を励ましに来てくださったじゃないですか。姉はそんな殊勝なことしませんよ」

「そんなの誰にだって出来るよ……僕じゃなくてもいい……僕はダメな奴だ……緋簾葦が居なきゃ……」

 正直、先輩がここまで緋簾葦姉さんに執着しているとは思っていなかった。先輩は自分で言うほど、緋簾葦姉さんが居なくてはいけない人ではない。ましてや緋簾葦姉さんは、相手に奉仕するタイプではない。ついて来られない人間は試練を課してでも振り落とすだろう。緋簾葦姉さんは獅子よりも厳しい。

 その点では戸鞠先輩は、緋簾葦姉さんのそれに振り落とされず、ついて行くだけの気概を持ち合わせている稀有な人だ。そんな人が、緋簾葦姉さんが居なければダメだなんてことは、あるはずが無い。

「先輩」

「……っ、うっ……緋簾葦の居ない人生なんてゴミ以下だ……」

「先輩……」

 私は先輩を床から引っ張り上げた。先輩は力なく私に従う。私が先輩の手を引くと、先輩の足は犬に追い立てられる牧場の羊みたくとぼとぼと歩き出した。


 私は先輩を、先輩の部屋へと連れて行った。


 先輩の部屋は、借りて来た猫が隅っこで蹲っているがごとく、来る前と何ら変わりない様相を呈している。我が一族が中国から渡来したという伝説を重要視しているからか、全体的に中華風に締められた部屋は、穏やかで重厚な朱色に艶やかな金色が僅かに差す。

 碧色の泉。窓から見える水の揺らめきは、まるで水精が水浴びをしているような美しさと神秘性を持っている――初日、私は先輩が窓でそれを見ているのを見た。その後ろから緋簾葦姉さんが現れ、二人で会話しているのも。相変わらず些かの表情も変えない鯉は、まるで緋簾葦姉さんみたいだ。不朽を思わせる烈日の美に、一体どれだけの人が心狂わせられたことだろうか。戸鞠先輩は、その一人なのだろう。たかだか鯉にあれだけ熱を上げていた先輩が、緋簾葦姉さんに心を奪われるのは当然すぎる帰結である。

「……先輩、私、緋簾葦姉さんを探そうと思っているのですが」

「うっ、うっ……え、なんて?」

 戸鞠先輩が泣いているのをやめ、顔を上げる。赤い瞳が少し馬鹿みたいだ。

「緋簾葦姉さんを探すんです」

「えー……でも、どこにも居なかったじゃないか」

 戸鞠先輩は言いながら、また絶望を感じたのか、涙声になる。もじもじと床を指でなぞる様は、かなり幼い。

「私たちが行った場所には確かに居ませんでしたけど。でも普通に考えて、緋簾葦姉さんがパッと消えちゃうわけないでしょう。緋簾葦姉さんですよ」

 あの人がそう簡単に消えるわけも無ければ――死ぬわけもない。そんなのは、人生をかけて踏みにじられてきた妹が、一番知っている。そんな簡単に消えられて堪るか。

「私は緋簾葦姉さんを探します。手伝ってください」

 プードルのようなつぶらな瞳が、私を見上げている。

 先輩は小さく、頷いた。


 即断即決、作戦行動。善は急げと言う。私は先輩の部屋の床に正座をして、先輩と向き直っている。先輩は泣きはらした目をこすりながらも、一応は私の話に耳を傾けるだけの冷静さを取り戻したらしい。

「今、僕の頭で鳴り響いているメロディがあるんだ……」

 脈絡もなく、先輩はとあるクラシックを口ずさむ。

「ヴィヴァルディの四季・夏の一節です」

「そうなんだね……緋簾葦がこの間聞いていた。そう、ちょうど四日前の午後三時に……」

 よく覚えてるものだと感心する。緋簾葦姉さんがクラシックを聴いているだけのことだが、先輩にとってはかけがえのない想い出だとでも言うのだろうか。

「窓のレースカーテン越しに、太陽の光が薄っすら差していて、緋簾葦は曇りの方が好きだから、ちょっと笑っているように見えたんだ……でも、彼女が聞いていたのが夏だったなんて知らなかったな。それにヴィヴァルディって言ったっけ? てっきりベートーヴェンかリストだと思っていたよ」

 それかショパン、と戸鞠先輩はどうでも良さそうに付け足す。先輩にとって、クラシックは緋簾葦姉さんの付随品でしかないのだ。けれど姉さんのそれならば、先輩は愛せる。

「はぁ……ダメだね。まるで葬式みたいで」

「緋簾葦姉さんは死んでませんよ。絶対そうです」

 私が強く言ったからだろうか? 戸鞠先輩は、意外そうな面持ちで見つめて来た。確かに、緋簾葦姉さんが居なくなった瞬間から強気になるのは、自分でもどうかと思う。先輩はソファの脇にあった小さな丸机の上の百合の花の形のランプを、何故だか手元まで持ってきて軸り回していた。多分、何かに触れていなければ落ち着かないのだろうけれど、その花はまるで緋簾葦姉さんみたいだ。スイッチを押すたびに、美しくやわらかに光を灯す。

「緋簾葦が死んでいない……それは確かに、僕もそう思いたい。でも彼女がこんなふうに姿を消すなんて。しかも僕に断りもなく、それがどうしてなのか僕にはさっぱりだよ。それに、どうやって行方を追うのかも」

 先輩は滔々と語る。その間も、手元のランプをカチャカチャ鳴らしていた。少しうるさいので私は注意する。先輩は粗相をして怒られた大型犬みたくしょぼくれた。

 そう言えば、昔の先輩は確かにこういう人だった。緋簾葦姉さんと一緒に居る時は、まるでその道のプロフェッショナルみたいに頼りになるところを見せていたけれども。

 それにしても、こうなると先輩はあまり当てにできないかもしれない。緋簾葦姉さんが居なければダメだという暗示が強すぎて、自ら枷をしている。

 あるいは――私が、その枷を外してやるべきだろうか。姉が居なくとも、あなたは素晴らしい人なのだと? さすがに烏滸がましいか。

 困ったことに、ノープランなのは私も同じだ。才能も閃きも無い凡人に出来ることなど、限定されている。

「……とりあえず、姉さんの部屋に言ってみるのはどうでしょうか。何かあるかも」

「うーん、僕の記憶では、変わったことは無かった気がするけど」

 先輩はそう言いつつも私の意志を尊重するつもりか立ち上がった。

 ――そう言えば、先輩は今朝、緋簾葦姉さんの部屋か出てきていた。しかも明らかに寝ぼけた様子で……まさか……。

「……先輩、まさか緋簾葦姉さんと……その、」

「うん?」

 戸鞠先輩は無邪気なまでに何もわかっていない様子である。

「……ああいえ、何でも無いです。はい」

「そっか」

 先輩は腑に落ちていない様子だが、それ以上は気にするつもりも無いらしい。私より先に部屋から出ると、扉を開けたままで待っていてくれた。


 緋簾葦姉さんの部屋は戸鞠先輩の部屋の隣、南館の最奥にある。非常階段に近いのも特徴だけれど、一応確認したところ、それらしい痕跡や姉の影は見当たらない。こんなところで見つかれば苦労は無いか。戸鞠先輩をガッカリさせたくないので、独りこっそり見たのだけれど、心なしか先輩には気づかれた気がする。

 戸鞠先輩の部屋と比べると、姉のそれはほんのわずかだが生活感を感じられた。ドレッサーの鏡が開かれていて、愛用のケア用リップスティックが横向きに置かれたままだし、持ってきたであろう化粧水等が並んでいる。白濁したあの液体は……嫌な記憶が蘇る。カーテンは中途半端に半分閉じられ、恐らくは直射日光を避けつつも暗くなるのは嫌だったのだろう。先輩は先ほど、緋簾葦姉さんは曇りの日が好きだと言っていた。今日は確かに曇りだけれど、時々だけ雲と影が薄くなる。

 生活感はあるとはいえ、汚くしている様子はない。ベッドに皴一つ無いのは、起きた後に整えたのだろう。あるいは緋色の絨毯だってよれていない。小物等を使いやすく移動させたり、自分用にカスタマイズしてはいるが、混沌ではなく秩序然としている。

「そう言えば、朝に翠華来てたよね」

 私が先ほど思い出して言いかけたことだ。先輩は今更言いだすと、不思議そうに私に振り返る。

「いえ、大したことでは……」

「でも朝から来てたじゃん。もしかして緋簾葦じゃなくて僕個人に用があるのかなって」

 全くもってその通りだった。だが大した用事でなかったのは事実である。

「……私はただ、こんな変なことに巻き込まれて、先輩が疲弊していないか、気になっただけでした」

 面倒になって、さっさと白状してしまう。別に恥ずかしがることでは、ないはずだし。先輩がくすりと笑った。なんだか安心したような笑みだ。

「そっか。なんだ。ありがとう。心配してくれてたんだね」

「心配なんて……それこそ誰だってしますよ」

「緋簾葦はしないけどね」

 先輩は皮肉っぽくニッと口角を上げる。

「落ち込んでばかりいるのも緋簾葦に笑われちゃう。というか、今頃僕を笑っているのかもしれない……うん。そう考えることにする」

「……そうですね。そうしましょう」

 あんまり緋簾葦姉さんを中心に考えて欲しくはないが、否定も出来ない。それが……少しだけ悔しい。

「緋簾葦姉さんがしていたこととか、話していたことはありますか?」

 事務的な精神にするべく淡々と尋ねる。l戸鞠先輩は斜め上の天井を睨むように見つめて、顎に手をやった。襟足がボサボサとしていて、先輩の余裕の無さを表しているみたいだ。

「……うーん、特に、僕に話してくれたことは無いかな。まず僕に足並みを揃える気が無いのが彼女だから」

「そうですか……」

「あ、でもちょっと待って」

 先輩は何かに気が付いた要津で、緋簾葦姉さんの浸かっていたであえおうドレッサーに歩いて行った。その後ろをついて行くと、先輩はやや私を気にする素振りを見せた……見られたくないものを見られるのを危惧しているような仕草だ。この期に及んで私に隠し事をする気だろうか?

「先輩?」

「……ああいや、僕の独断で緋簾葦の持ち物に触れるのはどうなんだろうってね」

 何となく、嘘なんじゃないかと思った。だって、今はそんな崇高な道徳じみたことを気にしても仕方が無い。すぐそこに火の迫っている学校で、廊下を走ってはいけないの校則を遵守しようとするのと同じだ。

 とは言え、私は違和感を指摘はしない。先輩がどうするかを、瞬きもせず見ている。先輩はドレッサーの上にまとめられていた書類の束のようなものを確認し始める。黒いクリップを外し、何枚か捲ったりした後、その一部を私に見せて来た。

「先輩、なんですかこれ?」

「それは……ええと、確か経営戦略的な、あ、いや販路拡大計画だ」

「それは見れば分かります……」

 私が聞きたいのは、そんな機密資料がどうして姉の部屋に在るのか、だ。私の記憶では、姉は父の苦心も厭わず、後釜には興味が無かった。父は燕治伯父さんの息子を差し置いてでも、堯家の筆頭を緋簾葦姉さんにしたがっていたのに。私なんて最初から眼中にも無いほど。

「インド、スリランカ、中東……鯉の販売において海外進出が盛んだとは知っていましたが、そのための子会社設立は初耳です……そう言えば、芧鏡教授もその話でいらっしゃっていたんですよね」

「らしいね。僕はそういう商業とかさっぱりだけどさ」

「そうなんですね。それで、どうして姉の部屋にこんな資料があるんです?」

 ちゃっかり話を流す気だったのだろう。先輩は私が懲りずに尋ねると、うわっとでも言う顔で、私から反射的にか仰け反った。そのまま、下手くそな鼻歌を歌うことすらできずに目を逸らす。

「先輩?」

「……僕は、全然知らないし、悪いのは全部、緋簾葦だと思うんだ」

 どうやらこの場に居ない姉に全責任を擦り付ける気らしい。姉のことを好いているのか否か。

「先輩、経緯だけでも教えてください」

「……でも僕は、本当に全然知らないんだよ……気づけば緋簾葦がこれを持っていて、僕はそれを見たってだけだ」

「気づけばっていつですか?」

 姉がこれを自宅から携えて来たとは思えない。であれば、この屋敷、鯉庭で発見し、何らかの理由で持ち出したのだ。

「それは……昨日」

「昨日のいつ、どこでです?」

「昨日の夜の……僕が見たのはここで」

 これ以上は譲歩する気が無さそうだ。先輩は緋簾葦姉さんがこれを見つけた場所を言うつもりがなく、あくまでも自分が知ったことに留めようとしている。

 ……それはもしかして、二人が一緒には部屋で過ごしたことと関係がある? 昨日の夜(日付が回っていたので、今日の深夜とも言えるが)は誰かも分からない遺体が中庭で発見され、皆が恐怖に打ちのめされた。尤も、姉と先輩は傍目には冷静に物事を捉えている様子で、それはまるで小説に出てくる助手と――。

 チラリと先輩を一瞥する。深夜のような怜悧は感じられず、むしろ朴訥とした佇まいだ。まるでスイッチを切られたみたいに。

「姉がどうしてこれを選んだのか、先輩は分かりますか?」

「どうして選んだか……?」

 先輩は考えてもみなかった風に目をぱちくりさせる。

「うーん、父親の商売が気になったからだと何となく思っていたんだけど……でも確かに、緋簾葦がそんなことを気にするなんて、ちょっと変かも?」

 この様子を見るに、先輩は緋簾葦姉さんが堯家において、どんな立ち回り役回りをしてきたかを知らない――約一年前、緋簾葦姉さんが父と言い争った挙句に家を出て行ったことを知らないのだ。

「でも、こんな状況だ。もしかしたら緋簾葦は芧鏡教授に目をつけていたのかもしれない。この場において彼は唯一、一族とは関係無い来賓だから」

「先輩も関係は無いじゃないですか」

「僕は緋簾葦の連れだもん」

「連れ……まあはい」

 二人して妙なところに拘りがあるみたいだ。昨日の緋簾葦姉さんの朝食での言動も、妙と言えば妙だったけれども、二人の間での暗黙の了解的なものがあるのだろう。二人だけの繋がりか……。

「それにしても、確かに芧鏡教授が呼ばれているのは妙ですね。今回の集いは一応セレモニーという体ですけど、私にとってはほとんど家族の団欒みたいなものと思っていました……あ、普通の家族のそれとは少し趣が違うでしょうけど」

「……そうみたいだね。緋簾葦は芧鏡教授のイレギュラーさに早くから目をつけていて、この資料を確認していた――だとするなら」

 先輩が沈み込むように、口元に手を当て下を向く。

「先輩、なんです?」

「……ああいや、例えばの話。緋簾葦が芧鏡教授に目をつけていたことが……例えば、敵にバレたとしたら……」

「姉の失踪と関係があると?」

「……分からない。でも緋簾葦は、居なくなる前に芧鏡教授と会話していただろう? あのホールで、彼女は『夕方頃には車を出せる』と教授に言った……あれは何だったんだろう……?」

 先輩が天井を仰いで何かを考えている。先輩の思考を汲むならば、姉の失踪と芧鏡教授のそれには何らかの関連性があるのだ。

「緋簾葦姉さんが仕切り始めるのは別段おかしなことでもありませんし、むしろ姉さんらしい行動だったと思います。自分以外の掌は、存在するのも許せないのですよ。逆は好きなようですが」

「そうなんだけどね……でも僕には、あれはなんだかわざとらしいような気がしてたんだ。何か含みでもあるような……」

「含み?」

 何を含ませると言うのだろう?

 先輩も、言語化に戸惑っているようで、かなり苦し気に言う。

「何らかの、パフォーマンス……とでも、言おうかな」

 私はパフォーマンスという言葉を下の上で転がして、考える。パフォーマンス……一体、何のため、あるいは――。

「誰へのパフォーマンスでしょうか?」

「……分からないよ。少なくとも僕ではなく、君でもないのかもしれない」

「だとすれば……」

 あの場で他に居たのは芧鏡教授と九朗伯父さんだ。その二人のいずれかにアピールしていた?

「芧鏡教授は舞台に上がっている側だ。観客じゃない。つまり……」

 先輩が慎重に口を切る。

「緋簾葦は九朗さんに何らかのアピールをしていたのかもしれない」

「九朗伯父さんに? でも、何のために……」

「それはもちろん……」

 先輩はドレッサーの表面を指でスーッとなぞる。ナナフシみたいに細くて関節が目立つ指は、視界に入るとそれなりに存在感を放つ。

「九朗さんが、一連の事件の首謀者なのかもしれない」

 先輩は、淡々とした口調を誇示するように言う。冷静であることを努めているらしい。だがそれは、どちらかというと私のものだ。

「……いえ、さすがにそれは」

「無い? 僕は九朗さんを良く知らないから何とも言えないけど、でも消去法で考えて、彼くらいしか居ないじゃないか。今となっては燕治さんも日向さんも死んでしまった。君のお母さんを疑うのは忍びないし、ほとんど無い線だとずっと思っていた。まさか部外者の芧鏡教授がこんなところまで来て、爛道さんに毒を盛り、遺体を紛れ込まさせ、その上で二人を殺害したって言うのかい?」

「そこまでは言ってません! そうじゃなくて……」

 何を言いたいのか、自分でもわかっているわけじゃない。けれど、先輩が言っているのは、違う気がする。

「でも九朗さんは態度がずっとおかしかったじゃないか。妙に冷静というか、場をずっと静観している……」

「冷静なのは先輩や緋簾葦姉さんも同じでした! 少なくとも九朗伯父さんだけが、おかしな行動をしていたわけでは……」

 おかしいのは九朗伯父さんに限らない。この館・鯉庭に集った人間全員が、何かしら後ろ暗さや事情を抱えているのは、私にも薄っすらわかっていた。母は父に脅されて、燕治伯父さんも同じ。ならば他の人も、同じように何かを抱えている。

「……そうだ。緋簾葦姉さんは、どうしてここに来たんですか?」

 思い至って、先輩に尋ねる。先輩は驚くが、急な質問だったからか、緋簾葦姉さんの事情を知っているからか、私には判然としない。だが、先輩が大いに逡巡を孕んで「それは……」と呟き、私には察しがついてしまった。事情を隠したほうが良いのか、白状してしまうべきか、先輩は懊悩している。

「先輩、緋簾葦姉さんは今、居ないのですよ」

「分かってる……! そんなのは僕が一番わかってるんだ」

 先輩は怒ったように言った。燕治伯父さんが焦った時の様子を思い出す。伯父さんも、急かされたり追い詰められたりすると、それが怒りとなって表れた。わかりやすい人だった。

「緋簾葦姉さんの事情を教えてください。緋簾葦姉さんのためにも」

 先輩は、私を睥睨するように見ている。先輩はこういう怖い顔をするとは思っていなかった私には、事実以上の衝撃が感じられた。ややあって、先輩はぶつぶつと釈明し始める。

「……君のお母さんと、ほとんど同じだよ。でも、爛道さんが犯人とは限らない」

「同じ? どういうことですか?」

「脅迫状を貰ったってことだ。差出人の名が無い。誰が送って来たのかを調査するために、彼女はここに来たんだ」

「……緋簾葦姉さんが、そんな……」

 まるで虎の子を得るために虎穴に入るような話だ。けれど、緋簾葦姉さんならば、あるいは――。

「僕たちは、鯉庭に集った人の中に、その犯人が居ると考えていた。だけどその矢先、爛道さんが倒れて、その後もなんだかんだと起きてしまって、脅迫状の犯人探しは流されちゃってた……僕も正直、少し忘れかけていたんだよ」

「鯉庭の中に、緋簾葦姉さんへの脅迫状の犯人が居る……ってことは、その犯人が姉の失踪に関与している可能性があるってことですよね。でも先輩は、その犯人を――」

「僕は、九朗さんが怪しいと思ってる。消去法だけどね」

「消去法……」

 テストであれば、それで良いのだ。勘やあやふやな知識より、ずっと答えである確率が高い。だが私の記憶、思い出が、それを否定する。

「私の知る伯父は、誰かを貶める人ではありません……いつも誰よりも、皆の調和を重んじる人なんです」

 そんな人がどうして、緋簾葦姉さんに脅迫状を送ったり、あまつさえ殺人を犯すだろう?

「何か事情があるのかもしれない」

 先輩はただ穏やかにそう述べる。殺人を犯す事情……犯さなければならない、か? わからない……わからない。

「何か、なんてありとあらゆる可能性を認めてしまったら、それこそ膨大に誰かを疑うことになってしまいます。先輩が九朗伯父さんを疑うことに、根拠は無いじゃないですか」

「そうだね。こんなのは推理ですらない。今の僕は、緋簾葦を追う影でしかない……」

 先輩が俯く。その口元が朧気に――笑った。

「先輩?」

「根拠がないことは認めよう。当てずっぽうで犯人当てなんて最悪だね……」

 先輩は顎に手を当て、必死に考え込むような素振りをする。

「翠華は翠華、僕は僕で、お互いに意見を保持しておこうか。僕は九朗さんを疑うけど、君までそうしなければいけないわけじゃない……そういうことで、ちょっと次に行こうか」

 少し強引だが、先輩は話を終わらせると、手に持っていた異なる資料を手渡してきた。

「これは……旧地方名士?」

「この地方を治めていた有力者の歴史がまとめられているみたいだ。民族史みたいな」

 文庫本サイズではあるが、辞書のように重厚なそれを、パラパラ捲ってみる。

 すると、とあるところでページが開いたままになった。まるでずっとこのページを開いていたかのように、跡がついてしまっているのだ。

「……これは、」

「ん、何か面白いものでもあったのかい?」

 先輩が覗き込んでくる。先輩の伸びた前髪から避けつつ、私はそのページの描かれているものを指差した。

「日向、家系図」

「……日向さんの家系図? 地方名士って、日向さんの家だったのか。ん? ちょっと待てよ……」

 先輩がまた口元に指をやって考え始める。

 日向さんがこの村出身なのは、別に秘密でも何でも無い。この家の者なら当然、私だって聞いたことがある。そもそも父が、言ってしまえば落ち目の地方に目をかけているのは、もしかしたら日向さんを気遣ってなんじゃないかと私は思っていた。こう言っては何だが、父はただの慈善事業をする人ではない。父が大切にするのは、大切にしたいものだけなのだ。例えば己の所有物や、子供、数少ない友人等。

「家系図は日向さんが末代として終わっていますね……ああいや、日向さんの代で作られたからでしょうけど」

「そうだね、初版が二十年前だ――なるほど、鯉庭建設記念で作られた書籍なのかも。これも記念品なんだ」

「記念品……なるほど、卒業式で貰える冊子みたいなものですかね。村民を中心として配られたりしたとか」

 だとするなら、それなりに特別な代物のはずだ。姉の私有品ではないのは明白である。屋敷の何処かに現存していたのだろうけれど、一体どこから盗って来た……?

「ていうか、日向さんって、兄弟いたんだな。何となく一人っ子かと思っていたんだけど」

 私の思考は、先輩の発言によって遮られた。先輩の目の先には、家系図の下方、日向さんと並ぶように表記された人物の名前がある。

「日向朱音。女性かな。姉っぽい」

「……アカネ」

 どこかで聞いたことがあって、私は確かめるように復唱する。何故だろうか、どこで……。

 ふと、記憶が蘇る。

「日向アカネ……違う。私が聞いたのは、確か、堯朱音……」

「え?」

 先輩が置いて行かれた顔をしている。当然だ。私だって、唐突に浮かんだ思い出が難破船の荷物みたくここにばらけている。氷海を漂うがごとく。

「日向朱音……この人は恐らく、父の最初の妻です」

 そして、緋簾葦姉さんの母親でもある。


 私の言葉を聞いて、戸鞠先輩は素直に驚嘆した。

「緋簾葦の……母親」

 誰にだって母親は居るものだ。かのイエス・キリストにさえ母は存在する。だが殊、緋簾葦姉さんに限っては、父の存在感が大きいからだろうか。まるでぽっかり穴が開いて、空間そのものが削り取られるみたいに、考えたことも無かった。

 だが問題はそこじゃない。緋簾葦姉さんに産みの母が居ることは、生物学上不思議でも何でも無い。問題は、緋簾葦姉さんの母親が、日向家出身で、こともあろうに執事・日向さんの姉であったことである。

「私たち姉妹と、そしてくいな姉さんは、日向さんによってほとんど一緒に育てられました。それは日向さんが堯家の執事だからだと思っていたのですが……」

「単なる執事なんかじゃなく、日向さんにとって緋簾葦は姪っ子だったわけだな。母方の姪っ子だ。そして主である爛道さんが、彼にとって義理の弟にあたる。僕たちが思っていたよりずっと、堯家と日向家の関係は深かった。それも緋簾葦を中心として……」

 言ってしまえば、主従ではなく親族だった。日向さんが執事として父に仕えてきたのは、むしろこの意味合いが強かったのかもしれない。

 けれど、この事実が一体何になるのだろう? 日向さんは元から父に対して忠義に溢れた人だった。今更、その根拠が強まったところで、「まあそうだろう」としか思えない。それに、日向さんはもう死んでしまっている。燕治伯父さんと相打ちになったのだ。燕治伯父さんは父と仲が悪かったから、父のためと思えば日向さんが燕治伯父さんと争うのも納得がいく。何もかもが予定調和だ。

 強いて言うならば、不協和音ははやり、あの中庭の遺体である。あれだけは、一体誰で、何の目的で紛れ込んだのかも判然としていない。何者かの作為を感じはするが、それ以上のことが全くの闇だ。

 突如として紛れ込んだイレギュラー――突然消えてしまった姉。なんだか対になっているように感じる。考え過ぎだろうか。

 先輩は、あの遺体をどう考えているのだろう? 私が尋ねると、先輩はまた、なんだかバツの悪そうな顔をする。隠し事をしたいのだろうが、生憎と先輩は表情を取り繕うのが死ぬほど下手だ。この人が堯家に生まれなくて良かった。

「先輩、あの中庭の遺体について、何か知っているのではないですか?」

「……や、僕は全然、誰かも知らないし……」

「誰か知っているのですか? まさかですよね」

 そんな重大事を知っていて、今まで黙っていたのだろうか。信じられないことだが、先輩はまたも目を白黒させながらそっぽを向く。

「先輩、そろそろ私、怒りますよ」

 先輩が情けなく「ひっ」と声を漏らす。私から半歩後ずさるけれど、逃げ場は無い。

「ぼ、僕は緋簾葦の言うことに従っていただけだ。彼女が正しいと思ったから。誰が敵かも分からない状況で、むやみやたらに情報を開示するのは、自分の手札を相手に見せながらババ抜きするのと同じことだ。そうだろ?」

 先輩は早口でまくし立てると、私が納得しているか心配になったのか、チラリと一瞥した。そしてすぐ、自信無さげに床を見る。おどおどしていて、まるで教室の隅っこで落書き帳に絵を描いている人みたいだ。中学生の頃の私である。

「先輩、人が亡くなっているんですよ」

「分かってるよ。だからこそだ。自分の身を守れなくちゃ、推理だってできないだろう。舞台も無しに芝居をする役者は居ない……まあいい」

 先輩はぐちぐちと零すも、聞き入れるつもりではあるようだ。拗ねた様子で、私に更なる書類を渡してきた――身辺調査、と書いてある。そして紙束の一番上には、顔写真だ。その顔、名前を確認し、私は反射的に「うそ……」と零してしまっていた。先輩が「嘘じゃない」と念を押してくる。

「遺体の身元は日向累。苗字からして日向さんの親族だろう」

「親族どころじゃありませんよ……!」

 私は古い記憶を手繰り寄せる。何を隠そう、私は遠い昔に、この人を見たことがあるのだ。

「この人は、日向さんの息子さんです。くいな姉さんの一個上の」

 子供の時に一回見かけたきりだから、ほとんど忘れていた人だ。ましてや私は、遺体発見時、遺体から目を逸らしていた。だから気づけなかった。

「日向さんの息子だって⁈ しかもくいなさんの兄だと!」

 先輩が大仰なまでに驚愕の声をあげる。

 だが、それも分かる。だって、どうして日向さんとくいなは、家族が死んでいながら何も言わないのだろう? まるで誰も気づかないことに乗じて、事実を隠そうとしたみたいじゃないか。

「なんで緋簾葦は教えてくれなかったんだ……」

 戸鞠先輩が酷く動揺している。だが私には思ってもみない言葉だったので、そちらの方が驚きだった。緋簾葦姉さんは戸鞠先輩に、日向累のことを言わなかったのだろうか? もしかしたら覚えていなかったのかもしれないけれど。

 ややあって先輩は、俯いたままの頭を小さく横に振った。小さく「なるほどね」と呟く。その顔がまた、なんだか笑っているように見えた。

「ちょっと考えたい。翠華は自分の部屋に戻ってくれないか?」

 戸鞠先輩の急な申し出に、私はうんと頷くことが出来なかった。

「え? でも……」

「僕の部屋に居てもいいよ。隣だ」

 それは知っているけれど、先輩は緋簾葦姉さんの部屋に留まるつもりなんだろうか?

 私の反応も気にせず、先輩はカーテンの方へ歩いて行った。相変わらずとぼとぼしているが……屈強な軍人が老齢となったような、微かな力強さを感じる。

 先輩は、何か糸口を見つけたのかもしれない。ならば、今はそれを信じよう。私は踵を返し、戸鞠先輩の部屋に入った。水晶に濾過されたような瑠璃色の水が麗かに揺れている。


 先輩が訪れる様子が無い。戸鞠先輩は酷く静かにしているか、全く身動きをしていないのか、はたまたこの屋敷の防音設備が群を抜いて優秀過ぎるのか知らないけれど、とにもかくにも動いている様子が無い。もしかして寝てしまったのかと、腕時計を見てため息を吐く。いつの日か、母から贈られた大切な腕時計だ。市販で売られてはおらず、完全オーダーメイドなのだと母は自慢げに語ってくれた。他愛ない昔日の面影。それなのに思い出しただけで自ずと口角が上がってしまう。母は厳しい人だが、私を愛してくれている。

 くゆり揺蕩う水面を見た後、私は立ち上がり、先輩の居る緋簾葦姉さんの部屋へ動いた。

 こんこんこん、と三回ドアを叩く。反応が無い。もう一度叩く。反応が無い。

 私は扉を開けた。零したコップの水のように、一抹の不安が脳裏に染みを作る。

 先輩は、居た。窓際で本を読んでいる。

「……は?」

 どうして、こんな時に呑気に読書タイムと洒落こんでいるのだろう? 緋簾葦姉さんが居なくなって、あれだけ泣きじゃくって取り乱していたくせに。この人が緋簾葦姉さんと張り合えるのは何となく分かった気がする。私の吐いたため息も、先輩の意識の層の一番外側にさえ触れはしなかった。

「先輩……先輩、先輩」

 何度も繰り返し呼ぶも、先輩は一向に顔をあげない。仕方なく、私は先輩の持っている小説の前に、手をぬっと差し入れて、妨害してやった。先輩が「うわっ!」と驚いた声を部屋中に轟かせる。もしかしたら廊下にまで聴こえていたかもしれない、酷く大きな声だ。

「ちょっと先輩! 耳が張り裂けるかと思いましたよ」

「張り裂けるのは僕の心臓の方だよ! ついでに心!」

 先輩は胸を大事そうにさすって、私を恨みがましく睨む。

「まったく、ノックくらいしてくれないかな」

「死ぬほどしましたよ」

「……じゃあ名前くらい――」

「呼びましたよ」

 先輩がキョトンとする。それからバツが悪そうにそっぽを向いて、「ごめん」と言った。いい大人というものは、謝れる人を言う。私はすぐに許してあげた。

「しょうがないですねえ……」

 言いながら、私の意識は先輩の持つ本へと吸い込まれた。信号みたいな真っ赤な色を基調として、金色のツルが幾重にも伸びた装丁。分厚く、重なった紙が全て、長い年月を思わせる黄みっぽい色褪せ方をしている。丁寧に扱われはしているのだろうが、如何せん古いのか、ぼろい本だなという印象が強い。

「先輩、その本は?」

 先輩のテンションが一気に上がる。この人、本好きだったんだっけ……。

「ふふふ。翠華、よく気づいてくれた。そう、これは僕のお気に入りの魔法ファンタジー小説だ。イギリスの作家が書いた児童向けの小説なんだけどね。僕はこれの大ファンなんだよ」

「児童向け……」

「いいだろ! 大人が小学生の本を読んだって!」

 内心で気にしていたのか、先輩は図星を突かれたみたいに怒った。大事そうに、本を胸に抱える。後生大事にとはこのことを言うのだろうか?

「でも今、読まなくても良くないですか?」

「今だからこそだ。テンションと集中力を上げてたんだよ」

「テンションと集中力?」

 私が尋ねると、先輩は本の表紙をゆっくりと指の腹でなぞった。よく見ると、英語で書かれている。どうやら翻訳本ではなく、きっちり原文で読んでいたらしい。偉いが偉くない。

「僕たちはこれから、とあるショーを演るんだ。分かるかい?」

 先輩の声が、重低音を奏でるバイオリンのように重くなった。先輩が何を言うかもまだ察しがついていないのに緊張感が襲ってくる。空気が一瞬で変換した。乾いた口元を唾液で濡らしてから、私は言う。

「……ショーって」

「推理ショーってやつだね。犯人当てをするんだ」

「犯人当て⁈」

 もうそこまで行っていたのか。考えたいとは聞いていたけれど、正直そこまでは期待していなかったのに。先輩は胸中に情熱を秘め隠したオリンピック選手のように、静かにメラメラと燃えている。

「九朗さんに頼んで、人を集めよう。場所はあのホールで良いか。いや……」

 先輩が机上に積まれた、他の本を撫でる。シリーズものなのか、青色と黄色の分厚い本がボンボンと積まれていて、本物の魔術書みたいだ。それら児童書の他にも、『シェイクスピア脚本集』、『みるみる上達する奇術』、『誰にでも分かる心理学』等、真面目なのだか胡散臭いのだか微妙なラインの書籍が散見される。私なら絶対に手に取らない啓蒙系の本を、大真面目な表情で会計に持っていく先輩の絵が頭に浮かぶ。どっさりと両手に抱えて。

「やっぱり、一階の談話室にしようかな。暖かいし、広いし」

「別にホールでもいいと思いますけど……」

「やだよ。やだったらやだ。ホールはあの長机が邪魔だし、なんか座る場所で偉さが決まるみたいな? あれ嫌いなんだよね」

「偉さで席が決まるの間違いですかね……」

 ともあれ、先輩の言いたいことは何となく理解できた。つまるところ、話す場所にはこだわりたいらしい。談話室なら腰かけを移動させて、各々好きな場所を選ぶこともできる。暖かいかは知らない。


 九朗伯父さんのところには、私に行って欲しいと先輩が言った。先輩はくいなさんとお茶を入れに行くらしい。お茶菓子にもこだわるつもりなのだ。どんだけだよ。

 二十分ほど経って、私は徐々に増し始めた緊張感をどう飼いならしたものか煩悶しながら、談話室に入った。動悸がしている時みたく胸がドキドキする。部屋には既に、九朗伯父さんが居て、部屋の中央ともとれる少しずれた位置に椅子を構えていた。ビリヤード台も、今は壁際に追いやられている。あるのは赤い重厚な椅子が五つだけだ。九朗伯父さん、芧鏡教授、くいな、私、母の席だろうか。生憎と母は、ここでも出席を拒否した。私が呼び掛けても、行かないの一点張りだったのだ。

 まるでマジックの見るための特別な観覧席みたいだと思う。先輩が皆を惑わせるマジシャンで、私たちが観客だ。とはいえ、先輩にはコインもトランプも必要無い。

「……よく分からないね」

 ふと、九朗伯父さんが言った。伯父さんの顔はやつれ、重力に負けて曲がった腰が、歳を感じさせる。私は流れでその隣に座った。

「私も、実はちゃんと聞いていないんです。でも……その、犯人を当ててみせると、戸鞠先輩が」

「ほう。犯人をね」

 九朗伯父さんが穏やかに髭を撫でる。先輩が疑っていたのは、この九朗伯父さんだ。

 私は未だに、伯父さんを犯人とは考えられていない。だって、そうだ。三兄弟の長男が、末っ子に毒を盛るだろうか?

 そうだ。燕治伯父さんと日向さんの件は、結局どうなのだろう?

「麻衣華さんは来ていないか」

「え、うん。私が呼んでも、来たくないって、それしか……呼んだほうがいい?」

 私の問いに、九朗伯父さんは力なく首を振る。

「いいや、要らないだろう。必要無い」

「……そっか」

 それから一分も無く、今度は芧鏡教授が顔を出した。私たちを見て、身の置き場を探すように視線を彷徨わせる。私たちから一個離れた席を選んだのは、くいなのためを思ってか、はたまた単純に距離を詰めたくなかったからだろうか?

 時刻は日没だ。黄昏を見ていると、いつも「太陽の死」だと思ってしまう。けれど、また、太陽は生き返る。何事も無かったかのように。

「夕方ですね。教授」

 九朗伯父さんが芧鏡教授に話しかけた。教授が「そうですね」と無難に答えた。

「お帰りになる予定ではないのですか」

 九朗伯父さんが話を続けた。

「……もう少し待つことにします」

「そうですか。それはよろしい」

「今後を考えると、どうしてもですね」

 私には分からない大人の会話をしながら、二人は揃ってぼんやりとしていた。

「大学の自治権はご存知ですか?」

 芧鏡教授がしわがれた声でそう言った。誰に話しかけているのかさっぱりなので、私は混乱しながら教授を見るも、教授は私には見向きもしなかった。とても気まずい雰囲気で、芧鏡教授が続ける。

「これはどこも同じだと思うのですが、大学は、極力は警察の介入を拒むのですよ。色々とありますからね。財布を盗まれたとしても、そもそも不用心にしていたのが悪い。今後は盗難など起きないよう、気を引き締め、ロッカーや研究室の鍵は都度閉めるなど、ルールを守りなさいと。被害者には泣き寝入りをしてもらう他無い。それとここは、よく似ている」

 鯉庭のことだ。芧鏡教授が溜息を吐いた。

「長生きすると、知識は増えるが、煩わしいこともまた然り。けれど、その先で手に入るものもある。手を伸ばしてしまうものだ」

「老いは判断力を鈍らせますよ。ほんの十年ほど前のあなたなら、ここには来なかったろうと私は思います」

「いいえ、そんなことはありません。研究者を全ての方向に賢い人間とお思いか? けしてそうではない……世渡りが出来ずいつまでもくすぶっている人など、私はいくらだって見てきました。繋がりは多いに越したことは無い。それが、こんな屋敷を建てられるほどの資産家となれば尚更だ……」

 芧鏡教授が一息ついた。それから東南アジアでの研究を話し始めた。

「東南アジアを股にかけた国際的な研究に携わらせてもらった時がある。数か国合同での国際プロジェクトで、予算も、日ごろの研究では見たことも無い金額が支給された。まさに、桁を見間違えているのだと何度も思った。君たちは思うだろう。余程大事なプロジェクトに違いないと。いやそうじゃない。生物の生息域や個体数の調査という、どこの地域でもよくやっている普遍的なものだった。対象も、別に絶滅危惧種とかじゃない。国を跨いでいるとはいえ、調査内容自体は平凡そのものだった。けれどつぎ込める金が多いことは、それだけ研究のしやすさにもつながる。使用する器具とか人材とかね。我が校では老朽化が進んでいるにも関わらず、それを取り換える余裕すら無いのだ。農学部に機械農業の教授が居るのだが、よく嘆いている。実験場のアップデートがもはや十年前で止まっているとね。私のところも同じだ……」

「世知辛いものですね」

「ああ、だからここに居る」

 数分待って、くいなが茶菓子を大きなトレイに乗せて現れた。目が赤い。その後ろから現れた戸鞠先輩は薫り高い紅茶とティーカップを盆にのせて、零さないよう気を遣いながら入って来た。先輩は執事やメイドには向いていないのが分かる。逆のほうが良かったんじゃないだろうか。

 母を除いて四人で囲える用の少し大きなティーテーブルに、くいなが茶菓子を配膳し、先輩がお茶を置いた。こつりと小気味よい音が鳴るが、生憎と先輩はアフタヌーンティーのマナーに詳しくない。若干置く場所に迷いながらも、くいなに指示されてようやく整え終えた。これで出鼻を挫かれたりしないと良いけれど。

 先輩は上手くやれるんだろうか。舞台袖に居られる時間は終わり、今、先輩はスッと前へ躍り出た。


「皆さん、ごきげんよう。僕は楠戸鞠。麗しの緋簾葦の連れです」

 先輩はそう言って、ひょいと小さく礼をした。今更自己紹介は要らないだろうに、先輩は大真面目でいる。

「僕はいつも緋簾葦の隣に居ますから、正直、僕の印象はかなり薄いと思います。僕がこうして皆さんの前に出て、驚かれている方もいるでしょう」

「……君のことは分かっているつもりだ。話を進めてくれないかね」

 九朗伯父さんが苦言を呈す。戸鞠先輩は不満そうに目を細めた。私はなんだかいたたまれなくて目をそらしてしまう。共感性羞恥……ではなく、ただの観察者羞恥だ。

「では、本題に入りましょう――皆さんは、自分たちがどうしてここに居るのか、分かっていますよね? そう、爛道さんを毒殺しようとした犯人を捕まえるためです。警察に任せればいいんじゃないか……と僕は言いたいところですが、生憎とここはいわゆる治外法権みたいに、爛道さんの権力でそういうのはどうとでもなる。僕たちは爛道さんを害した人間を見つけなければ、ここから帰ることが出来ない」

「だが君が、その犯人を見つけてくれたのだろう。戸鞠くん。翠華くんからそう聞いたよ」

「もちろん」

 戸鞠先輩が力強く頷いた。

 私は無性に嫌な予感に苛まれつつも、椅子から立ち上がれない。まるで尻と椅子とを糊でくっつけられたみたいに、身動きが取れない。緊張しているのだ。

「犯人は――九朗さん、あなたです」

 戸鞠先輩が、びしっと指を指す。その先は、言葉の通り、九朗伯父さんだ。

 くいなが小さく声を上げた。私もまた、声を抑えずにはいられなかった。だって、そんなはずはない。

「ついでに言うと、一連の事件は全て、あなたの犯行ですね。あの中庭の遺体も、燕治さんと日向さんも。そして今度は緋簾葦を誘拐、監禁している」

「……驚くべきことだな、そうだとすれば」

 九朗伯父さんの声は酷く重々しく、同時に苦々しい。きっと全力を傾けて反論するものと思っていた私は、伯父さんの顔を横からじっと見つめた。不躾な視線に気づいたのか、九朗伯父さんが私を見て――苦笑した。

「単純なことです。爛道さんに毒を盛れるのは近しい人物――それも彼の居室を訪れる人物に限られます。ところが爛道さんの居室は秘密通路の先にある。爛道さんが毒に倒れ、あなたがその部屋を訪れる時、あなたは『慣れている』と口走った。それはあなたが、爛道さんの部屋への行き方を慣れているという意味でしょう」

 戸鞠先輩が一息を吐く。声がかすれて、後半は少し聞き苦しかった。普段はあまり、こうも長く話したりしないのだろう。先輩は次に、と話を続ける。

「次に、あの中庭の遺体ですが、遺体の身元は既に割れています。あの人は日向累と言って、日向さんの息子でした。ところが日向さんも……これを知っていたであろう全ての人が、それを言わなかった。何故でしょう? 言えない事情があったのは明白です。その事情とは一体何か、日向さんに言えない事情と言えばすなわち、主人への忠誠です。お二人は、九朗さんが止めたから、言えなかったのです」

「……なぜ私が? 直接の主人は爛道だ」

「爛道さんは病床の身です。だから、あなたに逆らうことが出来ない。権力というのは、健康であればこそ成り立つ不可侵条約みたいなものですからね。爛道さんは今、九朗さん、あなたの管理下にある。爛道さんの指示と言われていたものは全て、本当はあなたが爛道さんにやらせたものだったのです」

「……なるほど、そうかもしれないな」

 九朗伯父さんが、また苦笑する。その笑みの意味が、私には量りかねた。伯父はどうして否定しない? まさか本当に犯人なのか?

「あの、すみません、私、ちょっと出てきてもいいですか、気持ち悪くて……」

 くいなが口元を抑えて言った。顔色は見るからに不健康な青色で、とても気持ち悪そうだ。伯父さんが優しく頷き、許可を与える。先輩も文句は言わなかった。黙って、その背中を見送った。

「一人居なくなってしまいましたが、気を取り直して話を続けましょう。あの遺体ですが、日向さんに似て小柄とは言え、成人男性一人分の重量です。池まで誰にも見られず運ぶのはなかなかスリリングだ。そこで僕は思ったのですが、中庭の天井、天窓は確か可動式でしたね。鳥対策で、開いたり閉じたりできるそうです。それを利用して……上から遺体を落とすことは可能でしょう。あの突如として現れた遺体は、既に殺されていた日向累さんを天井から中庭へ落としたものだったのです」

「……すまない。何故そんなことをするのか分からないのだが。それに何故彼を殺さなければならない?」

「それは、天井から落とすことが、最も安全な遺体の運搬方法だったからです。昨夜は嵐でしたし、中庭のライトアップもされていませんでした。夜であれば天上の有無なんて見えませんし、稼働音も掻き消されます。誰にも見られることなく遺体を処理できるということですね。そしてあなたが日向累を殺した理由ですが、それは彼に弱みを握られたからでしょう」

「弱みとね」

「はい。あなたが爛道さんを毒殺しようとしたのが、彼にバレたのです。彼は村で希少な爛道さん反対派でした。きっと複雑な家庭の事情があったのでしょう。そして彼は、爛道さんの弱みを突け狙おうと密かにストーキングしていた。その先で、あなたの犯行を知ってしまい、あなたに接触したのです。実際、彼は僕たちが鯉庭に来た時に屋敷を訪れ、父親である日向さんに追い返されていました」

「……そういうこともあったね……」

「次は第三の事件。日向さんと燕治さんが相打ちとなった――と思われている事件ですが、そもそもどうして、二人はそんなもみ合いになったのでしょう? 日向さんは温厚で、とても人と争うとは思えない。燕治さんに喧嘩を吹っ掛けられた可能性はありますが、そもそもどうして、二人は一緒に居たのか。しかも密会するように」

 戸鞠先輩がふぅとため息を吐く。

「当時の日向さんは、息子が遺体となって現れ、しかもその身元を九朗さんには隠すように指示され、混乱していたはずです。そして九朗さんを疑うに至った。その相談先が、燕治さんだった。燕治さんなら九朗さんとは手を組んでおらず、ある意味で安全と思ったのでしょう。敵の敵は味方というわけです。しかし、その直前で九朗さんは、それを見抜いた。日向さんが自らに疑念を抱いているのではないかと考え、あなたは日向さんの跡をつけた。そして彼の行き先が燕治さんであると知ると、不味いと思って二人を不意打ちしたのです。爛道さんから日向さんに贈られたというナイフを使えば、日向さんが追い詰められて燕治さんを殺してしまったのだと周囲に解釈させることが出来ます」

「贈呈品の事実を知っていたのは私だからな……」

 九朗伯父さんがそう言って、紅茶を飲む。ごくごくと豪快に飲み、カップは空になった。私は自分の冷えたそれを見つめる。飲む気にはなれない。

「そして最後に――あなたは、これらの事実を先んじて、緋簾葦に言われましたね?」

 戸鞠先輩が、極めて真剣な様子で、九朗伯父さんに尋ねた。

 果たして九朗伯父さんは静かに答える。

「そんなところだ」

「……そんな、」

 私が思わず、九朗伯父さんに言った。ほとんど悲鳴に近い声に、九朗伯父さんが私を見る。その口が、「すまないね」と動いた。

 なんで、どうして……伯父さんが、まさか、そんなはずは。

「なんで、伯父さんがパパや、みんなを……」

「仕方なかったんだよ。運命だ」

「意味が分からないよ!」

 感情を抑えられない。私はヒステリックのままに叫んでしまう。伯父さんがもう一度、すまないと言う。

「あのー、悪いんだけど、僕の話、続けてもいいかな。時間無いし」

 先輩がおずおずと口を挟んだ。私は混乱していて、言葉の返し方も分からなかった。伯父さんが真面目な顔になって「続けて」と頷く。

「いえ、僕が考えた推理はもう終わりなんですけど……今度は僕が聞きたいんです」

「君が聞きたいこと?」

「緋簾葦の居場所に決まっているじゃないですか」

「ああそれか……残念だが、私も知らないよ」

「は?」

 先輩の顔が一瞬にして怒りの相を帯びる。だが九朗伯父さんは、そんなの意に返さない風に、淡々としたままだ。

「てっきり、彼女と通じているものだと思ったが、君はどうもそうじゃないみたいだね……なるほど。君もまた、彼女に利用されたのか」

「彼女……緋簾葦のことですか」

「いかにも」

 それ以外に何者も存在しないとでも言うように、九朗伯父さんが頷いた。

「君は彼女を理解していない……私がそうであったように」

「そんなことはありません――」

 戸鞠先輩が、更に言い返そうと口を開いた。

 その時だった。

 くいなが血相を変えて、部屋に飛び込んできたのだ。

「皆さん! 早く逃げてください!」

 逃げろとは、一体どういうことだ――? 誰もが驚く中、くいなは続けた。

「火事です! 火が! 火があちこちに!」

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