中間管理職田中

紫陽_凛

本文

 ガスコンロの前に立って薄緑色をしたみそ汁の残骸を眺めていると、ぷんと鼻をつくかびだか発酵しすぎた味噌だか、ともあれ芳しい(注1)臭いが胃の腑を刺激した。収縮する胃が訴えるに任せて嘔吐する。朝食べたっきりの、あるいは啜ったっきりのゼリーと胃液とが混ざり合ったそれはみそ汁の上にぶちまけられてしまう。四日ぶりに帰ってきて、最初に田中がやったことは「腐ったみそ汁への嘔吐」だった。


 田中はサラリーマンだ。妻子のいない独り身ゆえに、こんな悲愴なことになる。悲愴そのものの顔つきをした田中はガスコンロから饐えた臭気を放つ鍋をとりあげ、その中身をトイレに流した。


 大声で泣きたかった。


 田中には生きた化石のような上司のBがいる。この上司が曲者で、稟議りんぎ書に承認印をなかなか押さずに渋る。毎度のことながら稟議をまとめたクリップボードは彼のデスクにエベレストよろしくうずたかく積まれた。そしてそれが崩れるより先に次のものが回ってくる。稟議を発行した社員たちは苛つき、部長は貧乏ゆすりをする。


 この会社における稟議というのは大抵、形式であって、部長までの役職すべてに話を通してあるものなのだから、判子が一つ欲しいだけの形式上の手順のなかで、Bのもとで止まるのはいただけない。かなりいただけない。承認待ちの案件は全てBの元で渋滞し、Bの機嫌とか体調によって振り分けられることになる。Bは年配の係長であるが、稟議書の全てに目を通し、さもない小さなミスを見付けてはわざとらしく首を傾げてみせ、さらに稟議を発行した社員の元にしげく通って「これはどういうことか」と尋ねるらしい。田中にしてみれば、そんな小さなミスなど誰も気にしないのだからそのまま判子をおして隣の席へ回せと思う。田中だけでない、Bは皆によく思われていない。

 部長はそんなBのことを知っているからか――Bを避け、田中のもとへ「まだかね」とそれとなく尋ねに来る。これがいけない。田中は「まあ、あの稟議はすぐ行くんじゃないですかね」と言いながら積んである稟議書の順番をそっと入れ替えることにしている。そうすればBが次に見る稟議をある程度できるからだ。そんなわけで田中は隣席のBをうまく操縦する役割を担っているのだった。


 そんなわけだから、新入りも新入りの田中は、その涙ぐましい罪なきインチキでもって、陰で「中間管理職」と呼ばれていた。


 もうすぐ定年、化石なら化石らしく博物館にでも飾っておけという悪口は封じるにしても、とにかく他人の仕事に難癖を付けたがるこのBが、最近入社した中途採用のAととにかく反りが合わないことに田中が気づいたのは四月も五日を回ったころである。

 もうすぐ三十路になろうというAは向上心と共に承認欲求が非常に強く、初日で「褒められて求められて伸びるタイプ」と豪語し、田中を引き気味にさせた。何を隠そうダウナー気質の田中、真逆というかついというか、アグレッシブの塊のようなこのAとは仲良くなれそうにない。この自己紹介と、その後の新歓の飲み会で完全にAのことが苦手になってしまった田中である。

 Aは田中の下についた。実質本物の「中間管理職」となった田中であるが、さっそく問題が発生する。


「田中くん、例の稟議はまだそうかね」

「ああ、もうすぐだと思いますけどね……」


 部長が去った後、さっと田中はBの机に手を伸ばし、稟議書を挟んだクリップボードを物色し、その順番をさっと並べ替えた。

 それを見ていたのが、何も知らないAだ。

「田中さん、人の机を勝手に弄るのはどうかと思いますよ」

「まあ、いろいろ事情があってね」

 田中は声を潜めてBの生態について説明した。Aに物分かりがあると思っての行為だった。しかし田中はAを見誤っていた。どうしたって田中は陰キャで、Aは陽キャなのである。

「Bさんに直接言えばいいじゃないですか」

「えっ」

 簡潔だが面倒ゆえ誰もとらなかった方法だ。Aはさっと立ち上がると、つかつかと書類を探しているBの元に歩み寄って、なんと単刀直入に切り出した。


「あの、稟議書、早く通してもらわないとみんな困りますよ」

「あー……」


 田中の開いた口から長い母音が漏れた。


 そもそも生きた化石Bは強い年功序列(注2)の思想に憑りつかれており、定年を控えた今となってはそのヒエラルキーのてっぺんにいると自分で考えていた。自然、社長を含む他の社員になど目もくれない。部長でさえ注意を躊躇うほどの堅物だ。係長という立場に甘んじるのもBにとってみれば本来意に添わぬことだろう。

 ゆえに部下の田中などはモノ申せる立場にない。その部下のAなど、言うまでもないことである。当然、

 Bは激怒した。


 Bをなだめすかす田中と煽り続けるAと、意味の分からない怒声をまき散らすBとが一直線に並ぶ。Bが放つ大量の唾を浴びながら田中は何が何だか分からないまま平謝りを繰り返した。すみませんすみませんこいつは若いんで勘弁してやってくださいすみません。

 田中は今も、その自分の延々続く謝罪の言葉が耳もとで鳴っているような気がする。コンロの前に立ち、やかんで湯を沸かす今になっても――。


 やかんが代わりに泣いてくれる。


 カップラーメンの器に注ぎ入れた湯を眺めて、田中は一息つき、そのままごろりと横になった。ともあれ何か腹を入れたかったが、三分間、今の田中にとってその数分は、待つには長すぎた。

 田中はそのまま七十二時間爆睡することになる。目覚めたら、冷めたカップ麺が伸びきった状態で待っていた。




(注1)行き過ぎた悪臭はまれにこう表現するほかなくなる。

(注2)悪しき風習である。

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