2-17 再びの逃亡

「……ぉお?!」


 リンセの素っ頓狂な声がレンドールの耳元でした。そのままもんどりうって倒れ込む。

 エラリオは楽しそうに笑いながら、悠々と窓を開けた。


「新しい相棒とは、まだまだだね」

「そんなんじゃねーぞ!」


 思わずついて出た言葉に、エラリオは柔らかく微笑んだ。それから、切られたフードをつまんで、独り言のように言う。


「借り物なのに……直す暇は無いかな」


 レンドールとリンセが起き上がるのを待っていたエラリオは、二人が構えを取る前に「じゃあ、また」と窓枠を越えた。


「……って、はっ?!」


 駆け寄った二人が窓の下に見たのは川だった。しかし、水音がしたわけではない。

 水の上に細い板が渡してあって、一階の床下へと続いているようだった。そこから、震えるような駆動音が聴こえてきたかと思うと、小型のボートが飛び出してきた。

 呆気にとられるレンドールにエラリオが笑いながら手を振って、あっという間に行ってしまう。


「なんだよ……それ!」

「あ! おい、レン!」


 リンセの制止は一歩遅く、レンドールは窓から飛び降りた。お手製の細い桟橋は見た目よりも丈夫で、揺れることもなかった。わずかばかりの距離、先端まで行って、小さくなったエラリオにこぶしを振り上げる。


「ふざけんなーーー!」


 二、三度肩で息をして、それからレンドールは踵を返す。笑みを作っている口元は、アロたちに合流するまでに引っ込めないととわかっているけれど、誰にも見えない死角に入ってから、少しだけ声を出して笑った。



 ◇ ◇ ◇



 床下には細い水路があって、その脇に狭いながらも歩けるだけのスペースが作られていた。道なりに歩いていけば上り階段が見つかる。地上に出たのは家の裏手の端で、獣道を辿っていけば前庭に出た。

 リンセとアロも建物から出てきていたので合流する。アロは、少し離れたところでどこかへ連絡していた。

 リンセがちょっと呆れた顔でレンドールを迎えた。


「もっとこう……遠慮とか躊躇いとかあんのかと思ってたんだが」

「手加減はしてたけどな」

「罠まで仕掛ける手加減かよ」

「毒までは仕込んでないと思うぞ。それより、なんで押し切らなかったんだよ」


 リンセはアロの方を向いて頬など掻いた。


「似たような髪の色だったから……一瞬、色が抜けたヤツで、本物の『ツカサ』かと。ほら、紺に染めてるかもって言ってたし」

「『司』に、あんなに剣が使えるヤツいねーだろ」

「そうなんだよな」

「エラリオも元の色の方が『司』っぽく見えると思ったんだろう。染めたの落とすときに元の色も少し薄くなったのかもしれねぇ」


 なるほどね、と呟いたリンセはじっとレンドールを見てから、エラリオが去った上流の方に視線を向けた。


「強ぇな」

「だろ」


 いっそ誇らしげに言うレンドールに苦笑する。


「お前さ、元相棒に罠かけられて蹴り飛ばされてんだぞ。もっと疑った方がいいんじゃないのか?」

「何を? あのくらいで引っかかる慌て者なら、あいつの相棒を名乗れねーだろ」


 つける薬なし、とでも思ったのか、リンセは大袈裟に肩をすくめてみせた。

 タイミングよくアロが振り返る。


「船は用意できたかよ」


 アロが口を開くより先に訊くレンドールに、苦い顔をしつつアロは頷く。


「船着き場に着くころには準備も終わってそうです。上流の町にも連絡はしました」

「余裕こいてたからな。町には寄らねーだろうけどな」


 エラリオが使った船よりは少し大きなものに乗り込んで、川をさかのぼっていく。行き来する船は商船も個人の舟も思ったよりも多くて、誰も不審に思わなかった理由がよくわかった。


「山や森には魔化獣まかじゅうの噂が多くて、そこそこお金のある人は、時間もかからない船を選ぶことが多くなりましたね」


 船長もそんなことを言った。

 レンドールは舟を着けられそうな岸がないか注意深く見ていたが、暗くなって、船で行ける最上流のマナンティアという町に着いても、それらしい小舟は見つからなかった。その先は山で川も細く急になり、段差も出てくることから、レンドールたちはその町で一泊を余儀なくされた。


「そういえば、魔物の方はどうだったんだよ」


 夕食をとってから、部屋で今後の対応を話し合っていた時、窓の外を眺めながらレンドールは訊いた。

 昼までいたムエーレの町よりも『』の数が多い。一部は夜になっても捜索を続けているようだった。


「空き家は見つかりましたが、すでに誰もいなかったと。誰かいた形跡はあったようなので、そこが拠点だったのではないかと」

「どの辺だ?」


 荷物から地図を探し出して広げる。


「そうですね。この町から北、二つ向こうの山裾の辺りです。ムエーレからだと西に真直ぐ行った辺りになりますか」

「ふぅん。寄ってもいいか?」

「ご希望でしたら。逃がしたとはいえ、発見に至ったのはあなたの功績ですから」

「見つけさせられた感もあるけどな。ここからが本番だろ」


 朝から機嫌が回復しないままの表情で、アロはレンドールの左腕を掴んで、彼の顔を覗き込むようにした。

 アロの指が手首の内側の火傷のような痕を撫でる。



 レンドールがすっかり忘れていたことをアロの指先は思い出させた。


「お。政務官様はお優しいねぇ。ま、蹴られたとはいえ、あのくらいは『士』なら、なぁ」


 リンセはエラリオに蹴り飛ばされたことだと思っている。わずかに緊張したけれど、忘れていたくらいだからどうということもないはずだ、と、レンドールは一呼吸おいてから答えた。


「なんでもねーよ」


 アロの手を振りほどき、地図を片付ける。

 明日の方針が決まったので、そこでアロは別室へと戻っていった。今夜は報告などが多くて落ち着かないだろうから一人がいいと言われていた。

 アロがいなくなると、リンセも伸びをしてベッドに横になる。


「なぁ。あの政務官って、『司』なのか?」

「え?」

「いや、どっちでもいいんだがな。そう考えた方がしっくりくるっつうか。『士』が『司』になりきれるなら、『司』が政務官を装っててもおかしくない……ん? 『司』は元々政務官、か? あー、職務の名前じゃなくて、だな」

「言いたいことはわかる」


 リンセはほっと頷いた。


「まあ、つまり、荒事に遭遇したとき、自分を守れる力でも持ってんのかなと、思ったまでで」

「……どうなんだろうな。気にしなくていいとは言われてる」

「俺はレンと行動を共にして、逃亡者の手助けをするような素振りがあれば斬っていいって言われてるんだが、同行する政務官のことは何も言われてねーんだよな。レンは一応気にしてるようだからとも思ったんだが」

「単なる世間知らずだったら寝覚め悪ぃじゃん」

「世間知らずって……おいおい」


 リンセはひとしきり笑った。


「俺は言われてないことはする気はないし、本人をつつく気もないが……あれはなんか見た目とは違う気がすんだよな。あまり深入りしたくねぇっつうか……そう言っちまえば政務官なんぞみんな近づきたくないんだが、種類が違うっつうか……」


 リンセでもそう感じるんだなと思って、レンドールは頷いた。


「俺もできればそうしたいんだけどな。勝手にさせてくんねーし。今回みたいに船の手配とかは確かに助かるからな」

「そんな感じか? ずいぶん仲良しそうに見えるが。今朝のなんて、置いてかれて拗ねてるガキみたいだったし。あれは見た目通りでちょっと意外だった。レンにはそうなのかと」

「知らねーよ。気のせいだろ。会って一週間足らずだぞ?」

「さっきだって、怪我の心配してたじゃねーか」

「あれは……そんなんじゃない」


 わざと逃がしたんじゃないのかと、確かめられただけだった。

 説明してもいいが、ラーロとアロの関係を誤魔化すのは難しい。勝手に話せばリンセにもいらぬ被害を及ばせそうで、レンドールはもろもろを飲み込んだ。

 察したのか、リンセはそれ以上レンドールに突っ込まなかった。

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