3-5 夢

「あぁ……久しぶりに沢山話したから、喉が渇いて仕方ない。君のも、淹れ直そうか」

「……水で、いいです」


 落とした器を拾おうと伸ばした手は震えていた。


「そのままで構わない。すぐ片付く」


 伸ばしたエラリオの手の先で、器もこぼれた茶も消え失せた。コトリと音がして、テーブルの上には別の器が置かれる。

 エラリオは悪い夢かもと思い始めた。

 母が語らなかった父親の存在は、不思議ではあったのだけれど。

 そっと視線を戻せば、男は変わらぬ様子で座っていた。今も話している間も嘘は視えなかった。夢であってくれたら、どんなに安心できたことだろう。


「『外』の人間に時折り現れる、妙な力や『中』での記憶の混濁も原因はあなた?」

「それは……」


 ふう、と大きめに息をついて、男は眉を顰めたようだった。


「私、ではないし、君も遺伝的には何の関係もない。間違っても父などと呼ぶのはやめてほしい。私が弄ったのは、あくまでも情報だけだ。君たちのルールでやっているし、それでも褒められたことでないのは承知している。だからといって私に責任がないかと言えば、それも違うのだよな……」


 男が気持ち、肩を落としたように見えて、エラリオは首を傾げた。


「……申し訳ないが、君をいつまでもここに置いておくわけにはいかない。エストは外界に影響が大きすぎるから、彼女が望むならここに置いてもいい。すぐにとはいかないだろうから、エストの怪我と精神面を見てから、『外』でやっていくのか、『中』に戻るのか決めてくれ。君ならまあ、『外』でもいいだろう」

「俺もいつまでも居る気はないけど……『外』から『中』に連絡する方法はあるんですか? 友人にせめて無事を知らせておきたいんですけど。あいつ、放っておいたらあの谷を下りようとしかねない」


 男ははっきりと渋い顔をした。


「悪いが、それはできない。例外は作りたくない。ほころびができると、つけこまれるからな。そうしたいなら、さっさと『中』に帰ってくれ」

「ほころび? つけこまれるって、誰に」

「『中』で神を気取ってる奴だよ。ほとんどの原因は彼だ。私がもっと優秀ならよかった。才能では敵わないから、力で閉じ込めるしかなかった。『中』の発展も文化も自然じゃない。外に出せないんだ。急ごしらえしたから、外にも能力の発現は残ってしまったけれど……どうしようもなかった」

「自然じゃないって……出せないって、なんだよ……」


 また少し掠れるエラリオの言葉に、男は自分の器を覗き込んで、ゆるりと首を振った。


「面白くもない話さ。少し疲れた。またにしよう。ほら、エストも起きたみたいだ」


 男が顔を向けた先、入口のところでエストはそっと中を覗いていた。エラリオと目が合うと、小走りにかけてきてその膝に飛び込む。エラリオの手が彼女を支えてから、少女は男をちらりと振り返った。


「おやおや……これはまた、単純にはいかなそうかな」


 男は苦笑して、どこからか取り出した新しい器に水を注いだ。


「水をどうぞ。お嬢さん。私はトント。愚か者のトント。ここには誰も追って来ないから、ゆっくりするといい」


 エラリオが器を手に取って差し出すと、エストはエラリオを見上げて、彼が頷くのを確認してから、水に口をつけた。



 ◆ ◆ ◆



 その夜、まっさらなシーツの上でエストと二人寄り添って、エラリオは眠っていた。二人で寝ても余裕のあるベッドは柔らかすぎず、硬すぎず、ぐっすりと眠れそうだった。

 にもかかわらず、トントに聞いた話が夢の端々に絡みついていた。

 母と手を繋いで歩いていたり、雨宿りをして振り返ればエストがいたり……前を行く親友の肩に手を伸ばせば、すいと避けられた。振り返ったレンドールは、冷え切った眼差しでエラリオを見下ろすように顎を上げた。


『気持ちわりぃ』


 あまりに心臓が強く打って、エラリオは目を開けた。涙が目尻から零れ落ちている。自分が一番恐れていることを見せつけられて、エラリオは苦笑した。


「エラリオ……」


 潜めた声に、エラリオは慌てて涙を拭う。


「ないてる? ゆめでもいじめられた? よんでた。「レン」って」

「いじめられてないよ。大丈夫」

「うそ。だって、「レン」はわたしもエラリオもさそうとしたし、がけでつきおとした」

「刺そうとしたのは、そうだね……でも、突き落としたりはしてないよ? あれは、助けようとして手を伸ばしてくれたんだ」


 エストは口を引き結んでふるふると首を振った。


「てをひっこめたの、みてたもん」


 月明かりの差し込む部屋で、エラリオを見つめるエストの瞳がゆらりと波打った気がした。吸い込まれそうな黒の瞳にチカチカと星が瞬いて見える。

 ぞくりと、エラリオの背に悪寒が走った。思わずエストをぎゅっと抱き寄せる。


「ちがう。あれは、引っ込めたくてそうしたんじゃない。彼も何かに攻撃されたんだ。だから――」


 腕の中で、エストがエラリオを見上げる。まだ、疑いのまなざしだ。

 トントの話の中でいくつも衝撃的なことがあったから、肝心なことを忘れそうになっていた。トントの声をエラリオは反芻する。


『君が傷つけられたら、どうなるかわからない』


 自分はレンドールを信じていた。どこかでしくじったら、彼が落とし前をつけてくれるはずだと。他の人に任せたりせず、一番辛い役をやり切ってくれると。

 それが、エストには伝わらない。当然だ。彼女は彼を知らない。彼女にとっては、レンドールはただの悪者だ。


「エスト、レンはまっすぐなだけなんだ。レンの仕事をしようとしてるだけ。でも、ちゃんと俺のことは友達だと思ってくれてるし、うっかり仕事のことを忘れて助けようとしちゃうくらいには優しいんだ」

「うそ。じゃあ、どうしてなくの? おかあさんもわたしのこと「あいしてる」っていったけど、「め」をとろうとしたよ。「レン」もきっとうそついてる」

「レンはそんなに器用じゃないんだよ……泣いちゃったのは、俺が言われたくないことを夢の中で彼に言わせちゃったからだよ。本当のレンは言わない……」


 言わないはずだと、自分にも言い聞かせる。

 エストは可愛らしくむくれた。ただ、瞳のゆらぎはなくなっていたので、エラリオはホッとする。


「どうしてエラリオは「レン」をきらいにならないの? わたしはきらい」

「嫌いでもいいよ。俺が二人分好きでいるから。でも、エストもレンといれば……きっと好きになるよ」

「ならないもん! ずっときらい!!」


 苦笑しながらエストの背をさすり、エラリオは考え込む。エストはここに残ると言うだろうか。もしもエラリオと一緒に行くと言ったなら……このままではいけないと警鐘が鳴る。

 好きにならなくとも、冷静でいさせるにはどうすればいいのか。

 複雑になっていく状況に、エラリオは小さく息をつくのだった。

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