開幕

 中庭での邂逅もそこそこに、屋敷の構造をサラッとくいなが紹介して、今日の予定は一通り終了という運びとなった。ちょっと不完全燃焼だが、もう陽が暮れ始めているので仕方が無い。

「ねえ緋簾葦ー、ひまー」

「消えなさい」

「動画見よっかなっとも思ったんだけどさ、緋簾葦怒るじゃん? 『無駄なことばかり』って。でも、部屋の中だとすることねえんだわ」

 携帯のキャリアは圏外となったが、WiFiが優秀なようで大抵のSNSは問題無い。急にWiFiが故障でもしない限りは、文明と繋がっていられる。

「鯉でも見てなさいよ」

「暗いし」

「頼めばライトアップくらいすると思うけれど」

「でもさあ、あんまり見てると『うわ、あの人まだ見てるよ。さすがにキモくない?』って思われるちゃうよ」

 何しろ全ての客室が中庭に向かうような作りになっている。要するに南館の客室の戸鞠は、それ以外の全館から見られ放題なのだ。お前が深淵を覗く時、深淵もなんとやら。

「はぁ、なんか腹減ったな。そういやご飯ってどうすんの?」

「今夜は各部屋に運んでくださるそうよ。メニューはくいなに聞きなさい。彼女、一年で料理も覚えたみたい」

「はえー、今夜はって? 明日は?」

「明日からは、メインホールに集まっての会食ね。顔合わせや交流を兼ねた」

「会食かあ……! やっとパーティーじみてきたな」

「あなた、パーティーに夢を見すぎなんじゃないの? そんなにいいものじゃないけれど」

 緋簾葦がうんざりした顔で言う。

「緋簾葦が飽きてるだけだろ。だってパーティーだぞ。夢の塊だ。シャンパンタワーにマカロンタワー、小皿を持って歩くウェイトレス……!」

 これから数日にわたって、煌びやかな日常を送れると思うと、興奮で身震いがする。

「たかだか十人程度の参加者で、そんなことするわけないでしょ……もっと慎ましやかなものよ。だいたい、シャンパンとマカロンが同時に存在するって――」

 緋簾葦が頭を振って言葉を切る。

「ともかくとして、あんまりはしゃぎ回らないでちょうだい――それと、極力は一人にならないように」

 忠告の意味が分からない。もっと分からないのは、緋簾葦が大真面目に言っていることだ。

「一人になるなって、なんで?」

 まさか幽霊でも出るんだろうか?

 ああいや、緋簾葦はそういうのを信じているタイプじゃなかった。じゃあ何故?

 緋簾葦はチラとだけ戸鞠を見てから、いつもより低い声音で言う。

「別に。けれど言いがかりをつけられでもしたら嫌でしょう」

「歩いただけで、なんで言いがかりなんか?」

 話が見えてこないのは、緋簾葦が核心を避けているからにほかならない。潜めるような声も、まるで誰かに聞かれるのを恐れているみたいだ。

 緋簾葦は少し迷った素振りをした。それから、急に羽織っていた上着の内ポケットから、何かを取りだした。

 手紙だ。ただ、招待状とは全然違う。本当にただの紙だ。

 それが普通でないのは、内容で理解できた。

「……緋簾葦、これは……」

「一言で言うなら、脅迫状になるかしらね」

 緋簾葦の手の手紙を受け取って、じっくりと観察する。

『緋簾葦、お前は間違っている』

『緋簾葦、お前は居てはならない場所に居る』

『緋簾葦、お前は今ある立場から退かなければならない』

『緋簾葦、堯家から消えろ』

『緋簾葦、死ね』

 五通の手紙には、それぞれシンプルにこうあった。抽象的ながら、何か一貫した目的がありそうな脅迫文だなと戸鞠は思う。その目的が何なのかは分からない。しいていえば、緋簾葦が堯家にいれば困るのだろう。彼女が、彼女の生家に。

「……緋簾葦、もしかしてお前」

「あなたにお前と呼ばれる筋合いは無いけれど――まあそうね。察しが良くて助かるわ」

 緋簾葦は一呼吸置いて、言う。

「このわたくしに喧嘩を売っている方を見つけにね」

「ふん、つまり『てめえぶっ殺してやる』ってことか」

 だがそれだけでは、疑問は解決しない。

「どうして脅迫文の犯人探しと、今回の鯉庭パーティーが結びついた?」

 緋簾葦は思い出すような目をして、タイツを履いたとした足を組みなおす。スカートの揺れる音が、緊張感を僅かに削いでくれる。

「時期がね、妙だと思ったのよ。この脅迫状がぼつりぽつりと届いてから間も無く、今度は親戚の集まる招待状が届いた……ねえ、その脅迫状は、わたくしを名指しにしているのよ。それも少ししつこいくらいに」

「そうだな。僕も、少し違和感があった。わざとだと思う」

「でしょう……けれど、わたくしは、他人から死を望まれるほどの悪業をした覚えは無い」

「ま、ちょくちょく恨みは買ってる気もするが……確かに、これは酷い。酷すぎる」

「そうでしょう……けれど他人ではなく身内ならば」

「名指しであることも、住所を知っていることにも説明がつくか」

「安易な考えだとは、わたくしも思っていますわ」

「そんなことは無いと思う。この手紙からは緋簾葦個人への直接的な恨みを感じるし、他人よりは身内の方が殺害の利害も生じやすいだろう」

 それより、と戸鞠は話を変えた。

 もっと根本的なところで納得がいかない。

「自分を殺したがっている人間の前に、ノコノコ出向いたのか?」

「『悲劇も引きで見れば喜劇』とは言ったものね。死んだら笑える」

「笑えねえよ僕は……まあいい」

 自分を納得させるための言葉だ。全然よくはないが……まあいいのだ。

「緋簾葦の事情はよくわかった。つまりは僕に、『足を引っ張る行為は慎め』って言いたいわけだな。敵がどんな風に追い詰めてくるかは知らないが、殺すという行為が文字通りの殺人であるとは限らない」

 戸鞠は静かに言葉を切り、息継ぎをして言う。

「僕も気をつけることにする――出来れば、犯人も捕まえよう」

「出来れぱではないわ。絶対」

「そうだな。そうしよう」

 緋簾葦の億劫そうな態度に、ようやく理由がついた。確かに、明日からは面倒なことになるかもしれない。

「ところで」

 緋簾葦が急に口を開いた。戸鞠はまだあるのかと、少し驚いた顔をする。

 緋簾葦は尊大に背を反らせて、戸鞠を見下ろす。

「あなた、いつまでわたくしの寝室に居るつもり?」

「出てけってね。了解。明日に備えて、お互い良く食べて良く眠ろう」

「当然よ」


 育ちの良さは生活習慣に出る。朝七時に「いつまで寝てるのよ」と緋簾葦が部屋に入ってきた。その姿は、全体的にかっちりと決めたタイトなパンツスタイルで、特に赤いサスペンダーが印象的だ。令嬢というより、お坊ちゃんである。広いホールでピアノでも弾いていそうだ。

「ねむい……」

「七時半には集まることになってる。遅刻なんてはしたないわ」

「えぇ〜、そんなぁ……」

 会食と言うから、時間には余裕があると思っていたのに。朝早いのが、この世で一番辛い。緋簾葦の顔に泥を塗るつもりは無いので、きちんと急ぐ気はあるけれども。ぼんやり気づいてはいたが、外は雨みたいだ。それも雷が遠くで鳴っている。これからもっと酷くなるのかもしれない。

 顔を洗って髪を整える。短い髪は跳ねやすいので良くない。いっそ伸ばして後ろで結わおうか? いや、毎日のシャンプートリートメントにドライヤーが死ぬほど面倒だろう。緋簾葦を見ていると、よくできるものだと感心する。

「緋簾葦、それヘアアイロンした?」

「ストレートならする必要が無い」

「だよねー」

 寝癖すら逃げていく緋簾葦のサラサラロングを尻目に、戸鞠は水をすくって思い切り頭頂部に掛けた。これにヘアオイルも着ければ、それなりにはなる……はずだ。なれ。

 昔はスウェットばかり着ていたが、緋簾葦と絡むようになった現在は綺麗めな服装を心掛けている。スラックスを履いておけば、大抵の場面はどうにかなるものだ。戸鞠はキャリーケースから黒シャツとギンガムチェックのスラックスを取り出すと、サッと着用する。

「どうかな?」

 後ろで見ていた緋簾葦に尋ねる。

「悪くないんじゃない?」

「なら良しだ」


 会食のための会場は、一階東館にある。中央階段を下りて、東側に向かって歩いていて思うのは、屋敷と言うと複雑な印象があるが、ここでは迷う方が難しいということだ。口の字の形で、それぞれの館が南北東西を冠している。それ以外は離れなども無い。

 これを建てたのは、確か爛道という話だったか。きっと合理的な人なんだろう。緋簾葦もそういうところがある。戸鞠は岩のように冷たく不動の人物を思い浮かべた。緋簾葦が事前情報を語らなかった以上、何らの準備もできなかったわけだ。それが吉と出るか凶と出るか――心臓が早鐘を打ち始める。それを無視して、ガラス細工の美しい両扉を開ける。


 果たして、ずらりと並んだ顔が、瞬く間に戸鞠に向いた。


「あら、遅かったわね、緋簾葦さん」

 長テーブル左側に座った女性が、開口一番そう言った。貴婦人のような風格で、長い巻髪が胸元で揺れている。年齢は、三十から四十ほどだろうか? 緋簾葦ほどじゃないが、美しい雰囲気の人だ。

 後ろに立っていた緋簾葦が、答えるように戸鞠の横に佇む。彼女を見た瞬間、戸鞠は思わずゾッとした。その横顔は、見たことのない微笑みを湛えている。

「そうでしょうか。時間ぴったりですわ」

「普通は早く来るものじゃなくて? お若い人は特に」

「わたくしはそう思いませんわ。ビジネスの場では早く行きすぎても、相手に気を遣わせてしまって失礼になると、聞いたことがございますもの」

 緋簾葦は顎に手をやって、「ああでも……」と続ける。

「ああでも……麻衣華さんはビジネスの場なんて出席したことが無いでしょうし、そういう認識が無くても、無理はありませんね」

 確か所属研究室の教授が聞き取り調査の際の注意点で同じことを言っていた。それを思い出したんだろうか。

 戸鞠は不躾にならないように、麻衣華という女性を観察する。確かに、ビジネスのビの字にも触れたことがなさそうな人だ。温室育ちっぽいとでも言うような風体である。

 麻衣華が鼻で笑う。緋簾葦を小馬鹿にでもするみたいに。

 すると、緋簾葦が思い出したように話し始めた。

「……そうだ。そういえば麻衣華さん、美容クリニックにお詳しいんですってね。様々なところに足繁く通っておられるとか。先日も渡韓して、有名なクリニックに行かれたと聞き及んでおりますわ。わたくし、是非感想を教えていただきたいと思っておりましたの」

 麻衣華の顔色がサッと青く豹変する。その口元が「どうして……」と零した。

 緋簾葦は満足そうに頷く。そして、ようやっと部屋中を見渡すと、「あら」と不思議そうに首を傾げた。

「爛道が見えないわね」

「まだ来ていないのだ」

 緋簾葦の言葉に、麻衣華の向かいの斜め奥に座った男性が言う。麻衣華より更に歳上で、五十代くらいだろうか? ずっしりと恰幅がいい。質のいいスーツが少し窮屈そうだ。よく整えられた口髭を蓄えている。目付きがどこか鋭く猛禽類みたいで、タカのような瞳が緋簾葦をじっと見ていた。

「親子揃って、他人を待たせることに躊躇が無いと見える。まったく、お偉いことだな」

「爛道はともかく、わたくしは時間ピッタリだと先程も申しましたけれど」

「それに娘と来たら、父親を呼び捨てとは。どういう教育をすればそうなるのやら。わざわざ比べる必要も無いが、うちの息子がいかに出来がいいかよく分かる」

 男性は口髭を撫でながら言うと、ガタイのいい体を椅子に落ち着け直した。ぎしりと悲鳴のような音が椅子から発せられる。

 戸鞠が緋簾葦を一瞥すると、彼女はちょうど口を開いたところだった。

「わたくし、父のことを蔑むつもりで呼び捨てにしているんじゃありませんわ。だって、普通は偉人に敬称をつけたりはしませんもの。アインシュタインとかエジソンとか、さん付けで呼んだりしませんわよね。それこそ歴史に名を残す人物ほど、親しみと敬意を同時にもって名を呼ばれるものですわ」

 確認を取るように緋簾葦が微笑む。

「わたくし、父のことは尊敬しておりますわ――ねえ、伯父さま?」

 緋簾葦が微笑みと同時に、片目をパチリと閉じてウインクした。どうやら伯父らしい男性が、うっと表情を固くする。そのまま口を開こうとするが、あまり良い案は浮かばなかったらしい。口をパクパクさせたまま、どうしようか考えあぐねた顔をした。

「それにしても、叔父さまの自慢の息子さんですけれど、今日は来てらっしゃらないのね。珍しい。いつもは必ずと言っていいほど、こういう場には出席していらしたのに。残念だわ。会いたかった」

 本当に残念なのか緋簾葦は悲しそうに眉根を寄せるが、伯父は更に表情を固くした。自分で言い出しておきながら、まるで触れられたくなかったみたいだ。変だなと、戸鞠は怪訝に思う。

「息子は……息子は、今回ばかりは日程が合わなかったのだ。だから私が代わりに出席した」

「あらそうなの。けれど忙しい方ですし、来られないのも仕方が無いわね。むしろこんな僻地に、これだけ集まった方が少し不思議だわ」

 緋簾葦が一堂に会している面々を見渡す。主催者以外の。

「集まりの良い方々という訳でも無いのに、本当に、不思議」

 強調するように、緋簾葦は言葉を区切った。

 それで、戸鞠はようやく彼女の意図を理解した。彼女は何も、感情的に相手を言い負かしていたのではない――揺さぶりをかけることで、敵を探り出そうとしているのだ。

 闘いは、既に始まっている。

 その時、一人の男性が宥めるように言った。

「まあまあ。いいじゃないか。緋簾葦くんに……連れの方も、とりあえずは席に座ったらどうかね」

 言ったのは、机最奥に近い男だ。向かって右側に座っている。緋簾葦に食ってかかっていた伯父とは真逆の柔和な顔立ちだ。けれど、これまでの苦労を示すかのように、顔中に皺が刻まれている。年齢は五十代の後半はあるだろうか? 銀色のフレームの丸眼鏡すら、彼の鼻柱では重荷であることだろう。

「そういたしますわ。九郎伯父さま」

 緋簾葦が、声の男に微笑みかけ、空いていた席に座る。戸鞠も彼女の隣に腰掛けた。九郎というらしい男――彼も伯父のようだ――の言った通りに、ひとまずは落ち着いたことになる。

 しかし、それが表面上でしかない沈静なのは、誰の目にも明らかだ。

 数分間の短いやり取りでも、充分理解できたのだが――この家族、めちゃくちゃ仲が悪い。死ぬほど悪い。あるいは殺すほどかもしれない。

 脅迫状の件からも想定内ではある。優しい家族であれば、そもそも被疑者圏内に入ってこない。いわんや、筆頭になどなるはずが無かった。

 戸鞠の胸の内に在るのは、納得だ。本当にこうなのか、という。状況把握はできたのだ。それこそ、自分自身の審美眼と価値観で。

 だから、後は緋簾葦の後に続くだけ。状況を把握した後、自分はどう動くか。重要なのはそこだ。

 幸い、戸鞠は緋簾葦と比べるまでもなく地味な風体をしている。監視カメラ等に映ったとしても、「え、そんな人いた?」と言われかねない影の薄さだ。線の細い骨格のせいか、薄い顔立ちのせいか……ともかくとして、緋簾葦と一緒にさえ居なければ、恐ろしく退屈で平凡な人生を歩み、それを何となく後悔しながら老衰で死んだことだろう――今となっては、そんな空想こそどうでも良いが。

 大事なのは現実だ。今、戸鞠は緋簾葦の一番近くに居る。だとすれば、すべきことは自ずと定まる。

 ……ふと、視線を感じて、麻衣華という女性の方向に顔を向ける。だが視線の主は麻衣華ではなく、左隣の翠華だった。不安そうな面持ち。彼女は、緋簾葦とその他面々とのやり取りにも一切の口を挟まなかった。その肩は行き場を失くしたハムスターみたく、ケージ内で縮こまっているように見える。

 なるほど。皆が緋簾葦たちみたいに、喧嘩っ早い口達者ではないらしい。そう言えば、くいなと執事はこの場に居ないし、九朗の向かいに座っている初老の男性は、翠華と同様に一言も発していない。並んだ面々と比較するとややくたびれたスーツの上に、これまた毛玉のあるベストを着用している。尤も、これはその人物の服装が特別に汚いわけでは無く、単に堯家と思われる緋簾葦の親戚たちの格好が綺麗すぎるだけだ。つまり、恐らくはあれが芧鏡とちかがみ教授とか言う人に違いない。掃除の行き届いた豪邸よりも、少し黒ずんだ講義室で学生相手に教鞭をとっている風景が、すんなりと頭に浮かんでくる。

 凪いだ水面のように、ホールはシンと静まり返り、深閑としている。けれど、一向に誰かが到着する気配は感じられない。

「……遅い。遅すぎる。何をしているんだ」

 伯父である男性が、腕時計を苛立たしく見た。戸鞠もそれとなく自身の左腕を確認する。七時三五分だ。

「ネクタイの柄で迷っているのかもしれない。あいつはそういうところがある。凝り性なんだ」

「そんなのは知っている。しかし兄さん」

「まあ落ち着け、燕治。確認をしようにも、日向も居ないのだ。きっと、爛道の下に居るんだろう。もう少し待とう」

 なるほど、先ほどから威勢のいい大柄の伯父は燕治というらしい。確か車の中で聞いた名前の内の一つだ。だが日向とは……もしかして、あの執事のことだろうか? 新しい人物ではない気がする。

 九朗が言っているのはつまり、何故か現れない爛道の知らせについて、恐らくは執事である日向と言う人物が持ってやってくるはずだ、ということか。

 そして、人物関係も少しずつ掴めてきた。爛道、九朗、燕治は兄弟関係にあり、苦労人っぽい九朗が兄、そして威張り散らしている燕治が弟である。

 九朗が咳払いをした。何か言いだそうとしている。

「えー、皆さん、爛道が来るまで、手持ち無沙汰なのもなんでしょうから、ここは一つ、お互いに自己紹介でもいたしませんかな。もちろん、ほとんどが顔見知りでしょうから、軽くで結構です」

 数名の人物の顔色が曇る。しかし反論する者はいない。九朗はずり下がった銀縁眼鏡を掛け直して、確認するように頷く。

「では、私から順番で構いませんね……今更言う必要があるのかもわかりませんが、私は九朗。堯家の長男であります。普段は爛道に振り回されっぱなしですがね。はっはっは」

 九朗は冗談めかして笑うが、燕治は思い切り顔を顰めた。

「あいつが我が儘すぎるし、兄さんは甘すぎる。まったく……」

 けしからん奴だと言いたいみたいだ。燕治が不満そうにしているのを、九朗は困ったように笑っている。

 少し驚いたのだが、どうやら爛道は三人の兄弟の中で一番下の可能性が高い。末の弟に呼び出されて、二人の兄がここに来ているのだ。しかし九朗はともかく燕治は、爛道をあまり良く思っていない風に思える。ならば何故……。

「では次は私が」

 九朗の前の席の男性、推定芧鏡教授が立ちあがる。

「私は芧鏡とちかがみと申します。普段は大学にて社会学の授業を取らせていただいております。今回は研究の話も兼ねて、爛道さんに是非と言われ」

 やはり教授だった。それにしても社会学の専門家が、なんの研究をしに来たのだろう? あとで聞きたい。

「俺は燕治。以上だ」

 燕治が立ち上がりもせず、それだけ言って終わらせる。あまり自己開示を好まないのかもしれない。自己愛が強そうだと思っていたが……一方で秘密主義の面もある? 難しい。

 だが、燕治のそれで、悪い流れができてしまったらしい。続く麻衣華が「わたくしは麻衣華」で終わらせ、隣の翠華も同様「……翠華、です……」とおどおどした調子で言った。

 今更ながら、麻衣華と翠華では名前の響きが似ている。もしかしなくても、麻衣華は翠華の母親か? だがそうだとしたら、姉である緋簾葦は……。

 緋簾葦が堂々とした面持ちでスッと立ち上がる。彼女に合わせて床を移動した椅子すら、物音一つ立てず押し黙っていた。

「わたくしは緋簾葦ですわ。爛道の長女であり――跡を継ぐものでもある」

 麻衣華や燕治が咎める目を緋簾葦に向ける。緋簾葦は少しも臆する様子を見せない。

「ではこれから、よろしくお願いいたしますわ」

 緋簾葦が軽く一礼する。いつかのくいながしていたように、存在しないはずのスカートの裾を持ちあげる仕草をして。しかし違うのは、緋簾葦の場合、本当にスカートがあるように見えることだ。

 さて、自分の番か。戸鞠はバクバクと煩い心音と、周囲からの奇異の目を無視するように立ち上がった。ここに来ているので、最たる部外者はこの戸鞠である。戸鞠以外はみな、血の繋がった親戚か、懇意にしている知り合いなのだから。誰の目とも合わせないように、戸鞠は虚空を熱心に見つめて言う。

「僕は、楠、戸鞠、と申します。普段は――」

「わたくしの連れよ」

 緋簾葦が上から被せるように、少し大きな声で言った。驚いた戸鞠は緋簾葦を唖然として凝視するも、彼女は一瞥もくれない。

「以上ですわ」

 緋簾葦が玉のような声で言い放つ。緋簾葦がそう言うなら、戸鞠に文句はない。そそくさと席に座り直し、自己紹介が終わった。

「さて、それにしても……」

 九朗が渋い顔をして言う。

「爛道はまだか……うむ、さすがに少しおかしい……」

 燕治がそうだろうとばかりに食って掛かろうとするが、九朗が手で制止する。

「ちょっと私が、様子を見て来よう。慣れている――」

 その時、戸鞠たちの入って来た扉が、バタンっ! と大きな音を立てて開いた。

 立っているのは、顔面蒼白の執事だ。

日向ひゅうが、どうしたんだ」

 九朗が執事に問いかける。執事は言いようの無い緊張で、体中がわなわな震えていた。彼は震える声で、必死に言う。

「だ、旦那さまが……」

「爛道が、どうかしたのか」

 息を切らした執事が、三秒ほど息を整えてから、静かに言う。

「……旦那さまが、お倒れに、なりました……」


「倒れただと?!」

 燕治の野太い怒号が響き渡る。九郎は絶句しており、執事を黙って凝視している。

 爛道の知らせがいかほどの衝撃をもたらすのか。堯家の面々は、酷く取り乱していた。麻衣華は驚いているし、翠華は「お父さん……」と小さく零した。

 ここで爛道を知らないのは、戸鞠だけだ。だから、倒れたという知らせにも、言ってしまえば他人事のように捉えられる。これは、あの脅迫状と関係があるのだろうか?

 緋簾葦がどう思っているのか確認しようと、彼女を見る。緋簾葦は周囲のそれと比べると落ち着き払っている様子だ。しかし戸鞠が横からじっと見つめても、それに気づかない。少なからず動揺している――こんな彼女は初めて見た。

「――緋簾葦」

「ああ、悪いわね」

 緋簾葦は不自然なほど淡々と答えた。

 その間に、執事が状況を説明し始める。

「旦那さまの面倒は今、くいなが見ております。しかしながら詳しい容態については未だ分からず……今ある設備で出来る限りの処置はしていますが、意識はお戻りになっておりません」

「詳しい容態が分からないとは、つまり……」

「原因が分からないのです。脳卒中や心臓発作の類ではないかと思いますが……大病院での詳しい検査が必要です」

「大病院……」

 九郎が沈痛な面持ちをする。その理由が、戸鞠にも容易に察しがついた。何しろ、ここは山奥の集落なのだ。

「爛道の様子は、爛道は……意識が無いと言ったか」

 九郎が狼狽したまま尋ねる。

「はい。意識がない他は、特段苦しげな様子もありませんが……」

「眠っているだけ、ということか?」

「ええ、まあ。しかし、いくら揺すっても目を覚ましません……そもそも、爛道さまが自ら起きてこないことなど初めての事態でして」

「そうだな。子供の頃から、私たちの中で一番しっかりした奴だった……」

 九朗が遠い昔を懐かしむように言う。緊迫から一転、その記憶は回顧的な哀愁を湛えていた。ややあって、彼は意を決した表情に変わる。

「一度、私が爛道の様子を見てくる。最寄りの病院からヘリを使っても、ここだと数時間はかかるだろうが、日向は連絡を入れてくれ――」

 指示の途中で、九郎がなにかに気づいたように言葉を切った。しわがれたその手が、胸ポケットをまさぐり、スマートフォンを取り出す。けたたましく震えているそれを、九郎は耳に当てる。

「もしもし――本当か?!」

 九郎が大きな感嘆を上げる。

「爛道が、目を覚ましたそうだ。今、くいなから連絡が」

 九郎が皆を見渡して言う。情報共有のつもりだろう。それからまた、スマホを耳に当ててくいなとの会話に戻る。

「……ああ。なるほど」

 九郎の声のトーンがやや下がる。良くないことを聞いたのだろうと瞬時に理解した。九郎がこちらを見て言う。

「目を覚ましはしたそうなのだが、少し、たどたどしいというか、朦朧としているらしい。だが私を呼んでいる」

 九郎が電話を切った。スマホを胸ポケットに入れ直し、毅然とした顔になる。

「状況が分かり次第、すぐに戻るつもりだ。それまではみな、落ち着いて待っているように」

 麻衣華が「そんなこと言われても……」と呟くのが後方から聞こえた。麻衣華は爛道の妻のはずだ。その割には、その声音は爛道への心配と言うより、自らを案じるようなふうに聞こえる。

「私は、どういたしましょうか?」

 執事が怯えた様子で言う。朝から予期せぬ事態に振り回されている彼が、最も可哀想な人物かもしれない。娘のくいなだって、今とても大変な状況に置かれているはずだ。

 九郎は僅かに逡巡を見せるも、それは本当に僅かだった。

「朝食の準備をするといい。冷えてしまうからね」

「承知いたしました」


 カチャカチャと食器の擦れる音だけが、モーニングテーブルに響いている。物悲しく、誰もが考え込んでいるような重々しい顔だ。とても朝八時の光景とは思えない。いつもなら布団の中で二度寝を決めているのに、どうしてこうなったのだろう? 低血圧の頭は、早くも回転に耐えられず知恵熱が篭もり始めている。

 それにしても、くいなが作ったらしい朝食は、ホテルさながらに一線を画すメニューだ。シンプルだが素人のそれとは全然違う。目玉焼き一つで、どうしてプロはこういう仕上がりになるのだろう? もしかしたら型を使ったのかもしれないけれど、それにしても美しい円形だ。それに変な泡が弾けたような跡もない。ツルリとした白身とふわふわの黄身の完璧な共演。感傷と鑑賞は似たところにあるのかもしれない。戸鞠は何度か、ナイフとフォークの手を止めそうになった。

 早く緋簾葦と意見交換をしたいところだが、人が多く居る静かな空間では、まだ難しそうだ。横をチラっと確認してみても、相変わらず作り物みたいな表情しか窺えない。

 どうしたものかと悩んでいると、廊下から足音がした。九朗が帰ってきたのだろう。鷹揚とした歩様は彼独特のものだ。執事の方は仕事柄か常に小走り一歩手前みたいにカツカツ歩くし、くいなは宵闇の猫のように身軽である。古い建物は足音が響きやすいから、誰か判別しやすくて良い。確か二〇周年記念とか言っていたか。

「すまない。遅れた」

 やはり、九朗が部屋に入ってくるなり、そう言う。

「それで兄さん、様子は」

 じれったそうに燕治が尋ねた。九朗は手で制しつつ、元居た席に腰掛ける。この数十分で、前にも増してやつれた様子だ。椅子と床がが大きく軋み、彼の脱力感を訴えている。

「話はそれなりにできた……が、どうにも、応答が覚束なくてな……」

「それはわかったから。話の内容は、あいつは一体何を言っていたんだ」

「それは……」

 九朗が言いづらそうに口を閉ざした。その瞳は迷いを湛え、何も無い虚空を彷徨う。

 何か普通でないことを言われたんだろうか? 燕治が食い気味なのも少し気になる。

「あいつは……その、『ある時急に、体から力が抜けて、意識を失った』と言った。それから『体全体が痺れる感じがした――いや今もしている』と」

「当たったんじゃないのか。日向はああ言っていたが、やはり脳卒中か何かで――」

「いや、そうじゃない」

 九郎が強く遮る。

「爛道は、こうも言ったんだ――『直前に、机に置いていた水を飲んだ。そういえば、少し苦かったように感じた』と」

 燕治以外も、その場にいる全てが静まり返る。誰もが音を立てるのを恐れているようだ。

「爛道は言った。『誰かが私を殺そうと、飲み物に毒を入れたんじゃないか』」


「毒を入れられただと?! 何を馬鹿なことを!」

 叫ぶように燕治が言う。

「あいつは病気で倒れただけだ。記憶が覚束無いから、妄想と現実の区別がついておらんのだ! 言うに事欠いて……毒だと?!」

 ありえない、と燕治が一転して小さく言う。

 爛道が倒れた原因は毒……もちろん本人が言っているだけのことではある。それも会話すら覚束無い人間のだ。燕治の言う通り、信ぴょう性には欠けるかもしれない。

「落ち着け燕治。私も、爛道の言うことを鵜呑みにした訳ではない。今、日向ができる限りの検査と、それから爛道が飲んだと言う水の容器を確認しているところだ。日向は元は医者を目指して医学校に通っていた男だ。普段から爛道の診察をしているのも彼だ。彼の言葉を待とうではないか」

「そうは言っても――」

「あら、良いじゃありませんか」

 燕治の言葉を――緋簾葦が遮った。

「わたくしたちはただ、日向さんの診断を待っていれば良いだけですわ。元々数日は滞在する予定だったのです。爛道一人が倒れたところで、一体何が変わるでしょうか」

 淡々と述べた緋簾葦が、不意に九郎へ向く。

「もちろん病院への連絡は入れてあるのでしょう? 九郎伯父さま」

「もちろんだ」

「なら、容態が急変でもしない限り、突然死する可能性は低いと考えて良いのかしら。一先ずは安心ね」

 緋簾葦は平時と変わらない声色で言う。

「部屋に戻って良いかしら。疲れたわ」

「ああ、そうだね緋簾葦くん……けれど、その前に一ついいかな。緋簾葦くんだけでなく、皆に」

 九郎が全体を見渡して、はっきりと言う。

「確かなことはまだ分からない……分からないからこそ、分かるまで、皆にはくれぐれも、慎重な対応を頼む」

「慎重な対応、とは?」

「屋敷から出ないで欲しいということだ――いや、出てはならない」


 混乱の朝食からようやく解放され、一時休憩の運びとなった。現在はそれぞれ、宛てがわれた部屋に戻っている。

「あーあ、緋簾葦のお父さん、会いたかったなー」

 そう言って戸鞠は、緋簾葦の部屋の床でじたばたする。緋簾葦はそれを、壁際の腰掛けからゴミを見るような眼差しで眺めていた。

「あなた、最初に言うのがそれなの」

「だって会いたかったんだもーん。会いたかったって言うか、見てみたかった」

「見世物じゃないわよ」

 緋簾葦は呆れ眼で言うと、ひじ掛けで頬杖を突く。

「それで、色々と考えたんでしょう? 教えてちょうだい」

 緋簾葦が怪しい笑みを浮かべた。戸鞠は困ったように笑い返しつつ、床の上にあぐらをかいて座り込む。

「考えたって言っても、全部が漠然と宙に浮いてる感じなんだよね。何が知りたい?」

「なら、まずはそれぞれの人物についての雑感でも教えてもらおうかしら」

「雑感か……」

 今日新たに出会った人物は全部で四人。九郎、燕治、麻衣華、栃鏡だ。メインディッシュこそ現れなかったものの、なかなか面白くはあったと思う。

「まずは九郎さんだな。いかにも長男っぽい世話焼きな人だ。話のリーダーシップを自然に取りつつ、人の話もちゃんと聞いていた。爛道さんと一番親しかったのかな。毒を盛られたかもしれない彼が九郎さんを指名したのは、九郎さんを信頼しているからに他ならない。だとすると普段から一緒に仕事することも多いのかもしれない。爛道さんについてまわる事が多いという執事の日向さんとも、連携が取れていたしね」

「まあそんなところね」

「ところで九郎という名前なんだけど、彼は三人兄弟の長男なんだよね?」

「ええ。けれどお生憎さま。あなたの尋ねたいことについて、わたくしも確かなことは知らないわ。後で本人に聞いてみたらどう? そんな機会があればだけれど」

 少なくとも今日は難しいだろう。疲れた九郎の顔を思い出しながら、戸鞠は肩をすくめる。

「次は燕治さんだな。彼は……何か隠し事をしているみたいだね。その後ろめたさが裏返って、攻撃性に繋がっている。そんな気がする」

「気がする?」

「確証が無いからな。何度か応答に不自然さが見受けられたってだけ。だけど爛道さんへの敵愾心に関係しそうな感じがする……それと、緋簾葦も嫌われているみたいだね。早々に喧嘩をふっかけられるなんて」

「そうね。まあ親の代から続く因縁って感じかしら。燕治のことは、わたくしも嫌いだから構わないけれど」

「呼び捨てにしとる……あの話はなんだったんだよ」

「その場で適当に考えたに決まっているでしょう」

 そんなところだろうとは思っていた。それっぽい話を即興で作りあげて相手に聞かせるのが、緋簾葦の一番得意なことなんじゃないだろうか。

「で、麻衣華さんだけど……彼女は翠華のお母さんで爛道さんの妻、なんだよね?」

「わたくしの母だと言わないのはさすがね」

「反抗期の母娘ともまた違う感じがしたんだ。麻衣華さんは緋簾葦に対して、なにか根強い敵意を抱いている感じがした。実の娘にそんなものを向けるとは思えない」

「麻衣華さん、子供の頃からわたくしに冷たいのよね。まあ、わたくしが翠華より優秀だから、驚異に感じているんでしょう。あれも母の愛というものかしら」

 滔々と語る緋簾葦は、いつも通りどこか胡散臭い笑みを湛えている――これは聞いて良いことなんだろうか?

「……あの、緋簾葦」

「わたくしの母親のことでしょう? わたくしが小さい頃に亡くなったんですって。わたくしも母の記憶は無いし、特に気にしてもいないけれど」

 強がっているふうには見えないし、戸鞠の知る緋簾葦はもとよりドライな性格である。ならば気にしていないのも恐らく本心だろう。気にしていないと言うより、気にならないのだ。

「最後に栃鏡さんだけど、彼は正直、まだ情報不足だ。混乱中もほとんど喋らなかったし、一族以外の人間として、枠外に居ることを選んでいた。せめてなんの研究で爛道さんと親しくしているのか分かればいいんだけど……緋簾葦は知ってる?」

「詳しいことは知らないわ。けれど、この地方の産業や、その成り立ちについての総合的な研究じゃなかったかしら」

「この地方の産業って、鯉の生産?」

「ええ。世界的にも珍しいことでしょう? こんな山間地が、大型観賞魚の一大生産地なんて。それなのに、これまでは学問的に捉えられることが無かったんですって。それで去年、だったと思うけれど、国内で研究チームが発足したの。色々な分野の専門家が集って、それぞれの目線で体系的にまとめようという話」

 さすがは緋簾葦だ。詳しくないと言いつつ、網羅的に把握している。

「ふーん……じゃあ、栃鏡教授は、その研究チームの一員ってところか。分野は社会学で」

「そうね。けれど教授だし、爛道に招かれているのも彼だから、もしかしたらチームのリーダー的な立ち位置にいるのかもしれないわね」

「なるほど。研究チームを代表して、出席しているのか……」

 それがこんな事態に巻き込まれてしまって、彼は今どう思っているのだろう? お労しいことだ。

「僕があの場で考えていたのは、ざっとこんなところかな――それで、」

 戸鞠はじっと緋簾葦を見つめる。

「僕が一番気になっているのは、これが例の脅迫状と関係あるのかってことだ。緋簾葦は、父親が毒を盛られたかもしれないことについて、どう思ってる?」

 緋簾葦は少し芝居がかった様子で眉を動かし、「さあ?」ととぼけたことを言う。

「せめて日向さんの診断が出るまで分からないわね。わたくしが求めるのは山勘や空想ではなく、証拠に基づいた論理の積み重ねだもの」

「なら、毒が確定的になったと仮定して」

「それなら――」

 緋簾葦は露ほども顔色を変えず言う。

「まあ、関係あるんじゃない?」

「マジかよ……クソっ」

 戸鞠は思わず悪態をつく。死ねとは書かれていたが、本当に殺しにかかってくるなんて思わないだろ。

 何より戸鞠がムカついているのは、緋簾葦の態度だった。危機感があるのか無いのか、飄々としていてよく分からない。

「あらあら……あなたともあろう方が」

「次に狙われるのは僕たちの可能性が高いんだぞ。どう狙ってくるのか、完璧に予測して対策する必要がある」

「僕たち、というよりわたくしだと思うけれどね。あなた、あんまり標的にされる感じじゃないでしょう」

「緋簾葦が死ぬのも僕が死ぬのも、僕にとっては同じことだ」

 戸鞠が強く言うと、緋簾葦はスンとした面持ちで「あら」とだけ言った。なにがあらだ。

 しかし、そこを責めても緋簾葦は何も変わらないだろう。折れるべきはいつだって自分の方だ。

「なら毒の犯人と脅迫状の主が同じであるとして――『誰が最も怪しいか』緋簾葦はどう思ってる?」

「あなたがまず答えるべきじゃない?」

「全くもってその通りで」

 戸鞠は皮肉を隠さずに言う。

「普通に考えて、初っ端から突っかかってきた二人が怪しいだろうな。麻衣華と燕治だ。動機もありそうだし」

「ならば普通に考えないとしたら?」

「それはもう妄想の域に入るしかない。今のところは誰もが横一列に並んでる――そうだ」

 一つ、思い込みに気がついて、戸鞠は高い声を上げた。

「そもそも屋敷内の人間とは限らないじゃないか。近くの集落の村人が忍び込んで犯行に及んだ可能性もある」

「可能性はあるでしょうね。けれど、あまり高くはないんじゃないかしら」

「なんで?」

「集落の人たちと爛道は……言うなれば、一蓮托生の関係にあるの。爛道はこの地域に、長きにわたって経済的支援を行ってきたから。村人の中には爛道を神聖視している人も居る。殺そうとするとは思えないわね」

 殺したところで得がないということか。むしろ支援が無くなる可能性も考慮すると、損をするかもしれない――いや、そうだ。

「けど、確か『保守派と革新派の対立がある』って、くいなさんが言っていたよな。その対立に巻き込まれたんじゃないか?」

「それはあるわね……けれど、そうすると、わたくしの脅迫状とは関係が無くなりそう。わたくしは鯉産業に関わっていないもの。村人なんて、ほとんど顔も知らないわ。会ったこともない」

「……なるほど」

 さすがの緋簾葦も、顔を知らない相手から名指しで殺意を向けられたりはしないはずだ。僕が言うのだから間違いないと、戸鞠は思う。

「やっぱり、現時点で議論できるのはこの程度か……」

「いえ、状況確認は出来たはず……ふふ」

 緋簾葦がおかしさを堪えきらなかったみたいに、口元を押えて笑う。当然ながら、笑っている場合ではない。

「緋簾葦」

「分かってる。分かっているわ。けれど……なんでかしらね。ちょっと、気持ちが高揚してしまって」

 死ぬほど――命取りになりそうなほど場違いなことを平気でいいながら、緋簾葦はひとしきり笑う。くぐもった笑い声は上品ではあるものの……少しの気味悪さを、感じずにはいられなかった。

「緋簾葦……」

「わかっているって」

 ようやく落ち着きを取り戻した緋簾葦を、戸鞠はなんとも言えず見つめた。やはり、いつもより早く起きざるを得なかったのと、低血圧が響いている。こう言う時は上質な糖分が必要だ。

「そう言えば、朝ごはんちょっと物足りなかったんだよな。美味しいんだけど、お上品すぎるって言うか……」

「朝から生クリームを吸い始めるあなたには、確かにまとも過ぎたかしらね」

 緋簾葦が皮肉っぽく言う。普段から、緋簾葦から苦言を呈されていることなのだ。

「生クリーム死ぬほど入ったクレープ食べたい……ザッハトルテにホイップつけて食べたい……」

「あなた、そのうち本当に死ぬわよ。普通じゃないもの」

 誰かさんにだけは言われたくない台詞だ。その意味を込めて、戸鞠は緋簾葦に肩をすくめてみせる。

「ちょっとした軽食であれば、くいなに頼めば作ってもらえると思うわ」

「ちょっとした軽食って? てか三時のおやつとか無いの?」

「ここに来ている年齢層を考えなさいよ。わたくしたちを除けば大体が四、五〇なのよ。甘いものなんて好くはずないでしょう」

「なるほど……」

 健康に難を示し始める年齢だ。実際、倒れてしまっている人間が一名居るのが現状なわけで。

「スイーツなら自分で作りたいなあ……後で冷蔵庫の中身とか教えてもらえるかな」

「好きになさい」

 とは言え、くいなはくいなできっと忙しいことだろう。執事が病人に付きっ切りな分、通常業務はくいなにすべて降りかかるのだから。


 結局、昼食の時間まで館内の人間の招集がかかることは無かった。向かい合うように並ぶランチは豪勢だし、モーニングと違って湯気が立っていて熱々だけれど、人々は沈黙を保っている。ただし、机の下では皆、何かしらの策謀を巡らしているに違いなかった。自己保身を図るもの、敵を排除しようと画策するもの……。

 午前の内にくいなに会うことは叶わなかったため、上質な糖分どころか、追加の栄養摂取すらできていない。こんな状態で誰かに噛みつかれでもしたら……考えただけで、戸鞠はため息が漏れそうになる。午後は絶対にくいなを見つけ出して、話しかけよう。生クリーム、チョコレート、チーズケーキ、ザッハトルテ……。

「――さて、朝の話の続きだが、昼食に手を付ける前に、皆の耳を貸してもらいたい」

 例によって、九朗が話の音頭をとる。九朗の傍らには執事の日向が控えていて、恭しくこうべを垂れている。

「まずは爛道さまのご容態についてでございますが、幸い、死に至るものではございませんでした。数日養生すれば、以前と同程度に回復なさるでしょう……それで、原因についてなのですが」

 日向が重々しく言葉を切る。面々が最も気になっているのは、それに違いないのだ。

 だが戸鞠は、その顔を見て既に察しがついていた。

「爛道さまの体調不良の原因についてでございますが、爛道さまのお飲み物の残留物から、毒物が検出されました。神経毒の一種でございます」

「神経毒、だと……!」

 燕治が興奮気味に呟く。日向が「はい」と冷静を務めて答えた。

「摂取量が少なかったために、致死量には至らなかったと思われます。味の奇妙さに爛道さまが気が付かれていたために、一口含んだだけで残したようです。その時点では、空気に晒していたために悪くなっただけだとお考えだったようですが、もし全て飲み切っておられたなら……」

 日向は力なく首を横に振る。

「……それで、爛道は今どうしている?」

「爛道さまは現在、寝室にて横になっておられます。お食事等を採れる段階には無いため、数日は点滴で栄養摂取になるかと」

「食事会には出席出来ないということか。主催者でありながら」

「申し訳ございません、私がついておきながら」

 深々と頭を下げた日向に、九朗が「いい」と声を掛ける。

「燕治も責めているわけではないだろう。そうだな?」

「もちろんだ。毒を飲んだのは爛道自身なのだから」

 現在進行形で床に伏している弟への言葉とは思えない刺々しさで、燕治は言った。

「爛道さまのご容態については、以上になります――が、爛道さまより、皆さまにお伝えしなければならないことがございます」

 そう言って、日向はなぜか、懐からスマートフォンを取り出した。以前見た九朗のものとは違う。日向のものか。

「皆様にお伝えすべき事柄についてでございますが……爛道さまご自身で、お話になりたいとのことです」

「爛道自身が、だと⁈」

 燕治が驚いた声を出す。燕治だけでなく、テーブルのあちこちで小さく声が上がった。正直、戸鞠もこれには驚く。これまでずっと、執事か九朗を通してのやりとりだったが――自力で通話できる程度には回復したんだろうか?

「今から爛道さまにお繋ぎいたします。爛道さまのお傍には、くいながついておりますので、何かあればくいなが」

 日向が説明して、スマホを操作する。スピーカー設定にしたんだろうか。彼はスマホを耳に当てず、皆に見えるように、前方にかざした。画面には「爛道」と映っている。

 果たして、しわがれた老齢の声が、聴こえて来た。

『もしもし、聞こえているか……』

 病然とした弱弱しい声。死の淵に立っているのがものの数秒で理解できる、生者とは異質な声質だ。まるで地獄の底から、掠れた喉で懸命に助けを求めているような。兄の九朗や燕治より、ずっと年寄りにすら思える。

「爛道さま。日向でございます。聞こえております」

『日向……そうか……皆は、もう集まっているのだな……」

「はい。皆さまお集まりで、爛道さまのお言葉をお待ちになっております」

 電話の向こうの人間が、疲れたように大きく息をつく。起きているだけでも精一杯、という感じだ。

『……知っての通り、私は何者かに毒を盛られた。だが、誰がやったのか目星もついていない。ここ数日は忙しくしていたからな……まさか少し目を離した隙に、飲み物に細工をされるとは、考えてもみなかった……』

 なんとなく先が読めてきた。怪しい雲行きだ。

『私はまだまだ動けそうにない。だが、この事態を放っておこうとは考えていない。よって――』

 少しの間を置いて、爛道は言う。

『皆には犯人を見つけ出してもらいたい。私に代わって』


「さっきの話、どう思う?」

 周囲に誰も居ないことを確認し、戸鞠は早速、緋簾葦に尋ねた。

「おかしなことになったわね」

「緋簾葦のお父さんは、いつもああなのか?」

「ああって?」

「常識では考えられない素っ頓狂な話をするのかってことだ……殺人未遂犯が紛れ込んでいる中で、犯人が見つかるまで、誰もここから出さないなんて」

 戸鞠は先程までの話の流れを思い出して、眉を顰めた。当然ながら反対した燕治に、意味がわからないと金切り声を上げた麻衣華。九郎は事前に聞いていたそうで比較的落ち着いていたが、それでも納得はしていなさそうだった。

「いつも素っ頓狂かはさておき、常識的ではないかもね」

「警察に任せるべきだろ」

「それは先程も日向さんが説明していたでしょう。村の駐在ごときに、権力者のゴタゴタを解決する力なんかあるものですか。信頼出来ないのよ」

「村の駐在じゃなくても、警察ならいくらでもいるだろ」

「だから、信用出来ないのよ。爛道は自分自身か、ごく限られた身内しか信用しないわ――それに、これは爛道にとってのチャンスでもある」

 緋簾葦は廊下の壁に背を預けている戸鞠の隣へ、スっと歩み寄り、同様に背をもたれた。

「チャンスって?」

 戸鞠はできる限り声を潜めて尋ねる。緋簾葦は、イタズラっぽく微笑んだ。

「こんな機会、滅多に無いわ。自分を殺そうとしている誰かと、同じ空間に居るなんて。利用できるならするべき。そう思わないかしら」

「僕は思わないな。何しろ危険だから」

 戸鞠は、至極真っ当なことを言っている自信がある。

「しかも、ここには自分の娘だって居るんだぞ。家族を危険に晒すなんて……」

「それも含めて、わたくしたち全員が試されている。これは試練なのよ。爛道による、敵と味方両方へのね」

 緋簾葦は爛道の意思を確信しているようだ。その目は既に、父からの挑戦を受け取っているように見える。

 ――それもそうか。

 緋簾葦がここに来た理由は、脅迫状の主を見つけ出すためだ。こうなってしまえば、父親と目的は符合している。さすがは親子と言うべきか、その血に呆れるべきか。

 何はともあれ、緋簾葦が父親の意思を全うするならば、今度は緋簾葦の意思を戸鞠が全うするだけだ。先程の話を、じっくり反芻する必要がある。

「日向さんによれば、村人が侵入した可能性は低いんだよな。門は閉ざされていて、監視カメラも一台稼働している」

「類まれな怪力で門を乗り越えた可能性はあるけれどね。カメラが写すのは入口とその付近だけだもの。高さ数メートルの壁だって、軍人ならきっと登れるでしょう? 頑張ればなんとかなる余地は残されている」

「けど、ほとんどありえない話だ。だから館内の人間が怪しまれてるんだろ」

「まあ、爛道の飲み物に毒物を入れるなんて、外から侵入してまで選ぶ行為ではないでしょうね。爛道の日常や、館の内情を知らないと取りづらい殺害方法だわ」

 人を殺す方法なんて星の数ほどあるのだ。毒物なんて、混入ルートによっては対象以外を殺してしまう可能性がある。

「と、なると、犯人は爛道に近しい人物の可能性が高いわけだけど……はぁ」

 戸鞠はため息を吐いた。そもそも、招待客がほとんど身内なのだから、近しいもクソも無い。

「爛道に関係する人物なら、誰でも犯人の可能性はあるわ。わたくしの目から見ての話だけれど」

「緋簾葦が言うならごもっともだよ……けど、燕治さんや麻衣華さんはともかく、九郎さんも可能性があるのか?」

 そうは見えなかったが、緋簾葦は意味深に微笑む。

「人の心の奥底なんて、誰にも見えないでしょう? 実は弟にコンプレックスを感じていたとか、そういうことも考えられはするじゃない。あくまでも可能性の話で、過去にそう言ったことが九郎伯父さまにあったわけではないけれどね」

「なるほど。別に何かがあって言っているわけじゃないんだな。なら日向さんは? 彼は一族ではないけど爛道さんに最も近い人だろ。殺す機会の多さで言えば、彼が一番だ」

「そうねぇ……日向さんにはわたくしも物心着く前からお世話になっているから、あまり疑いたくはないのだけれど……可能性なら否定できない」

「否定できないだけか。積極的に疑うべき人物ではなさそうだな」

「けれど油断するつもりは無いのでしょう?」

「もちろんだ」

 緋簾葦の言った「誰でも犯人の可能性がある」というのは正しい。確定的な証拠でも入手できない限りは。

 だが、ここで緋簾葦が心底おかしそうにクックと笑いだした。戸鞠を笑っているみたいだ。

「なんだよ。何かあるなら言ってくれ」

「だって、あなた翠華の名前を出さないんだもの」

 緋簾葦は「あー、おかしい」と言うと、やや嘲笑気味に戸鞠を見る。

「翠華は……さすがに無いだろ。翠華だぞ」

「詰めが甘いですこと」

 緋簾葦は余裕気に言う。まったく、彼女はこういうところがあるから時々、心底恐ろしく思う。

「緋簾葦は、妹を疑っているのか?」

「どうかしらね。正直、殺人ができる人間だとは思っていないけれど」

「……そうだよな」

「けれど、結構長いこと会っていなかったし、きっかけがあれば人は容易く価値観を変えるものだわ。疑いを完全に払拭できるほど、わたくしは妹を知らない」

 緋簾葦が戸鞠をじっと見る。

「あなたはどうかしら」

 頷くことが出来ない。

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