カワセミ、迷い

 迷い、瞬き、嘆く。星に祈る人間ほど、無力なものは無い。

 父が倒れたと知った時、今までに感じたことの無い恐怖を覚えた。父は決して、親として出来た人ではなかったけれど、かと言って完全に他人と割り切れるほどドライでもなかった。人生のほとんどを商談に費やしているとしても、ほんの瞬く間ぐらいは家族と過ごすことがあった。その昔、大きな商談ついでだと言って、姉と私と、それから日向さんを連れてロンドンに滞在した時、これまた商談ついでだと言って色々なところを案内してくれた。後に日向さんが「あれ、実は商談なんて無かったのですよ」とこっそり教えてくれた。その時初めて、父がいかに不器用な人なのかを知った。姉は「とんだ嘘つきね」と肩を竦めていた。

 先週、父が珍しく私の元を訪れた。その時の父は、私の趣味である絵の道具をいくつか持っていて、「取引相手から偶然もらった」と言って渡してきた。あれが結局、嘘か誠か聞けないままだ。

 いつか父が、老いて仕事から身を引いた時、もっと父と話せるようになりたいと、そう考えていた。今となってはその愚かしさが身に染みる。いつかじゃない。いつだって今が大事なはずなのに。


 備え付けのドレッサーで、自分自身の顔色をぼんやり眺める。血色感の無いグレーがかった唇。持ってきたコーラルピンクのリップを軽く塗って色味を確かめながら、頭は母との会話を思い出した。

 母もまた、父のそれにはショックを受けたようだけれど、私の気持ちとはかけ離れているようだった。母が気にしていたのは、父の容態ではなく、今後についてだ。私はそれが、本当は辛かった。けれど母には言えなかった。

 それに父が犯人探しを求めたこと。それに皆が同意しているのが、私には信じられない。警察を呼んで指紋とかなんとか、色々科学的な捜査みたいなのを頼むべきではないのだろうか? だがそれは、私が他力本願な人間だから思うことかもしれない。何しろ、私以外の人間は、皆前向きに検討し始めているみたいだった。特に姉は、話を聞いた途端、先輩を伴って部屋を出ていった。その横顔は深い思慮を湛えていた。

 もの思いに沈んでいると、部屋のドアが勝手に開いた。振り返ると母が立っていたので、私は立ち上がりソファに座った。母が隣に座る。

「緋簾葦を犯人にするわ」

 母がそう言った時、自身の耳が信じられなかった。あるいは母を。

「……え? どういうこと?」

「そのままの意味よ」

「そのままって、でも……えっ?」

 緋簾葦を犯人にする、緋簾葦が犯人かもしれないではなく、するとは、それはつまり……。

「仕立て上げるのよ」

 私が考えるまでもなく、母は言った。

 言葉が出てこない。私はこれに頷かなければいけないのだろうか。実の姉に罪を着せることを。

「……翠華ちゃん。あなたが心優しいのは知っているけれど、時には鬼にならなければいけないのよ。でなければ、あの娘が何をするか分からないのだから」

「ママは、姉さんがなにか企んでいると思っているの?」

「……逆よ」

「え?」

 沈痛な面持ちで母が俯いている。その顔は、私がいつも姉に対して抱くのと全く同じものだ。

「何もしないわけが無い。この状況を、むしろ楽しんでいるに違いないわ。そういう人間だもの」

 まるで理解できない存在を恐怖するように。

「振り回されるのは御免よ。あの娘が何かする前に、出来ることなら動きを封じておかなければ」

「……そうだね」

「それに、今回は運がいいわ。緋簾葦の連れだというあの人……緋簾葦の弱点かもしれない」

「戸鞠先輩のこと?」

 思わず、素っ頓狂な声が出る。母は、戸鞠先輩を標的にする気だろうか。

「翠華ちゃん、あの方を知っているの?」

 どう答えたものか、逡巡する暇すら存在しない。

「あの人は……先輩だよ。でも、姉さんと接点があるなんて、今まで知らなかった。だから二人がどういう関係かは分からない」

「危険な人?」

 この場合の危険な人の定義は、「我々の敵たり得るか」という点にあるだろう。

「……大丈夫だよ。戸鞠先輩は、姉さんとは違うから」

「そう。なら良いのだけれど」

「うん」

 母の言葉に、いつもと同じように頷く。

 それから、体中から脂汗のごとく滲む緊張感とともに、言葉を噛み締める。

「あの、ママ。先輩は、あまり虐めないで」

 母の目が、スッと細くなる。まるで獲物を見定めるみたいだと思うのは、もちろん私の被害妄想なのだろうけれど、私は恐怖を禁じ得ない。

「……ええと、あの人、本当に普通の人だから。多分、こんなところに連れて来られて、大変な思いをしていると思うの。緋簾葦姉さんに振り回されているだけなんだよ。あの人を突っついたところで、緋簾葦姉さんが動揺したりは、しないだろうし。本当に、ただの……従者みたいなものだから」

 どうしよう。いきなりたくさん喋ってしまった。これでは焦っているのがまるわかりだ。どうしようどうしよう……どうしよう……。

 ややあって、母は静かに、笑った。うふふ、と静謐な微笑みが部屋に充ち亘る。

「そう。わかったわ」

「ほ、ほんと……!」

 良かった。本当に良かった。

 そう思っていると、スッと母の手が伸びて来た。

「あなたは本当に優しいわね」

「……そんなことはないよ」

 それは無い、それだけはない。とつくづく思う。

 だって私は、人を傷つける勇気さえもたないだけだ。そして人を傷つける勇気が無いのは、人に傷つけられるのが、堪らなく怖いだけ。傷つけるのも傷つけられるのも嫌で堪らない。弱くて弱くて。「私は何もしないので、あなたも私に何もしないでください」なんて、姉が聞いたら、まず間違いなく憐憫と嘲笑を浮かべることだろう。あなたが何もしないからと言って、わたくしがどうしてあなたに手を出してはいけないの?

 自分を守りたいだけの気持ちは、優しさとはかけ離れている。

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