天国への階段

「おい! 緋簾葦! どういうことだ!」

 廊下に二人で出た瞬間、掴みかからんばかりに戸鞠が尋ねると、緋簾葦はひどく不愉快そうに顔を顰めた。

「静かになさい」

「静かにできるか馬鹿――」

「は?」

 緋簾葦が凍るように冷たい目で戸鞠を睨む。

「あなた、今わたくしを愚弄したのかしら」

 身体中の肌を、スーッと冷たいものが走る。胸の中で鼓動が弾けるように鳴り始めた。

「いや、僕は……」

「していない。そうよね?」

「…………まあ、うん」

「よろしい」

 別に満足を覚えるでもなく淡々と、緋簾葦は戸鞠に告げる。激情を飼い慣らしたハートの女王は、何にも増して強いらしい。

「あなたの疑問、答えるわ。わたくしは何もやっていない」

 本当だろうな、と尋ねる気にはなれない。戸鞠はただ、彼女が続けるのを待った。

「わたくしは早い段階で、翠華のアレルギーとなる食材が夕食に紛れていることに気がついた。そうね。スープを見た瞬間に気がついた。これアーモンドじゃないかしらって。他の人が気づかないのが不思議でたまらなかったわ。けれどそうね……神からの采配とでも言うのかしら」

 だがそれを、翠華が口に入れるまで言わなかったのは、やはり――。

「利用できると思った。燕治伯父さまと麻衣華さんがどう仕掛けてくるのか分からなかったから、わたくしが何もしないことで、むしろ混乱を引き起こせるならちょうど良いとすら思った」

 これで終わりだと緋簾葦が戸鞠を見据えた。

「失望したかしら?」

 冷や汗が額を流れる。

「……いや」

「本当? わたくし、運が悪ければ妹を殺すところだった」

 それでもか、とまでは言わず、緋簾葦が黙って戸鞠を見つめる……どうしてなのだろう。

「それでもだ」

 物事には順序がある。初めは高すぎるハードルも、低いところから順番に超えていくことで、乗り越えるのが容易になるのだ。

 果たして、これは何番目のハードルだろう?

 ややもすれば、もう自分は終わりに近いところまで来ているのかもしれない。

「そう……良かった」

 緋簾葦が小さく笑った。


 できる限り早く、部屋に隠されたであろう毒を回収せねばならない。麻衣華は足止め出来ても燕治は、いつ来てもおかしくない。

 幸いこちらは、緋簾葦と戸鞠の二人がかりだ。二人もの人間が存在すれば、いかようにも役割分担は出来る。オマケに二人は、そういったことに慣れている。

「どこに隠すかな」

「誰がいつ隠したかによるわね」

 いつ、はもちろん自分たちが留守にしていた時だ。となると、三時のおやつの時になるだろう。

「麻衣華さんはやらないだろうな。なら燕治さんか」

「あの大男が?」

「麻衣華さんはやらないだろ。絶対無理だ」

「麻衣華さんがやったとは言っていないわ」

 緋簾葦の話が上手く見えない。いや、まさか……。

「翠華がやったって言わないだろうな」

「そのまさかよ」

 緋簾葦は涼しげに言う。

「ならばわたくしの部屋かしら」


 戸鞠の客室には目もくれず、緋簾葦は自身の部屋を開け放つと、ぐるりと部屋中を見渡した。壁の絵画、モニターテレビ、深紅のラグ、揺れるカンテラ、二人掛けのソファ、腰かけ、シングルベッド、窓際の花瓶、白い花。

「さて、どこかしら」

「……あの、マジでほんとに翠華がやったと思ってんの?」

「麻衣華さんがやらせたんじゃない?」

「母親が娘にやらせるかな」

「試練なのよ。それくらいできなくちゃ」

 緋簾葦が淡々と「わたくしに勝つには」と続ける。戸鞠も「確かに」と言った。

「だけど、燕治さんがやった可能性は普通にあると思うけど。確かに燕治さんは大きいし動けば目立つが、人目が無いときであれば関係ない」

「そうね。けれどね、わたくし見ているのよ……アフタヌーンティーの前だったかしらね。会食ホールの隣に調理場があって、調理場には外付けの階段があるのよ。階段と言っても、くいなや日向さんが使うダストシュート用のね。料理をすれば生ごみが出るでしょう。後は食材の搬入にも使うって聞いたかしらね。燕治伯父さま、その階段の手すりに寄り掛かって葉巻を嗜んでいらしたわ」

「アフタヌーンティー……三時のおやつの時間に、燕治さんは調理場の階段に居た?」

「ええ。あなたと言えばプリンに夢中になっていて、状況把握を疎かにしていたわね。わたくしが見ていたから良いのだけれど」

「くっ、プリンめ……」

「調理場は会食ホールとの扉の他に入り口は無いから、燕治伯父さまはわたくしたちより先に会食ホールを通って調理場に行き、外の階段で葉巻を吸っていたことになる。そして、わたくしたちは会食ホールで彼とすれ違ってはいない……考えられる可能性は二つ。燕治伯父さまはわたくしたちよりも後にあの場を後にしたか、あるいは外を歩いて玄関から館内へ戻ったか」

「後者だと遠回りだな。空気を吸いたかったとかなら別におかしくないが」

「確かにそうかもしれないけれど……あなた、気づかないかしら」

 そう言って、緋簾葦が窓の外を指差す。何があるだろうか……あ。

「雨だ。それに雷も」

 でしょう、と緋簾葦が怪しく笑う。

「だからあの時、わたくし思ったのよ。『こんな天気で雨風の吹く外階段に行くなんて、そんなに葉巻って美味しいのかしら』って」

 こうなると、少なくとも燕治が戸鞠たちの部屋に来るのは無理がありそうだ。もし来ていたとしたら、きっと靴の裏の泥が今も床に残っているだろう。だが、一つ引っかかることがある。

「……くいなさんは、燕治さんに気付かなかったのかな」

 緋簾葦は「さあ?」と肩をすくめる。

「気づかなかったのかもしれないし、ただ単にわたくしに話さなかっただけかも」

「ふーむ……」

 あとでくいなに確認する他無いか。今は毒薬を探さなければ。

 翠華が毒薬を隠す役割を担ったとして、彼女ならどこにするだろうか? 現在、アレルギー反応に苦しんでいるであろう彼女は……。

「翠華ちゃんは、あまり利口じゃないのよね。それに覚悟も無い」

 車中同様、辛辣な評価を下しながら、緋簾葦は部屋の中を歩き出した。

 そして、その目が一点を見据える。白い花が咲いている花瓶だ。昼に水を変えたから、嵐が嘘なくらいに凛と咲いている。

「……あの花、確かカトレア」

 緋簾葦がどこか上の空のように呟く。彼女の後ろに、戸鞠も続こうとした。

 その時、廊下から怒鳴り声が響いた。

「緋簾葦! どこに行った!」

 燕治だ。緋簾葦たちが居ないことに気が付いて、探しに来た。

 緋簾葦が戸鞠に振り返る。その眼が抗いがたい光を放っている。

「行きなさい。ほんの少しで構わないわ」

「わかった」

 戸鞠は頷いて、扉へ向かう。もう扉一枚隔てた向こうに、こちらに踏み込まんとする大男の気配がする。

 覚悟を決めて、戸鞠はノブを捻った。

「どうも〜、こんにちは」

 戸鞠の呑気な様子に意表をつかれたのか、燕治がピタリと止まる。姪である緋簾葦相手ならいかようにも威張るつもりだったろうが、腐っても今朝が初対面の戸鞠には、他人に対する線引きがあるに違いない。もちろん、戸鞠は緋簾葦の仲間なので、彼からすれば敵だとは思われているだろうが。

 実際、燕治の同様は数秒でもなかった。すぐさま目的を思い出した彼は、烈火の怒りを瞳の火事場にくべ治す。戸鞠は背が高い方の小さな自負があったのだが、彼の前では赤ちゃんの気分だ。

「緋簾葦の連れだったか。今すぐ退け」

「無理ですよ。緋簾葦、今着替え中ですから。女性の裸を覗くつもりですか? しかも姪っ子の?」

「ゴミみたいな嘘をつくんじゃない! 風呂の前に着替えるバカがいるか! それに姪っ子だなんて、考えたこともない!」

「さっきシャワーを浴びたところなんですよ。毒だなんだと騒ぎになっているんですから、身の清潔さに気を配るのは当然でしょう?」

 言いながら、そういえば燕治は、荷物の運搬用の外階段で葉巻を吸っていたという話が頭をよぎった。すかさず彼の靴を見る。

 ――泥で汚れている。

 これはチャンスだ。

「あれれ? 燕治さん、もしかして外を歩いたんですが?」

「は、いや、」

 これまでに見たこともないほど、燕治の厳つい目が白黒し始めた。何かある。

「靴が泥んこになってますよ……でも服は綺麗ですね」

 なるほど、着替えたのはこっちだったか。なぜかは分からないが外を歩いた彼は、嵐で全身が汚れて服は取り替えたものの、靴は替えが無かったのだ。

「どうして外に行ったりしたんですか? こんなに酷い天気で?」

「それは……」

 燕治が突発的な会話を苦手とするのは、早朝の緋簾葦とのやり取りで分かっていた。その場での頭の回転が遅いタイプなのだろう。戸鞠も彼に似たタイプではあるが、彼よりは大分マシのようだ。

 だが、あまり頭が回らない相手を虐めすぎても、それはそれで良くないらしい。緋簾葦なら、こういう加減が上手いのだが、生憎と足止め係は戸鞠だ。

 気づけば「うるさい!」という癇癪を起こした子供みたいな、それでいて死ぬほど可愛らしくない怒号とともに、体が壁に激突していた。受け身も取れず、顔から壁に突っ込んだ。地球には重力があるので、瞬く間に今度は床に全身が強打される。痩せ型で脂肪のクッションも無い身体は、全ての衝撃が骨へ直接響く。平たく言って、死ぬほど痛い。戸鞠は声も出せず、その場で死体みたくなっているしかなかった。特に骨盤の出っ張ったところが、ヒビが入ったんじゃないかとすら感じる。

 だが、時間稼ぎは出来たはずだ。

 緋簾葦なら、世界中の誰よりも上手く、さっきの瞬間を使える。

 果たして、聞こえてきたのは、緋簾葦の穏やかな声だ。

「あら、さすがの伯父さまでも、やっていい事と悪いことがあるのではなくて?」

「なっ……、おまっ――」

 瞬間、燕治が慌てたような音が振動とともに大きく響いた。

「出ていってくださいまし。わたくし、さっきシャワーを浴びたところですわ。着替え中に部屋に入ってくるなんて、殿方のすることかしら」

「は、」

「出て行ってくださいまし」

 有無を言わさない緋簾葦の、その姿も見えないのに、戸鞠は思わず笑みを零した。そうだ、彼女はいつだって戸鞠の予測を超えてくる。

「分かった」

 燕治が重々しく言う。負け犬顔でも拝んでやろうかと、戸鞠は軋む体を無理やり動かして床を這う。まあ多分さすがに折れてはないだろうし、緋簾葦が慰めてもらえば大抵の怪我はどうでも良くなるものだ。なでなでしてもらっちゃお。

 開けっ放しだったドアの隙間から、二人の影が覗いている。そろそろ立てそうだと思って、足に力を入れた。よし、立てる。

 濡れて艶やかに光る髪。体を覆い隠すように巻かれた純白のバスタオル。緋簾葦がまさしく風呂上がりの風体で、燕治の前に立っている。

「良かったですわ。物分かりがよろしくて」

 緋簾葦が柔和に微笑んだ。燕治の後ろ姿が敗北色を讃えている。でっかいばっかりの役立たずめ、やーいやーい。

 と、言いたいところだったのだけれど。 

「だが、部屋の確認だけ、少しさせてくれ」

「あら」

「一瞬で済む。構わないだろう」

 緋簾葦が頷く間もなく、燕治が動き出した。彼は――一直線に、白い花瓶の花の元へ向かった。

「ちょっと! なんなんですの?」

 緋簾葦が焦った声を出す。

「花を少し確認するだけさ」

 燕治が花瓶のところまで辿り着き、花をサッと持ち上げた。花瓶の底を見たいらしい。

 そうか、毒は、花瓶の底に隠されていたのだ。

「…………あ?」

 燕治がドスの効いた声を漏らす。

「あらら? どうかいたしまして?」

 先程までの焦りはどこへやら、緋簾葦が嘲笑を帯びた声色で言った。

「急にお花を持ち上げるなんて、お花が可哀想だとは思われないのですか?」

「……なるほど」

 化け物を見るような目で、燕治が緋簾葦を見る。

 緋簾葦は、ニッコリと微笑んで、ドアを示した。

「どうぞ、おかえりくださいまし」


「回収できたんだな」

「ええ」

 緋簾葦が奇術師のように、どこからともなく小さな小瓶を出す。白く濁った液体が、彼女の手の動きに合わせて波を揺らす。

「それが、毒か?」

「花瓶の底にあるものが、果たして普通の液体とは思えない」

 至極その通りだ。だが実物を目にして、少し思うところがある。

「燕治はなぜこんなものを所持しているんだ? 彼が犯人で確定?」

「まだ分からないわ。燕治伯父さまは狩猟が趣味なのよ。毒蛇を捕まえたりしたのかも」

「爛道さんに盛られた毒の種類は、神経毒だったな。蛇であれば珍しくない」

 戸鞠は緋簾葦の手から毒瓶を受け取った。傾けるとトロリと流れる。

「これが爛道さんに盛られた毒だったりはしないかな」

「分からないわ。わたくしたちを陥れるために用意したものかもしれないし、あらかじめ所持していて爛道にも使ったものかもしれない」

「由来は分からない、か……」

 分かったのは、なぜか燕治が毒を持っていること。それを翠華が隠したであろうこと、だ。

「……そういえば、さっき燕治さんと話した時、靴が泥で汚れてた」

「なんですって」

「靴が側面まで泥まみれだったんだ。服は新しいのに着替えたみたいだったけど。しかもそれを聞いたら、みるみる動揺した。知られたくないことだったんだ」

「あれはただの葉巻休憩ではなかったということかしら……? 何らかの理由があって階段にいる必要があり、その後、彼は嵐の中でありながら外を歩いた。一体なんのために……」

 緋簾葦が顎をさすって考え込む。

「それだけじゃないぞ。彼は、服は着替えたのに靴は替えなかったんだ。着替えは複数あるけど、靴の替えはなかったからだ。要は、滞在前には考えていなかった突発的な行動だ」

 緋簾葦が一瞬ハッとして、その後はグッと沈み込むように考え始めた。髪の先から、水がぽたぽた落ちる。

 それにしても、いくら戸鞠が足止めしたとはいえ、短い間に毒の回収、シャワーを浴びた偽装と、よくやったものだ。脱いだ衣服が床に散らばっているのは、さすがに急いだ証拠なのだろうけれども。

「ていうか、緋簾葦って今、裸じゃないよね?」

「あ、忘れてたわ」

 思い出したように、緋簾葦は両肩を抱いて寒がり始めた。え、何も着ていないんですか……。

「これ、水で濡らしただけなのよね。このまま乾かしたらキシキシしそう。シャワー浴びちゃダメかしら」

「さすがに一度戻るべきじゃないか」

「あなたがなんとか皆を言いくるめるってのはどう?」

「それでさっき痛い目見たんだよね」

 自覚するとより痛みがぶり返してくる。背面や腰の辺りは、自分だけじゃ確認が難しい。絶対に青タンになっているに違いないのに。

「ねえ緋簾葦、さっき僕さ、燕治さん怒らせちゃって。勢いで吹っ飛ばされたんだよね」

「聞いていたわ。可哀想」

「そう、僕めっちゃ可哀想なの。それで、痛いんだけど、後ろのほう見えなくて……」

 ここら辺、と戸鞠は精一杯に手で示す。緋簾葦は小さくため息をついた。

「後でね」

「やったー! じゃあ僕、代わりに髪やるよ」

「傷めたら許さないからね」


 しれっと九郎たちに合流……と思ったが、そんなわけも無かった。渋い顔をした九郎が、緋簾葦と戸鞠を見る。

「君たち……」

「九郎伯父さま、今は一体なんの時間?」

 九郎が頭を抱えてため息をつく。

「緋簾葦くん、君の方こそ妹が大変な時に何をしていたのかね」

「ご想像にお任せいたしますわ。けれど、この場に居なかったのは燕治伯父さまも同じでしょう?」

「……そういうことか」

 九郎は疲れたように明後日の方を見る。

「翠華くんは助かったよ。処置が早かったからね。軽症で済んだ」

「軽症とは?」

「現在も喉や食道が腫れて呼吸が苦しいようだが、死ぬほどではない」

「ふぅん。それは良かったですわ」

 緋簾葦がニッコリ笑う。九郎はなんとも言えない表情でそれを眺める。その目は酷く胡乱に澱んでいた。

「それが本心であることを切に願うよ……兄弟姉妹で喧嘩などするものではない。分かったね」

「ええ。よく分かりましたわ」

 鯉の意匠をした壁掛け時計が、午後十一時を言い渡す。老人は眠るのが早いものだが、九郎もまた、本当ならとっくに眠っている時間なのだろう。よく見ると、白目の節々の毛細血管が限界を叫び、全体的に黄みがかってもいる。

「さあ、もう部屋に戻りたまえ。明日の朝食は八時半に変更だ」

 緋簾葦が意味ありげに戸鞠に目配せをする。

 明日は八時まで眠れそうだ。なんて嬉しいことだろう。


 部屋に戻りシャワーを浴びる。緋簾葦は泡風呂に入りたいと駄々をこね始めたので、その手伝いもし、気づけば十二時を過ぎていた。どっと疲れが押し寄せてくる。

 ぼんやりした頭で、これからどうなるか、どうするべきか考える。毒を隠され犯人に仕立てあげられそうになった。それはどうにか回避したものの、これが最後になるとは緋簾葦も戸鞠も考えていない。

 こんなことが起こるのは、犯人に繋がる証拠や要因等が毒以外にほとんど存在しないからだ。毒を盛られた以外の何かが分からない以上は、各々で好きにでっちあげられてしまう。

 ふと思う。これでは、犯人の発見なんて困難……どころか、ほとんど不可能ではないだろうか。出来ることといえば、お互いに罪を擦り付け合うことだけ――。

「あなた、疲れているみたいね」

 緋簾葦に声をかけられ、現実に立ち戻る。

「ああ、まあね」

「さすがのあなたにもハードな一日かしら」

「そんなことはないよ。ただ朝早いのだけは勘弁だ……」

「そうね。じゃあお休み、さようなら」

「なんか酷い……」

 ネグリジェ姿の緋簾葦がベッドに腰かけて膝を組んでいる。サラサラとした質感の透けて淡いローズ色が、彼女にはよく似合っている。

 ……だが、何かおかしい。服装はいつも通りだし、髪も同じ。なら、何が違うのだろう? 場所のせいだろうか? いつもの事務所ではなく屋敷の部屋だから……?

「何よ。不躾に見て」

「なんか違うなって」

「ふぅん……」

 緋簾葦が足を組み直した。

「わたくし、今からちょっと爛道の部屋に忍び込もうと思うの」

 緋簾葦が大真面目に言う。その表情に冗談とかおふざけなんて一切見受けられない。

「……え、よく聞こえなかったんすけど」

「だから、今から――」

「今からちょっと爛道の部屋に忍び込むとか、全然聞こえないんすけど」

「来たいなら準備なさい。眠いなら寝ていて構わない」

 緋簾葦はサラリと言ってのけると、長い髪を後ろでまとめた。どう見ても本気だ。

「勘弁してよぉ」


 一人で行かせるのは嫌なので、戸鞠も仕方なく動きやすい服装に着替える。伸びる素材のスウェットなら万が一見つかっても「夢遊病です」で誤魔化せるかもしれない。緋簾葦も同様だ。

 スマホを確認する。十二時十五分だ。

「でも緋簾葦、爛道さんの部屋には、爛道さんはもちろんだけど、くいなさんか日向さんがついてるはずじゃないか?」

 人のいる部屋に忍び込むも何も無いような。緋簾葦は聞かないと説明しない人間なので、当たり前なことも尋ねないといけない。

「先程だけれど、くいなと日向さんが見回りに行くのを見たわ。二手に分かれてね。爛道はもちろん居るでしょうけれど、起こさなければ関係無い」

「起こさなければね……」

 リスキーな話だ。だが危険であることは、緋簾葦が行動を起こさない理由にはならない。

「部屋に忍び込むって話だけど、何か目的とか探すものはあるのか?」

「特に無いわね」

 つまりは爛道の様子を見に行きたいということか……なるほど。

「なにニヤニヤしてるのよ」

「や、別に」

「そんなんじゃないんだけれど」

「うんうん。分かってるよ」

 こんな問答をしていても時間の無駄だ。いくら一時間遅くなったとはいえ、やはり八時起きには今から寝ないと辛いくらいなのだから。それなのに今から爛道の部屋まで行って不法侵入して、帰ってきたら……一時は過ぎるだろう。予想していた煌びやかなパーティーは手を振って足早に去り、代わりに遅寝早起き権謀術数のハードな数日が、ニタニタした意地悪い顔で腕を組んで来る。マカロンタワー、食べたかった。


 爛道の居室は、緋簾葦や戸鞠たちのいる客室階層の上、つまりは三階にあるとのことだ。三階であり、くいなによれば屋根裏部屋みたいなものでもあるらしい。

「三階から上は全て爛道のフロアなの。まあ、そもそもこの屋敷、鯉庭自体が爛道の権威の象徴なのだけれど」

 緋簾葦が階段を昇りながら言う。もちろんヒソヒソ声でだ。

「権威か。今更だけど、三兄弟じゃ爛道さんが一番偉い感じだよな。末っ子なのに」

「才能かしらね」

 緋簾葦がなんとも言えない顔で言った。夜中とは言え、廊下や階段はオレンジ色の常夜灯がついていて明るい。隠密行動にも悪事にも、分が悪い明るさだ。月明かりなら嬉しかったのだが。

「爛道さんって、そんなにすごい人なの?」

「わたくしを見て分からない?」

 緋簾葦が冗談っぽく笑う。

「緋簾葦がすごいのは緋簾葦だからだよ」

「あなた、そういうこと言うわよね」

「そういうこと?」

「そういうこと」

 階段がミシミシとうるさく鳴く。緊迫感に苛まれつつ登りきったところで、そこは特段、変わったところなどないように見えた。

 ああいや、廊下――ではないかもしれないが、ともかく階下では廊下であった通り道が、広くなっている。いや、部屋との区切りが無いのか……?

「来たわね」

「……よく分かんないけど、爛道さんの部屋はどこだ?」

「ここ全部がそうよ」

「えっ?」

「けれど、もっと狭い書斎があるはずね」

 ああ、そうだよな、と思う。だだっ広い通路みたいな部屋みたいなエリアで、ポツンと爛道さんが突っ立っているわけもあるまい。

「屋根裏部屋……くいなが言っていた屋根裏部屋はどこかしら?」

「ここじゃないの?」

「ここは厳密には三階よ。爛道の隠し書斎や寝室に繋がる通路か何かがどこかにあるはず……」

 そうなのか。それにしても、緋簾葦もここに来たことは無いようだ。緋簾葦がキョロキョロと辺りを見渡して、周囲を観察している。

「監視カメラの類は無さそうね」

「最近のは死ぬほど小型化してるから分かんないぞ」

「そういうタイプは撮影容量が小さいわ。バッテリーも数時間しかもたない。用途の限られた隠し撮りでもなければ、普通は使わないでしょう」

「まあ、そうなんだけどさ」

 用心には用心を重ねて、緋簾葦の見落としたものが無いかを確認して回る。壁の切れ目、フローリングの隙間、天井の染み。何がどこにあるのか警戒を忘れない。

「静かだな」

「そうね」

 シンと静まり返った静謐な空間は、侵入者二人を拒みもせず存在している。

「ここってなんも無いように見えるけど、普段はなんのための部屋なの?」

「爛道が好きに使うのよ。パーティー会場に使う予定でもあったかもね」

「うわ、やりたかった……!」

 数人分の円卓があちらこちらに遍在し、その上にスコーンやサンドイッチ、色とりどりのフルーツにマカロンが並んだところを想像する……素敵!

「それにしても、ここまで伽藍道なのは、少し妙ね……パーティー用に撤去したのかしら……?」

 緋簾葦が少し考える様子を見せるも、すぐに頭を振る。今はそんな場合ではないということだ。

「あなたはそっちを探して。わたくしはこちらを見て回るわ。構造的にも、そう難しくはないはずよ。きっと目印があるはず」

「鯉の頭とかなんじゃないか」

 戸鞠はそう言って、通路の突き当たりを指さした。

 常夜灯の薄い明かりでは心もとないが、うっすらと金色に反射するものがある。それは鯉の頭のように見える。

「男の人って単純ね」


 ブラフである可能性も考慮したが、周囲の壁の空洞具合や天井の切れ目の不自然さを発見し、本命の可能性が高いと判断する。

「もし違って、サイレンとか鳴ったらどうする?」

 緋簾葦が肩を竦めて右の口角を不自然にあげた。

「走って逃げましょう」

「おーけー」

 逃走方法が雑な気がするが、結局走るのが一番なことは過去の経験からも分かっている。嵐で非常階段が封じられているのが少し残念だが、大した問題ではない。

「僕がやる?」

「どうぞ」

 鯉の頭を、中指と人差し指の腹で優しく触れる。横に動いたりはしなさそうだ。ならば押すのか。九郎や日向が使っていることを踏まえると、そう怪力も必要無いだろう。

 そっと指先に力を込める。予想通り、鯉の頭が落ち窪む。

「音がしたわね」

 緋簾葦が横の壁に触れた。確かに、カチリと錠前が外れたような音がした。緋簾葦の触れた壁が抑えをなくしたのか、一人でにふわりと後ずさる。

 緋簾葦がニヤリと笑った。珍しい笑い方だ。

「さあ、行きましょう」

「うん」

「と、言いたいところだけれど」

「えっ」

「あなたはここで見張りね」

「えーっ!」

 確かに見張りは必要だ。ごもっともすぎて反論を見つけられない。二人で爛道の部屋に入ったところで、音を立てて爛道を起こす危険性が増すだけでもある。

「しょうがないなあ……ちゃんと探索するんだぞ」

「もちろんよ」

 緋簾葦が音もなく扉を開け、出現した真っ直ぐの階段を登って行った。

 光の射す上階、果たして何があるんだろうか?

 だが戸鞠には、まるで天国への階段のように見えた。

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