伝説と伝統
特に理由はなく、強いて言うなら気晴らしで、緋簾葦と屋敷内を歩いてみた。一階に降りて東館に行った時、人の気配がしたので近づいてみると、談話室に栃鏡教授と九郎が居た。年配者二人でお茶を飲みながら談笑していたらしい。戸鞠たちが顔を出したことで、若干の水を差した気がしないでもない。何しろ戸鞠たちは、鯉庭の人間の中でも特に、渦中の人間だからだ。
とはいえ、顔を見せた途端に門前払いされるほどでもない。談話室の二人が屋敷の人間でも温厚なこともあって、少なくとも表面上は温かく迎えられた。屋敷の中では珍しい深紅の腰掛けで、空いている席を勧められる。麻雀等のテーブルゲームができる場でもあるのか、アンティークのローテーブルが四つの腰掛けの中央に鎮座していて、高級そうなマグカップからは湯気が立っていた。少し前に、日向が来て、いれてくれたのだと言う。フランスで有名な老舗のアールグレイだ。いい香りが部屋中で漂っている。
「戸鞠くんは、紅茶にも興味津々みたいだね」
九郎が冗談めかして言う。
「にも?」
「昨日のアフタヌーンティーでは、それは美味しそうにくいなの作ったプリンを食べていたものだから」
「あ、あはは……」
黒歴史みたいで恥ずかしいのに、同じプリンを出されたらもう一度同じことをする自信がある。学べない。人間は愚か。
「この子はなんでも美味しく食べるわ。夢喰いバクみたいにね」
「バクか。この悪夢みたいな状況も、戸鞠くんなら美味しく食べてくれるのかな?」
九郎が挑戦的な笑みを浮かべる。どう答えたものだろう? 緋簾葦をチラッと見るも、彼女はニコッと微笑んだだけで何も言わない。
「まあ、美味しい紅茶と一緒なら食べれなくも」
「あっはっは。なんとも頼もしいな。さすがは緋簾葦くんの連れとでも言うべきか」
九郎が緋簾葦に顔を向ける。
「こんな逸材、そうそう居ないだろうね、緋簾葦くん」
「九郎伯父さまのご運がお悪いだけですわ」
「そうかな。とはいえ、人と人の縁は、運によるところが大きい。あるいは人生も」
九郎が紅茶を口に運んだ。緋簾葦が柔和に微笑んで、それを見ていた。
「伯父さま、教授と何を話してらしたの?」
「藪から棒だね。なに、大したことではないさ」
「それでも気になるわ」
「研究の話ですよ」
栃鏡教授が口を挟む。彼は、あまり口が上手そうではない。
「研究のお話?」
「ええ。お嬢さまには面白くないかもしれません……しかしかまあ、あなたなら」
栃鏡教授はしわがれた声で咳を一つして、話し始めた。
「この地域では二百年ほど前から錦鯉の生産が盛んなのですが、その歴史は、未だ不明な点が多い」
「存じ上げておりますわ」
「さすがですね。突然変異で生じた色鮮やかな鯉を、当時の村人が将軍に献上したのが始まりとも言われていますが……とはいえ、その歴史は順風満帆ではなかった。言ってしまえば、結局は娯楽に過ぎないのですから。人によっては風当たりも強く、時代によっては白い目で見られた」
「戦後の食糧難や、大地震のことですわね」
「よくご存知ですね」
栃鏡が感心した様子で言う。しかしまあ、爛道の資料を盗み読んだばかりなのだから、分かるのは当然だ。なるほど。緋簾葦もまた、抜け目無い。
「食糧難の時代に高級観賞魚を育てるなど、普通の感覚では考えられないことです。特にこの地域は田んぼを用いますから」
「食べもしない鯉を入れておくくらいなら、お米を作るべきだったのですね」
「ええ。村人は他の地域にバレないよう、隠れて鯉を育てていたそうですよ。自分らも飢えで苦しんでいる中、何が彼らを突き動かしたのか……」
「至高の芸術品は、時に人を狂わせる。そういうことなのでしょうか」
「そうかもしれません」
緋簾葦が陶酔するように言ったのに対し、教授はピンと来ていなさそうな面持ちをしている。くたびれた大学の老人と、日がな絵画を愛でる令嬢では、感性に雲泥の差があるのだろう。戸鞠も絵等の芸術品には疎いので、気持ちは分かる。
「ともあれ、この地域の人間は世相にも負けず、錦鯉を作り、更には改良を続けた。だが、そこに全てを壊すような出来事が起こった。半世紀前の大地震ですよ」
「それはもう、惨い被害が出たそうですね」
「ええ……家々が跡形もなく損壊し、崖は大きく崩れ、田畑はもちろん、何がどうなっているのか判別も出来ないほどだったそうです。かく言う私も、当時は子供でしたが、未曾有の大災害だと認識していましたね」
「村人はさることながら、鯉ももちろん多くが死んでしまったのですわよね」
「はい。錦鯉は血統を重んじますから。良い親から良い鯉が産まれる。そうして脈々と受け継がれていくものが、一瞬にして台無しになった。当時においても百年以上コツコツと積み重ねてきた、一族の努力の結晶ですから、失われた絶望は、計り知れなかったでしょう。実際、それで錦鯉生産を辞める人が後を絶たなかったのです。鯉を育てないのであれば、山間のこの地域に住んでいる意味も無いと、故郷を捨てる人まで現れた。大地震の後ですし、復興は困難を極めていましたので」
「戦後の食糧難でも辞めなかった方々が、ということですね」
「そういうことになりますね。まあ、育てる場所も育てる鯉もおらず、やり直しの目処も立たなければ、そうなってしまうでしょう――ですが、そこに救世主が現れた」
堅物の教授から聞こえたとは思えない、救世主という言葉。だが、その言葉が指すものが戸鞠には予想が着いた。
「救世主だなんて、子孫のわたくしからしたら気恥ずかしいですわね」
「全くだな」
恥ずかしくはなさそうに、九郎と緋簾葦が言う。救世主とは、つまるところ堯家なのだ。
「堯家の方々は土地の修復から、僅かに生き残っていた鯉の救出、及びに新たな施設の建築等、村人に対して全て無償で行ったそうです。当時、国からも支援は行われておりましたが、いち地方の復興の全てをたった一つの一族が担うなど異例であり、村人もたいそう驚いた。何故ここまでしてくれるのかという問いに対し、当時の堯家当主は答えた」
「――ただ美しいから、鯉が」
九郎が、どこか取り憑かれたような面持ちで口を挟んだ。それから、急に我に返ったように、はははと笑う。
「子供の頃から、口を酸っぱくして言われたのです、繰り返し」
「どなたからおっしゃられたのです?」
「父上だよ。もう随分前に亡くなられた。緋簾葦くんにとっては父方の祖父だね」
「お爺さまね。正直、あまり存じ上げないわ。お会いしたことはあったかしら?」
「君は恐らく無いだろう。晩年の父上は中国におられた。そこで息も引き取られたのだ」
緋簾葦の祖父が、中国で亡くなっていた。なんだか驚くような、少し納得するような。緋簾葦からは、若干だが古代中華的な雰囲気も感じるのだ。
「あの、もしかして堯家の方って、中国をルーツとしておられるんですか?」
戸鞠が尋ねると、九郎は笑って頷いた。
「よく分かったね。そうは言っても、何百年も前の話だろうから、私たちの血はほとんど日本のものだろうけれど」
「どうして日本に来られたんですかね」
「さあなぁ……ご先祖さまに聞いてみないことには分からない――おや?」
九郎が栃鏡教授に顔を向ける。そこには、熱心にメモ帳に書き綴る教授が居た。どこから取りだしたのだろうか、そのメモ帳。
「あ、失敬。これは面白い話だと思いまして。それに大変貴重だ……」
栃鏡教授は、ここに来て初めて嬉しそうな様子だ。なるほど、教授にまで上り詰めただけのことはある。この歳でも、学習意欲が旺盛だなんて。
「ああでも、しかし、思わずメモを取ってしまいましたが、許可を取るべきでしたね。申し訳ありません。学生がこんなことをしたら注意の対象だと言うのに、私自らこんなことをしてしまうとは、私も耄碌しました」
「いえいえ、面白いと思っていただけて恐縮ですよ」
ならば、と九郎が話を続ける。
「ならば、もう少し我が一族について話してみましょうか。我が家ながら、少し変わった風習などもありますから」
栃鏡教授の瞳が、子供のそれのようにキラキラと輝く。九郎は肯定と受け取ったのか、静かに語り始めた。
「して、私の名前について疑問に思った方はおられるかな? 長男にして九郎とは、なかなか変わっていることだろう」
「あ、実は僕、ちょっと不思議で、いつか聞いてみようと思ってたんです」
九郎がニッコリ笑って「そうかね」と言う。楽しそうな様子だ。少なくとも、自分の名前を嫌っていることはなさそうである。逆に、面白い話の種くらいには考えている感じだ。
「九郎という名はね、言ってしまえばダジャレみたいなものなんだよ。うちの一族は鳥の名前に連想したものをつけるという決まりがあるのだ」
「鳥、ですか?」
予想だにしなかった動物だ。そこは鯉か、一歩譲って魚類ではないのだろうか。
「鳥なのだよ。よく分かっておらんのだが、それこそ中国にいた頃からの大事な伝統らしい。堯家に生まれた者には、種類は問わず鳥に関係する名付けをしなければならない――ところで、私はなんの鳥か分かるかね?」
九郎がイタズラっぽく尋ねてきた。先程彼が言ったダジャレということも加味すると……。
「うーん、フクロウではないんですよね?」
「半分正解だ」
「半分?」
半分とはどういうことだろう。疑問に思うまもなく、緋簾葦がぶっきらぼうな調子で言う。
「確か、黒鵜というウ科の水鳥がおりましたわね。その名の通り、黒い鵜なのですけれど」
「さすがは緋簾葦くんだね。そう、その通りだ」
九郎が苦笑気味に言う。
「ダブルミーニングと言うやつかな。だから、フクロウでも黒鵜でも正しい」
だから、三人兄弟の長男なのに九郎だったのか。もしかしたら、彼の上に亡くなられた八人の兄がいたりするのかも、なんて考えたこともあったが、そうではないらしい。いくら昔とはいえ死に過ぎだ。
「九郎さんがそれなら、他の方はどうなんです?」
「燕地は分かりやすいね。ああ、文字に書かないと分からないか。燕治のえんはツバメだから、あいつはツバメの意味を持っている。本人は少々不満なようだがね。『俺はそんな小鳥には収まらないんだ』と。ツバメは良い鳥なのに」
まあ、あの大男がツバメというのは、戸鞠からしても皮肉がすぎる気がする。そもそも鳥という感じが、あの人はしない。
「じゃあ爛道さんはどうですか? 僕はまだ、あんまりピンと来てませんけど」
「爛道か。彼はペリカンだ」
「……え? ペリカン?」
爛道という文字とペリカンが、全く結びつかない。ペリカンって、あのペリカンだよなと頭の中で疑問が数回回る。あの、白い体に黄色の長いくちばしを持った鳥のことだろうか。
九郎はおかしそうに笑って、落ち着けるように紅茶を一杯呷る。
「そうだね。ペリカンと言うと、最初は少し驚くかもしれない。だがペリカンというのは、和名では伽藍鳥と言う。伽藍堂の伽藍だ。喉に、水や食べ物を貯めておける大きな袋があるから、その名がついたのだったかな。実に大きな鳥だ」
「鳥の中では最大級ですものね。大きなくちばしで、小動物なら丸呑みにできる」
「ああ。実に爛道にピッタリだよ。父上は、生まれた瞬間に運命が分かったんだろうか……そんなことさえ頭をよぎる」
三兄弟で最も成功した爛道と、鳥の中でも最大級のペリカン。確かにマッチしていると言えばしているのか。燕治のミスマッチ具合を考慮すると、それこそ運命を見透かしていたと感じるほどに。
「なるほど。九郎さんたちの名前の由来が、よく分かりました」
とっておきのおやつを食べる時のように、戸鞠は思い切って尋ねる。
「じゃあ緋簾葦は、なんの鳥なんですか?」
「はあ……あなたね……」
緋簾葦が隣で大仰にため息をついたが、戸鞠は気にしない。九郎が試すように、メガネの奥から緋簾葦を見たが、彼女はぷいとそっぽを向いた。分かりやすく不機嫌お嬢さまだ。
「あなたのそういう鈍感なところ、少し嫌味に感じる時があるわ。緋簾葦という漢字と、読みで簡単に分かるでしょうに」
「や、めっちゃ分からん。というか鳥自体、僕全然知らないからね」
緋簾葦がまた嫌そうにため息をついた。
「アカショウビンって知らないかしら。赤い翡翠と書いてアカショウビンよ。翡翠はヒスイの他にカワセミとも読む。つまりアカショウビンは赤いカワセミを指しているの」
「赤いカワセミ……か」
カワセミと言えば、渓流の宝石とも呼ばれる美しい碧色の小鳥だ。だが緋簾葦は、翠と言うよりは赤色のイメージがある。なるほど、爛道は人の本質を見抜く才能もあるらしい。
――はずなのだが、妙に九郎が、納得のいかない顔をしていた。まるで、「あれ、自分の考えていたのとは違うぞ」とでも言うような。
「九郎さん、何か思うところでも?」
「ん、ああいや……」
「あら、なんだっておっしゃるの? 違うなら言ってくださいまし」
緋簾葦が怒ったように唇を尖らせる。それで観念したのか、九郎は奇妙な嘲笑のような、あるいは憫笑のようなものを、落窪んだ頬に内から滲ませた。
「――ヒクイドリだよ」
彼は一言、そう述べる。
「聞いたことがあります……でもなんでだっけ……」
「世界一危険な鳥としてギネス登録されている鳥ね」
「それでか」
YouTubeか何かで見たことがあったのだろう。朧気だが、鶏を巨大化させたような獰猛な鳥が、頭の奥でぼんやりと思い浮かんだ。緋簾葦っぽくは無い。何しろ優雅じゃない。
「ヒクイドリはね、全長二メートル近い巨躯に、強靭な脚力と、鋭い爪を持っている。ただの一蹴りで、分厚い鉄板を凹ませ、人体を切り裂き、内蔵を引きずり出す。ヒクイドリによって、今も毎年、人間の死亡者が出ているんだ。その上彼らは、車並みのスピードと、それを持続する体力まで持ち合わせている。恐竜みたいだなんて言う人もいるね」
巨体に強靭な脚を持つ恐竜か。ますます緋簾葦らしくない気がするけれど、しかし九郎が言うなら、という気もする。
「恐竜なんて、大昔に滅びた生き物ですし、可愛らしくもありませんわ」
緋簾葦がツンとした態度で言う。まあ、年頃のお嬢さんが「君は恐竜みたいだね」なんて言われて嬉しいはずがない。戸鞠も、自分が言われたら嬉しくない。
「まあね。だからダブルミーニングなんじゃあないかな。君の言うアカショウビンも正しい。ヒクイドリも正しい。漢字と響きで見れば誰もがアカショウビンだと思うだろう。つまりはそういうことじゃないかね?」
つまりはどういうことなのかサッパリだが、緋簾葦の方は、九郎のそれにやや納得した様子を見せる。
「なるほど。名とは大抵の場合、親の願いの賜物ですし、ならば――」
緋簾葦がなにかに気づいたように顔を上げた。
「あら、日向さん」
執事の日向が、音もなく傍に佇んでいる。燕尾服には乱れもなく、その表情にも陰りやその他隠し事のようなものは見えない。
「そろそろお茶がきれるころかと思いまして。しかし緋簾葦さまがいらっしゃるとは、存じ上げませんでした。お茶をお持ちいたしましょうか?」
「わたくし、お茶そのものはあまり好きませんのよ」
「そうでしたね。では、紅茶に合う菓子をいくつかお持ちいたしましょう」
「あ、なら僕が手伝いましょうか」
ひょいと手を上げると日向が驚いた様子で「いえいえ」と暗に要らないことを示す。緋簾葦の顔を確認すると、彼女の目が意味深に細まった。「行け」という意味だ。
「これでも僕、お菓子には詳しいんですよ。色々吟味出来ると思います。緋簾葦が好きな奴とか」
「そうでございますか。ならば甘えさせていただきましょう」
無事、ついていけそうだ。この場は緋簾葦がいれば問題なかろうし、戸鞠は日向の動向をそれとなく監視できる――少なくとも、戸鞠の前で毒をいれたりは出来ないだろう。
ややあって、日向と共に盆を携えて帰ってくると、緋簾葦たちは別の話題で盛り上がっているようだった。池の鯉の話だ。
「世界中を見渡しても、これほどの鯉が三匹同時にいることなど滅多に無いでしょうな。価値が高いだけでなく、手入れが行き届いている。いくら良い鯉を買いつけても、上手く育てられなければ、こうも大きく美しく、それでいて健康には育たないでしょう」
さすがは鯉研究に携わる教授と言うべきか。栃鏡教授が、エキサイトした様子で熱弁している。
「まあ、うちには、よく村から見に来てくれる鯉業者さんもおりますからね。彼らの厚意あってこそですよ。それに、あれらは私たちが買い付けたものではない」
「村から献上された代物でしたかな、確か」
「ええ」
興味深い話だ。戸鞠は日向を手伝いながら尋ねる。
「あの鯉、買ったものじゃなかったんですね」
「まあね。ただ、あの池には三匹の鯉を常にいれておくというしきたりみたいなものがあるから、例えば鯉が死んでしまった時は、良い鯉は無いかと打診することはあるね」
「なぜ、三匹じゃなきゃダメなんです?」
紅茶や菓子を並べ終えて、戸鞠は席に座り直す。それを待ってから、九郎は語り出した。
「我々のルーツが中国にあるのは、既に話したとおりだが、中国の伝説のひとつに『三足烏』というものがある。知っているかな?」
「えーっと」
正直、聞き覚えは全くない。どんな字で書くのかすら思い浮かばなかった。
「三本の脚をもつカラスのことなんだ。神の使いと言われ、古代中国や朝鮮地方において崇められていたと言われている。うちの一族も、どうやらその三足烏を特別に信奉していたそうでね。三足烏そのものに留まらず、『三』という数字そのものを重用しておるのだ」
まあ、三と言うのは何かしら都合のいい数字であることが多い。三人寄れば文殊の知恵、とか、三竦みとかがあることだし。
「三匹の鯉はその名残りだ……」
話し疲れたのだろうか。どこか上の空で、九郎は語り終えた。特に付け足す気もないのか、日向が新しく入れた紅茶と、戸鞠の選んだスティック型のチョコレートケーキを口に運ぶ。歳だなんだと彼は言うが、チョコレートやプリンに拒絶反応を示さないところは、まだまだ元気であるような感じがする。夕食も残していたことは無く、むしろ美味しそうに食べていた。どちらかと言えば栃鏡教授の方が、アウェイなこともあってか食が細くなっている。お菓子類にも手をつける気は無さそうだ。食欲というのはメンタルとの関係が密接である。落ち込んでいる時は無理に食べようとしても、胃が受け付けない。もちろん、緊張等、人体に影響を及ぼすこと自体に慣れていれば、それが一種の訓練となっていることもある。
「そういえば、日向さん」
唐突に、緋簾葦が切り出した。なにか爆弾を投下する気だろうなと、戸鞠は瞬時に察する。
「なんでございましょう、緋簾葦さま」
「いえ、日向さんに聞くことではないかもしれないけれど――翠華ちゃんは、あれからどうしている?」
あれから、とわざとぼかした言い方をしている。特定の話題にしないことで、日向の頭により多くの思考を生じさせる腹積もりかもしれない。多くのことを同時に処理しなければならない場面で、脳は容易に、混乱に陥る。
「……翠華さまでございますか」
「ええ」
緋簾葦がチラリと戸鞠を見た。観察しろと言っている。
「翠華さまは、今はもうお元気かと思いますよ。尤も、このような状況ですから、あまり部屋からは出てこられないようですが」
「ふぅん」
緋簾葦は、勿体ぶったように相槌を打つ。
「くいなもわざとではなかったと言えど、呼吸が出来ないのは苦しいことだわ。翠華ちゃんは最年少ですし、鯉庭内では最も弱っていると言っても過言ではありません。どうか気を遣ってあげてくださいな」
「はい、そう、ですね……」
日向の返事がたどたどしい――手が、僅かに震えている。これは、思っていたのとは違う反応だ。
「遺体発見もさることながら、大変なことばかりですわ。早く犯人を見つけなければ」
「緋簾葦くんはやる気満々のようだね。良い助手も居るようだし、これは期待出来る」
「九郎叔父さま、からかわないでくださいまし」
緋簾葦が唇を尖らせたのを、九郎が楽しそうに笑う。これだけ切り取れば、良い伯父と姪っ子だ。
ただ青ざめた日向が、足早に立ち去って行ったことを除けば。
「当たりだったな」
「そうね」
緋簾葦と部屋で話す。緋簾葦の導入は上手かった。普通の状況ではなんでもないふうに見えた執事の裏の顔が垣間見えたのだから。
「でも少し妙にも感じたな」
「そうね。動揺するのが早かった。わたくしの意図を察したからだとも捉えられるけれど」
緋簾葦の探りに早々に気がついて、それで動揺したということだろうか。それも有り得る。
だが戸鞠たちの予想では、日向は遺体の話を出した時になにかしらの反応を見せるののではないか、というものだった。
「ともあれ、何かしらで日向さんが関係しているのは確定だ。彼を問い詰めるか?」
「……そうね」
珍しく、緋簾葦が少し言い淀んだ。
「子供の頃からの仲だっけか」
「ええ」
爛道が仕事人間なことを考えると、実質的な親は執事の日向だったのかもしれない。親……親か。
「……僕だけで軽く行ってこようか。尋問なんてちょちょいのちょいだ」
緋簾葦が空気を漏らすようにふふっと笑う。
「それはさすがに、させないわ」
「一緒に来てくれる?」
「もちろん」
緋簾葦本人が言うならば、それ以上気遣うのも野暮というものだ。戸鞠は頷くと、なんとなく自身の着衣の乱れが無いか見た――すると、緋簾葦の手が伸びてくる。
「え?」
「何時も美しくね」
緋簾葦の手が、ジャケットのシワを丁寧に伸ばした。
「では、行きましょうか」
「うん」
休憩もそこそこに、廊下に出る。ふと、朝の翠華を思い出した。結局あれから、何も言わていない。接触も受けていないように思う……そもそも、あんなに朝早かったのは、どうしてだろう?
まさか、緋簾葦を避けているから? 戸鞠が単独で部屋から出てくる時を狙って――ああそうか。
昨夜の戸鞠は、緋簾葦と一緒に寝た。よって、当然ながら自分の部屋にはいなかった。それを知らなかった翠華からすれば、戸鞠がいないと思って悩んでいる間に、明らかに寝ぼけた様子で、よりにもよって緋簾葦の部屋から出てきたから驚愕したのだろう。
なら緋簾葦には悪いが、タイミングを見計らって翠華に接触する必要がある。内容によって、緋簾葦に言うか否か決めれば良いだろう。
一応、廊下に出てみたはいいものの、日向はどこだろう?
「一階か二階にいてくれれば良いのだけれど」
緋簾葦が周囲に気を配りながら言う。彼女にも、正確な居場所は掴めていないのだ。日向は執事なのだから、屋敷内で最もアグレッシブに動き回っている人物と言えるだろう。いや、一番はくいなか。ともあれ、もし爛道のところに居るなら、今すぐの接触は難しい。
「日向さんが見つからなかったらどうする?」
「……今すぐに成し遂げるべきことは無いわね」
「そっか……日向さん次第ってことね。おーけー」
ややあって、とりあえず一階と二階の部屋は全て見て回ったはず……なのだが、日向が見当たらない。あと行けるところで行っていないのは調理場関係だけだ。
「やっぱ爛道さんのとこにいんのかな」
「……」
緋簾葦が明後日の方を見て、何か考えている。戸鞠に話しかけられたことすら、気づいていないようだ。
「緋簾葦?」
「……なんでもないわ。日向さん、どこにいるのかしらね」
「もうすぐで昼飯の時間だからなあ。爛道さんは点滴だから、昼飯の準備とか無いだろうけど」
「なら、くいなの手伝いに行くかもしれないわね。食材の運搬とか」
くいなの邪魔をしたらいけないと思って後回しにしたが、もしかしたら本命だったのかもしれない。
「じゃあ行く?」
「そうね」
――その時、屋敷の曲がり角から、翠華が焦燥を満ちた様子で走ってくるのが見えた。
ただ事ではなさそうだ。
「あ、姉さん! 戸鞠先輩!」
翠華が目の前で止まる。息を切らしたまま、彼女は続けた。
「え、燕治伯父さんと、日向さんが……」
「死んだの?」
「えっ、」
淡々と尋ねる緋簾葦に、翠華は目をぱちぱちと瞬かせ、戸惑いを見せる。
「死んだの?」
緋簾葦が再度尋ねた。
翠華は、躊躇いながら頷いた。
翠華に導かれた先は、まさかの調理室外階段だった。くいなが怯えた表情で顔を背け、壁と向き合うように立っていた。
「お父さん……」
静かにそう言うのが聴こえた。震えていた。
遺体の状況は、予想を超えた凄惨な有様だ。調理室の外側である一階部分に日向が、階段を上った二階食料庫前の踊り場に、燕治が倒れている。何が悲惨かと言えば、一階の日向は二階から落ちた際に手すりにでもぶつかったのか、頭が割れて血溜まりになっており、燕治は腹にナイフが刺さっている。ナイフを抜いたわけでもないのに血が周囲に撒き散らされているのは、刺さったまま動いたからだろうか。殺人鬼から逃げようと、最後まで足掻いたのかもしれない。けれど無駄だったみたいだ。
「雨が降ってなくて良かったな。綺麗に残ってるじゃないか」
「そうね。綺麗かはさておき」
別に芸術的観点から綺麗と言ったわけではない。だが一メートルほど離れた後ろにいる翠華までもが「きれい……?」と、怪訝に呟いているのが聴こえた。なんだか変な奴だと思われた気がする。
「ていうか、何も二人一緒に消えなくてもいいのにな。テトリスみたいだ」
「テトリスは四つでしょう。二つじゃ消えないわ」
「ああ、テトリスじゃなくてぷよぷよだった。玉の話じゃなくて、連鎖決める感じが」
「あなたは例えが下手ね。壊滅的に」
それにしても、燕治はともかく日向が死んでしまった。重要な手がかりを持っていたであろう日向が。しかも、これは一体、どういう状況で死んだのだろうか?
とりあえず、あまりグロテスクでない方を観察してみる。ナイフが刺さっている燕治だ。
「ナイフのグリップが汚れてるな。血かな」
「小石もついてるみたいね……まるで地面に着いた手で握ったような」
「指紋は無いだろうな。手袋もせずに殺人をする頭脳がマヌケな犯人は居ない」
「というか……」
緋簾葦が階段下の日向の死体を見下ろす。
「まるで、もみ合った跡みたいだわ。日向さんが燕治叔父さまにナイフを刺して、燕治伯父さまは最期の力を振り絞って日向さんを突き飛ばし、日向さんは階段から落ちた」
燕治の死体から離れ、戸鞠も日向の死体を見下ろす。日向の手には手袋があった。執事用の黒手袋だ。土や小石等で無惨に汚れている。
「まあ、そうなるかな? 要は相打ちってことだ」
「けれど、断定するのは早計ね」
緋簾葦が冷ややかな眼差しをする。下の方で足音が二つ聴こえてきていた。慌ただしくも、年寄り特有の重さ。栃鏡と九郎のものだ。
「死体検分はここまでね」
「ああ、人間観察とシャレこもう」
現場に到着した二人は、まず日向を見てそれなりの動揺を見せる。それから視線は上階の緋簾葦や戸鞠に向き、二階に何があるのかと考える。二階に駆け上がった二人は、血まみれの燕治を見て、目を見開き驚愕する。一歩後ずさった九郎に、思わず口元を押さえた栃鏡教授。体の芯が無くなったみたいに、よろよろとよろめく老人二人は、手すりに捕まって自身の体を支えようとし、下の日向に気がついてまた後ずさった。
「こんな……こんなことが……燕治……」
「有り得ない、有り得ない……」
なるほど、見た目には二人ともショックを受けているように感じられる。とは言え、人間には俳優なんて職業もある。
「それにしても、最初に見つけたのは誰? くいな?」
緋簾葦の問いに、翠華が頷いた。
「あ、うん」
「なぜ、翠華ちゃんはここに居るのかしら?」
「それは、えっと……」
言いづらいことでもあるんだろうか、翠華があからさまに口ごもる。
「当ててみましょうか」
「え、あ……」
「居づらかったんでしょう? 麻衣華さんのところに」
「……うん」
喧嘩をしてしまったと、翠華が呟く。あの母親のことだから、何かキツイことでも言ったに違いない。怒られた、ではなく喧嘩なのは、翠華が言い返したからだろうか。この気の弱い女の子が、あの母親に何かを言うなんて、想像がつかない。余程のことがあったのか、はたまた状況のせいか、どちらだろう?
「邪魔になるかもしれないとは思ったけれど、一人にはなりたくなくて……そうしたら偶然、くいなさんが悲鳴を……」
翠華の声が震える。思い出したのだろうか。
「あなたが来た時、既にこうなっていたということ?」
「うん……でも、ほんの少しでも、数秒でも早く来ていたら……」
燕治の血が、今や階段の端まで広がり、小さな滝みたいに下へ流れ落ちている。数メートル下でボトボトと土の鳴る音がして、まるで雨が降っているみたいだ。昨日の雨は酷かったなんて思い出す。ぬかるんだ土は、乾く兆しすら見えない。
「くいなは……今は話を聞ける状況ではないわね」
今にも泣き出しそうだった様子を思えば、建設的な話が出来るとは到底思えない。今はそっとしておいた方がいい。尤も、父親を殺人で亡くした娘に、どれほどの時が必要なのかは皆目見当もつかないけれど。その上、死体は酷い有様と来ている。
そういえば、緋簾葦にとっても日向は父親のようなものだ。本当の父親が病に倒れても冷静でいたので大丈夫だろうとタカをくくっていたが、それとこれとは話が別だったりしないだろうか。緋簾葦をそれとなく見てみても、普段との違いはよく分からない……分からない。晴天だろうが曇天だろうが、牡丹は凛と咲いている。
どうするべきか考えていると、ふと九郎が、老体をよろめかせながら燕治に近づいた。足元の血溜まりに踏み込まないよう注意した上で、九郎は燕治の腹のナイフを指さした。
「それは……そのナイフは、日向のものだ」
「それは本当ですの?」
九郎が緋簾葦をキッと睨む。
「嘘などつくものか……! それは日向が、爛道に仕えることになった折に、爛道から日向へ贈られたものなのだ。この世に二つとない特注だ」
九郎がさらに、ナイフの刃の部分を指さす。
「鯉の彫刻がある。みねの方だ……」
もう血も出きったろうと、緋簾葦の代わりに戸鞠がナイフを抜く。じゅぷっと若干溢れはしたが、やはり吹き出したりはしない。ナイフには確かに、運慶のように見事なまでの鯉の彫刻が彫られていた。線の一本一本に血と冷えた人間の脂が入り込み、汚らしくなっていることを除けば。
「まあ、本当ね」
「作るのに数ヶ月かかったと、若い頃の爛道から何度も聞かされた。その度に日向が説明のために見せてな。間違いない……」
「……日向さんは、爛道から贈られた大切なナイフを、凶器に使ったということ? あまり、あの人らしくない気がするわ」
「日向は常に、懐にこれを入れていたのだ。だから、例えば咄嗟に武器を取り出さねばならん事態になったとすれば……」
「燕治伯父さまに襲われた時ということかしら」
「……私にとっては二人とも家族みたいなものだった。だからこそ言える。日向が先に手を出したとは思えない」
たった二日程度も無い短い付き合いだが、日向とは一緒にお茶を入れたりと仲良くさせてもらった。何かしらの秘密は抱えていたようだが、演技でもなくいい人ではあったろう。逆に燕治とは、壁に叩きつけられたり皮肉を言ったりした。いい思い出だ。今でも腰骨が痛い。めっちゃ痛い。緋簾葦にさすってもらうの忘れた。
「わたくしも、それには同意見ですわ。体格的にも、大柄な燕治伯父さまに対し、小柄な日向さんでは、猫とネズミですもの」
「……えっと、つまりは事故って、こと?」
翠華が恐る恐る口を挟む。
「結果的には、その可能性が高いということ。けれど……」
緋簾葦が目を細めて、燕治を見る。言葉の先を、戸鞠が言う。
「そもそもどうして、この二人は一緒に居たんだろうな。しかもこんな外階段じゃ、まるで人目を避けて密会しているみたいじゃないか」
「そうなのよ」
その上、タイミングが最悪だ。緋簾葦と戸鞠が日向を探していた時に、先回りするみたいに死んでしまうなんて。
「――ともあれ、死体の前でお喋りなんてゾッとしないわ」
緋簾葦がら「九郎伯父さま」と、彼に向き直る。九郎は少し臆した様子で、緋簾葦から少しだけ後ずさった。
「なんだね、緋簾葦くん」
「場所を変えませんこと? それに日向さんと燕治伯父さまの遺体も、どうにかしないといけませんわ。野ざらしだと腐ります」
「そう、だな……」
最初の遺体――日向累の遺体は、防腐のために冷凍室に入れてある。ならば、この二人もそうなるだろう。問題は、誰がこんな血まみれ遺体を運ぶかだが。
「僕がやりましょうか」
「え、 ……君がかね」
信じられないものを見るように、九郎が戸鞠を見る。仕方ない。汚れ仕事以外の何物でもないのだから。
「そうですね、後で着替える猶予をくださるなら」
「そうか……しかし、その」
「あら、この子が死体の偽装でもすると、九郎さまはおっしゃるの?」
「そうでは……いや――そうかもしれん」
九郎の疲れた瞳が、戸鞠を捕らえる。
「正直に言う。私は……君たちを信用出来ない」
「あら……」
「これまでも君たちは、私たちに話していない行動が多いように思える。ずっと反省していたのだ。君たちを君たちだけで放置していたことに」
「ふぅん」
緋簾葦が意味深に相槌を打つ。その声が少し笑っていることに、気づいたのは戸鞠だけだったろう。
「九朗伯父さま、やっとその気になりましたのね。おっしゃる通りですわ。これからは相互監視が必要と存じます」
「ああ……この事件も、もしかすれば……第三者の犯行の可能性がある。爛道に毒を盛った人間なら、事故に見せかけて誰かを殺すことも、するかもしれない」
誰もが思っていて、誰もが言わなかったことだ。九朗は重々しく言うと、静かにため息を吐いた。後ろの方で、芧鏡教授が「もう嫌だ」と呟いたのが微かに聞こえた。
「燕治と日向の遺体だが、運搬は私と戸鞠くんで行おう。元より一人では大変な作業だ」
いいね、と九朗が戸鞠に言う。戸鞠も異論はないので、「はい」と言った――ところだった。
「……私も行く」
そう、芧鏡教授が言った。
「私も行かせてくれ」
「しかし教授……遺体の運搬ですぞ。教授がすることでは……」
「全くだ」
栃鏡教授が苛立たしげに言う。これまではずっと年相応に落ち着いていた彼も、追い詰められているのだ。
「ふぅん、ならお任せいたしますわ……」
緋簾葦がつまらなそうに述べ、後ろで震えていた翠華に向いた。
「翠華ちゃん、わたくしたちは中で待ちましょう?」
翠華が黙って頷く。その手を緋簾葦が取って先導した。
「……燕治」
九郎が小さく呟いた。虚ろな瞳をしていた。
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