3-6 エストと瞳

 それから3人の生活が穏やかに始まった。

 初めは少し警戒していたエストも、すぐにトントに慣れていった。トントの動きは緩やかで、攻撃性を感じないからかもしれない。ともすれば自室のソファで眠っていることもあり、穏やかというよりは無気力さを感じることもあったのだが。

 半月ほどしてそれぞれの生活パターンが見えてくる頃には、それも少しずつ減っていた。

 裏の小さな畑でオレンジ色の野菜を収穫しながら、エラリオは何気なく指摘してみる。


「俺たちがいて、やることが増えたから、最近は昼寝できないのかい?」

「そういうわけでも。瞳がそこにあるからな。どちらかというと、本来の私に戻ってきているという感じか。なんていうか、あれは、エネルギーの塊、と言えば近いのかな。飢えている者には魅力的で、取り過ぎれば毒になる」


 顔に土汚れをつけながら、野菜を引っこ抜いて尻もちをついているエストを見てトントは笑った。


「私を穏やかと評しているなら、それは間違いだ。本質が抜け落ちているにすぎない」

「でも、エストから……というか、無理に取り返そうとはしないじゃないか」

「ヒトの一生など、大した時間ではないんだよ。手を出すほどのことではない。女の腹の中にある間は影響もそれほどなかったから」

「そういえば、そんなことを言ってたな。それが、何故?」


 トントはエストを呼んだ。

 抜いた野菜を手に近づいた彼女の顔にトントが手を伸ばす。とたんに、エストは顔をこわばらせて後退った。


「ふむ。だめだね。本来ならば、持ち主に拒否感は示さない。エスト、すまない。もう顔には触れないからこちらへ」


 屈みこみ、手の位置を下ろして差し出せば、エストは警戒しつつトントに歩み寄った。

 その腰を引き寄せ、トントは額を合わせる。

 黒い瞳は不思議そうに目の前の包帯を見つめていた。ふと、顔を動かしてエラリオを見上げる。


「しっくりくるだろう? おかしくないから大丈夫。……でも、そうか。なるほど」


 トントはゆっくりと立ち上がると、しばしくうを睨んでいた。それから一息吐き出して、黄色い粒の並ぶコーの実をもぎ取り「おやつにしよう」と言った。

 塩ゆでしたコーの実は小さいながらも瑞々しく、どの粒もはちきれんばかりでほんのり甘い。

 冷やした麦の茶を傍らに、エラリオとトントは一生懸命頬張るエストを眺めつつ話を進める。


「エストは自分の身を護るために、母親の腹の中でこの目から栄養を摂っていたようだ。本能的なものだろうけど、それで目との親和性が高くなってしまった。谷に落ちる母の異変を察知して、目玉と赤ん坊の思惑が一致した。だから、目玉が反応したのは母親の願いではなく、エストの願いだったということさ」

「なるほど……だから、生まれるまでは母体も必要だった?」

「そうだろうね。本体が遠いことは目玉としても感じてたことだろうから、彼女の目に収まり、仮の器とすることにしたのだろう。村人に追いやられ、洞窟で暮らしていけたのもその力あってのことだ」

「村人たちはよく無事だったな。母親は変死したのだろう?」

「エストは力を制御して使えているわけじゃない。母は目玉を狙った。だから強く反発した。村人たちは追い払ったけれど、大きな危害を加えようとはしなかった。その違いだろう。エストは自身の命を繋ぐのに、いわば内向きにその力を利用している。だから、周辺への影響が少なかったのだろう。君と出会ってからは、移動していたのが良かったんだと思うよ」

「じゃあ、ある程度移動を続けるなら、ここから出てもやっていけるかもしれない?」

「連れていく前提かい?」


 エストが、かぶりついていたコーから顔を上げた。

 トントは小さく肩をすくめる。


「でも、まあ、そうだろうね。その瞳よりエストの人格の方が強く出ているから、今の状態なら仕方ない」

「……俺はどのくらいここにいられる? いていい?」

「そうだな……」


 トントは茶を口に含んでしばし黙る。


「一年、と言いたいところだが……長くても三年というところか。それでもエストが渋るようなら、君たちは『中』へ戻す」

「『中』限定なのか? それではまた追われることになる」

「残念だが、そこまでの面倒は見られない。何かあっても、『中』ならなんとかなるのでね」

「なんとかって?」

「あそこは隔離地だ。崩壊してもこの世界に大きな影響はない」


 エラリオは思わず息を飲んだ。

 そこには少なくない人が住んでいる。それでも、影響はないと言えるのか。

 三年でエストを説得するべきなのかと、エラリオはじっとこちらを窺っている少女を見やる。彼女と一緒に『中』に戻れば、レンドールはまた追いかけてくるだろう。そんな彼にエストが敵意を向けたら……

 エラリオは目を瞑って一息吐き出した。


「……何か、考えなきゃ」

「そうだな。そうするといい」

「……他人事だよな」

「これでも譲歩している。本来ならば一切の関りを絶つべきなんだ。それを……」


 エストの瞳がゆらりと波打った。

 トントは冷たい茶をあおって、立ち上がる。


「すまない。少し離れる」


 トントが自室に下がると、エストの瞳の揺らぎも収まった。




 夕飯は何事もなかったようにトントが用意したものを食べ、エストが眠ってから、エラリオは最初に自分たちが転がり込んだテラスへ出てみた。

 トントがグラスを手に夜空を見上げていたのが見えたのだ。


「珍しいな」


 いつもなら、トントも眠りについている時間だった。

 トントが手を差し出すと、同じグラスが現れる。


「飲まなくてもいいが、持っててくれ」


 エラリオが受け取れば、トントは転落防止用の柵に寄り掛かった。

 グラスからはきつめのアルコールの匂いがする。


「これも、珍しいな。いや、いつもは飲んでるのか?」

「久しぶりだよ。酒も、腹立たしいという感情を思い出したのも。昼はすまなかった。君たちのことではないんだ」


 トントはぐいと背を逸らして、星々を見上げる。


「冷静にと思っているのにままならない。何年経っても、解ってもらえないことに苛立ってしまう。何か考えなければいけないのは、私もだ。君たちが羨ましいよ。剣を交えていても、互いの腹の底を信じ合える」


 レンドールのことを言っているのだと、エラリオはすぐにわかった。


「……あなたが閉じ込めたのは、誰?」


 トントは空を見上げながら、器用に首を振った。


「今話せば、また怒りが湧いてくる。己の力も御せないなど笑い話にもならない。もうしばらく私の瞳が傍にあることに慣れたら、話そう」


 怒りのままに力をふるう様は、確かに魔物のようなのかもしれない。

 そうエラリオが考えたとき、ふと、巫女の預言が頭をよぎった。


 《雲晴れぬ山の向こう、虹のかかる谷の先

  黒き瞳の魔物あり

  は己を知らぬ

  知らぬまま力を蓄え、そして、全てを滅ぼす》


 雲晴れぬ山の向こう。虹のかかる谷の先。

 それは、『外』にも当てはまる。霧の立ち込める谷には虹だってかかるだろう。

 閉じ込められた『神』が『外』に出る機会を窺っているのだとしたら……邪魔なものを『魔物』と表現するのに何の違和感もない。

 ただ……『神』ですら出られないところから、誰が出られるというのだろう。今のエラリオ達をまさに預言したと……そういうことになるのだろうか。

 かといってエラリオは、自分たちを助け、己を律しようとする目の前の人物に手をかける気にはなれない。

 手の中のグラスで揺れる液体を勢いで飲み込んで、喉から胃に広がる熱さを、エラリオは少し寒々しい思いで味わった。

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