3-9 籠の中への帰還

 体中を熱が走り回っているような感覚を覚えて、エラリオは目を覚ました。

 天井の四角く区切られた模様が見えるのと同時に、自分に向かって歩いてくるトントの背中が見える。

 のぼせたようにぼぅっとする頭を一振りすると、ぐらりと世界が傾いだ。

 無理に体を起こせば、鼻の奥からつうっと流れ落ちるものがある。畳の上に落ちて、赤い小さな花をいくつか咲かせてしまってから、エラリオは自分の鼻を押さえた。


「無理しなくていい。もう少し横になっていろ」

「……ごめ……なさ」

「気にするな。すぐに綺麗になる」


 トントが言う間に、血痕は消えてなくなっていた。

 軽く処置を受けて、身体を冷ますという薬湯を渡される。


「エストは……」

「心配せずとも、君より順応は早い。歩くとふらつきが出るから、今はそこに座ってる」

「……よかった」


 トントはエラリオの脈を測りながら苦笑した。


「君たちは相手の心配ばかりだね。今はその目が君の体を調べているといったところだ。訝しがりながらも特徴を確認してる。二、三日で落ち着くと思うから、ゆっくり寝てるといい」


 目をつぶっていても、エラリオ達を窺う映像が見える。

 それはゆっくりと近づいて、トントの上着の袖を引いた。


「エラリオ、大丈夫……?」


 泣きそうな声には後悔が滲んでいる。


「大丈夫だよ。このくらいですんでよかった。風邪でもひいたと思って、お世話してやるといい」


 ぐんと視線が高くなって、エラリオじぶんが見下ろされる。

 トントに抱き上げられたエストの青い瞳に映る、真っ黒い瞳の自分。お互いを見つめ合うと、混乱してきそうだった。


「視界もすぐ慣れると思う。要らない情報はカットするようになっていくから」


 とは言われたものの、のぼせた頭に多すぎる情報は吐き気となる。

 目を閉じていると少し楽なことに気付いて、エラリオはトントと同じように包帯を巻いてもらうことにした。そうして初めてトントの「不自由はない」という言葉を理解する。閉じた眼裏まなうらに、世界は変わらず映っていた。その状態ならば、エストが見ている景色を重ねずずらして見ることができる。

 自分なりの対処がわかれば、慣れるのは早かった。

 ことが出来るようになる頃には、体の熱さも引き、動き回れるようになる。

 ただ、腹の奥底に熾火がくすぶるような感覚は、残ったままだったけれど。

 トントは肩をすくめる。


「自覚できるだけいいと思おう。それが燃え上がらないようにするといい」


 それから、トントはエストに尋ねた。


「エストはその髪の色が気に入っているのかい?」


 エストは少し首を傾げて考え込む。


「そういうわけじゃないけど」

「『中』で目立たないようにするのに、他の色がいいなら少し手を貸そう」

「え……」


 とたんにエストはエラリオとトントに忙しなく視線を往復させた。


「金にするかい? 彼の瞳がそこにあるなら、それも素敵だ」


 う~、としばし唸って、エストは首を横に振る。


「わたしはわたしを失くしたくない。黒がダメなら、今までの色でいい……ん、でも、ちょっとエラリオとお揃いもいいな……」


 トントは喉の奥で笑った。


「毛先だけそうしてみるかい?」


 するりとエストの髪を撫でれば、背の中ほどまである髪の、毛先三分の一程が金に染まった。


「目立たないようにするんじゃないの?」


 見ていたエラリオが思わず笑う。


「変? え、でも、いいかも。わたしだってすぐわかる」

「もう少し反射を抑えて落ち着かせた方がいいな。色の切り替わる辺りを馴染ませて……」


 エラリオの助言を受けてトントが軽く髪を梳けば、派手な金色は無くなった。

 少し眺めて、エラリオは微笑む。


「朝焼けの色だね」


 エストは、その表現がとても気に入った。




 エラリオが元のように、あるいはもう少し敏捷に動けるようになるまでに春が来た。

 山でエストを伴って狩りをして、それが合格の合図とでも言うように、ある日二人は巨大な鳥に攫われた。

 見覚えのある茶色い鳥は、山を越え、谷を越え、霧のかかる渓谷を目指す。

 霧の中を悠々と飛び回った鳥は、やがて小さな岩棚に二人を放り出した。一度離れてぐるりと円を描いて戻ってくると、二人分の荷物も落としていく。

 再びは戻らぬ鳥の影を、二人はしばらく見送っていた。


「……ひどい……トントにお別れしてない」

「湿っぽくなりたくなかったんだろう。トントは意外と人情深い。非情になり切れないから、引きこもる方を選んだのかもしれないね」


 荷物を確認すれば、食料と救急道具、少しの着替えといくつかの処方箋だった。全て『中』でも手に入るもので、『外』を匂わせるものは何もない。

 エラリオはまず包帯でその目を覆った。そうしても見ることに影響はない。


「エスト、ここから中に入ってしまうと、トントのことも、あの家で暮らしたことも、思い出せなくなる。処方箋はトントの気遣いだ。大事なものだということだけは忘れないように」

「うん……」


 それから二人は中に繋がる場所を探し始めた。上を眺めても、とても登れる高さではなく、小さなピッケルとスコップで崖の薄そうな場所を崩してみるしかなかった。

 どうにか洞窟へ続く通路を掘り当てると、二人はランプひとつを手に、手を繋いで進んでいく。

 振り返っても、崩して掘り当てたはずの通路は忽然と消えていた。戻りたくとも、もう戻れない。

 出口へと続く道は、エストの青い瞳が見つけている。一歩進むごとに、二人の外での記憶は、渓谷の霧が流れ込んでしまったかのように霞んでいくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る