ハートの女王
そこにいるだけで圧倒的な存在感と気品とを、まるで真夏の太陽のように周囲に照りつける。玲瓏華麗な女王が、静かにたたずんでいる。
これは全くの偶然だけれど、男性陣が二人の遺体を冷凍室に運ぶことになり、残されたのは私と姉とくいなだった。しかしながら、くいなは未だショックから立ち直れず、隣の調理室で泣いている声がする。
私は、姉と二人きりで会食ホールに立ったままでいる。姉が座らないので、私も座れない。何か変なことをしてしまって、何か言われるのが怖い。理由なんかない。私は、母に怒られることよりも、この人と一緒に居ることの方が怖い。
死体を見たあとなのに、何よりもまず姉に脅えているなんて。思わず自嘲的な笑みが零れそうになる。慌てて引き締めた頬の筋肉が嫌に引き攣った。
姉は私に背を向けて壁を見ている。今この瞬間なら、例えば全力で走ってナイフを突き立てたりすれば、この人は死ぬんだろうか。ナイフが腹に刺さって死んだ、血塗れの燕治伯父さん。あの人は本当に大きくて、子供の頃はなんて強い人だろうと思った。片手に大きな蛇を捕まえていたこともある。庭に忍び込んでいた山から来た毒蛇を駆除したのだったか。もう安心していいと豪快に笑っていた伯父を思い出す。
それでも、少し目を離した隙に死んでしまった。
姉はどうなんだろうか。戸鞠先輩が引き抜いた銀色に光る凶器。血で汚れたナイフ。あれが頭をチラついて、離れない。
「あなた、麻衣華さんのところには行かなかったの?」
突然だったので、姉が尋ねているのだと気づくのに、数秒を要した。
「え、あ……行って、ない」
「ふぅん。だから、こんな状況になっていても、いつもみたいに騒がないのね。静かなものだわ」
その物言いこそ、とても静かで静謐だ。先程、凄惨な死体を見たばかりとは思えないほど。大木のように、そよ風程度では揺らがないとでも言うのだろうか。たとえナイフで刺されても、この人は死なない。そんな気さえ起こさせる。
「行かなくて良いのかしら?」
「えっと……」
正直、分からない。何をするのが正解なんだろうか。
「まあ、今わたくしから目を離すのは得策ではないのでしょうね。くいなが戻って来れば別だけれど」
「それは、えっと……」
「今は誰もが、独りになるべきではない。自他共に、安全上の問題として。今この瞬間、あなたはわたくしを監視する義務を持っている」
「監視の義務……そう、だね」
あるいは、行動の担保とでも言うのか。だからこそ、遺体の運搬に三人も要している。
「でも、じゃあママは……」
「あの人は部屋に籠っているだけでしょう? それに……」
姉の言葉が、虚空に消える。何かを言いかけて、途中でやめたようだ。
「……あの、姉さん?」
「あの人が何かをできるとは、誰も思っていないのよ。しでかすかもしれないとは、思うけれどね。ドミノ倒しってあるでしょう。真ん中の駒は何もしなくても、押されるだけで次の駒を押すものだわ。あの人ってそうじゃない」
しでかす、か。姉はともかくとして、他の人からもそう思われているのだろうか。娘である私も。
「……あなた、驚くほど自分のことしか考えていないわね」
「え……」
姉が悠然と振り向く。射貫くような瞳が、私を見ている。
「責めているわけじゃないのよ。言葉の通り、驚いているの」
私のどこに、姉の驚くべき事実が存在するのだろう。それはやはり、想像を絶する愚かさとか、そういうものでないのか。
「人間って、自分に向き合おうとすると退屈で死んでしまうんですって。わたくし、楽しいことにしか興味無いの。けれどあなたは、その逆みたいね」
「逆……」
まあ確かに、私は姉の真逆だ。
「それにしても、本当に退屈ね。早く戻ってこないかしら。まあ血まみれで帰ってこられても困るけれど」
これは独り言なのか、それとも私に話しかけてきているのか。どちらにしても、姉は本当に退屈そうで、これも暇つぶしに口を開いたに過ぎないのだろう。
なら、尋ねてみても良いだろうか。答えないかもしれないけれど。
「……あの」
「珍しいわね。あなたの方から話しかけてくるなんて」
姉はそう言うと、いつの間にかズレていた視線を私に戻した。
「なに」
「……昔みたいに、しないのかなって」
「何の話かしら」
「それは、その、昔……えっと、子供の頃、姉さん、池の鯉が死んでしまった時、誰が犯人か当ててみせたでしょ、あれ」
「ああ……随分昔の話ね」
姉が顎に手を当てて、回顧するように目を上に向ける。
「忘れていたわ。思いのほか記憶力がいいじゃない」
「あ、ありがとう……じゃなくて、しないの?」
「あら、まるでわたくしに、犯人当てが出来ると確信しているような言い方ね」
別に、そこまでのことを言っているわけじゃなかった。ただ、今回の姉は、あまりにも何もしていないというか、状況を静観しているような気がしてならない。
「犯人当てはしなくても、例えば、おかしいことばっかりなのに、何も言わないから……どうして黙っているのかなって」
「おかしいことばかり、ね」
姉がクスリと笑う。やはり、何か意図を隠している。
「おかしいのはあなたの母親もでしょう? 尋ねてきなさいよ。どうしてここに来たのか。何故こうなっても帰らないのか」
「それは……聞いたよ。でも」
「答えないなんて当然でしょ? で、あなたは諦めた。その自覚さえ持たないで」
諦めた自覚さえ持たない。それが私?
「別にいいのよ。それでも。けれどわたくしがあなたに望まないのに、あなたがわたくしに望むのはフェアじゃないわ」
尤もな指摘で、心がチクリと痛む。要は自分勝手なんじゃないかと責めているのだ。
「じゃあ、ママがどうしてここに来たのか、分かれば姉さんも、何か教えてくれる?」
「それは別に要らないわ」
あっけらかんと、姉は言う。
「麻衣華さんに燕治伯父さま、彼らの理由はもう察しがついているから」
「え……」
「彼らはいつだって脱兎と同じよ。追いかけられてから、命からがら逃げるの」
それでも今回は逃げられなかった、と姉は小さく、なんの感慨もなさそうに言った。その手が何かを握りしめるように軽く閉じられる。まるで燕治叔父さんと母を、軽く握り潰してしまったように、私には思えた。
この人は。
「……姉さん」
「なによ」
姉のつまらなそうな瞳が私を見る。瞳の中の私は、怯えている。
「あなたは脱兎でもないのよね……うぅん、アナホリフクロウを思い出すわ」
「え、フクロウ?」
「ああ、フクロウと言っても九郎伯父さまとは関係ないわ。そう、アナホリフクロウの幼体ね」
どうしよう、この人が何を言っているのかさっぱり分からない。
「可愛いと可哀想って、似ているのよね」
姉が私を見て言う。そして、何故だか手のひらを差し出してきた。その手には、何故だかサイコロが一つ、ある。
「え?」
「あげるわ」
「え、サイコロを……?」
「ええ、わたくしの大事なね。使ってちょうだい」
意味が分からないまま、私の手のひらにサイコロが押し付けられた。姉が、何故だか微笑む。
「ねえ、翠華ちゃん」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます